本の旅-私の好きな画家・絵

私達は先人たちの生き方にふれることで多くのことを学んできた。謙虚な心で他者と向かい合うことが、自分自身の人生を豊かにすることにつながるということを・・。古人曰く「我以外みな我が師なり」-鈴木慶治

東山魁夷 (1908-1999)   「どんな場合でも、 風景との巡り会いは、ただ一度のこと と思わねばならぬ。自然は生きていて 常に変化して行く からである。またそれを見る私達自身も、日々移り変わって行く。 生成と衰滅の輪を描いて変転 していく宿命において、 自然も私達も同じ根 に繋がっている。・・・山の雲は雲自身の意志によって流れるのではなく、また波は波自身の意志によってその音を立てているのではない。それは宇宙の根本的なものの動きにより、 生命の根源からの導き によってではないでしょうか。そうであるならば、 この小さな私自身 もまた野の一本の草も、その導きによって生かされ、 動かされ、歩まされているのではないか 、そう思えてならないのです。」
「日本の美を求めて」 1976年12月10日 第1刷発行 講談社学術文庫


東山魁夷 「残照」 1947年・昭和22年

「残照」は、「道」と並んで私の好きな作品である。昭和21年、東山さんは残った最後の肉親である母と弟をあいついで亡くした。さらにその年の初の日展にも落選した。失意の中で人生の意味を問い直し、そして自身の絵の在り方を探求し続ける、そんな東山さん自身の姿がこの風景と重なってみえるように思う。「絵を描く」という東山さんのの孤独な行為が「祈り」という姿勢を通して、「自然と一体化」している・・・。千葉房総の鹿野山のスケッチがもとになっているというが、実景というよりも画家の心象風景である。遠くに見える山々は信州の山容に似ている。-鈴木慶治

東山さんにとって、旅とはどのようなものであったのだろう。-「私の履歴書 東山魁夷」から。 日本経済新聞社 2006年11月1日発行
「私は相変わらず山や海に旅して、自然の中にあらわれているものが、私の心の呼吸と一つになると感じた時にスケッチして歩いた。それをもとににして制作し展覧会に出すという考えからはなれて、自由であり、無心といもいえる精神状態のときにかぎった。旅に出るといつも私の心は解放感にあふれ、精神は生動してくる。同じ場所に行っても、そのたびに新鮮な感銘を受ける。おそらく、同じ状態の自然に二度と見ることができないからであろう。」

○「生誕100年 東山魁夷展」作品解説 2008年3月29日-5月18日 東京国立博物館 ・図版より
「ひとりの画家が自身の世界を形づくつていく過程で、いくつかの大きな転機が必ずおとずれる。それは新たな画風の展開であることもあるが、そうではなく、もっと根本的な、いわば描くことそのものに対する姿勢の転換であることもある。ともに画家の内的な欲求から起こるものであるが、後者の場合、それは画面上だけではない、画家の心のより深い部分で起こる変化である。この<残照>がもつ意味は、東山魁夷にとってまさに後者の場合であった。戦後、(肉親の相次ぐ死と作品の落選という)失意のうちに房総半島の鹿野山に登り、初めて自然とひとつとなつた実感を得たという。それは濁りのない澄んだ心で自然を見ることによって、自らもこの大自然の一部として、あるがままの世界を受け容れることができたからであった」 
<残照>は、こうした体験から生まれた作品である。

○「私の履歴書 日本画の巨匠 東山魁夷」から 2006年11月1日 第1刷 日本経済新聞発行
-母も弟もなく どん底から進路発見-
「昭和21年の冬、私は千葉県鹿野山に登った。山頂の見晴台に立ったとき、おりから夕暮れ近い澄んだ大気の中に、いくえものひだを見せて、遠くへ遠くへ山並みが重なっていた。褐色の山肌は夕ばえにいろどられて、淡紅色を帯びたり、紫がかった調子になったり、微妙な変化をあらわしていた。その上には雲一つない明るい夕空が、無限の広がりを見せている。人影のない草原に腰をおろして、刻々に変わってゆく光と影を寒さも忘れてながめていると、私の中にはいろいろな思いがわき上がってきた。喜びと悲しみを経た果てに見いだした心の安らぎとでもいうべきか、このながめは対象としての現実の風景というより、私の心の姿をそのまま映し出しているように見えた。私は翌年の二月にも春にも写生に行って構図を考え、第三回日展に「残照」と題して出品した。・・・・」-東山魁夷
進むべき道を決定した記念碑的作品となる。(第三回日展特選・政府買い上げとなる)

