作家と旅


旅-
池澤夏樹 「旅をした人」-星野道夫の生と死から
○「人には自分が生まれたところを自分の住処として、まったく疑いもなくそこで素直に育って人生を繰り広げていく人もいる一方で、いつもどこか遠くの方のことを考えているというか、自分はここにいるけれども、もっとずっと遠いところに別の場所があって、そこに別の人たちや別の生き物がいる。そのことにすごく意味を見出したがる、精神的にも遠くを見る性格の人もいると思うのです。」


「本から旅へ、旅から本へ」というのが、自分の旅のスタイルです。その旅へと自分を誘う本があります。宮本常一氏の「私の日本地図」や・司馬遼太郎氏の「街道をゆく」などがそれです。 鈴木慶治
このペ-ジでとりあげる人は-宮本常一、松浦武四郎、ドナルド・キ-ン、菅江真澄、近藤重蔵、種田山頭火、尾崎放哉、沢木耕太郎、椎名誠、長倉洋海、星野道夫、樹木希林、藤圭子、大川小学校、司馬遼太郎、池澤夏樹、永井隆、石牟礼道子、大石芳野、マ-ガレツド・パ-ク-ホワイト、ゲルダ・タロ-、ロバ-ト・キャパです。 敬称略

宮本常一
1907-1981 享年73歳 山口県大島郡家室西方村生まれ 民俗学者 農村指導者 社会教育家 「宮本常一著作集」全50巻 未来社1967-2008 今後も続刊予定・巻数は未定。生涯の大半を旅についやしたことから「旅する巨人」といわれる。旅というと、どうしてもこの方をぬきでは語れない。それほど旅することに関しては凄い。どれくらい凄いかは次の言葉が説明している。-鈴木慶治
「旅する巨人」文春文庫 佐野眞一 2018年4月25日 第2刷発行から
「宮本は73年の生涯に合計16万キロ地球を丁度4周する気の遠くなるような行程を、ズック靴をはき、よごれたリュックサックの負い革にコウモリ傘をつり下げて、ただひたすら自分の足だけで歩きつづけた。・・・今日の民俗学の水準からは想像もできないような巨大な足跡を、日本列島のすみずみまで印した民俗学者だった。・・・ある作家は、宮本のことを空前絶後の旅人だといい、宮本を超える旅人はもう絶対に現れないだろうといった。・・・日本列島をいわば等身大の大きさでくまなく歩くことのできた旅人だった。・・のちに宮本の恩師となる渋沢敬三(渋沢栄一の孫)は、日本列島の白地図の上に、宮本くんの足跡を赤インクでたらしていくと、日本列島は真っ赤になると評した。戦前、戦中、戦後にかけてのその記録は「宮本常一著作集」(未来社)に収められているが、(2015.7.30現在で全53巻)、その業績をすべて収録するには100巻は優に超すだろうといわれている。昭和の菅江真澄とも、旅の巨人ともいわれながら、没後15年目・1996年にして、いまだ宮本の評伝らしき評伝が現れていないのは、一つにはこの厖大な著作が著作が大きな壁になっている。さらにいえば、宮本の関心対象が、生活誌、民俗学、農業技術から農村経済、はては塩業史、漁業史、民族学、考古学、日本文化論にいたるまで果てしなく広がっていった。・・・司馬遼太郎もまた宮本を高く評価した一人だつた。<宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本人の人と山河をこの人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います>・・・」 (佐野)

宮本常一氏を多くの旅へと誘った魅力、使命感等々、は一体何であったのだろうか。宮本氏の著作にふれるたびにその思いが強くなる。 鈴木
「旅する巨人」の中で、その著者佐野眞一は、民俗学者になる素地として宮本が祖父と父から受けた影響を次のように記している。
「宮本は(子どもの頃)祖父の市五郎から、伝承の世界の豊かな想像力と、どんな生き物にも魂のあるという愛隣の情を教えられた。・・父の善十郎は宮本に生活者の論理と実践の大切さをたたきこんだ。現実世界に生きることの厳しさを幼い宮本に言外に教え込んだ・・・。」佐野
宮本自身の言葉
「父は(故郷白木)山の頂上から見える中国地、四国地の山々、海にうかぶ島々の一つ一つについて話してくれる。いったい父はその知識をどこで得たのであろうかと思うほどいろいろなことを知っていた。これほど私の知識を豊富にし、夢をかきたててくれたものはない。自分の周囲の誰よりもゆたかな知識を持っている父を畏敬した。それは小学校へ禄にやつてもらえなかった人とは思えなかった。本を読んで得た知識ではなく多くの人から聞いたものの蓄積であり、一人一人の人が何らかの形で持っている知識を総合していくと父のような知識になつていったのだろう。」宮本

「辺境を歩いた人々」 河出文庫 2018年6月20日 初版発行
<この本に出てくる人物> 近藤富蔵・1805-1887/83歳 松浦武四郎・1818-1888/71歳  菅江真澄・1754-1829/76歳  笹森儀助・1845-1915 71歳
いずれも宮本民族学の先駆者ともいえる人物である。松浦武四郎、菅江真澄の名前は知っていたが、近藤富蔵は(江戸時代の探検家としてひろく名の知れた近藤重蔵の子)、笹森儀助氏については、その名さえ知らず何をしたかという知識が全くなかった。この本にふれて初めて知ったことがほとんどである。<鈴木慶治>

松浦武四郎のことをは司馬遼太郎は「街道をゆく」38-オホ-ック街道-の中で次のように書いている。鈴木
「松浦武四郎のことをおもった。その日記や紀行文のたぐいを持ってきた。武四郎が愛した山川草木のなかでその文章を読むと、自分がアイヌになって武四郎と話しているような気になる。・・・武四郎の生涯をつらぬいている精神は独立自尊であった。みずからの知的関心のままに生きた。かれにとっての知的対象は諸国の人文、自然の地理だった。諸国遍歴を志して家を出たのは十七歳のときである。懐中には父からもらった小判一枚きりであった。・・・頑健な体と色白で中高のふしぎな容貌と社交的な性格をもっていた。遍歴の途中、禅宗の雲水になった。正規の禅学を修め、肥前平戸では二人の禅僧を師として、1カ寺の住職になった。3年も平戸にいた。ただし僧にになったのは衣食のためで、目的は遍歴にあった。・・・要するに、10年、かれなりに本州をきわめたあと、北海道に渡った。28歳の時である。ロシアによる脅威が、武四郎を志士にした。・・・ついにアイヌの境涯に対するはげしい同情をもち自らもアイヌ語を話し松前藩の暴政を江戸に出て訴える・・。この幕末の北方探検家は、北海道を隈なく歩き・・・宇登呂の浜にもきた。さらに海上ながら先端の知床岬をもきわめた。」(司馬)

宮本常一は「辺境を歩いた人々」河出文庫(2018年6月10日初版)の中で、松浦武四郎の出生にふれています。
「武四郎は、文政元年(1818)2月6日、伊勢国一志群須川村(いまの三重県一志郡三雲村雲津川の南岸の小野江)で鄕士の子として生まれました。郷士というのは、いくさのとき以外は、耕作にしたがっている武士のことです。家は代々庄屋をつとめていましたが、かれの父、佳介時春は、有名な国学者本居宣長の門下として国学をまなび信心のあつい人で知られておりました。母はとく子といい、武四郎は、ひとりの姉と4人兄弟の末っ子でした。そのころの家族制度では、末っ子は、たいへん自由なふるまいができる立場にありました。かれのおさないころは、とくにかわったこともありませんでしたが、それでも、茶の湯や俳諧の風流をこのんだ父の影響が、武四郎のひとがらをかたちづくっていったといえます。また小さいころ、よく父にだかれて、おもしろいいくさの話をききながらねむったといいます。7歳のとき、曹洞宗のおしょうさんについて書道をまなびましたが、9歳のときには、ほうそうにかかり、なおると「お坊さんになりたい」としばしばいいました。自分からすすんで方々の僧にちかづいてゆき、このんでお経をとなえたといいます。また名所図会や地誌などを読むのがたいへんすきで、日本じゅうの名まえのしられた山にあこがれの目をむけたとか・・・のちに諸国を旅しながら地誌をたずねたり、有名な山岳にのぼり自然の中にとけこめたのも、生まれてから育った環境によるところが大きかったといえましょう。」 

私は、2014年11月に知床を旅したとき、ウトロ港で松浦武四郎顕彰碑を見た。そこに刻まれた歌碑には-
「山にふし 海に浮寝の うき旅も 慣れれば慣れて 心やすけれ」 とあった。北の大地、山野を跋渉する武四郎が彷彿された。鈴木

