映画紀行Ⅱ

さきの「映画紀行」では、外国の個人的に好きな女優さんをとり上げた。このペ-ジでは戦前から戦後を通して、活躍した日本映画の名女優を紹介したい。私自身はリアルタイムに「映画館」で、その映画に出逢ったのではなく、1970年代になってからビデオ等で見て、心に深く感じるものがあった。-鈴木慶治

映画歴50年・出演本数400本近く。天才子役といわれながらも見事に少女-女性と成長し、数々の映画界の賞与を手にした女優高峰秀子。そしていまひとりは、映画歴は27年・出演本数は108本だが出演作品は名だたる名監督との関わりからうまれ、特に小津安二郎監督との出会いは彼女の女優人生を大きく変えたといっていい原節子。ふたりの名女優に共通した点は、俳優という仕事以外の生活が考えられなかったということ。高峰さんは子役時代から、普通の子ども時代は存在せず養母・家族からはいっぱしの稼ぎ手とされた。(日本映画界はなやかりし頃の私は、年中、ゴ-ルのない馬場を走り続ける競馬ウマのように撮影に追われ、家に戻れば戻るで日毎に歯車のくい違ってくる養母との葛藤に疲れ果てていた。その上、私の収入を当てにする親戚縁者にオンブお化けのようにとりつかれ、どちらを向いても金、金、金をむしり取られることばかり、私は次第に人間不信になって、親兄弟と聞いただけでもハダシで逃げ出したくなるような人間になっていた。-
「おいしい人間」-1992.5第1刷・お姑さん・より)
 原さんは「女としては女優でいることより、妻であり、母であったほうが本当の生活かも知れないのでしょう。でも私にとっては、映画以外の生活はないのです。・・このままの生き方で、それなりに懸命に生きていきたいのです」と語り、やはり家族の経済を支えた。おふたりの共通点の2つめは40代・50代でともに映画界から去ったということ。高峰さんは、「女優業より妻であることの生活」を本当の生活として自らの意思で選び、原さんはというと、当時からいろいろと引退理由を憶測されたが、生涯本人はそのことを語らず。監督の映画とその人に殉じたのではないかという。3つめの共通点-それは2人の役者としての演技に、多大なる影響を与えた女優として「杉村春子」の存在を抜きには語れない・・・。
 鈴木慶治                               
高峰さんの作品では、個人的に「名もなく貧しく美しく」・「二十四の瞳」、原さんの作品では「晩春」・「東京物語」などが特に心に残る。

鈴木慶治-補足 <出演料> 家族全体の経済活動を支えるだけの収入。どれほどのものであったのかと思う。原節子は14歳で日活入社-当時の取締役の言葉が残っている。「・・私の所では月百円であったが、(東宝では)月給三百円出して、その上五千円の前貸しして・・」1934-1937頃。後には-百日間で百万円といわれ1日1万円で・新記録・・新聞が報じる。28歳頃 1948頃。 千葉伸夫 「原節子」-敗戦後の再出発 P.235から
高峰秀子はその著作「おいしい人間」の中で、「映画出演1本百万円・・・」と語っている。31歳 1955頃。

高峰 秀子1924.3.27-2010.12.28 <1929・5歳で映画界デビュ-><1979・55歳で女優廃業宣言>

「浮雲」1955.1封切り 東宝 監督 成瀬巳喜男 森 雅之 高峰秀子 31歳 キネマ旬報ベストテン1位
日本映画史に残る名作との世評が高い。原作は林芙美子。高峰秀子には小津安二郎から、「デコにとっても成瀬にとっても最高の仕事」と手紙が届いたという。<キネマ旬報社発行「高峰秀子」-年譜・昭和30年・1955 31歳から。>
一般の観客ばかりでなく、同業の監督や専門の映画批評家をも唸らせた映画はめったにない。さらに小津安二郎は「おれに撮れないシャシンは、溝口の「祇園の姉妹」と成瀬の「浮雲」だ」と言った。辛口、辛辣な批評家の津村秀夫さえ「成瀬巳喜男一世一代の傑作」と感動したという。
<長部日出雄「邦画の昭和史」P.115>から。

