島原天草

1974年に初めて天草を旅した。沖永良部島の宿で顔見知りとなったと男性・(当時熊大の助手)が、天草下島の牛深に
用事があるとのこと-やや強引に氏の車に同乗させていただいた。若い時にはこの種の向こう見ずな失礼が出来るのが不思議だ。
今では思い出すたびにその厚かましさに恥ずかしさを感じる。失礼な奴だったと。
この時見た天草の自然風景は美しかった。心に深く残るものであった。      鈴木慶治

島原・雲仙地獄
撮影 2017.4.25  鈴木慶治
 人類はその歴史上、屡々蛮行を繰り返してきた。以下の事実もまた、人間が人間に対して行った「歴史的恥辱」の例である。
いかにすれば、かくまでに人間は人間以下になりうるのかと強く思わざるをえない。    鈴木慶治

雲仙は、大宝元年(701年)に行基によって開かれたとされるが、現在の温泉保養地として成立するのは寛文12年(1672年)。
島原藩主の松平忠房が加藤善左衛門を湯守役に任じてからとされる。しかし温泉と共に有名なのは、雲仙地獄でのキリシタン殉教である。
雲仙でキリシタン弾圧の拷問が始まったのは寛永4年(1627年)であり、その年に殉教した者は26名とされる。
時の島原藩主は松倉重政であり、幕府への過剰な忠誠を示すために苛政をおこなっていた。キリシタン弾圧もそのような状況で繰り広げられた。
最初の殉教者で最も有名な人物はパウロ内堀作右衛門である。一緒に捕らえられた3人の息子(一番年下の子は5歳とされる)は、
両手の3本ずつの指を切り落とされる拷問の末に海に沈められて殉教。
作右衛門も同じだけ指を切り落とされ、さらに額に“切支丹”の3文字の焼き印を受ける。しかしそれでもなお棄教しないため、
他の15名と共に雲仙地獄に送り込まれた。そして作右衛門らは両足に縄を掛けて逆さ吊りにされると、湯壺に浸けては引き出すことを数回続け
殉教したのである。

(日本伝承大鑑より)


撮影日   2015/04/14
原城周辺・(画面左手)から有明海・湯島(談合島)をのぞむ

口之津港から鬼池まで 早崎瀬戸の海をわたる
島原半島にキリスト教布教の拠点を置くことが決定された口之津。 450年前、南蛮船来航による南蛮貿易とキリスト教布教の時代、
後の日本におけるキリスト教の歴史が左右される決定がなされた場所でもある。 

早崎瀬戸の沖合には300頭近くのイルカが生息しているため、その群れの姿を見ることができる。

天草・鬼池(おんのいけ)
鬼池の波止場から、いま船で横切ってきた早崎瀬戸を眺めてみると、もし故郷を自由にえらべるとすれば
自分は・・天草をえらぶだろうと思った。 司馬遼太郎 街道をゆく17 島原・天草の諸道 170ペ-ジ

鬼池港は、イルカウォッチング船の発着所でもある。早崎瀬戸の沖合には300頭近くのイルカが生息しているため、
鬼池港からその群れの姿を見られることもある。

天草 サンセットロ-ドから天草灘の海を見る

大江教会

崎津教会

本渡の瀬戸

島原外港から熊本へ 
2014.8.16 鈴木慶治