ドナルド・キ-ン氏もまた松浦武四郎のことを<「ドナルド・キ-ン著作集」第三巻・続百代の過客>で次のように書き記している。
「松浦は、アイヌ人の生活の中へ、驚くほど深く入り込んでゆくことができた。しかも彼らに愛情を抱いているということをしばしば書いている。彼の数多くの旅は、アイヌ人の助けなしには、到底成就できなかつたはずである。とりわけ危険なところを通る時など、松浦の命は、アイヌ人にあずけたようなものであった。疲労困憊の極に達した時、彼はいつもアイヌ人の家に避難所を見出した。松浦はいつもアイヌ人の勇気と剛毅さに感銘を受けていた。しかも(当時の通念とは反対に)、彼らが聡明なことも認めていた。・・当時一般の日本人は、アイヌ人のことを、単純な数の計算もできない蛮族だと考えていた。だが松浦は、それが事実に反することを、自分で見ぬいていたのである。・・・松浦ほど、己の同胞をきびしく批判した人物も珍しい。アイヌ人を食い物にしてきた例証を、松浦は次々と挙げている。・・・蝦夷の国は、松浦にとって、まことに冒険の国であった。だが、私はそれとなく感じるのだが、彼が何度もそこへ引き寄せられたのは、蝦夷の持つ、まだ人跡に汚されない驚異に満ちた風景のせいだけではなかったのではないか。それは多分に、彼が愛するアイヌのせいだったのではないだろうか。・・・」

菅江真澄のことである。司馬遼太郎はその著<「街道をゆく」41-北のまほろば->の中で次のように書いている。
「菅江真澄は。いまでいえば科学者であり、文学者であり、また文化人類学者だった。かれは、暖地の三河の人でありながら、東北が大好きで、秋田で死を迎えた。われわれにとってありがたいことは、真澄が、江戸時代を通じての達意の和文の名手だったことである。かれは目にふれ、心に惹かれたことを、その暢達な文章で書きとめた。その文章は、平凡社刊「東洋文庫」の「菅江真澄遊覧記」全5巻に訳されていて、いまも読むことができる。・・・菅江真澄は、色白で、小柄なひとだったらしい。冬も夏も紬の頭巾をかぶつていた。「常被り」といわれた。つねに、無刀のままであった。津軽を歩いたころは40代である。・・・津軽真澄は、津軽の古文献をよく読んでいる。たとえば、室町のころの十三湊の栄えがやや誇張して書かれている「十三往来」の存在も知っていた。・・・」

宮本常一の「辺境を歩いた人々」は、「偉大なる先人達」にたいする宮本自身からのオマ-ジュであり鎮魂歌であります。文章は平明で少年、少女に語りかけるように書かれています。鈴木 
菅江真澄については-
「真澄が岡崎をあとにして生涯の旅に出たのは、天明3年(1783)の2月末で、かれが30歳のときですが、それよりまえ、各地に旅をしています・・・三河から東は、いまの静岡県にあたる遠江、駿河、伊豆と相模(神奈川県の一部)、甲斐(山梨県)。西は尾張(愛知県)、伊勢(三重県)、大和(奈良県、紀伊(和歌山県)、近江(滋賀県)、山城(奈良県)、さらに美濃(岐阜県)、信濃(長野県)があげられますが、真澄があるいたのは、いずれも中部、近畿の二地方にかぎられていました。そして30歳のとき、真澄は三河を出て、信州(長野県)をとおり、さらに越後(新潟県)をとおりぬけ、羽前(山形県)にはいってからは、76歳で秋田藩の角館で死ぬまで、東北地方だけをあるきまわりました。(北海道には足かけ4年いましたが・・・)。よくよく東北の農村には真澄をひきつけるなにものかがあったのでしょう。こうして真澄は「遊覧記」とよばれる旅行記を70さつ書き、そのほか随筆や秋田地方のことを書いた地誌・スケッチなどをのこしました。・・真澄の書いたものを読むと、かれが旅のとちゅうで出会った人のことがくわしくしるされていますが、そのなかには思いがけない人が顔を出します。真澄その人も「永遠の旅人」として一生をおくりました。しかし、かれのほかにも、名の知られぬ人で、旅から旅への一生をおくった人もすくなくありませんでした。ただ、遠い旅をしなければならない人は、だいたいかぎられた人だったようです。まず、第一にあげられるのは、宗教をひろめてあるいた人たちでした。それから歌よみ、俳諧師、芸人がありました。・・・真澄の紀行のなかに、ひじょうにちから強い顔をだしてくる旅僧がありました。それは円空です。・・・真澄が秋田へおちついたについてはわけがあったようです。秋田にはりっぱな国学者がたくさんおり、殿さまもなかなかの文化人で、そういう人にとりかこまれ、学問もあり、世間のことをよく知っている真澄は、秋田ではみんなに尊敬されていました。だから居ごこちがたいへんよかったようです。・・・」

近藤富蔵の章
-小心のかれが無法者を殺し、八丈島に流されるや、島の歴史・文化・生産などをしらべあげ」八丈実記」をまとめ島に生涯をささげる。
○「いまから百三十九年まえ、文政十年(1827)、春もくれかかろうとする四月二十六日(いまの暦の五月末)、江戸(東京)、永代橋のところから、一そうの流人船が川をくだってゆきました。伊豆の三宅島や八丈島へ流される罪人をのせて、これから太平洋の荒波をこえてゆくのです。船の大きさは五百石積み、米俵にして千二百五十俵ほど積めるぐらいの船ですから、そんなに大きい船ではありません。それで、太平洋の荒波をこえて、はるばる八丈島までゆくのです。八丈島は今日なら飛行機で40分ほどでゆけるところにあるのですが、小さい船で荒海をのりこえてゆくのはまつたくいのちがけだつたものです。だから島流しときくと、もうふたたび元気で江戸の土地をふむことはあるまいと、たいていの人が、死にゆくようなつもりで出かけていつたのでした。この船に近藤富蔵という23歳になる若者がのつていました。大きなからだをしていましたが、いかにもおとなしそうな、ものやわらかな顔つきでした。近藤富蔵といってもみなさんは知らないでしょう。しかし近藤重蔵の子といえば、あるいは重蔵のことを知っている人があるかもしれません。江戸時代の終わりごろに、探検家としてその名の知られた人で、のちに書物奉行、大坂弓矢槍奉行などをつとめ、学者としても一流の人でした。その重蔵の子の富蔵が、人を殺して八丈島に流されることになったのです。ではかれは、どうして人を殺すようなことをしたのでしょうか。また人を殺すような乱暴なところのある人だったのでしょうか。もともとかれはけっしてそんな人ではなかつたのです。そして島へ流されたのちも島の人たちからしたわれ、「八丈実記」というりっぱな書物を書いた人でもあったのです。

やさしい語りかけの文章です。富蔵その人の生き方に自然と引き込まれていく、そんな書き出しです。富蔵がなぜ罪をおかすことになるのかが、愛情をもって記述されています。興味をもたれたら是非一読をお勧めします。 -鈴木慶治


種田山頭火 「山頭火随筆集」 2007.7.10 第1刷 2014.8.18 第14刷 発行 講談社
山頭火や放哉を旅人とは言うことには大いに憚る部分があり、二人は正しくは「乞食をして放浪した」人です。なぜ乞食して放浪することになったかは大いに興味をひかれる点ではありますが、自分にはそれに答えられる能力を持ち合わせていません。ただふたりが残した言葉には強く惹かれる点があるということです。 鈴木慶治

種田山頭火 1882-1940 山口県 現在の防府市に生まれる。
「私はまた旅に出た。 所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だつた、愚かな旅人として一生流転せずにはいられない私だった、浮草のように、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽している私をあわれみ且つよろこぶ。水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。旅のあけくれ、かれに触れこれに触れてうつりゆく心の影をありのままに写そう。」 「行乞記」
○このみちや いくたりゆきし われはけふもゆく
<大正15年4月、解くすべもない惑いを背負うて、行乞流転の旅に出た。> 
○分け入っても分け行っても青い山
○年とれば故郷こひしつくつくぼうし
<自嘲>
○うしろすがたのしぐれてゆくか
○雨ふるふるさとははだしであるく
<母の47回忌>  
○うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする
○うまれた家はあとかたもないほうたる
○暑さきはまる土に喰ひいるわが影ぞ
○炎天をいただいて乞ひ歩く
○生死の中の雪ふりしきる

< 早稲田大学大学部文学科に入学>

「山頭火の俳句は、近代俳句の主流をなす客観的写生の方法を無視するものだ。一言でいえば境涯俳句と呼ばれるが、私小説をつづめつづめて最後に残った一滴のような一行詩である。・・・伝統派の俳人たちは極力、主観の表出を避け、主観の陳腐に陥ることを戒めてきた。山頭火はその逆で、主観まるだしの境涯をはばかることなく詠んだ。乱暴にいえば随筆を読むような楽しみ方を与えてくれる。」「山頭火随筆集」解説 村上護