戦前・戦後を通しての大女優。昭和4年・5歳で松竹蒲田・「母」でデビュ-。
この年1929年、本名・会田昌江・「原節子」は9歳。尋常高等小学校2年生であった。原節子のデビュ-は5年後の昭和9年4月
横浜高等女学校を中退して日活多摩川撮影所に入社している。

以下-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
1924年3月27日 - 2010年12月28日。日本の女優、エッセイスト。本名は松山 秀子(まつやま ひでこ)愛称は「デコちゃん」
子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどの天才子役ぶりで名を馳せた。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』など。著書に自伝『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の松山善三
1929年(昭和4年)9月、家主である階下の住人の友達で、松竹蒲田撮影所の俳優だった野寺正一の案内で養父に連れられて蒲田撮影所を見学に行くことになった。その日は、野村芳亭監督の『母』の子役オーディションの日で、秀子は養父におされてオーディションの列の最後尾に並ばされて飛び入り参加することになったが、野村監督に思いがけなくも選び出され、ヒロインの川田芳子演じる母親の娘役で出演することとなった。10月1日付で松竹蒲田撮影所に入社し、志げの活弁時代の芸名をそのままつけて高峰秀子と名乗った。12月1日に封切られた『母』は、鶴見祐輔原作の母もの映画で、浅草では45日間のロングランヒットを記録し、翌年にはアンコール上映されるほどの大ヒット作となった。初任給は35円で、まもなく住居を鶯谷から撮影所近くの荏原郡蒲田町北蒲田に移した。

高峰秀子・「わたしの渡世日記」から-
私の旅のはじまりは、このお祭りさわぎから始まった。(子役時代のスタ-ト)を人は私の出発を幸運だといい、恵まれた星の下に誕生したとも言う。時の流れに乗っただけさと笑う人もあれば、稀には天賦の才だとほめてくれる人もある。しかし、私は5歳の少女であった。「子役」などという意識もなければ、嬉しくも、悲しくもなかった。ただ私の周辺が、にわかに騒がしくなったというくらいのことで、むしろ降ってわいた災難であり、迷惑でさえあった。私はただただ、石蹴りや、ままごとをして遊んでいたかった。

以下-フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から
たちまち重宝がられた秀子は、五所平之助監督の『大東京の一角』、島津保次郎監督の『愛よ人類と共にあれ』、小津安二郎監督の『東京の合唱』などに出演し人気子役となる。時には男の子の役もやらされ、スタッフから「秀坊」のニックネームで呼ばれた。また、五所監督は秀子を養子にと考えていたが、志げの反対で諦めたという。1931年(昭和6年)、蒲田の尋常小学校に入学するが、徹夜の撮影も多かったためほとんど学校には通えなかった。1932年(昭和7年)4月、明治座の新派公演『松風村雨』に借りられ、花柳章太郎・岡田嘉子と共演。この公演の『満州国』にも溥儀の幼年時代を演じ、すでにうたわれていた天才子役の名を一層高めた
東海林太郎と

「子役出身に大女優・名優なし」とのジンクス(このジンクスは、日本のみならず、シャーリー・テンプルほか外国でも同じ類例は多い)を破り、5歳から子役(現存するフィルムでは初出演の『母』や『七つの海』で、その子役像を観ることができる)となり、その後、娘役へと成長、さらに「女」を演じる大女優へと伸びていった。役柄も非常に幅広く、娘時代には可憐な役柄が多かったが(『婦系図』『その前夜』ほか)、戦後は、時代の先端を生きる職業婦人(『朝の波紋』)、国民的人気を博した女教師(『二十四の瞳』)、男との破滅的恋愛関係に溺れる女(『浮雲』)、意に沿わぬ相手との結婚生活をする妻(『永遠の人』)、聾唖者として社会の底辺に居ながらも強く生きる女性(『名もなく貧しく美しく』)、生活のためやむを得ず銀座のバーに勤めるママ(『女が階段を上る時』)、お妾さん(『妻として女として』)など、とても、一人の女優が演じたとは思えないほど、様々な役を演じ、そのあらゆる役において見事な演技であった。役者によっては個人の個性が前面に出てしまい、「何を演じても、誰それ自身」というタイプの俳優も少なくないが(たとえば、笠智衆は、演技というよりは自身の個性そのものが魅力となっていた俳優であると、山田洋次もNHKの「山田洋次監督が選ぶ日本の名作100本」のなかで指摘している)、高峰秀子の場合、その対極であり、まさに百変化とも言うべき、多様な役を、その役の性根をつかんで演じきった日本映画史上、稀有の名女優であった。晩年にいたっても、舞台出演は極めて少なく、「映画でデビューし映画で引退した」日本映画史上、最高の大女優・名女優として評価される存在である。以上『ウィキペディア(Wikipedia)』から