東山魁夷 「道」 1950年・昭和25年

○「私の履歴書・・・」から
「私か八戸ではじめてこの道を写生したのは、(出品から)十数年も前のことで灯台や放牧の馬の見える風景としてであった。そのスケッチからヒントを得て、この道一つに構図を絞り、他の一切の説明的な道具立てを省いた。道一本だけで構図することは不安であり、これで絵になるのだろうかとも考えないではいられなかった。しかし、一筋の道の姿が私の心をとらえ、そこに私のすべての心情を細やかに注ぎ込むことができると思えてきた。」-東山魁夷  写生の舞台は青森県八戸市の種差海岸。
○「生誕100年 東山魁夷展」図版から
「<道>には絶望に覆われた過去への追懐と、希望に満ちた未来への憧憬が託されている。ここでは、道は過去から未来へと移り行く時間を意味している。こうした日本的と言ってもよい一種の情緒が、夏の早朝を思わせる清澄な世界と相俟って多くの人々の共感を呼ぶのだろう。形態の単純化と無駄のない構図に東山芸術の確立へと向かうたしかな一歩が示されている。

「郷愁」 1948年
○「風景との対話」東山魁夷 1967年5月25日 新潮社発行
「川が流れていた。両岸の草のなびく堤の上は細い道になっていて、遙か遠くへ遠くへと続いている。川が遠くの方で曲がって消えるあたりに、小さな橋がかかっていた。田園の向こうに、ゆるやかな山なみ。茅野から諏訪へ向かって歩いていくうちに、ふと、通りがかりに見た風景が私を捉えた。心が惹かれるままに簡単なスケッチをした。この全く平凡な風景の中に何があるのか。数日を経ても、意外に私の心に、その情景が根深く、静かな映像となって息づいているのを感じる。私の心を誘うように、深いところから呼んでいるものがある。・・・」

-「これとよく似た場所は何処かで見た事があるな」・・・私に懐かしい想いを抱かせる風景である。-鈴木慶治

東山さんの描いた「郷愁」という作品からある写真家の作品を思い出していた。写真家の名前を前田真三という。-鈴木慶治
写真集「風景遍歴」 1997年8月1日 日本カメラ社 発行

1970年 

「月宵」 1948年

東山魁夷 「晩鐘」 1971年 昭和46年 ドイツ フライブルク
○「生誕100年 東山魁夷展」図版から
フライブルクの夕暮れの情景である。地平線はほのかに明るく、垂直に立つ尖塔は影となって暗い。そこから、安らぎや荘厳さといった象徴性が漂う。雲間から放たれる光が、天を目指した塔の真上に輝く光景は、東山の共感するドイツの精神性に与えられた神の祝福であったかも知れない。

「樹」 1984年

「山峡飛雪」 1983年

東山魁夷 「夕星」 1999年・平成11年 絶筆となった遍歴の果ての風景
○「生誕100年 東山魁夷展」 図版から
「東山は、これを夢の中で見た風景だという。しかし、画面の上半分は、自身が生前買い求めた墓所から望む風景によく似ており、全体は上下相称の倒影の構図でまとめられている。杉の木の数は、東山の失った家族の人数にも重なる。本作品は、辞世の句ならぬ、辞世の画として東山が意図した作品であるように思われてならない。- 彼岸の4本杉は最愛の両親と亡き兄と弟かと思われる(鈴木)。

 

○「東山魁夷の世界 四季Ⅰ 春・夏」 毎日グラフデラックス別冊 1978年 毎日新聞社 -から
東山さんの作品-井上靖
東山さんについて、私が一番尊敬しているところは、氏が本道を歩いておられるところである。・・独自さを表面に出すところも、孤高を売るところも、きびしさを押しつけるところも、斬新さを装うところも、そうしたところはいささかもない。だから、東山さんの作品の前に立って、あちこち見廻す必要は少しもない。東山さんが素直だから、こちらも素直に東山さんの作品が語りかけて来るものに耳を傾けるだけのことである。ついでに付言すれば、東山さんの本道は本道である許りでなく、王道である。東山さんはどんな大きい仕事でもできる王道を歩いておられる。選ばれた人の道である。氏の天性のものと、氏が芸術家として持っていおられる志の高さとが、氏にごく自然に選ばせた道である。もう一つ、東山さんについて尊敬しているところは、氏がご自分の才能を愛し、大切にし、それをさらに大きいものへと育てておられるところである。なかなか余人の企てて及ばないところだと思う。自分の才能を知らない人も多いし、知っていても大切にしない人もある。まして、その才能に溺れることなく、その才能を育てるということになると、よほど強い意志の人でないとできないことである。氏の初期の「残照」や「道」から、今日に到るまでの作品系譜は、そうした才能を大切にし、才能を育てて来た人の仕事である。そうした人の仕事だけが持つ、次第に大きく深まっていく静けさと安らかさがある。・・突発的に生み出された傑作など一つもない。みんな積み重ねられている。生まれるべくして傑作も生まれ、名作も生まれている。私も亦、文学者として。このようにありたいと思っている。-井上靖    昭和49年4月1日 画集「四季」からの転載

