震災の記憶2
岩手県山田町-地震、津波、その後におきた火災により町は火の海と化したという。
断水により消防活動が思うに任せなかったという。 カメラ名 Canon EOS 5D Mark II
撮影日 2011/05/12 鈴木慶治
陸中山田駅-ここが駅であったとはとても思えない。奥がホ-ム。
鯨と海の科学館-白い建物が遠くに見える。
正面が山田町役場
船越湾
宮城県気仙沼市-津波によって陸にのりあげ、後に解体された第十八共徳丸
カメラ名 NIKON D700
撮影日 2012/03/11 鈴木慶治
気仙沼市鹿折地区
南気仙沼駅周辺
津波の中にまきこまれ大破した車-スクラップ同然となり積み上げられている。下の写真から見落としてはならない大事なことは
多くの人びとが、この車一台一台の中にとじこめられ命を落とした事実である。いわば「人と車の墓標」である。
車を乗り捨て高台に逃げれば、自らの命を守るすべがあったというが、それは結果論である。
避難しようとした車の渋滞に津波が襲いかかり、逃げ場のない場所でたくさんの人が命を落とした。
宮城県石巻市 日和山公園から
撮影日 2011/12/22
ここに記された50年前の教訓は果たして活かされたのだろうか。
「2011.3.11」という、最も呪わしい1日を歴史に持ってしまった私たちは、ここで起きたたくさんの事実を
長く後世に伝える責務を抱えている。見たくもない、思い出したくも事実であるが、今後繰り返されないともいえない。
-津波碑がこのことを明瞭に語っているではないか。-
強い心で禍根を残さない意味でも「記憶されないといけない」事実である。
後世に伝える手段は様々あるだろうが、写真・映像という手段・媒体の果たす役割・意義は大きいと思う。 鈴木慶治
陸前高田市 2012.5.13 市役所・市民会館・体育館・マルサン・センチュリ-ホテル・などが、この時期は目にすることが出来た。「奇蹟の一本松」はレプリカ以前、枯れる寸前状態。根元に母子地蔵がある。
現在、(撮影日 2018/03/12) 下の写真のような大防潮堤が三陸海岸のいたる場所で工事中、もしくは工事完了している。
この厚さは驚きであり想像を超える。いずれも宮古市鍬ヶ崎