長部日出雄はその著書<「邦画の昭和史」-新潮文庫・2007.7.20発行>の中で、高峰秀子について以下のように書き記している。
「天才子役からキャリアをスタ-トさせた高峰秀子が、半世紀にわたる映画人生で演じた役割は、快活で健気な少女、青春映画のアイドル、歌って踊るミュ-ジカルスタ-、素っ頓狂な喜劇女優、文芸映画のヒロイン、理想の女教師、淪落と虚無の女、鳩の街の娼婦、身体障害者、老け役・・・・ときわめて多岐にわたる。これほど多彩な演技歴を持つ女優は、世界でもほかに類があるまい。とびぬけて明るい微笑のかげに、暗い虚無の陰翳が隠されている。笑顔にイノセントな人柄の温かさが滲み出るヒュ-マニストと人生を知り尽くして絶望した冷たい眼差しのニヒリスト・・・・・具体的な役名でいえば「二十四の瞳」の大石先生と「浮雲」の幸田ゆき子。対照的な両極端の役柄を、ほとんど同時に演じられる女優なんて、高峰秀子以外にいるはずがない。」-昭和29年の「二十四の瞳」と翌年1月封切りの「浮雲」で2年連続毎日映画コンク-ルの女優主演賞を受賞。1年以内に大石先生と幸田ゆき子の両方を演じていた。「天は高峰秀子に二物を与えた。ひとつは天賦の演技の才能であり、もうひとつは類い稀なる美貌である。・・・日本人には珍しく横顔をふくめていかなる角度からもアツプにたえる・・・。」「高峰秀子は、一瞬の「眼差し」でじつに多くのことを表現する。内心の虚無感がはっきり読み取れる幸田ゆき子の暗い眼差しについては、いうまでもあるまい。」「高峰秀子の演技が、天賦の才だけでなく、並々ならぬ研究と工夫の産物でもあったことは、松山善三監督の秀作「名もなく貧しく美しく」1961年・における聾者独特の発声、指先のバレエとでも呼びたいほど洗練された手話による表現」でも明らかである。
 
鈴木慶治-補足、以上は長部さんのきわめて高い、高峰秀子に対する評価である。「名もなく・・」では、走行する電車の中、ガラス窓越しの手話による会話は、実力派俳優・小林桂樹との共演と相俟って感動的な名シ-ンであると思う。

「花つみ日記」 14歳

「武蔵坊弁慶」義経役 17歳

鈴木慶治-
高峰秀子という人の凄さは、俳優としてのキャリアの長さ、業績の凄さ、演技力におうところは言うまでもないが、それよりも何よりも「才女」である。多くの文人墨客に愛された。谷崎・志賀・室生・梅原・川口・円地・司馬・・・。何ものにも媚びることなし。勿論大家とよばれる人の前でも。衒うテラウことなし阿るオモネルことなし。堂々として、ものおじしない-見事なきっぷのよさ。加えて文章力の確かさ。自分というものを確固として持っている・・・俳優としての高峰秀子よりも、エッセイスト・名文家として高峰秀子さんに自分は大いに魅力を感じている。高峰秀子さん同様に「文才」のたけた俳優さんは、そう多くない。森繁久弥・岸惠子、黒柳徹子、池辺 良・・・。


