原爆関連書籍-鈴木慶治・蔵書 2022.1 順不同

「サダコ」 NHK広島「核・平和」プロジェクト 2000年7月30日 第1刷発行 NHK出版 
佐々木禎子さんの母親・佐々木フジ子さんの手記「禎子よ、もう一度この胸に」から  P.93
「友達から聞いた千羽鶴のまじないを信じて、広告の切れはしや、お薬の小さい紙や御見舞の品物の紙の小さいのをのばしては、一生懸命にキラキラとした眼 !それは生きたい、何とかして生きながらえたい。という意欲に満ちた眼でしょうが、その眼で一生懸命に一羽又一羽と鶴を折っていました。その鶴も644羽で終りになったのです。或る夜禎子は「お父さん後丁度400よ。」といった事を、きいて夫は泣いていたのを私は覚えています。この世に生きんとするむずかしさ ! 生きんとする幼い者の生命のあわれさ ! 禎子よ !! 何とかしてやりたい、しかし落ちる涙はどうすることも出来ない現実の生活。私は折鶴をベッドに横たわりつつ無心におっている我が子のいらただしい姿に一人心でないたものでした。私達が禎子の心情に耐えかねて流す涙。そんな時、又充分にしてやれなかった時。親に心配をかけまいとして見せる虚偽の強いられたほほえみ。親を思いがまん強かった禎子よ、お前は何と運の悪い子だったのだろう。お前は何のめぐりあいあって私の腹をいためた子どもだったのだろうか。真心こめた千羽鶴は級の人々に少しづつ分けてやり後はきれいなお花と共にお棺の中にいれてあの世までもたせました。ああお前の折った千羽鶴よ、なは何故泣かなかった。なは何故飛ばなかったのだ。私は今、禎子の残した千羽づるの一羽にこうよびかけるのです。
「いついつまでも禎子の側にあって見守っておくれ。この母に変わって面倒を見ておくれ。」
「禎子の体を、禎子の淋しい時にはこの母にかわって鳴いておくれ。禎子が嬉しい時には、一翼千里大空に羽ばたいておくれ」と。

佐々木禎子さん 2歳のとき、爆心地から1.6Kmの広島市内の自宅で被爆。小学6年の1955年2月、原爆症による白血病を発症し、10月、12歳で亡くなった。禎子さんが最後のころに折った鶴は、手のひらに小さく収まる大きさだつた。

「なみだのファインダ-」
1945.8.6の広島の惨状を記録した写真はたったの5枚しかないといいます。その1枚が表紙になった本が「なみだのファインダ-」という本です。現在は絶版で手に入りにくい本です。監修者の柏原知子(現大西知子)さんに「原爆資料記念館」の、まさにこの写真パネルの前で、偶然にでお会いすることができました。<2015.1.11のことです> 大西さんからはその後ご自身著作の「命かがやいて-被爆セ-ラ-服のなみだ」という本を送っていただきました。

「命かがやいて」-被爆セ-ラ-服のなみだ 著者  大西知子  2011年2月1日 東信堂発行
「私が(セ-ラ-服の少女)と初めて会ったのは、平成13年(2001年)のことです。出会いのきっかけとなったのは、「涙のファインダ-」でとり上げた1枚の写真でした。・・・松重氏が被爆直後の御幸橋西詰め(橋の人道は断末魔の負傷者でびっしり埋まっている光景)を指して「この後ろ姿の三角衿のセ-ラ-服の女性は今も生きているのですよ。」と話されたのです。私は、被爆時の状況やその後の人生について是非お話を伺いたいという思いが日増しに高まり、さまざまな情報から必死に探しました。そして、1年後にやっとの思いで・・辿り着いた次第です。」-大西知子さんの言葉

「百二十八枚の広島」 2009年8月8日 初版第1刷 南々社発行 筆者 明田弘司 広島県呉市生まれ
明田さんの言葉-あとがきから
「1948年・来広された名取洋之助先生から「広島市は原爆ですべて焼き尽くされた。元に戻るのにこれから何年かかるかわからないが、それを記録しなさい」と教示された。これが、その後60年以上に及ぶ広島の記録の始まりでした。昭和20年代~40年代は、一人で自転車に乗っては広島市内をコツコツと写して回り、週末になると車や鉄道を利用して、市外の撮影に出かけました。高い建造物があると、屋上まで上がっては定点撮影を行いました。・・・私のこれまでを振り返ってみれば、文字通り、写真とともに生きて来たのだと思っています。・・128枚(1万枚以上の中から選んだ)の写真は、多少、自分本位の視点になっているかもしれませんが、それなりに、広島の復興の記録になったのではないかと自負しています。」2009年7月