○「東山魁夷の世界 四季Ⅱ 秋・冬」から
山と道と白い馬と-水上勉
「道」から始めねばならない。東山さんの絵のなかでいちばん好きで、いつ見ても新しい感動をあじわっているからである。あの「道」は東山さんが東北放浪のみぎり、青森県種差海岸にさしかかって何げなく目にとめられた風景を、十数年後にふたたび訪れ、スケッチして帰って完成された。十数年の歳月、画家は一本の道を抱いていたのである。私はかつて、この「道」について、つぎのような感想を書いた。「よけいなものがすべて省かれている。ただ一本の道が、夏の朝の清澄な大気のなかで、ようやく眠りをさました草々の露をふくんだ、生々したなかを、まっすぐにのびて、遠い空と落ちこんだ海へ向かっている。ずうっと遠くへつづいている。夏草は力つよく群生し、道には小石や土くれらが集まり、穴ぼこや轍とも思える凹みもある。それらは旅人や農夫や牛馬や車が通ったあとであって、「道」はそんな生きとし生けるものの通ることを物語りつつ薄明の下に在る。じっと眺めていると、これは種差海岸からはなれて、日本人ならば誰もが一つ、こころに抱いていなければならない一本道だとわかってくる。そこのところが私を打つ。そう書いたあとで、この道が激しく私の心をゆさぶるについて私は、こんなことを続けた。「小さい頃、若狭で育って、9歳で京へ出た時に歩いた私の道に似ている。草だけしか生えていない野の道だった。故郷を捨てて50年近くなる私の瞼に、あの道はありふれた草の道だがわすれられない。私は永遠にこの道を抱いて生きるだろう。魁夷先生は、その道のことを、いま、私に抱き直せとささやく。<水上さん、あんたの歩いてきた道だ。これからも歩いてゆかねばならない道だ>と先生はやさしく、私にこの絵をつきだしていらっしゃる。」<鉦鳴らし信濃の國を行き行かば在りしながらの母見るらむか>空穂の歌のように、人間の心奥にやさしくささやきかける温かい筆づかいがあるのである。魁夷先生の道に魔の荒寥はない。いまも、私はそう思っている。私は「道」の複製画をわが家の仏間の壁にかけている。絵は、先年85歳で逝った若狭の父の拡大写真と向かい合って在る。-水上勉

○「東山魁夷の世界 四季Ⅱ 秋・冬」から
東山魁夷の風景-福永武彦
風景というものはそれ自体としては存在しない。それは人との関係に於いて、つまり人に見られることによつて初めて風景となるので、見る人がなければただ自然がそこにあるというにすぎない。・・ところがその風景を、見ることの専門家である画家たちがしばしばすぐれた風景画に写し取ったことによって、或る種の風景はその上に注がれている画家たちの熱っぽい視線をおのずから感ぜしめるものとなった。言い換えれば、私たちは風景を見て感動する時に、記憶の中にある芸術作品の印象を、実際の風景の上に重ね合わせているのである。しかし実を言えば、画家がタブロ-の中に閉じ込めた風景は現実にはもはや存在する筈がない。どんなに上手な写生であっても、実際の風景とそれを写したタブロ-とはまったく別物である。・・画家がタブロ-の中に一つの風景を定着する時に、(風景と人とは常に不即不離で、その間に一定の距離が介在する)、この一定の距離というものが消滅する。画家が自分の感動を表現しようと決心した瞬間に、一つの絶対的な視点が生まれる。その視点とは、それまでの、風景と相対峙していた立場から、一気に風景の中に没入し、謂わば風景を内側から眺めることである。恐らく風景の中に没入するというその恐ろしい瞬間に、画家は一度死ぬのだろうと思う。死んでそして甦る。それが感動の定着に他ならない。芸術家ならざる人間が風景を眺める時に、勿論そこに感動はあるだろうが、この死んで甦るという行為はない。なぜならば見たものを定着する必要がないからである。従ってすぐれた画家のすぐれた風景画というものは、写生ではなく心象であり、外界ではなく内的風景である。その風景は必ずや象徴にまで高まる。東山魁夷さんの風景画に於いて、私たちがまず感じるのはこの象徴である。・・「行く春」という題された、一面に散り敷いた桜の花片をえがいた作品があるが・・この華やかさの中の一抹の儚さ寂しさは、樹々の梢や枝に豊かに咲いている桜の花を同時に想像せしめる。またそれは桜の咲くのを心待ちにしていた早春の日々を想像せしめる。この落ちた花片は画面の外のさまざまなものに、つまりは桜そのものの本質に、思いを致させずにおかない。東山さんの傑作である「道」と題した作品でも、何を象徴するかについては俄に説明しがたい。しかし、それを上手に説明することが出来なくても、恐らく道とはこういうものであろうという感慨が思い浮かびさえすれば、それで充分であるだろう。ここには道の本質が描かれているし、すべて物の本質が捉えられればそれが象徴となるに違いない。・・東山さんのすべての作品を通じて、風景の選びかたは、その風景が何等かの本質をそこに示しているか否かに懸っている。そしてその風景がそのように見えるということは、心がそのような覚悟を以て風景を見るからである。・・日本的風景を芸術によって定着することは、東山さんに天が与えた重要な使命でもあるだろう。 -福永武彦  昭和49年4月1日 画集「四季」からの転載 