鈴木慶治-高峰秀子という女優さんは演じる役柄-可憐な役・教師・職業婦人・破滅的な女性・銀座のバーのママ・お妾さん・等々-によって見事に役柄に応じた表情に変わるので、驚かされた。
斎藤明美は演技者の高峰秀子を評して次のように言う。
「演技者として揺るぎない姿勢が明確に見てとれる。それは人間を演じることである。観客に媚びることも、おもねることも、あるいは自己陶酔することもなく、ただひたすら己が演じる人物を演じる。5歳から引退する55歳まで50年、女優高峰秀子の姿勢は一貫している。だから彼女は愛玩される対象としての子役で終わらず、自然な若々しさで観客を魅了する少女スタ-へと成長し、成年となってからは、その時々の年齢に相応しい女の心情を見事に表現できる女優になったのだ。つまり人間を理解すること。この役者としての本懐を子役時代に果たしていたと言える。」
  キネマ旬報社発行「高峰秀子」2010.3.30第1刷 恐るべき子役 から 
鈴木-
役者の演技指導には非常に厳しい小津安二郎監督が、高峰秀子と杉村春子については、多くの注文をつけなかったという。それどころか撮影の休日には食事や観劇に誘ってくれるほどであったという。(高峰さんは5.6歳の頃すでに、小津監督作品に子役として出演している。)
その高峰さんが26歳になり小津監督の「宗像姉妹」に久しぶりに出演することになる。その顔合わせで高峰さんは小津監督から声をかけられた。この場面を、自身のエッセイ-人間スフィンスクに書き綴っている。
よう、しばらくだったねデコ、(高峰さんの愛称) 元気かい?」-じっと私を見つめた。その眼は、ただ不用意に女優を見る眼ではなく、私の皮膚を突き破って内臓まで見通し、脳みその重さまで計るような奥深い眼だった。それでいて、鋭さやきびしさなどみじんもなく、慈愛に満ちた柔和な微笑が浮かんでいた。-
鈴木慶治-人間観察の達人小津安二郎を、これまた人間観察の達人の高峰秀子さんが見つめる、深い味合いのある場面であると私は思う。そしてなぜ高峰秀子という人間が、その人間的魅力-辛辣さを含めて-多くの文人に愛されるかが何となくわかる気がした。

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下の写真 「流れる」 1956.11.20封切り 東宝 監督 成瀬巳喜男 芸者の娘役 32歳

下の写真 「女が階段を上る時」1960.1.15 東宝 監督 成瀬巳喜男 銀座のバ-のマダム 36歳

高峰秀子さん関係の書籍-斎藤明美さんは高峰さんの養女・。

鈴木慶治-
高峰秀子のすごさ。キネマ旬報社 2010.3.30初版第1刷 「高峰秀子」から引用
P146 「絹代・五十鈴・秀子芸談」 司会 津村秀夫
津村- 高峰さん、やめるなんて言っているがほんとうかね
高峰- どうでもいいんです。ほすならほされてもいい。どうせ1年に1本か2本でしょう。大体ずいぶん昔の話になるのだけれども私は余りにも
小さいときからやっているわけでしょう。山田先生や田中先生は物心がついて自分の判断でお入りになったけど、私は赤ん坊のときから入っているから。気がついたときには20過ぎている。自分のいる場所というものはこういうところで、周りはこうでと、はっきり気がついたときには自分が果たしてその中に似合う人間かどうか・・・・、私は与えられた天職だなんて考えない。自分は自分というものがあるはずだが見きわめるひまもなく20近くなってしまった。一生女優で、赤ん坊のときから女優してそれがよほど好きならなんだけれども、自分というものがほかにあるのではないか。ほかの自分というものはわからないけれども、そういう第三者に私あこがれるのですね。人間に生まれたらちょっとの間でも自分の生活をしてみたいそれにとてもあこがれる。私には子役時代はあっても子ども時代というものがない。お母さんに甘えたこともないし(4歳のとき、母は結核で病没)、連れだって動物園に行ったことも子ども同士遊んだこともない。5つのときからセットに入りきり。それではあまり自分がかわいそうだ。抜け出したいという気持ちともちがうのです。仕事をやっているときには人よりも一生懸命やりたいと思っておりましたけれども、これが全部ではないと思っていたわけです。この世界はかない世界で、ここからおっぽり出されたときにみじめになりたくないから、そのときの心がまえとでもいうんですか、気がついたときから始めたわけなんです。映画界だけに目を向けるということはその時からやめたのです。・・・映画界というあぶくみたいなところから一人になったときに、かすも残らない人間ではろくな奥さんにもなれない。・・・自分を女優で一生行こうという気持ちにならせない