「広島1945」 2012年8月6日 南々社発行 南々社編集部 編・著
表紙 昭和20年(1945)3月・広島女学院高等女学校の卒業式 
-まえがき・から-
「本書は「8・6以前の広島」と「8・6以後の広島」の2構成(138枚の写真)している。「8・6以後」では昭和20年末までの5ヶ月間に撮影された写真(1枚除く)を紹介。「8・6以前」では商都であり、学都であり、軍都でもあった戦前の賑やかな広島を紹介。広島有数の繁華街だった中島地区(現平和記念公園)の写真からは、人と街の息づかいが今にも聞こえてくるようだ。原爆の残酷さと、広島市民のつよさ、支え合い、絆など、人間の持つ可能性が感じ取ってもらえたら幸いです。」2012年7月 編集部 西元俊典

「戦争×文学 ヒロシマ・ナガサキ  閃」 2011年6月10日 第1刷 集英社 807ペ-ジ  -解説・成田龍一
「原爆にかかわる文学のうち21世紀のいまも、ぜひ手にとっていただきたい作品が収められている。中短編からの選択・・<Ⅰ>は被爆時の状況を描いた作品群、<Ⅱ>は被爆とその後の状況が書かれた作品群。<Ⅲ>は被爆がもたらしたさまざまな問題について書き継がれた作品群、<Ⅳ>は、核がとりまく世界状況を扱った作品群となっている。・・・」
Ⅰ ・夏の花 原民喜   ・屍の街 大田洋子  ・祭りの場 林 京子
Ⅱ ・残存者 川上宗薫  ・死の影 中山士朗  ・少年口伝隊 1945 井上ひさし
Ⅲ ・夏の客 井上光晴  ・戦   美輪明宏  ・炭塵のふる町  後藤みな子   ・暗やみの夕顔  金 在南  ・島   青来有一
Ⅳ ・死の灰は天を覆う 橋爪 健  ・アトミック・エイジの守護神 大江健三郎 ・金槌の話 水上 勉  ・「三千軍兵」の墓  小田 実  
  ・似島めぐり 田口ランディ
  (詩)  ・生ましめんかな 栗原貞子 ・八月六日  峠三吉  ・浦上へ 山田かん 
 (短歌)  正田篠枝  竹山 広   (俳句) 三橋敏雄  松尾あつゆき  (川柳)    (解説) 成田龍一 ・筆者紹介 ・収録作品



「死の同心円-長崎被爆医師の記録」 秋月辰一郎(1916-2005) 1972年7月 (講談社) 刊行
-はじめに-・から
「私は、浦上の本原の丘にある病院(浦上第一病院・現 聖フランシスコ病院)の一室の窓越しに、爆心地の方角を毎日毎日あかず眺めてきた。それは、昭和20年8月9日に私が被爆したときとまったく同一地点である。私は、この忘れられない場所で、あの日からのできごとを、見たまま、体験したままに書きつづってきた。・・私の耳には、いまも火傷をおって死んでいった被爆者の声がのこっている。恐るべき原爆症にむしばまれながら、まんぞくな薬も医療もうけられず、私をじっとみつめて死んでいった人たちの姿も目に焼きついている。彼らの支えがなかったら、おそらく私は、この手記を書きつづけていくことも、ふたたび出版することもできなかったろう。・・・」

「死の同心円」 2010年6月30日 長崎文献社 発行 第7章 長い歳月が流れても
「広島の人も、長崎の人も、一片のの歴史的事実として忘却され、消失されていく原爆の被害について、しだいに口も重くなり、ともすれば黙しがちになっている。いったいそれはどういうわけだろうか。ヒロシマとナガサキの事実が、忘れられていくのを悲しみ、憤って、私の心はふるえる。それだけではない。長崎原爆の実態が、はじめから知られてはいない。正確に調査され、記録されていない、という不満が私をいらだたせるのである。被爆の直後から、これを知らせまいとする、またくわしく調べさせまいとする何かがあったのではないだろうか。・・・要するに、原子爆弾というものは、終始私たちには知らされず、歴史の流れのなかにぼかされていくのである。・・広島や長崎の原爆について、人文的な調査や人間的な報告が消されていった。・・・長崎では、夏になると「原爆、原爆」とやかましくなり、8月9日がおわると潮が引くように静かになる。ある被爆者は、「原水爆禁止というが、あれは金魚売りとおなじだ」と自嘲している。原爆は、長崎の人々にとっても、いまや夏の風物詩のひとつになってしまったのである。原爆という悲惨な事実は、真珠湾奇襲攻撃や日本兵の残虐行為と交換に、沈黙させられてから、風化がはじまっている。しかし、私は相変わらず原爆について語り、原爆について筆を走らせる。「また原爆か」という人もすくなくない。だが、じつはだれもほんとうに原爆について知らないのである。・・・アメリカもソ連も、莫大な核兵器を貯蔵し、そのほかの核保有国は、いずれも誇らしげに実験をくりかえす。核兵器を積んだB52や潜水艦が、私たちの周囲を動き回っている。賢くて愚かな人間は、あの8月9日からぜんぜんかわっていない。悲しいことに、おなじあやまちをくりかえそうとしているのである。あれから、とうに四半世紀がすぎたというのに--。」
  