○「川端康成と東山魁夷」-響き合う美の世界
(1968年)12月10日、スウェ-デンのストックホルムでノ-ベル文学賞の授賞式。

川端康成
1968年・12月20日付け-ロンドンから市川へ 
東山魁夷宛の書簡
拝啓
-このたびの私の受賞に御心厚い御祝ひをたまわりまして温かい幸ひをいただきました。深くお礼申し上げます。12月10日の授賞式その他の行事をとどこほりなく役づとめいたしまして後、ヨオロッパに休養旅行をいたしております。出発前またストックホルムでの多忙にまぎれ、いろいろ失礼のありましたこと、また御礼も甚だ延引して申上げますこと何卒おゆるし下さいませ。
1968年・12月20日 ロンドンにて
-なほ、帰国は来春の予定ですので年末年始の御あいさつもここに申上げさせていただきます。-川端康成

ノ-ベル文学賞受賞記念として「川端康成自選集 豪華版」・(集英社)が刊行される。装丁に東山の竹林の下絵が使われた。

東山魁夷
1969年・1月13日付け-市川から鎌倉へ 
川端康成宛の書簡
拝啓
-先生御奥様には無事御元気にて御帰国遊ばれまして、誠にお目出度うございます。さぞお疲れでしたことと存じます。荘厳な授賞式等の御様子はニュ-スで聞き、ストックホルムの街の様子などを思い出して想像して居りました。公式の諸々の行事が終えられた後に、くつろいだ御気持でヨ-ロッパ各地の美術を見て廻られましたとのこと、さぞ楽しかったことと存じます。その御旅行中、ソレントからの絵葉書有難く拝受致しました。お忙しい御日程でせうと思い、予期して居りませんでしたので、お便り頂戴し夢かとばかりおどろき、又心から嬉しく存じました。本当に有難うございました。得難い記念として愛蔵させて戴きます。・・・年末には高砂のあなごを御恵送賜り御芳情の数々、なんと御礼申上げてよいかわかりません。いずれ拝眉の上万々御礼申上げますが、先はとりあえず書中にて幾重にも御礼申上げます。・・竹林のスケッチもお届け致したく、いずれ御連絡しました上でお伺い申上げたいと存じて居ります。    敬白
1月11日                 東山魁夷
川端康成先生

○1972年6月臨時増刊号「川端康成読本」-川端康成への追悼文-東山魁夷
-星離れ行き-
「崎津の天主堂の写真の絵葉書に、御無沙汰のお詫びと、帰ったら、すぐ、お伺いしたい旨の、簡単な便りを、川端康成先生に宛て、天草の宿で書いた。福岡で個展を開いていた私は、次の開催地の小倉での展覧会までの合い間を、唐津、佐世保、柳川を経て、天草へと旅していたのである。天草の下田という淋しい海岸の温泉宿である。部屋の窓いつぱいに、茫漠とした天草灘が見渡された。静かな夕べであった。・・空に低く、細い上弦の月が懸っていた。安らかな、ひかえ目な月の姿であった。その真上に、明るい、大きな星が一つゆらゆらと光り輝いている。その星は、何か尋常でないものを感じさせた。涼しげな宵の明星であるが、その閃き、光輝は、今にも、空に流れ出して、透明になり、消え去ってしまうのではないかとさえ思われた。命の瞬間の輝きとも見えた。私は思わず妻を呼んだ。しばらく、星を見つめながら、窓辺に立ちつくしていた。・・・電話のベルで眼が覚めた。何時だかわからない。真夜中だと思った。電話に出た妻が「え-っ」と、息をのんで驚き怯えた返答をしている。「川端先生が亡くなられたのですつて。自殺をなさつたのですって-」 私は床の上に飛び起きた。頭の中が空になった。全く、思いもかけないことである。「とにかく早く帰ろう。電報も打たなくては」 時計を見ると、11時を少し廻ったところで、まだ、真夜中ではなかつた。宿の帳場で、わけを話し、タクシ-を呼んでもらい、大急ぎで身支度をした。車が走り出すと、夜風が冷たく吹き込み、闇の中から木の葉が、ざわざわと乱れ過ぎる。・・・じ-んと沈み込むような寂寞とした想い-周囲にあるものが音もなく、ゆっくりと崩れ去るのを感じる。・・・福岡の板付飛行場に着いたのは4時半で・・始発は7時半である。・・・鎌倉のお宅の前通りに、新聞社の車が停まり、路地へ入ると、記者やカメラマンの群れ。ノ-ベル賞を受賞なさった時のことが思い出される。・・門内に入った。座敷へ通ると、奥様の顔を見るなり、思わず手をとりあった。声をあげて泣かれた。お悔やみの言葉がでない。ただ、涙がこぼれ落ちる。先生の遺体は、もう納棺されていたが、お顔のところは、まだ開かれている。水を含んだ綿を手渡されて、きつと結ばれた唇を湿した。おごそかであるが、優しく、安らかなお顔だった。先生が眼を閉じていられるのを、いままで一度も見たことがなかった。こんなに安らかなお顔になられるのか、やはり、これが、先生の身も心も安らかになられたお姿なのだ-はげしく、こみ上げ、涙がまた溢れた。・・・私の生涯にとって、なんと大きな、抜き差しならぬ重要な出来事であったことか。私はいま、どんな感謝の言葉をもっても、云いあらわせない-心の支え、励まし、喜びであり、畏れであつた。 (後略)」   -東山魁夷