尾崎放哉 1885-1926  島根県 現在の鳥取市吉方町に生まれる。
「私は放哉を生きている。山頭火を抱えもっている。現世からの逃避、過去への執着からの解放。そうした願望を意識の底に潜ませていない人間は少なかろう。しかし、人々にとって、それは叶えることのできない業のごときものである。人間の業のありようを、自由律句という形式を通じて、私どもの心に、時に鋭く、時に深々と語りかけてくれる異才が、放哉であり山頭火である。放哉と山頭火の句が読む者を捕らえて離さないのは、二人が現代に生きるわれわれの苦悩を「代償」してくれているからなのだろう。現世への執着を断ち切り、深い孤独の中で死を選び取った男が尾崎放哉である。放哉は迫り来る死を鋭敏に見つめ、死を透明で清澄な句へと昇華させた。 「放哉と山頭火」ちくま文庫 渡辺利夫 
○障子あけて置く海も暮れ切る
○山は海の夕陽をうけてかくすところ無し
○とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
○淋しい寝る本がない
○肉がやせてくる太い骨である
○やせたからだを窓に置き船の汽笛
○なんにもない机の引き出しをあけて見る
○咳をしても一人

< 東京帝国大学法科大学政治学科卒業>

宮本常一 

-「終戦の年の11月であったか、戦後はじめて郷里(山口県大島)へかえることになつて、この町におりたときから、広島へのふかいつながりができるのである・・・この広島へは朝ついた。駅まえに立って息をのんだ。あまりにも見事に地上のすべてが失われている。焼夷弾でやられた町よりはもっともっときれいさっぱりとなって、はるかに宇品の海も見えるのである。ただ、その失われた中にコンクリ-トの建物が残骸をとどめている。それが比較的多くかたまっているあたりが紙屋町付近である。焼跡の独自のにおいはまだ町にただよっていた。私は焼野を横切ってコンクリ-トの残骸を目ざしてあるいた。焼跡の道を人があるいている。その数はそれほど多くなく、ばらばらであった。そしてはるか向こうの道をあるいている人の姿も見られた。みなだまってあるいていた。他の町でみるような焼跡で物をさがしたり、掘り起こしたりしている者もなかった。そこに住んでいた人のほとんどは死んだのだから、逃げ出してまたやってきて、防空壕などにうずめたものを、掘りおこすというようなこともなかったわけである。不思議なほど明るくてひっそりとした風景であった。」-
-「戦後の広島には、小さなバラックがそこここに密集して発生した。その中でも、駅前の密集集落は大きなものであった。多くは衣料品を取り扱っていた。次は河のほとりに帯のごとくバラックがならんだ。他の町にもこうした現象がないではなかったが、広島の場合はとくにこれがすごかった。ちょうど荒れた砂地などに雑草が群落をなして茂ってゆくのに似ていた。」-宮本常一「私の日本地図」4 瀬戸内海Ⅰ 広島湾付近から

-「私は砂子又から石持というところまであるいた。途中はまだ若い風景がある。畑はほとんどひらけていない。雑草が茂って牧場として利用されている。たまに木があると思うと柏が多い。その中を一本の道がとおつている。・・その夏草の道をゆくと桑原というところがある。ひっそりとしている。天明の飢饉のときにはいちど完全に死にたえてしまって、それから後、新しい部落ができたのだという。そこからすこしゆくと蒲野沢へ出る。・・道ばたで子どもが砂あそびをしている。このあたりでも子どもの数が少なくなったようである。戦前、村をあるくと村の辻には子どもの群が見られたものである。子どもが群をなしているすがたを見かけぬところはなかつた。まだあるけない子は年長の子の背にくくりつけられており、あるけるほどの子ならあそびの仲間にはいって、それこそたのしそうにあそんでいた。そういう思いでが故里をはなれた後も、いつまでも美しい絵のような記憶になって心の中にのこったものであった。だから私は子どもたちのあそんでいる姿を見るたびに、その子らにとって幼少の日の思いでがゆたかになるように祈ってやまない。しかしいまはどこをあるいても、子どもたちはみなさびしそうにしてあそんでいる。」- 
-「下北のこの広い山野がまだきわめて粗放な利用しかされていないのは、やはり、夏のヤマセが一つの障碍になつているのではないか。7月から8月へかけて東の風が多く、その風は雨雲をひくく海から吹きつけ、海岸から6キロくらいまでの山野をおおい、小糠のような雨を降らせる。それが大地を冷えさせてしまって、真夏というのにいろりの火がたやせない。それがこの地域に住む人たちの生活をどれほど暗くしていることか。」
 宮本常一「私の日本地図」3 下北半島から
 


沢木耕太郎 「旅のつばくろ」 2020.4.20 新潮社

沢木耕太郎 1947年-
「思い起こせば、私が初めてひとりだけの「大旅行」をしたのが、16歳のときの東北一周旅行だった。小さな登山用のザックを背に、夜行列車を宿に、12日間の旅をしたのだ・・・・このときの体験が、その後の私の旅の仕方の基本的な性格を決定したのではないかと思われる。いや、もしかしたら単に旅の仕方だけでなく、生きていくスタイルにも深く影響するものだつたかもいれない、いまになって思わないでもない。」 あとがきから

-私はつい最近まで、ほとんど宮沢賢治を読んだことがなかった。宮沢賢治に独特の言葉遣いがなんとなく苦手だつたのだ。ところが最近、盛岡に用事ができ、2.3日滞在しては帰ってくるということを繰り返すようになって、その作品を読むようになった。本は、その舞台になった土地で読むと不思議なほど理解が深くなるということがある。盛岡は宮沢賢治の学びの土地だが、ある日の午後、ふと、賢治の生地である花巻に行ってみようかなという気持が起きた。・・県立花巻農業高校は、かつて賢治が教鞭を執っていた花巻農学校の後身の学校で、その校庭の片隅に移築された賢治の住居がある。その家では、最愛の妹であり、最大の理解者でもあった妹のトシが結核の療養をしていたという。トシが息を引き取ると、それを深く悲しみ「永訣の朝」という詩を書く。
 あぁあのとざされた病室の/くらいびょうぶやかやのなかに
 やさしくあおじろく燃えている
 わたしのけなげないもうとよ
私は夕暮れの淡い陽光に照らされた古い民家の前にたたずみながら、これが宮沢賢治が住んでいた家だったのか、これがトシを看病していた家だったのかと、心の奥でひとりつぶやきつづけていた。 「旅のつばくろ」から

チベットの聖山カイラス巡礼記 椎名誠

椎名誠 1982年 トルコ、イスタンブ-ル郊外  「ONCE UPON A TIME」 2006年11月10日 初版第1刷発行 本の雑誌社

椎名誠 1944-   「五つの旅の物語」 2010年2月17日 第1刷発行  講談社
「旅先で撮る一枚の写真。とおりすぎていく他愛のない風景や写真。でもその一瞬の写真の背景には どれもそれぞれに沢山の物語がある。一枚の写真の中にひとつの物語があるとしたら二枚の写真になるとその物語はもっと大きく動いていくかもしれない。五枚になればもうすこしあたらしい要素の話が動き出すかもしれない。・・・・ぼくが世界で一番好きな場所はパタゴニアである。南米大陸が巨大な恐竜のしつぽのように南にのびて、南極の方向をむいていくあたり、チリとアルゼンチン、ふたつの国がアンデス山脈っを境に国境を接してのびている。1520年にマゼランが航海したこの海峡はそのままマゼラン海峡と名がついた。大気は常に不安定だ。強い風が吹くと、人間など簡単に飛ばされてしまうという。さいはての地、、火の国などと呼ばれる。・・・1987年にぼくは4人の取材チ-ムとともに最初にこの地にやってきた。まだパタゴニアがどこにあるか正確にはわからない頃だつた。この地について書かれた本もほとんどなかった。行ってみなければ何がどうなっているかわからない、そういう旅であった。」

エル・サルバドル 1985年 難民キャンプの少女
エル・サルバドルは中米に位置する小国。1980年から左翼武装勢力と政府軍の間で内戦が始まる。米国が介入して軍事援助を始め、この内戦で8万人が死亡し、60万人をこえる人々が難民となる。91年和平交渉、92年停戦が実現。