鈴木慶治-
山田五十鈴、田中絹代という映画界の大御所?の同席する場所でのこの思い切った発言に驚く。内容は芸談ということをかるく超えている。
人間・高峰秀子の面目躍如といったところである。司会をした津村秀夫もまた辛口の批評家であったことも合わせて。-侠気というドスを隠し持って生きているヤクザ稼業の渡世人みたいだ。そういえば、高峰秀子自伝のタイトルも「わたしの渡世日記」だった。

鈴木慶治-
高峰秀子は、自ら属した映画界をうたかたのような・あぶくのようだという。-はやくから虚飾に満ちた大人社会に生きる自分を認識していた。
高峰秀子は、映画界に未練、執着をもたなかった。もちろん俳優という自分にも固執していなかった。映画でえた栄誉は(トロフィ-、賞状)のほとんどを自らの意思で処分・寄贈している。      2020.5.12
以下-「おいしい人間」から
「5歳の頃から映画の子役として忙しく働いていた私は、小学校すらロクに行っていない。「ガッコへ行けない」という欲求不満のせいか、撮影の合間にはひたすら、本にかじりつくようになった。本屋へ走っては、手当たり次第に本を買い込み、むつかしい本はブン投げ、やさしそうな本だけを拾って読み散らす、という、全くの乱読であった。」
「私は大正生まれだが、撮影所に働く人たちは明治生まれの大人ばっかりだったから、私の耳学問は自然に変則的な知識にかたよっていった。さぞこましゃくれたイヤ味なガキだったろう。もの心ついたとき、私は「女優」という職業に疑問を持った。が、イヤだといっても女優をやめては親子三人ヒボシになる。とにかく、仕事というものは好ききらいでするものではないと割り切った。幸か不幸か、軽佻浮薄、冷酷無残な映画界は、自分自身を鍛えるにはじつに絶好な場所である。私の人生は不信と反抗の精神にはじまったといっていい。・・・・」
鈴木慶治-
大宅壮一は高峰さんを評して、「女が25パ-セント男が25パ-セント、あとの50パ-セントはミネラルウォ-タ-」と言った。軽佻浮薄・冷酷無残と映画界を断じる女優などただものではない。ミネラルウォーターの効用?か、はたまた、大女優のなせるわざだったのか。
こんな話しもある。作家、太宰治・作品の映画化にあたり、直接、高峰さんは太宰治に会ったことがあるという。その時の印象。「-野良犬が照れちゃったみたいな、ダランダランした人でしたよ。背はちょっと高くて(高峰さんの身長は158センチ)、もう胸なんかペッチャンコで、「ボク、肺病ォ-」って感じで。新橋へ下駄履いてきましたよ。料亭で宴会が終わってプロデュ-サ-が「そろそろこの辺りで・・・」といってもお開きにしてくれないの。・・・「もっと飲ませろ。ケチ!」なんて。ダサイオサムって感じで・・・。それが太宰さんを見た最後でした。無頼派というか、なんか無茶苦茶の。でもいいね。あれだけ正直だと。 キネマ旬報社発行・「高峰秀子」所収-思い出の作家たち・から
どんな文藝評論家もかけない高峰さんの「ダザイオサム論」だと思いました。太宰さんにはちょっぴり気の毒でしたが・・・。

二十四の瞳 

 

