函館・2012.6.12
函館と啄木
函館時代は、少なくとも幼年時代以後の啄木にとって最も幸福な時期であったかもしれない。函館を去るのは忍び難かったが、啄木は新しい仕事を求めて別の土地へ行かざるを得なかった。 ドナルド・キ-ン 石川啄木
「予は数日にして函館を去らむとす。百二十有余日。此の地の生活長からずといへども、又多趣なりき。一人も知る人なき地に来て多くの友を得ぬ。多くの友を後にして、我今函館を去らむとするなり」。
12年も前の写真-単なる感慨ということに止まらず、再度訪れる時の「再会」のための資料・記録となろうか・・・。
赤レンガ倉庫群周辺
函館山が見える
函館山からの夜景
小樽・2015.3.1
小さな地方都市でありながら、数多くの偉大な文学者を輩出した小樽には、素晴らしい文学作品を生み出す豊かな文化的土壌と作家を引き付ける魅力があったのではないか。
伊藤整は、父親の転勤に伴い小樽に移り住み、当時小林多喜二が上級生として在学していた小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)へ進んだ。1926年(大正15年)に発表した処女詩集『雪明りの路』で注目され、東京に拠点を移してからも、小説や評論の分野で広く活躍した。。
「雪明かりの路」序 伊藤整
15.6の年からもう6.7年も私は詩を書いて暮らして来たのだ。それは心細い寂しい不安な年月であった。私は詩壇に一人の先輩も知友もなかった。私が敢えてそれを求めもしなかったのは、たださへ自分自身を失うのを何よりも恐れたのである。・・・どんな場合も詩をあきらめることができなかった。・・・詩集の大部分を色づけているのは北海道の自然である。北海道の雪と綠とである。私の故郷は小樽市の西二里。高嶋と忍路との間の塩谷村である。私はそこに幼くから育ち小樽の学校へ通った。・・・・後略 大正15年8月23日 綠深い故郷の村で
余市