エル・サルバドル 難民キャンプの家で  1997年

長倉洋海 1952年-
「晴れた大空に、きみの笑顔がぽっかりと雲のように浮かんでは流れていく。すみきった夜空に、出会った人たちの微笑みが星のようにきらめいている。生命あふれる大地に息づくたくさんの笑顔を、微笑みを胸に、ぼくはこれからも写真を撮っていく。」「1980年以来、ぼくは世界のさまざまな紛争池を訪れてきた。戦争、破壊、虐殺・・・・目をそむけたくなるような悲惨なできごとが、数多くあった。が、今ぼくの心によみがえってくるのは、出会った子どもたちが見せてくれた笑顔-つらい現実に打ちのめされた暗い表情ではなく、逆境をはねのける、たくさんの笑顔だ。・・・つらいからこそ、笑顔をうかべててみる。深い悲しみをくぐったからこそ、笑顔をいとおしみ、ほかの人にやさしくできる。困難をのりこえた笑顔が、微笑みが、人の胸にしみ入り、静かに広がっていく。・・・」 きみが微笑む時 あとがき

「ヘス-スとフランシスコ」
1982年、内戦の続いていたエル・サルバドルの難民キャンプで目にとめ、フィルムに収めた3歳の少女の姿。その後20年にわたって、少女の成長と人々の暮らし、それを取り巻く社会の変貌を、幾度にもわたる訪問で追い続けた。福音館書店 2002年9月25日 初版発行

長倉洋海
2011年9月から12月まで、被災した東北三県を撮影してきました。子どもたちの「いま」、中でも、さりげない日常の中から見えてくるものを捉えたいと思ったからです。撮影初日から、肩の力を抜いて子どもたちの間に入っていくことができました。少しぎこちなくなくても精一杯の微笑みを浮かべると、子どもたちはとびっきりの笑顔を見せてくれます。・・・せつなさや悲しみは写真に写るのだろうか。そして、自分にはそれを伝える力があるのだろうかと自問したこともあります。それでも、子どもたちの明るさの裏にあるさまざまな思い、つらさを乗り越えるたくましさ、ほかの人を思いやる優しさを写しこみたいと撮影を続けてきました。・・・子どもたちの笑顔にまた出会いたいと強く思っています。

届けたい-
3.11に起きたことは、瞬く間に世の中に伝わりました。あの日、あの時から、被災地の惨状に心を痛めた日本、そして世界中の人たちが、被災した子どもたちのもとに、支援の物資とともに数多くの励ましの手紙を送り始めたのです。東北に住む9歳から13歳の子どもたちが届ける、「元気便」です。2012年1月 NHK出版   

星野道夫 1978年 26歳 
1月22日 日本出発、アラスカ大学受験のため、シアトルの英語学校に通う。9月6日 アラスカ大学野生動物管理学部入学。
1979年 27歳
カヤックを使い、動物を求めグレイシャ-ベイへ1ヶ月の旅に出た。

「旅をした人」-星野道夫の生と死 池澤夏樹 2000年2月14日  株式会社スイッチ・パブリッシング発行
「星野道夫は・・生きかたのかけらを夢中になって集めた。大事な光景をあんなにたくさん見た者はいない、それは彼の撮った無数の写真を見ればわかる。大事な言葉をあんなにたくさん聞いた者もいない、それは彼が書いた多くの文章を読めばわかる。大事なものはもうアラスカにしか残っていなかった。だから彼はアラスカに行った。それさえ失われるぎりぎりのところで間にあったというべきだ。星野は20年近くアラスカを走り回って、厳寒の氷河の脇にキャンプを張って写真を撮り、遠い部落に行って老人たちに会って話を聞き、報告してくれた。・・・星野道夫はアラスカが好きで、わずか22歳の時にアラスカに行って暮らすという人生の方針を決め、そのために写真の修業をした。そして26歳で実際にアラスカに渡り、以後18年間暮らした。人の住まない荒野に入っていって風景や動物のいい写真をたくさん撮った。撮る前に、まずもって素晴らしい光景をたくさん見た。厳しくて、公正で、恩恵に満ちた自然と、自然に拠って正しく暮らす人々を見た。そして自分がそれを見られたこと、その人々に出会えた幸運を何度も繰り返し書いた。-池澤夏樹

-頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしていることがわかります。アラスカに暮らし始めて15年がたちましたが、ぼくはペ-ジをめくるようにはっきりと変化してゆくこの土地の季節感が好きです- 星野道夫

「人生の答え」の出し方  柳田邦男 新潮文庫 2006年11月1日発行
-時代を超えた二人の写真家-
星野氏の世界観と生命観が壮大なスケ-ルの二つの座標軸を基盤にしている・・・その座標系とは、一つは時間の感覚だ。星野氏の時間感覚のスケ-ルは地質時代でさえ目の前の風景の中に存在する現実として実感できるほどとてつもなく奥行きが深い。もう一つは空間の感覚だ。都市化された現代文明の対極にあるアラスカの原生林の中に、独りで身を投じ、嵐の夜も吹雪の日々も思索を続ける。一種の限界状況だ。・・・星野氏は写真と言葉をからみ合わせつつ、大自然とそこに生きる生き物たちが太古から語り続けてきた生々流転むと永劫回帰の物語の全容を読み解き表現しようとしていたのだ。星野氏の写真のすべてに神話的な物語性があるとは、そういう意味だ。神話的とは「時空を超えた普遍的な真実を伝える」という意味である・・・」

星野道夫は大学1年時に神田の古本屋街で1冊の洋書に出会う。この本に掲載された小さなエスキモ-の村の空撮写真に魅せられ、その村シシュマレフの村長宛に出した手紙-半年後返事が届き1973年の夏シシュマレフに赴き、極北の大自然の中、エスキモ-の大家族の家で3ヶ月を過ごした。アラスカとの出会いはここから始まった。

星野道夫 1952-1996  ロシア、カムチャツカ半島クリル湖畔でヒグマの事故により逝去 享年43歳
「悠久の時を旅する」 2012年12月10日 第1刷発行 株式会社クレヴィス
-初めての旅は、16歳の時のアメリカだった。その計画を、僕は中学生の頃から温めていた。今と違い、外国は本当に遠い世界だった。異国への憧れ、ひとり旅、冒険心・・・・。そんな子どもじみた夢に取り憑かれていたのだろう。が、子どもながらに、僕は真剣だった。両親を説得し、テントを入れたザックを担ぎ、「アルゼンチン丸」というブラジルへ向かう移民船で横浜港を出発したのを、昨日のように思い出す。太平洋を渡り、ロサンゼルスの場末の港に降ろされたのは、それから2週間後 だった。誰ひとり知り合いもなく、その夜泊まる場所もない。あの時の嬉しさ、あふれるような解放感は何だったのだろう。そして、何の予定もたてず、ヒッチハイクをしながらアメリカ大陸を旅した3ヶ月。未熟だつたけれど、あの時のパワ-を懐かしく思い出す。25年前の話である。- 星野道夫 アラスカからのメッセ-ジ 「ペンギン」1993年11月・12月号より-
「人には自分が生まれたところを自分の住処として、まったく疑いもなくそこで素直に育って人生を繰り広げていく人もいる一方で、いつもどこか遠くの方のことを考えているというか、自分はここにいるけれども、もっとずっと遠いところに別の場所があって、そこに別の人たちや別の生き物がいる。そのことにすごく意味を見出したがる、精神的にも遠くを見る性格の人もいると思う。たぶん星野の場合もここにいながら他の所のことをよく考える、そういう性質が生まれながらにあったんじゃないかと想像します。-池澤夏樹 「旅をした人」星野道夫の生と死

大竹英洋 1975-
1999年よりアメリカとカナダの国境付近から北極圏にかけて広がる北米の湖水地方「ノ-スウッズ」をフィ-ルドに、野生動物や人間と自然との関わりを追って撮影を続けていて、国内外の雑誌、新聞、写真絵本などで作品を発表している。

「そして、ぼくは旅に出た -はじまりの森ノ-スウッズ」 大竹英洋 文藝春秋 2022.5.10 第1刷

-ぼくは大学時代から山歩きを始め、自然のなかを旅することに魅せられつづけてきました。人里を遠く離れた山奥の世界は、都会育ちのぼくにとって新鮮な驚きの連続だったのです。卒業後もずっと自然と関わっていくにはどうしたらいいのか。そのひとつの答えとして、カメラという道具を手に取りました。自然に深く分け入り、その先で出会う光景や野生動物、ふしぎだなと感じたことを写真におさめて、その体験や発見を人々と共有していきたい。それが、個人の興味を超え、他者に伝えるだけの意味あるものにできれば、仕事としていつまでも自然のなかを旅できるのではないかと考えたのです。- 大竹英洋

文庫版あとがきより
-あの日(1999.5.27)、未知の世界へ一歩を踏み出した自分自身に「ありがとう」と言いたい。「ナショナル ジオグラフィクス日本版」のウェブサイトで連載しないかと依頼された時は、当時の自分を励ますような思いで書き始めた。ところが、むしろ逆に、今の僕があの頃の僕に励まされている・・そんな気がすることが何度もあった。・・自分でも驚くほど当時のことがありありと甦ってきた。森の匂い、温度、湿度、湖を渡る風の音・・写真に写っていないことまで克明に思い出すことが出来たのは、間違いなく、これがノ-スウッズへの「初めての旅」だつたからだ。すべてが新鮮で、五感に触れたあらゆる記憶が、体全体に深く刻み込まれていたのだろう。- 大竹英洋