原 節子1920.6.17-2015.9.5<1935.15歳で映画デビュ->・<1962.42歳で映画界を去る>

デビュー当時・右 15歳

「新しき土」1937 17歳にしてこの美貌

1959年・原自身の言葉が印象的である。平凡社ライブラリ- 「原節子 伝説の女優」 著者・千葉伸夫 2001.4.9初版第1刷
 「永遠の処女とか神秘の女優なんて、名前はジャ-ナリズムが勝手につけてくれたものですから責任は負わないけど、私だってカゼを引けばハナも出るし、寝不足なら目ヤニも出るし、別にカスミを食べて生きているわけじゃないんですよ。さっきもいった通り、ものぐさの上に口下手ときているので、なかなか理解してもらえないんですね。ただ私生活の上でファンの方の夢をこわすだけはしたくないと、それだけはきびしく自戒してきたつもりです。・・・・」

以下-出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。
神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で父:藤之助、母:ナミの間に末っ子として生まれた。兄弟は男2人、女5人であった。保土ヶ谷尋常高等小学校(現:横浜市立峯小学校)から私立横浜高等女学校(現:横浜学園高等学校)に進むが、家庭が経済的に困窮していたこともあり、次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし、女学校を二年で中退した]。
1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とした。 1936年、第7回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。ファンクは当初、田中絹代も一緒にキャスティングしようとしたが田中が松竹の専属であったためにかなわず、原のみのキャスティングとなった。伊丹万作監督も請われて協力したこの作品は、結果としてファンクが編集した版と、ファンクと対立した伊丹が編集した版の両方がつくられてどちらも公開された。

「晩春」の写真 下2枚も。

1937年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。そこからシベリア鉄道を利用して3月26日にベルリンに到着。先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。この後一行はフランスからアメリカへ渡り、7月28日に帰国した(ちなみにこの『新しき土』における日独合作映画の製作は、11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという。<国策的映画に肯定的な作品に参加したことを、後年、原節子自身は反省の言葉を残している。>

11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。『新しき土』への出演によって一躍、銀幕のスターダムに駆け上がった原だったが、「もっと勉強してからスターになるべきだった」と小杉勇が述懐したように、しばしば演技が未熟であるという批判にさらされることになる。今井正によれば、戦中の原は義兄熊谷久虎[注釈 1]に影響されて「ユダヤ人謀略説」を唱えていたという。太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。1946年9月、終戦後の翌年の原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移る
1947年6月フリーの女優として独立する。フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。 1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に1949年出演。1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。

羨ましいと思う女優は-と聞かれて、原節子はイングリッド・バ-グマンをあげている。<「近代映画」1949.6から> 29歳
仕事の点で羨ましいと思うのは、あちらの女優さんだ。特にイングリッド・バ-グマンを見ていると、飾らない美しさと、巧まない上手さがにじみ出ているので、私もこんなになれたらなアといつも羨ましくて仕方がない。良い脚本と、良い監督と、理想的なメ-キャップ師と、デザイナ-と、そんな充分な配置の下で仕事をし、勉強の出来る環境に居られれば、私のようなものでも一寸は上手く出来るんじゃないかと思う。それにしてもバ-グマンなどは、そんなものを超越した彼女自身の輝きがスクリ-ンに溢れているので、そんな知的な美しさを持っている人が、やはり一番羨ましいと云えるだろう。 バ-グマン1915年生まれ。原節子より5歳年上
平凡社 「原節子」千葉伸夫
 バ-グマンは、原だけでなく映画俳優がその欠落を痛感しがちな演劇の修行を映画界に入る前にしていた。こののち、老いをさらすことを厭わないバ-グマンと、それを拒んだふしのある原節子とは、俳優のバック・ボ-ンにおいて異なっていたのかもしれない。 P.255