「長崎の痕キズアト」 大石芳野 2019年4月10日 初版第1刷発行 藤原書店
-「あの日、子どもだった。」
ここに写っている人たちはほとんどお年寄りだ。けれど単に歳をとった人たちを集めたのではない。この人たちはあの日、まだ子どもだった。赤ちゃんだったり、若者だったり、さらにはお腹の中にいたり・・・・・。そうした一人ひとりに、70年以上の歳月が経った。そしてみなお年寄りになった。あの日あの瞬間がなければ、子どもは元気よく走り回ったろうし、赤ちゃんは母の胸に抱かれたろうし、若者は青春を謳歌しただろう。恐怖をその身に植え付けられた彼らは、家族や親しい人たちが次々に亡くなる様を目にし、苦しみや嘆きも耳で聞いた。怪我もなく、火傷もしなくて喜んでいた人も、見る見るうちに容態が悪化して、遠いところに逝ってしまった。・・・・・
 長崎の<ある晴れた日>の悲劇から50年、いや70年、いや90年・・・・、人びとは暗黒の記憶と蝕まれる身体と闘わなければならない日々を生きている。当人のいのちが果てても終わるものではなく、さらに苦悩は続く。子や孫に、曽孫に、そして関係者や私たちにも。終わることがない果てしない記憶が、どこまでもどこまでも追いかけてくる。  大石芳野

土門拳のヒロシマ
「ぼくは、広島へ行って(1957年7月23日)、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは「ヒロシマ」を忘れていたというより、実ははじめから何も知ってはいなかったのだ。13年後の今日もなお「ヒロシマ」は生きていた。焼夷弾で焼き払われた日本の都市という都市が復興したというのに、そして広島の市街も旧に立ちまさって復興したというのに、人間の肉体に刻印された魔性の爪跡は消えずに残っていた。それは年ごろになって消せども消えないケロイドとして残っていた。それは被爆者の骨髄深く食い込んで、造血機能を蝕み、日夜、数万の人々を白血病の不安にさいなんでいた。13年前の被爆当時よりむしろ陰険執拗な魔性を人間の上にほしいままにしていた。「ヒロシマ」は生きていた。それをぼくたちは知らなすぎた。いや正確には知らされなさすぎたのである。敗戦後の数年は、占領軍は原爆のゲの字も言わせなかった。・・・1951年の講和条約成立後にようやく原爆の被害写真や絵画や詩や小説などが公然と発表されるようになったのである。・・原水爆問題の国際的な高揚のかげに、広島の場末には、1升50円の外米も買えずに腹をすかしている被爆者がいる。被爆者の医療は全額国庫負担となり、白亜の原爆病院が建っても、その原爆病院に入院するのに持って行く蒲団がないばっかりに入院もできずにいる被爆者がいる。また、当然入院加療を必要とするに症状が悪化しているにもかかわらず、あとに残る家族の生活を思うとそれもできずに、日雇いに出て、働きながら、みすみす死期を早めている被爆者もいるのである。・・・ぼくたちは戦争と貧困のからみ合った一切の不幸が皺寄せされている広島・長崎の現実をまともに見る必要がある。・・・」