「THE North Woods 生命を与える大地」 大竹英洋 2020.2.22 第1刷発行 株式会社クレヴィス

-ヒデヒロ・オオタケとの出会いは、原野にある私の家の玄関で、驚きとともに始まった。(1999年)・ミネソタ州イリ-の町は世界のカヌ-中心地として知られている。わたしの家は、そのイリ-から集落のひとつもない一本の道を27キロメ-トルたどった先にある。しかし、ヒデヒロが選んだのは、その道を通らずに、いくつもの湖と川をカヤックでまわっていくという方法であつた。その風変わりではあるが注目すべき努力が、遠く離れた日本からやってきたこの見知らぬ若者について知りえたことであり、第一印象であった。しかし、じきにそれだけではないことがわかる。北アメリカの謎につつまれた広大なノ-スウッズの、いまだ知られざる神秘を探ろうとする、その一途な探究心が、私に会う前からどれほど深く根強いものだったのがわかったのだ。・・忍耐と、根気強さと、礼儀正しさ、それがヒデヒロのきわだった特質だった。・・これが長年にわたって紡ぎ出されることになった、わたしたちの友情の物語の大切な出発点だ。あの出会いの中に、わたしがその後ヒデヒロのライフ・ワ-クで目の当たりにしてきた、いくつかの重要な資質がすでに揃っていたのだ。・・その特質とは、対象への深い情熱を持ち続けることに他ならない。-ジム・ブランデンバ-グ(写真家)

立花隆 1940-2021
立花隆氏が2021年亡くなった。80歳であった。宮本常一氏が「旅する巨人」であるとしたら、立花さんは「知の巨人」であった。この場合の知とは、単に「知識を有する知」という意味の知ではなく、哲学的・求道的な意味での「愛知者」を指し示す言葉と自分は理解している。氏の代表的な著作が「田中角栄研究」という論評が多いが、自分としては「宇宙からの帰還」や「青春漂流」・「武満徹・音楽創造への旅」こそが代表作であり、立花隆その人自身が書き残したかった著作であったと思っている。鈴木慶治 2021年6月 

 


このペ-ジ
樹木希林
「才気活発」・「頭の良い」人-で若い時から世間という物差しではかれない人のようでした。1943-2018.9.15 享年75。

「一切なりゆき」~樹木希林のことば~  2018.12.20 第1刷発行・文春新書・印象に残る言葉です。

○人生なんて自分の思い描いた通りにならなくて当たり前。私自身は、人生を嘆いたり、幸せについておおげさに考えることもないんです。いつも「人生、上出来だわ」と思っていて、物事がうまくいかないときは「自分が未熟だったのよ」でおしまい。こんなはずでは・・・というのは、自分が目指していたもの、思い描いていた幸せと違うから生まれる感情ですよね。でも、その目標が、自分の本当に望んでいるものなのか。他の人の価値観だったり、誰かの人生と比べてただうらやんでいるだけではないか。一度自分を見つめ直してみるといいかもしれませんね。お金や地位や名声もなくて、傍からは地味でつまらない人生に見えたとしても、本人が本当に好きなことができていて「ああ、幸せだなあ」と思っていれば、その人の人生はキラキラ輝いていますよ。
○要するに価値観がちがうんですよね。普通の人が、地位だとか名誉だとか、こう見られたいって思うものが、私が見られたいって思うものと全然違うから。・・人が集中するところに私は興味がなかったりするものですから、人は私に対して見抜きにくいんですね。・・何考えてるかわかンないような感じがみなさんの価値観とちょっと違うだけの話なんでしょう。
○我ながら、自分は変わった人間だなあと思います。愛情深いタイプでないことは自覚していますが、冷徹であろうとしているわけではないんです。でもやっぱり、他人様からすると、情が無いと思われるのかもしれません。私は並外れて執着心が無い人間のようです。夫についても、娘についても、自分自身についても、まったく執着するところがありません。
なぜ自分はこんな人間になってしまったのだろう。そう考えるとき、思い当たるのは、自分の内にある「生きることへのしんどさ」。それは子どもの頃からずっと私の中にありました。しんどいと思いながら、ここまで生きてきたんです。幼いころの私は、あまり丈夫な子ではありませんでした。・・ほとんど口もきけなかったそうです。・・父親は薩摩琵琶の奏者で、時間があれば一日中、ニコニコして、琵琶を弾いていた。でも琵琶で生計を立てられるほどではなかったから、その分母親が一生懸命働いて、持ちこたえているような家でした。・・・

樹木希林さんは、あの怖そうで破天荒?な「ウチダユウヤ」さんの奥さんになりえた??女性でした。そして何より忘れてならないのは稀有の役者でした。ユウヤさんといえば、お別れの会の時の-マチャアキ・堺正章の弔辞は心に残る名言でした。「われわれ後輩があなたからうけたのはロックンロ-ル精神でした・・」「長続きする歌い手の秘訣はヒット曲を出さないことと後輩の我々に言い、それをあなたは見事に実践されました」。見事な名言・迷言の言葉でした。-堺正章さん当人が、ご両人の結婚式の立会人で、何でも言える関係にあったればこその言葉ですね。  鈴木慶治

 


藤 圭子 1951-2013
「流星ひとつ」は、藤圭子と沢木耕太郎の対談本である。藤圭子なる女性が、いかに実像からはなれて芸能界に生きてきたか、生かされてきたかがよくわかる本。彼女は頭の回転がはやい。相手が何を聞きたいのか瞬時に理解したという。
「みだれ髪」や「雪国」などの歌がとてもうまい。ネット配信動画-のびのある高音まで聞かせるのには吃驚。盲目の母、浪曲師の父、まずしい少女時代・・、そして自死。
○藤 圭子について沢木耕太郎は、前記の著作「流星ひとつ」の後記にこんな内容のことを書いている。。「28歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの流星ひとつを読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない・・ 」<藤圭子1951ー2013・ 享年62歳> ふたりの対談は1979年・藤圭子は28歳。沢木耕太郎は31歳の時である。当然、この時期に「流星ひとつ」は発行される筈であったが、沢木自身の意で公にされることはなかった。娘ヒカルはまだ誕生していない。対談の年に藤圭子は引退宣言(後復帰)渡米した年である。ニュ-ヨ-クで生まれ育った娘の宇多田ヒカルもまた絶頂期に引退宣言をした。人生の共通行動がこの親子にはある。藤圭子の決断とは引退決断のことである。藤圭子という歌い手が、我々とほぼ同世代を生き、そして流星のようにして消え去ってしまった。この事実が何故か強く心に残る。遺灰は海に散骨されたという。 2019.4.10 <鈴木慶治>
○< 「流星ひとつ」>と宇多田ヒカルとの距離
沢木耕太郎は藤圭子とのインタビュー後、原稿にまとめ単行本として刊行する予定であったという。1979年のこと。「時代の歌姫がなぜ歌を捨てるのか。その問いと答えをノンフィクションのまったく新しい書き方(ーいっさい「地」の文を加えずインタビューだけで描き切るー」)を意図していたという。しかしこの作品は沢木本人の作品内容に対する疑問、躊躇で公刊されることなく、34年後の2013年・藤圭子の死まで発表されなかった。娘・宇多田ヒカルは、母の肉声が語られたこの作品の存在を知っていたのだろうか。インタビュー後、ただ「1冊だけ」本にして、沢木は渡米した藤圭子におくったという。娘、宇多田ヒカルは言う。「幼い頃から母の病気が進行していくのを見ていました。」藤圭子の精神の輝きが-沢木とのインタビュ-の中では随所に見られる。「宇多田ヒカルが、流星ひとつを読むことがあったら初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれなかった・・・」という言葉について考えてみた。2019.4.11 鈴木慶治                           
○宇多田ヒカルのコメント-母親・藤圭子の死について。
「8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。・・・彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。・・幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。病状の悪化とともに、家族に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧となり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。・・誤解されることの多い彼女でしたが・・とても恐がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子どものように衝動的で危うく、おっちょこいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです・・・