東山魁夷 「宵桜」 1982年 昭和57年


東山さんは1976(昭和51)年初めて中国を訪れた際に、桂林にも足を運んだ。桂林の中心を流れる川を船に乗って下り、その景観に神が地上に空想の世界かと感嘆したという。一見水墨画のように見えるが、墨ではなく岩絵の具によって彩色されている。「生誕100年東山魁夷展」作品解説から


○「大和し美し」-川端康成と安田靫彦
 2008年9月10日 求龍堂発行 川端香男里 安田建一 監修

「1948年・昭和23年、安田靫彦が川端全集の表紙画を描いたことがきっかけとなり、交流が始まりました。二人が出会った時、安田は川端より15歳年長で日本画壇の大御所、川端は国民的作家になりつつある時でした。そして交流は24年間続き、1972年・昭和47年の川端の自裁によって終止符が打たれたのです。二人の絆をより強固にしたのは古美術品が好きだったこと、戦後の混乱期、旧家名家が没落して古美術品が市場に出回ったのも蒐集には幸いしました。美術品コレクタ-として安田は大先輩でした。川端は名品を入手すると、鎌倉から大磯まで持参、至福の時間を共有したのです。古美術は二人を支えたのみならず、旧き日本の、良きもの、美しきものの探求となって創作に生かされました。・・・1912年・大正元年、良寛の書と運命的邂逅した安田は、墨蹟を蒐集、書を臨書し、生涯敬慕の念を抱き続けました。また川端はノ-ベル文学賞受賞講演で良寛を取り上げ、その心を世界に伝えました。本書は二人の交流に光を当て、その美的世界を紹介するものです。」  - 編者

「安田靫彦は良寛の蒐集家、研究者としても知られておりますが、このことも良寛を愛していた川端康成との重要な接点になります。
-形見とて何残すらむ春は花 夏ほととぎす秋はもみぢ葉-
という良寛の辞世の歌について、川端康成はノ-ベル文学賞受賞講演「美しい日本の私」で次のように書いています。
-草の庵に住み、粗衣をまとい、野道をさまよい歩いては、子どもと遊び、農夫と語り、・・むずかしい話にはしないで、「和顔愛語」の無垢な言行とし、・・・日本の近世の俗習を超脱、古代の風雅に通達して、現代の日本でもその書と詩歌をはなはだ貴ばれてゐる良寛、その人の辞世が、自分は形見に残すものはなにも持たぬし、なにも残せるとは思わぬが、自分の死後も自然はなほ美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう、といふ歌であつたのです。」 -川端香男里

○「大和し美し」-川端康成と安田靫彦
良寛の辞世の句に導かれ、文豪川端康成と画家安田靫彦の魂が触れ合う。

「美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながってゐるような思ひがいたします。・・中略・・美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失ってきた多くのもの、現在は失われてゐる多くのものを知るのであります。」 -川端康成

「われわれはむかしの人の仕事を振り返って深くそれを見ることが肝要である。・・中略・・弘く見、深く見ることによつて、いいもののよさが本当にわかってきて、本当のいいものの姿がはっきりしてくる。高い山を眺めるには、麓から仰いで見たのでは美しくない。こちらの眼の位置を高く上げてくると、高い山はいよいよ高くなり、低い山はだんだん低くなり、高い山の美しい姿が現れるようなものである。」 -安田靫彦

○「平山郁夫-祈りの旅路」
2007年9月4日-10月21日  東京国立近代美術館
「平山郁夫画伯は今年(2007年)、77歳の喜寿を迎えられました。また、今年は絵を学びはじめてから60年にあたります。これを記念し、東京国立近代美術館では、その画業を回顧する展覧会を開催いたします。平山画伯は、はじめ、仏教に関する伝説や逸話にもとづく抒情性豊かな作品で大きな注目を浴びました。その後、玄奘三蔵のインドへの求法の道やシルクロ-ドを旅し、そこで繰り広げられた雄大な歴史の流れに感銘を受け、風景としての歴史画ともいうべき独特の画風をつくりあげました。それは奈良・薬師寺の玄奘三像院の大壁画となつて大きな実を結ぶことになります。近年は日本の文化にも大きな関心を寄せ、日本各地に取材した作品に新しい境地を切り開いてきました。・・・平山画伯の旺盛な制作活動の奥底にあるもの、それは、広島での被爆を経たうえでの、生きること、生かされていることへの問いかけと、その経験から導かれた平和への切実な祈りです。・・・
平成19年9月  -主催者