ヒロシマ/ナガサキ・原爆関係の参考書籍   <鈴木慶治所蔵> 2021・8/29現在 書籍名/著者、編者/

「平和のバトン」広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶・弓狩匡純・協力、平和記念資料館2019.6/「原爆句抄」・松尾あつゆき2015.3.20/「命かがやいて」・大西知子2011.2.1/「なみだのファインダ-」・柏原知子監修2003.8/ 「HIROSHIMA-半世紀の肖像・大石芳野1995.3.3/「死の同心円」・秋月辰一郎2011.6.30/「広島爆心地中島」・広島遺跡保存運動懇談会編2006.8/「ヒロシマを壊滅させた男 オッペンファイマ-」・ピ-タ-・グッド・チャイルド・池澤夏樹訳1995.6.15/「ヒロシマ戦後史」・宇吹 暁2014.7.9/「ヒロシマ」・ジョン・ハ-シ- 谷本清、他訳1949.4.25 /「サダコ 原爆の子の像の物語」・NHK広島「核・平和」プロジェクト2000.7.30/「私はヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した」・チャ-ルズ・W・スウィニ- 黒田剛訳2000.7.31/「カウントダウンヒロシマ」・スティブン・ウォ-カ- 横山啓明訳2005.7.10広島を復興させた人びと「原爆」・石井光太2018.7.10/「原爆と戦った特攻兵」・豊田正義2015.7.31/「原爆供養塔」-忘れられた遺骨の70年-・堀川惠子2015.5.25/「遠きヒロシマ」-記憶の物語-・青木幸子2014.11.10/「空が赤く焼けて」-原爆で死にゆく子たちの8日間・奥田貞子2015.6.30/「少女十四歳の原爆体験記」・橋爪 文2001.7.20/「ヒロシマ絶後の記録」・小倉豊文2010.12.10/「星は見ている」-全滅した広島一中一年生父母の手記集・秋田正之編2010.12.10/「ヒロシマ日記」・蜂谷道彦/「花の命は短くて」-原爆乙女の手記・小島 順/「屍の街」・大田洋子2010.7.25/「長崎原爆記-被爆医師の証言」・秋月辰一郎/「この子を残して」・永井 隆2010.7.25/「ロザリオの鐘」・永井 隆2014.6.25/「長崎の鐘」・永井 隆2010.7.25/「原爆詩集」・峠 三吉2010.7.25/「廣島-戦争と都市-」・岩波写真文庫/「長崎の鐘はほほえむ」-残された兄妹の記録-・永井誠一1995.5.20/「ぼくは満員電車の中で原爆を浴びた」-11歳の少年が生きぬいたヒロシマ・由井りょう子 文2013.7.16米澤鐵志 絵/「原爆の子」上・長田 新編/「原爆の子」下・長田 新編/「原爆の子」その後-原爆の子執筆者の半世記・原爆の子きょう竹会編/「ぼくの家はここにあった」-爆心地~ヒロシマの記録-付録DVD復元中島町・田邊雅章/よみがえった都市-復興の軌跡「原爆市長」復刻版浜井信三/「原爆が消した廣島」・田邊雅章/「娘よここが長崎です」-永井 隆の遺児茅乃の平和への祈り・筒井茅乃/「永井 隆」・永井誠一/「ヒロシマはどう記録されたか」上・小河原正己/「ヒロシマはどう記録されたか」下・小河原正己/「焼き場に立つ少年」は何処へ・ジョ-・オダネル・吉岡栄二郎/「ガイドブックヒロシマ」-被爆の跡を歩く-・原爆遺跡保存運動懇談会編/「いしぶみ」-広島二中一年生全滅の記録・広島テレビ放送編/「ヒロシマをさがそう」-原爆を見た建物・山下和也、井手三千男、叶 真幹/「原爆が落とされた日」・半藤一利、湯川 豊「チンチン電車と女学生」・堀川惠子、小笠原信之/「牧師の涙」・川上郁子/「HIROSHIMA1958」・エマニュエル・リブァ写真/「長崎旧浦上天主堂」1945-1958 失われた被爆遺産・高橋 至、写真、横手一彦、文/「ヒロシマから問う」平和記念資料館の「対話ノ-ト」編集委員会編「被爆の遺言」・被災カメラマン写真集/「昭和二十年代~三十年代 百二十八枚の広島」・明田弘司写真/「生きていた広島 広島1945」南々社立ち上がる広島・1952 岩波書店編集部編/「写真記録 ヒロシマ25年」佐々木雄一郎/「決定版 長崎原爆写真集」小松健一、新藤健一編/「広島・長崎 原子爆弾の記録」・平和のアトリエ/集英社 戦争と文学 第19巻 「ヒロシマ ナガサキ」-閃-/「ヒロシマを伝える-詩画人 四國五郎と原爆の表現者たち」・永田浩三/「広島第二県女二年西組」・関千枝子/「原爆死真実」-きのこ雲の下で起きていたこと・NHKスペシャル取材班/「原 民喜全集 全二巻」-夏の花・原 民喜/「ヒロシマ 消えたかぞく」-このえがおがずっとつづくとおもっていた-・指田 和、写真 鈴木六郎/「おこりじぞう」・絵 四國五郎 文 山口勇子/「トランクの中の日本」・ジョ-・オダネル/「黒い雨」・井伏鱒二/「死の島」上・福永武彦/「死の島」下・福永武彦/「浦上物語」・市川和広/「ヒロシマ」土門拳全集10・小学館/「長崎の痕」・大石芳野写真集/大石芳野写真集「戦争は終わっても終わらない」/広島平和記念資料館臓・撮影、土田ヒロミ「ヒロシマ・コレクション」/「ヒロシマを暴いた男-米国人ジャ-ナリスト、国家権力への挑戦 レスリ-・M・M・ブル-ム 集英社/「空白の天気図」柳田邦男 文春文庫/「ヒロシマ爆心地」-生と死の40年 1986年7月20日 第1刷 日本放送出版協会発行/


長崎 8月10日午前市内電鉄線路際の路上で。
救援隊から炊き出しのおむすびを手渡されたが、すぐ食べる元気もないように見えた。山端康介撮影