○沢木耕太郎の「流星ひとつ」が公刊されたのは対談から34年後、藤圭子の死後。-何とながい時間かかったのか。対談は1979年。宇多田ヒカルの生まれる4年前。「流星ひとつ」を娘、宇多田ヒカルが「読むことがあったら、初めての藤圭子に出会うことができたかも」と言った沢木さんの言葉の意味は深長である。どんな親子であれ、子は自身が生まれる前の親の姿を直接見て知ることは出来ない。沢木さんの言葉には、藤圭子への追悼の意とともに、藤圭子の生前に「流星ひとつ」を公刊していれば、娘に輝いていた若き日の母を知らせることが出来たという思いがあったのだろう。それにしても、娘、宇多田ヒカルの母親への言葉ー幼い頃から病状の進む母のそばにいても、的確な母親理解ー怖がりのくせに正義感にあふれ、鼻っ柱が強く、頭の回転がはやい。子どものように衝動的、おっちょこちょい。放っておけない。誰よりも可愛い人ー。というこのコメントは、沢木耕太郎が対談時に受けた藤圭子からの印象そのものではなかったか。対談後母だけに渡ったという、たった1冊の公刊前の"流星ひとつ"。これを娘が目にしたかどうかはわからない。しかし宇多田ヒカルは母の死後、「初めての藤圭子、すなわち若き日の輝かしい母」とは心の内で確実に向かい合っていたのに違いないと思う。    
宇多田ヒカル  生年月日:1983年1月19日

大川小学校

津波の霊たち-英国人ジャ―ナリスが、「大川小学校」の関係者に取材した本。副題は-死と生の物語とある。なぜ子ども達は校庭に長時間51分も待機し、津波襲来と時刻を同じにして避難行動を起こしたのか、そのためになぜ全校児童の7-8割が死に至ったのか。今もその責任がどこにあるのか係争中です。(2019.10.10・最高裁で大川小の事前防災不備が確定しました。)
74人の児童と10人の教職員が津波に呑み込まれました。 学校災害事故としては大震災中最多の死傷者でした。

                                      

子供達の避難ル-トと津波の押し寄せる方向が正面で衝突している。この災害の痛ましさがはっきりとわかる。津波に向かって子供達は進んでいったのです。 鈴木慶治

大川小学校正面-校庭、地震発生直後、ここに避難、点呼をとっていた。
写真 石川 梵氏  「THE DAYS AFTER」

51分後に校庭から避難しようとした「三角地帯」-適切な避難場所とは到底考えにくいところにあった。

全児童の8割が津波で流された-悲劇の学校。学校は廃校。教師も一人しか生き残れなかった。
校舎は震災遺構として保存されることになった。


司馬遼太郎の作品

司馬遼太郎について
1996.2.12日逝去。あれから2019年の現在・23年が経ちました。
自宅と隣接地に建てられた「司馬遼太郎記念館」。近鉄奈良線の八戸ノ里駅から徒歩で約8分。地下1階から地上2階まで吹き抜け。資料本・自筆本、その数2万余冊。
10年近く前、奈良からの帰り大阪に出る途中で八戸ノ里(ヤエノサト)で降りた。書斎部屋を庭から見た。記念館は自宅のすぐ隣。館内に奥様の福田みどりさんがいた記憶がある。記念館に入ると本の数の多さに吃驚。人が死ぬまでに読める本の数ではない。
1日1冊の計算。年365冊。10年で3650冊。30年で約1万冊。2万冊となれば60年かかることになる。記念館以外の自宅にも数万冊あるという。司馬さんは速読で有名。ペ-ジをカメラの眼でとらえていたと言う。司馬さん以外にも多読?の人をあげると、井上ひさし氏・立花 隆氏などの名前がうかぶ。
司馬さんは作品書くとき、厖大な資料を読んだ。ある時、神田の古書店ら関係する本が消えたという有名な伝説がある。
筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」。全集本は評論、随筆等をふくめ(全68巻)という数の多さ。
司馬作品には長編ものが多い。・坂の上の雲・翔ぶが如く・竜馬がゆく、世に棲む日日 ・国盗り物語・胡蝶の夢等々 
短編小説もいい。 司馬遼太郎短篇全集(文藝春秋)の 7巻と8巻は内容が幕末物である。司馬さんの幕末ものはいい。  
7から  ・虎徹  ・土佐の夜雨 ・上総の剣客 ・千葉周作
8から ・逃げの小五郎 ・沖田総司の恋 ・最後の攘夷志士 ・桜田門外の変 ・菊一文字  <鈴木慶治>
      

星野道夫 1952-96年
石川直樹 1977-
星野は自分たちとほぼ同世代で、石川は自分の子どもの生年と同じ。
二人は親子ほどに年齢が違う。二人に直接の出会いはない。星野道夫がロシア・カムチャツカ半島でヒグマに襲われて死去するのは1996年、この年石川直樹は大学1年。夏にカナダとアラスカにまたがるユ-コン川下りをカヌ-を使って実現させる。その後押しとなった雑誌が「星野道夫の追悼特集号」である。
「雑誌のペ-ジをめくっていくうちにずどんと重たいものが身体の中に落ちてきた。・
 頭の中にはアラスカの原野に吹く風やユ-コンの大いなる流れが渦巻きはじめた・・」
「星野さんの著作を読んでいくと自分の進むべき道が・・ユ-コン川下りをなんとしてもやり遂げようと心に誓った」                           (石川直樹・極北へ から)
<・石川直樹のプロフィ-ル> 植村直己に続く若き「冒険家」である。
東京生まれ/高校時代17歳。インド、ネパ-ルを一人旅。以来世界中を旅する。
2000年 地球縦断プロジェクト参加。23歳。 北極点から南極点を人力踏破
2001年 チョモランマに登頂。24歳。当時の世界七大陸最高峰最年少記録。
2011年 チョモランマに再登頂 
写真集 CORONA 第30回 土門 拳賞受賞
輝かしい経歴を若年で残している。このあと何をするのか大いに気になる。
<・星野道夫のプロフィ-ル>
千葉県棲まれ/16歳、ブラジルへ向かう移民船で横浜港を出発
1968年 16歳。アメリカ大陸を3ヶ月かけてヒッチハイク。
(大学1年時に神田の古本街で1冊のアラスカの写真集と出会い感動。)
1972年 19歳。アラスカ州シシュマレフ村長宛てに手紙。半年後に返事がくる。
1973年 20歳 アラスカ州シシュマレフ村に出発。3ヶ月エスキモ-家族と生活を共にする。
(大学卒業後、動物写真家の助手を2年間)
1978年 25歳 アラスカ大学野生動物管理学部に入学
16歳で移民船にのってアメリカに行き、3ヶ月かけ大陸横断。何という行動力。凄い・・。
<・共通点>
ふたりともとも16、17歳という年齢で海外への一人旅をはじめた。星野はアメリカへ。石川はインドへ。
ふたりとも「写真雑誌」に大きな影響を受けている。自らも写真を撮り多くの「写真集」を出している。
<心に残る言葉>
「人を寄せ付けないありのままの自然に身をさらしていると、えもいわれぬ喜びが湧き上がってくるのはなぜだろう。何ごとも自分の目で見て、実際に身体でその土地の空気を取り込みたい。旅の空の下で流れる風を感じていたい。」     (石川直樹・この地球を受け継ぐ者へ)

昔、電車から夕暮れの町をぼんやり眺めている時、開けはなたれた家の窓から、ふっと家族の団欒が目に入ることがあった。そんなとき、窓の明かりが過ぎ去っていくまで見つめたものだった。そして胸が締め付けられるような思いがこみ上げてくるのである。あれはいったい何だったのだろう。見知らぬ人々が、ぼくの知らない人生を送っている不思議さだったのかもしれない。同じ時代を生きながら、その人々と決して出会えない悲しさだったのかもしれない。・・ぼくはどうしても、出会いたいと思ったのである。  (星野道夫 ぼくの出会ったアラスカ)


星野道夫-「悠久の時を旅する」から
 きっと人間には、二つの大切な自然がある。日々の暮らしの中でかかわる身近な自然、それは何でもない川や小さな森であったり、風がなでてゆく路傍の草の輝きかもしれない。そしてもう一つは、訪れることのない遠い自然である。ただそこに在るという意識を持てるだけで、私たちに想像力という豊かさを与えてくれる。そんな遠い自然の大切さがきっとあるように思う。私はいつからか、自分の生命と自然とを切り離して考えることができなくなっていた。二十代の初め、山で友人を失くしたことがひとつの引き金になったのかもしれない。そのことで、私はもっと自然が好きになり、近づきたいと思ったのだろう。
 私は、厳しい自然条件の中でひたむきに生きようとする、アラスカの生命の様が好きである。それは、強さと脆さを秘めた、緊張感のある自然なのだ。

池澤夏樹 「旅する人-星野道夫の生と死」
1945-
星野道夫が不慮の事故で43歳の命をとじた時、池澤はこう文章に書いた。
「彼(星野道夫)と一緒のアラスカはもうない。 ぼくは、ぼくたちは、彼を失うと同時に、彼が全力で表現していたあの壮大で美しい緊張と陶酔のアラスカの全体を失ったのである、」                     
1997年の5月(星野の死の翌年)には、一緒にブルックス山脈を小さな飛行機で越える約束をしていたという。
「残された者は、彼の言葉を伝え、写真を伝え、彼の生き方を伝えなければならない。星野道夫という人物の仕事を、アラスカから最も大事なメッセ-ジを運んだ使者の仕事を残された者が継がなければならない。」-と書いた。
                             