上 入涅槃幻想 1961年 下 建立金剛心図 1963年

求法高僧東帰図 1964年

○平山郁夫氏のこと 井上靖 「アサヒグラフ別冊 1976 夏 美術特集 平山郁夫」から
「昨年(昭和48年)、平山郁夫氏と約一ヶ月に亘ったオリエントの旅を終って、最後に旅の打揚式をやるためにパリに赴いたが、その時パリの街を歩いている平山氏の背後姿を見ていて、氏が歩くところは東洋の古い集落や砂漠の中の遺跡であって、パリではないと思った。私自身、自分のことをそのように感じていたのだ。平山氏もまたそのように見えたのかも知れない。私は氏に言った。-今まで東洋の廃墟ばかり歩き廻って来ましたが、廃墟というなら、パリの方がもっと廃墟に見えますね。 すると、氏はそれに対して。自分もまた全く同感だと答えられた。実際にその時私たちの眼にはパリの方がずっと廃墟のように見えていたのである。それまで自分たちが経廻って来た東洋の砂漠の中の廃墟には、私たちの心を魅する詩があったが、近代都市パリにはそんなものはなかった。ただ明るく、賑やかで、踏み込むべきところでないところに足を踏み入れたといった思いがあった。・・・平山郁夫氏とごいつしょに旅をしていると楽しい。どこへ行っても、氏はスケッチブックを出されており、それに刺激されて、私は私でノ-トに専念することができる。・・・そうした氏のスケッチが、どのような作品として完成しているか知らないが、いずれにせよ、それは夥しい数のものであろうと思われる。そしてそのいずれもに於いて、対象の持っている生命が-永遠なものが、悠久なものが、亡びの美しさが、そしてまた梃でも動かない傲然たるものが、氏の自在な筆で捉えられていることだけは確かである。その前に立つことの近いのを思うと、心がきつく締めつけられて来るのを覚える。-いいでしょうな。あそこは。ごいっしょに行きたいですね。 氏は遠いところを見入るような独特な眼差しをしておつしゃる。いいでしょうなという言い方には、東洋の生み出した古いものが好きな者だけに通ずる、独特な響きがある。お互いにあとは何も言わない。言う必要はない。いつか必ず、そこにいっしょに旅する日がやつてくると思うだけである。実際に、その日はやって来るに違いないのである。」   -井上靖

○平山郁夫 「日本の心を語る」 中央公論社 2005年3月25日初版発行
「-大叔父の教え-今から振り返れば、私が画家として歩むことは、ほぼ15歳の頃には決定づけられていたのかも知れません。(絵を描いて残しておくことが私の生の証だと思い詰めていた)。1947年、私は旧制中学校を4年で修了して、東京美術学校日本画科予科に入学しました。「美校」受験にあたっては、大叔父の強い勧めがありました。・・・絵を描くことは好きでしたが、私はいずれは旧制高校の文科に進むつもりでしたから、美校受験のための本格的な絵の勉強などしていません。にわかに受験のための勉強を始めた私に対して、肝心の大叔父は技術的なことなど何も教えてくれません。大叔父清水南山は1887年に開校した東京美術学校の第二期生でした。同期に菱田春草がおり、大叔父はその抜群の才能を見て、とてもかなわないと彫金に転じた経緯がありました。のちに美術工芸の第一人者と目されるようになってからも、日本画に対して格別の思いがあったのでしょう。妹の孫である私に、自分が途中で諦めた画家への道を歩んでほしいと願ったのだと思います。・・入学にあたって、大叔父は私にいくつかの訓戒を与えています。
「絵がうまいだけの画家になるな。うまいだけなら、おまえよりうまい人間はいくらでもいる。たとえ技術的にはそれほどでなくとも、自分の世界を持つことだ。そのために必要なのは高い教養である。芸術が人に感動を与えるのは、作品に現れた思想なのだ。人の胸を打つ作品には、必ずその人の人間性が表れるものだ。絵の勉強だけでなく、文学や哲学の古典を読んで、人間としての幅広い基礎を身につけるように心がけなさい」
私は優れた古典を懸命に模写すると同時に、下宿では文学や哲学書を読み漁りました。・・・入学してから二年間、ひたすら精励したのも、劣等感に苛まされたり、不安にとらわれたする余裕さえないほどに、自分に課題を課すことによって無為な時間を埋め尽くそうとしたからです。・・三年目、読めでも読めども、描けども描けども、方向が見えてこず、そもそも自分の才能に自信が持てなくなったのです。・・・私の煩悶は続きました。救いを求めるように、古い仏画の模写と読書に打ち込んだ日々は、今振り返れば、後年、私が「仏教」に自分のテ-マを見いだすための、長く苦しい助走期間だったといえるのではないでしょうか。・・・経済的負担や被爆の後遺症の悪化に苦しめられ、絶望に押しひしがれながら、祈るような気持ちで、初めて仏教をテ-マとして「仏教伝来」を制作したのは、1959年のことでした。」 -平山郁夫