原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続く。

<小津安二郎からみ原節子> 
「原君を一言で批評してみると、第一に素晴らしく感のいい人だということであり素直であることだ。このことはお世辞でなく僕ははっきり言い切れる。晩春のシナリオも勿論紀子の役は、最初から原君を予定して書いた。原君自身は余り乗っていない様だが、僕は彼女を立派に生かして見せる自信のもとに仕事を続けている。」 「映画読物」1949.9
<原節子からみた小津監督>
「小津さんはテストを30回も40回もやるんですって、とお仕事が始まった当時訊いてみたんです。すると小津さんは、あなたがビ-ルを20本ものむのという噂と同じですよ、と笑ってましたわ。」
「とてもうるさい方だって聞いてしたでしょう。テストを何十回もやって・・・・、泣かない俳優はいないなんて・・・・。ところが、小津さんは、私に何にも言ってくれない・・・・。いいわけはないので、お気にいらないのでしょうが、注文してもしようがないと思って、あきらめていらっしゃるのでじゃないかと・・・・、なんだか不安で・・・・。」
「私、監督にワンワンおしりをひっぱたかれて、苦しくってねられない・・・・そんなお仕事をしてみたいですわ。」
              「映画読物」1949.9 上原 謙との対談で。
鈴木慶治・補足-期せずして同様の思いを高峰秀子は小津監督に感じた。
<高峰秀子からみた小津監督> 
-「宗方姉妹」1950の撮影現場は、聞きしにまさる厳しさで、スタッフや俳優の肝っ玉は終始膠着状態、シンと静まりかえったステ-ジの中でセリフにダメが出、動作にダメが出、10回.20回とテストがくりかえされ、息づまるような緊張感の中で、撮影はワンカット、ワンカットと進行した。けれど、小津先生の演出は私にだけは呆気ないほど寛容だった。・・・・それはそれで私にとってはなんとなく空おそろしく、仲間はずれにされたようでかえって居心地が悪かった。」-高峰秀子 エッセイ 人間スフィンスク から
<小津監督から見て> 毎日新聞1952.1.22
「女優では自分の映画に出た人でいえば原節子と高峰秀子がうまい。二人ともこっちの思うところをまちがいなく受け取ってくれて、それを素直にやってくれる。・・・高峰はいまちょうど具合の悪い年齢で、娘と大人の間のどっちつかずでむずかしいところだ。原節子には得手不得手がはっきりしている。黒沢くんのように使われると彼女はいいところが出せないのじゃないか。」
            
小津監督は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた

「晩春」のあらすじ-
 原は56歳の大学教授の父(笠智衆)と暮らす27歳のひとり娘紀子。父親が未亡人と結婚するとウソをついて、ひとり娘に結婚を踏み切らせる。父親を慕っている紀子もようやく説得され、花嫁衣装を身につけて旅たつことになる。
-父と娘の結婚をきっかけとした別れのドラマだが、その中味は父親に対する親愛、欲望と、母親となるべき女に対する敵意、嫉妬、憎しみの心理、つまりエレクトラ・コンプレックスのドラマである。-千葉伸夫「原節子」より

1949年(昭和24年)、は『晩春』、『青い山脈』、『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった。1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことでマスコミから「伝説の存在」と表現されるようになった(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品)。ところが原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中に原の眼前で実兄会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手の伊藤哲夫と共に列車に撥ねられ不慮の死を遂げるという悲劇に遭った。小津監督と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり引退をささやかれるようになった。

1963年12月12日、小津監督が東京医科歯科大学附属病院で没し(その日は小津監督の還暦の誕生日だった)、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。晩年の原は鎌倉市で親戚と暮らしているとされ、近況に関しては殆ど外出しないが元気であったということだけが伝えられた。引退に関しては「老いていく姿を人前に晒したくないと考えていた」「撮影用のライトで白内障を患い、健康上の理由で引退を決意した」「戦前の国策映画に出演していた自分の責任を強く感じており、けじめをつけるべきだと考えていた」といった様々な憶測が飛び交ったが、高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している。当時、その理由として「畳の上での芝居がしづらくなったから」と岡田茉莉子に語っている。
1968年9月、小津との共同脚本家野田高梧の通夜に出たのを最後に、公の場から姿を消した。
1993年、笠智衆の通夜前に極秘に訪れ、一部の関係者に気付かれたのが最後の目撃であった。
2015年9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で95歳の生涯を閉じた
原の訃報は没後約2か月半が経過した11月25日にマスメディアで伝えられた。