沢木耕太郎の作品

「旅の窓」から 
どこか遠くを見ている。たとえそれが老人であれ子供であれ、ここではないどこか遠くに視線を投げかけている人の姿を見ると胸が締めつけられたような思いをするときがある。
ヴェトナムはホ-チミンのフェリ-で、乗客にガムを売っていた少年が、不意に商売道具をかたわらに置きどこか遠くを眺めはじめたことがあった。何を見ているのだろう。彼に何があったのだろう。・・その少年の姿から眼を離せなくなってしまった。彼の寂しげな姿には、やはりどこか遠くを眺めていたことがあったはずの幼い私の、遠い昔の寂しい姿を呼び起こす何かがあったのだ。 
沢木耕太郎 -琴線に触れる-

左 池澤夏樹著 うつくしい列島 表紙 岩手県・北山崎

沢木耕太郎
1947年・東京生まれ
79年 大宅壮一ノンフイクション賞 32歳 テロルの決算
82年 新田次郎文学賞    35歳 一瞬の夏
85年 講談社エッセイ賞   38歳 バ-ボン・ストリ-ト
2005年 菊池寛賞       58
2006年 講談社ノンフィクション賞  59歳  凍
2013年 司馬遼太郎賞    66歳 キャパの十字架
案外と知られていない話。沢木さんは大きなショルダ―バックひとつで旅をしている。
そのバックは誰あろう、高倉健さんからいただいたものとのこと。
-深い海の底に-(新潮社刊「銀河を渡る」)健さんとの交流があったかい筆致で書かれている。      2019.4.12
「旅の窓」は写真家でもある-本人は否定するだろうが-沢木耕太郎の作品。写真とその時の思いが見開きの左右で読むことが出来る。読者も筆者とともに旅している思いになる。
池澤夏樹
1945年北海道生まれ
うつくしい列島
「まずはしばらく黙ってこの美しい風景を見よう。・・見ていてとても心地よい。日本人の美のセンスにぴたりと会った、何も考えず見惚けるだけでいいと思わせる風景。」
三陸海岸入り組んだ海岸線の美しさ-のはじめの言葉。この本の表紙にも使われた、北山崎は断崖絶壁で近寄りがたい感がある。自分はこの場所を船上から2度ほど見た。写真を見ただけで買ってしまった。

石牟礼道子(1927年3月11日 - 2018年2月10日)
他人の痛み苦しみを我が事として引き受けること、こうした精神戦の激しさに立ち向かう活力をこの本「苦海浄土」は与えてくれる。人の存在意義と目的について考える人へ。(アマゾンの書評)
水俣の不知火海に排出された汚染物質により自然や人間が破壊し尽くされてゆく悲劇を卓越した文学作品に結晶させ、人間とは何かを深く問う、戦後日本文学を代表する。三部作。  同上
池澤夏樹は世界文学全集(個人選集)の1冊に「苦海浄土」を選んだ。日本人ではただこの1冊。
加害と受難の関係を包む大きな輪を描いてその中で人間とは何かを深く誠実に問いた。と語る
自身の存在を超え、生死の境をも超え、人の根源的な存在がなにに支えられているのか照らし出した。
単行本: 780ページ 何というぺ-ジ数か。
出版社: 河出書房新社 (2011/1/8)
苦海浄土は患者とその家族たちが陥ちこんだ奈落-人間の声が聞き取れず、この世とのつながりが切れてしまった無間地獄を描きだしている- 石牟礼道子の世界 渡辺京二
            2019.4.18

永井隆・「この子を残して」。
永井誠一・「長崎の鐘はほほえむ」-残された兄妹の記録
「この子を残して-この世をやがて私はさらねばならぬのか!」
母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?。」 永井隆
「カヤノ、お母んが帰ってきたぞ、はやく来い。お母さんが待っとるぞ、いそげ、いそげ!-と、大きな声でカヤノを呼びに行くことはできませんでした。お母さんは変わりはてて、カンの中に詰まっいる。あたたかさもない、無言の骨なのです。・・カヤチャンノオカアサンハドコニオットヤロウカネといって、待ちわびている幼いカヤノに、どうしてこんなに悲しい発見を知らせ、対面させることができるでしょうか・・」永井誠一
<兄のまこと10歳 妹のかやの4歳の夏>

永井隆  1908-1951 43歳 
永井緑  1907-1945 38歳  
永井誠一 1935-2001 66歳
筒井茅乃 1941-2008 66歳

「この子を残して」他 永井隆氏の著作-は青空文庫で読めます

大石芳野 
写真家である。骨太で重厚な作品。テーマがとても深くて重い。
女性である。どの本にも生年が書かれていない。2019.4.放送・日曜美術館でご本人の素顔と肉声に初めてふれた。撮影した写真の重さとはことなる印象。穏やかな物言いをする方。75歳とご本人が言っていた。2019-75・・。終戦時は1~2歳であられたのかな。
大石さんの本が、手元に10冊ある。刊行順 鈴木慶治個人蔵
・「夜と霧は今」          1988.12.15 発行
・「HIROSHIMA 半世紀の肖像」  1995.3.03 初版
・「夜と霧をこえて」
  -ポ-ランド・強制収容所の生還者たち1998.9.20 第1刷
・「アフガニスタン 戦禍を生きぬく」2003.10.30 初版 
・「子ども 戦世のなかで」     2005.10.20 初版
・「大石芳野 鶴見和子 魂の出会い」2007.12.30 初版
・「戦争は終わっても終わらない」 2015.7.30 初版
・「大石芳野 永六輔 レンズとマイク」  2016.4.10 初版
・「戦禍の記憶」          2.19.4.03 第1刷
・「長崎の痕」            2019.4.10初版第1刷

戦争や内乱、急速な社会の変容によって傷つけられ苦悩しながらも逞しく生きる人々の姿をカメラとペンで追っている-紹介文より
ヒロシマ-爆心地から半径500メ-トル圏内。そこに生存者がいたという事実は驚きであり、その方々の写真をとり被爆証言を掲載した大石さんの写真集「HIROSHIMA 半世紀の肖像」の仕事は敬服に値する。2万1000人がいて、78人の生存が1969年時に確認されたという。この事実をこの本を目にするまで知らなかった。

爆心地から半径500メ-トルというのは、殆ど即死状態であると認識してきた。地表面温度が4千度近い中で生き延びることは常識的にも無理な生存条件である。驚きの事実である。
「夜と霧の今」は、アウシュビッツからの生還者にインタビュ-した本である。これだけでも凄いことなのに、その人々の写真まで掲載している。大石芳野の写真は、生還者に寄り添ってなんてあまい言葉では語れない、緊迫した状況で撮られている。二度と戦争の悲劇を起こしてはならない、自分たちの責務を強く感じる。

大石芳野さんの対談相手は、なんと永六輔さん。40年来の友人だそうです。若かりし日の小沢昭一、野坂昭如、中山千夏 の面々が武道館で歌っている写真もあります。2019.5.4は大石さんの写真展を見に恵比寿・東京都写真美術館に行く。

大石芳野 写真集 「子ども 戦世のなかで 」
1980年から2003年にかけて各地で撮影。ベトナム・カンボジア・ラオス
 アプガニスタン・チェルノブイリ。
大石芳野さんの言葉を抜粋してみよう。-
「戦禍に巻き込まれながらも、子どもたちは小さな体で必死に家族を気遣う。・・飢えや困窮、病気、寒さや暑さ、さまざまな虐待、弾丸の雨・・想像しただけでも震えがくる過酷な状況がかれらを襲う。・・
心の闇の深さは想像を絶するものであろう。時に深く憂いつつ、時に涙声になりながらも、そして崖縁に立たされたような表情をしながらも、子どもたちは語りはじめる。・・悲しみや苦しみ、絶望などを押し殺しながら笑みを浮かべて、懸命に生きようとする。そのなかで垣間見せる異様に大人びた表情とその奥に潜むやり場のない必死の視線・・。」その真剣で鋭い力を前にして、わたしはシャッタ-を押すたびに狼狽えてしまう。
                                        2019.5.3

鶴見和子の評 「アフガニスタン 戦禍を生きぬく」より抜粋
女のカメラマンで戦場の写真を撮っている人は少ない。大石芳野さんはその数少ない女の写真家の一人である。
大石さんの写真は
1.戦争による女と子どもの運命に焦点をあてていること。
2.レンズを通して、自分の眼と、相手の女や子どもの眼とを、きっちり向かい合わせて、眼を通して、相手の心のあり方を深く探りあてていること。
3.おなじ場所に何回も立ち戻って、戦争による女や子どもらへの影響を個人史をとおして通時的にたどっていること。