○「没後50年 横山大観 -新たなる伝説へ  2008年1月22日 朝日新聞社 発行会場 国立新美術館 会期 2008年1月23日-3月3日

○「没後50年 横山大観 -新たなる伝説へ  
主催者あいさつ
横山大観(1868-1958)の没後50年を記念し、回顧展を開催いたします。横山大観は近代の幕開けである明治元年に生まれ、東京美術学校に入学、日本美術の改革や国際化を目指した岡倉天心らに学び、その志を受け継ぎました。東洋の思想や哲学に題材を採った意欲作を次々に発表。明治期の近代日本画の草創記から戦前戦後を通じて美術界を牽引しました。・・・明治・大正・昭和と激動の時代を、約70年にわたって画壇のリ-ダ-として生きた人生は、時代時代との関わりを含めて、日本近代美術史の一つの縮図ともいえます。   主催者 没後50年横山大観展組織委員会 他

1893年・明治26   村童観猿翁 ソンドウエンオウヲミル  東京美術学校卒業制作

「屈原」部分   美術院創立第1回展に出品

○「没後50年 横山大観 -新たなる伝説へ
-評伝・横山大観  古田亮 
大観の誕生
「1889年・明治22年 東京美術学校の第1期生として入学。同期入学65名。同期に西郷孤月・下村観山・大村西崖、1年下に菱田春草。意外なことに大観は受験準備ではじめて絵筆を握り、線の引き方といった初歩的な技術から学び始めたという。大観という画家は教えなくても絵が描けた天才児ではなかった。ごく普通の進学校の生徒が美校を受験し、たまたま合格したことによって美術教育を受け、4年間で画家になったのである。・・・直接の指導にあたった橋本雅邦の影響も大きかった。雅邦は、岡倉の教育理念をよく理解した優れた教育者で、殊のほか大観に目をかけたという。・・大観は抜群の記憶力をもって模写に臨み、隠れていた能力を発揮した。学校卒業後も大観の模写制作は継続され、これが画家としての財産となる。雪舟の<四季山水図>や牧谿の<観音猿鶴図>などは秀逸な模写作品である。・・大観芸術の理想主義的な性格はすべて岡倉の美術思想に導かれたものである。1893年、卒業制作に<村童観猿翁>を描いて卒業後、京都市美術工芸学校の教諭に呼ばれ、京都に移る。授業よりも古社寺を巡り古画の模写に明け暮れる日々であった。「大観」という雅号は京都のある禅寺で友人と住職と三人で酒を酌み交わした折りに偶然に経典のなかから思いついて、自分でつけたという。大観自身は<無我>・1897年から使い始めたといっている。・・<無我>は初期の代表作、世間からの評判も高くデビュ-作とされた。・・それまでの伝統絵画にはなかった斬新さを持っていた。近代日本画の出発が狩野芳崖の<悲母観音>にあるとすれば、この<無我>は第二の誕生といってよい。・・・1898年・明治31年3月、突然岡倉天心校長が学校長を追われ、大観を含め多数の教員たちが岡倉にしたがって学校を辞職する、東京美術学校騒動事件が起きた。」-古田亮
試練の時代
「学校騒動から半年後に日本美術院の創設。大観という画家は、運命的な試練に遭う度ごとに自己を高め作品を昇華させてしまう不思議な才能と意志とをもっていた。美術院創立第1回展に出品したのが<屈原>。野に下る岡倉の悲壮な姿が、中国戦国時代の伝説的な詩人屈原が讒言にあい左遷される姿に重ねられているという。画家大観の存在を強くアピ-ルしたといわれる。しかしこれが「出世作」とならず、むしろ苦難の時代が以後10年にわたり続くこととなる。・・・朦朧体論争・・・輪郭線を描かない西洋画の存在を強く意識しつつ、日本画でも空気や光線を表現する「ひとつの新しい変化」を求めたものだった。・・この表現方法は風景画としては成功したが、人物・花鳥など事物の表現には向かなかった。・・・市場での扱いが厳しく世間の風当たりも益々強くなる。・・・大観の絵はまったくというほど売れなかった。毎月美術院から受け取る25円の給料だけで両親をはじめ9人の家族を養っていた。・・30代後半の境遇は実に悲惨を極めている。天心に従ってインドや欧米へ遊歴していたこの時期に、妻、弟、娘、父と肉親を相次いで亡くした。1906年・明治39年には、美術院の経営破綻、茨木五浦に転居し「美術院の都落ち」とさえ囁かれる。新しい妻との生活も貧困にあえぎ、住居全焼という悲運が続く。「悲愁12年」と後年呼んだ時期である。1911年には無二の友菱田春草、1913年再婚した妻、恩師岡倉天心をも喪った。」-古田亮 