「晩春」 父と娘 1949.9.19 小津安二郎監督 原 節子 29歳

「晩春」

原節子 笠智衆 「晩春」 動画 1949.9.19 小津安二郎監督 原 節子 29歳
小津監督のこと-原節子の言葉 「映画ファン」1949.10-上原 謙との対談から
「私、はじめて先生にお会いしてびっくりしたわ。写真で拝見した時の想像では骨の細い華奢な方だとばっかり思っていた・・・ガッチリしてらっしゃるので・・・・」「先生はキャメラの位置がとてもひくいでしょう。それで、始めのうちはいろいろまごついて・・」
「私、監督にワンワンおしりをひっぱたかれて、苦しくってねられない・・お仕事をしてみたいですわ。・・ワンカット、ワンカットをちょこちょことごまかしてやってしまうので、全篇を通して私の演技に流れるものがないのです・・」
-鈴木慶治 小津安二郎監督の厳しい演技指導に対し、自ら叩かれ、苦しいことを望む女優魂=「成長する女優」を志す言葉である。
「晩春」のシ-ン

小津安二郎監督は「一時世間から美貌がわざわいして演技が大変まずいというひどい噂をたてられたこともあるが、僕はむしろ世間で巧いといわれている俳優こそまずくて彼女の方がはるかに巧いとすら思っている」とし、1951年には「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている」とも語っている。現役女優の頃は美貌のトップ女優で、その早い引退と引退後の完全な隠遁生活、生涯独身を貫いたことなども同じことから『日本のグレタ・ガルボ』と言われている。
原と同様、小津作品に多数出演した俳優の笠智衆は著書『大船日記』で「原さんは、きれいなだけじゃなく、演技も上手でした。ほとんどNGも出しません。めったなことでは俳優を褒めなかった小津先生が、『あの子はウマいね』とおっしゃっていたのですから、相当なもんです」「普段はおっとりとして、気取らない方でした。美人に似合わずザックバランなところもありました。撮影の合間に、大きな口を開けて『アハハ』と笑っとられたことを覚えています」と回想している。 (
原と共演したことがある女優の司葉子は原の一番の魅力を「清潔感」と指摘、「演技では出せない生地の魅力」としている。司は引退後の原と電話で時々会話をしていた。
2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では原節子が女優4位となっている。この年の第1位は高峰秀子である。
2000年発表の「キネマ旬報20世紀の映画スタ-・女優」では女優1位が原節子で第4位は高峰秀子。(順番は全く逆になっている。)
                       以上出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から。

「東京物語」 1953.11.3 松竹 小津安二郎監督 原 節子 33歳

上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品。。『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶことがある。
<あらすじ>
尾道に暮らす周吉とその妻のとみが東京に出掛ける。東京に暮らす子供たちの家を久方振りに訪ねるのだ。しかし、長男の幸一も長女の志げも毎日仕事が忙しくて両親をかまってやれない。寂しい思いをする2人を慰めたのが、戦死した次男の妻の紀子だった。紀子はわざわざ仕事を休んで、2人を東京名所の観光に連れて行く。周吉ととみは、子供たちからはあまり温かく接してもらえなかったがそれでも満足した表情を見せて尾道へ帰った。ところが、両親が帰郷して数日もしないうちに、とみが危篤状態であるとの電報が子供たちの元に届いた。子供たちが尾道の実家に到着した翌日の未明に、とみは死去した。とみの葬儀が終わった後、志げは次女の京子に形見の品をよこすよう催促する。紀子以外の子供たちは、葬儀が終わるとそそくさと帰って行った。京子は憤慨するが、紀子は義兄姉をかばい若い京子を静かに諭す。紀子が東京に帰る前に、周吉は上京した際の紀子の優しさに感謝を表す。妻の形見だといって時計を渡すと紀子は号泣する。がらんとした部屋で一人、周吉は静かな尾道の海を眺めるのだった。