ベトナムの子らの瞳凜と撮したる大石芳野の瞳は凜凜と
美しき女道端に坐りこみもの乞いすとうカンダハルの冬
                                           2019.5.5

ベトナム レ-・ティ-・ハイさん80歳。解放軍兵士の夫と3人の息子、2人の孫を失った。1982年

コソボの紛争
父親を眼の前で銃殺され家も破壊された。ヴァドゥリンくん(9歳)の眼から涙が溢れ出る。2000年
大石さんの写真集・「戦禍の記憶」の中でも特に心打つ1枚である。

コソボ紛争・セルビア人側についたロマ人のギゼルさん(9歳)一家はアルバニア系に家をもやされた。
「何にも悪いことしていないのに」。1999年   マケドニア難民キャンプ 大石芳野撮影

国外の紛争状態について無知である自分がいた。インドシナ半島でどんな内紛、戦争があったのか、大石さんの写真にふれて自分の無知を痛感した。日本では、戦争がなかった平成がおわり、令和の時代もその継続を多くの人々は願っているという。しかし20世紀は戦争の時代であった。そして21世紀もまた戦争の時代が継続している事実を見落としてはいけない。自国の平和だけでなく他国にも眼を向けた平和観が強く求められている。                                        鈴木慶治
以下、カンボジアについて大石さんの言葉を引用する。
鶴見和子さんとの対談 「魂との出会い」から
大石芳野-
「カンボジアにも行っていましたが、凄まじい死の世界というか、殺害の世界というものを突きつけられて人間とは何なのかと悩みました。カンボジアのポル・ポト政権の大虐殺の傷が生々しいなかで、人間の顔から笑みというものが消え失せるとどういう表情になるかということを、見せつけられたという気がします。」
 「1980.7初めてのカンボジア-国内で頭蓋骨が臭いを発している、殺されて埋められた人の遺体がまだ異臭を放っていた-ポル・ポト政権の4年間-その前のアメリカ群によるカンボジア戦争-人間の持っている魔性というか、そういうものを深く考えさせられました。・・そんな残虐なことを次から次へとやりのけられる人間と、私とはまったく違う人間なのだろうか・・思ったことは、私の中にもあるのではないのかと。それは人間だれの中にもある魔性みたいなものではないかというようなことを80年に感じたんです。」
-カンボジアのポル・ポト時代に餓死と殺害によって亡くなった人は200万人と言われる。
以下Wikipediaから引用する-
カンボジア内戦(カンボジアないせん)は、東南アジアのカンボジアで、1970年にカンボジア王国が倒れてから、1993年にカンボジア国民議会選挙で民主政権が誕生するまでの内戦状態をいう。カンボジア紛争ともいう
クメール・ルージュの指導者であるポル・ポトは、「都市住民の糧は都市住民自身に耕作させる」という視点から、都市居住者、資本家、技術者、学者・知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。彼らは農民として農業に従事させられ、多くが「反乱を起こす可能性がある」という理由で処刑された。
1991年10月23日、フランスのパリで「カンボジア和平パリ国際会議」を開催し、国内四派による最終合意文章の調印に達し、ここに20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。
ポル・ポトは、裏切り者やスパイの政権内への潜伏を疑ってパラノイアを強め、医師や教師を含む知識階級を殺害するなど、国民に対する虐殺が横行した。やがて虐殺の対象は民主カンプチア建国前から農村に従事していた層にまで広がり、カンボジアは事実上国土全域が強制収容所化した。このような大規模な知識階級への虐殺、あるいは成人年齢層への虐殺に加え、ポルポト側が「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で無垢な子供を重用するようになったため、国内には子供の医師までもが現れて人材は払底を極めた
1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死去した。しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もある。遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後、そのままその場所に埋められた。火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が立ち会った。後妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と語った。埋葬直後には墓は立てられなかったが、のちに墓所が建てられた。墓碑などはなく、粗末な覆屋の看板に「ポル・ポトはここで火葬された」とのみ記されている。

大石芳野さんから2人の女性戦場カメラマンが思いうかんだ。「ライフ創刊号表紙」を飾った伝説的なカメラマン、マ-ガレット・パ-ク-ホワイト。ロバ-ト・キャパとともに戦場で写真を撮り、26歳という若さで戦死したゲルダ・タロ-。
二人の勇敢な?女性カメラマンとなぜか大石芳野さんが重なって見えた。むろん作風はかなり異質である。 鈴木慶治

マ-ガレット・パ-ク-ホワイト 1904-1971 享年67
ゲルダ・タロ-         1910-1937 享年26

マ-ガレット・バ-ク-ホワイト、雑誌「ライフ」とともに生きた女性写真家。彼女の前に-歴史に名を残した女の写真家はいないと言える存在である。彼女の前に彼女なし。日本の写真家にも彼女の名前は非常によく知られていた。鈴木慶治
「写真随筆」に書かれている土門拳の言葉-。
「世界の女性写真家のNo1。現在(昭和23年時)アメリカ人で彼女の名前を知らない人はない位に権威的存在になっている。ヒュ-マニズムに立つ政治的な報道写真に先人未踏の境地を開拓した。作品だけを見たのでは撮影者が女性であるとはとても考えられない程堂々たる迫力のある、みじんも甘さのない仕事である。世界を股にかけ民衆の生活とそれを決定する政治の在り方にカメラを向けている。・・彼女が1週間も出帳してくると「ライフ」の編集部の机の上に三千枚位の密着写真をドカッと投げ出すそうである。カメラを以つてしては最も困難な政治的テ-マを見事に消化している点、彼女の感覚や技術はもとよりながら、何よりもその知性の高さに敬服すべきであろう。」

ゲルダ・タロ- 1910-1937
ゲルダは近年まで多くを知られることのなかった女性である。ロバ-ト・キャパの恋人としてのゲルダであり、写真家としての知名度はほとんど無いに等しかった。そこにイルメ・シャ-バ-(1956-)の「ゲルダ」1994年刊が現れた。ゲルダの死後、実に57年の歳月がながれた後、世に出た最初の評伝である。日本語訳はさらに21年をへた2015.11.10 初版第1刷が祥伝社から発行された。実に82年の歳月が流れた。                            鈴木慶治
序章-ゲルダを探して-から
「ゲルダ・タロ-は20世紀戦争写真の黎明期に位置する写真家である。戦争取材中に殉職した最初の写真家として世界中の注目を集め、また女性写真家という新領域を開いたのもタロ-だった。・・ゲルダ・タロ-は、時代の核心を映像にとらえた写真家だった。ヨ-ロッパ最初の爆撃戦のはざまで。ナチス・ドイツからの亡命者ゲルダは、個人的体験と社会状況の緊張関係の中で近代フォトジャーナリズムのプロトタイプへと変貌を遂げた。・」1910年夏、ドイツ・シュトゥットガルトのユダヤ人家庭に生まれた。ユダヤ人という出自は、彼女の一生を考えるうえで外すことができない。それは重荷であり、エネルギ-でもあった。

1937年7月24日・暴走する戦車に轢かれ、翌25日に死亡。27歳の誕生日1週間前のことであった。小柄でたいへんな美人であったという。ゲルダの一家は、ホロ-コ-ストの犠牲となったという。 鈴木慶治

関連するペ-ジのリンク先。

ゲルダ・タロ-の死を悼んで捧げられた詩がある
           詩 ルイス・ペレス・インファンテ
 ゲルダよ/たとえ君が死んだとしても/
 永遠の若者として/ぼくらの中に生き続けることだろう/
 君はずっと/五月の朝に咲きほこる/満開のバラのままだ/
 のちに遠く離れたバラの茂みで/踏みにじられた姿を見つけようとも/

 赤みがかかった金髪/風に立ち向かう微笑みは美しい花のよう/
 弾丸に抗って/戦闘シ-ンをカメラに収めた/
 ゲルダよ/ぼくらに勇気をくれる君はもうこの世にいないけれど/

 ぼくらの心に生き続けるだろう/・・/花のように美しい君は/
 何よりも強かった/ぼくらはそう信じている

ロバ-ト・キャパ (1913-1954)40歳 本名は エンドレ・エルネ-・フリ-ドマン。ハンガリ-のブタペスト生まれ。  
・伝説的な戦場カメラマン ・数々の傑作を世に残した戦場写真家 ・ゲルダ・タロ-を生涯愛した男 
・イングリット・バ-グマンを恋人に持った男 ・ヘミングェイをパパとよんだ男 
・ベトナムの地で地雷をふんで死んだ写真家 ・酒と博打と女が大好きだった男・・

        鈴木慶治 連絡先  kegi3goodboos0820@docomo.ne.jp