○「ゴッホとゴ-ギャン展」 2016年10月8日-12月18日 会場東京都美術館 主催 東京都美術館 東京新聞 TBS
主催者のあいさつ-から
「フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)とポ-ル・ゴ-ギャン(1848-1903)は、19世紀末に活躍し、100年以上たった今なお、世界中の多くの人々に愛されてやまない芸術家である。彼らが1888年に南仏アルルで約2ヶ月間の共同生活を送り、悲劇的な別離を迎えたエピソ-ドはあまりにも有名です。しかし、彼らの交流の足跡に目を向けて、それぞれの芸術性そのものを十分に理解する機会は、これまであまりなかったといえるでしょう。ファン・ゴツホとゴ-ギャンは1887年パリで出会いました。互いの作品に惹かれた彼らはすぐに親交を結びますが、二人の絵画表現は大きく異なっていました。ファン・ゴッホは力強い筆触と鮮やかな色彩で日常の現実に見出される主題を描き、一方のゴ-ギャンは、装飾的な線と色面を用いて、目には見えない想像の世界を表現しようとしました。アルルでは、彼らはともに戸外で制作したり、同じモデルを異なる角度から描いたりしました。また、想像で描くことをゴ-ギャンから勧められたファン・ゴツホは、この新しい試みにも挑戦しています。・・・アルルでの制作は互いにとつて刺激となり、優れた作品が数多く生み出されました。二人の共同生活は短期間で破綻してしまいましたが、ゴ-ギャンがアルルを去った後も手紙を通じて交流は続けられ、そこで交わされた芸術論もまた互いの作品に影響を与えました。本展覧会では二人の交流に着目しながら、共同生活の時期を中心に、初期から晩年にいたるそれぞれの軌跡を紹介します。・・偉大な二人の画家の関係性に焦点を当てた展覧会は日本では今回が初めての試みとなり・・二人の芸術と交流に新たな光が当てられることでしょう。」-主催者

○「ゴッホの手紙」ベルナ-ル宛  エミル・ブルナ-ル編 1955年1月5日 第1刷発行 硲伊之助訳 岩波書店発行

「ヴィセント・ヴァン・ゴッホは、1890年7月29日に、オヴェル・シュ-ル・オワ-ズの小さな墓地に埋葬された。かれは無名のうちにこの世を去り、その作品はがらくた同様、クリッシ-かロッシュシュア-ル街の露天古物商の店頭に放り出されていたにもかかわらず、いまや蒐集家や美術商の間で広くもてはやされる芸術家となった。・・・かなしい自殺から今日まで、ヴィセント・ヴァン・ゴッホの名声が持つ不可解な皮肉は、その墓場と関連して人々の注意をいやが上にも高めた。生存中に彼を遠ざけた或る批評家すらも、時勢を追う連中の仲間に加わり、彼への賞讃を惜しまないのである。・・過去における妄信的排撃は、今やあらゆるものを受け容れる熱意とかわった。ゴツホがもつと長生きしていたならば否定したかもしれないことさえ、受けいれられているのである。・・・長い間買手や芸術家を迷わせ、ヴィセントの作品は数フランの値ですら1枚の画布すら売れなかった。いつも彼は作品の置場に困り、それを持てあまし、弟テオの家では邪魔になるからと人にやつてしまった。・・・彼が死ぬと、この厄介な遺産は弟に一文の利益さえももたらさなかった。その買手を見いだせないばかりか、一部を出品させる画廊すらなかった。・・・兄の死から6ヶ月後、弟テオドルもまたこの世を去ってしまう。(テオドルは弟テオのこと、フランス語でのよび方)

○「微光のなかの宇宙」 私の美術館 司馬遼太郎 中公文庫 1991年
「ゴッホは世間に調和もしくは適合しない自分に絶望したときに、「絵描いていきてゆくしか仕方がない」と思った・・彼はテオにおいて自分の内面を語れる相手を見出した。語り、かつ手紙を書いた。精力的に書いた。ゴッホのテオへの手紙がすぐれた文学であることに反対のひとはすくないと思うが、その手紙はすべて自分自身について書かれた。・・ゴッホは鏡に自分の姿を映して40数枚の自画像を残したように、弟のテオという唯一の読み手を設定することによって自分が今何を欲し、何を人生においてなすべきかということに気づいたのである。・・・1890年7月27日の午後、かれは丘へ登っていった。この日、めずらしくカンヴァスをもっていなかったから、かれにとって覚悟がきまっていたにちがいない。かれは自分が描いた麦畑を前にして腰をおろし、ピストルを取り出した。37歳である。かれが画家になるべく決心したのが27歳であつたから、われわれ人類にあたらしい色彩世界を教えてくれたこの画家の活動期はわずか10年にすぎなかった。かれは生前、弟のテオをもふくめて身辺の者にすら評価されなかったが、その死の翌年にひらかれた回顧展においてかれに対する世間の注目がはじまり、ひきつづき1900年の回顧展でその美術史上の位置が不動のものになった。」

○「オランダ紀行」司馬遼太郎 街道をゆく 35 朝日文庫 1994年
「私どもは、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)への旅に出る。すこし気どっていえば、才能を抱かされてしまった者への悲しみの旅といっていい。芸術家にとって最大の侮辱は、-君には才能がない。-ということだが、普通の生涯を送ろうとする者の場合、才能とはおよそ荷厄介なものである。善良な父が、あどけない嬰児に才能をもとめるだろうか。才能のために、窮乏、あるいは数奇な生涯を送ることをのぞむかどうか。常人である何人も、ゴッホの生涯を真似たいとはおもわないはずである。自殺によって閉じた生涯は37年にすぎず、その間、弟に養われ、収入もなく、絵についてなんの評価もされず、無名のまま生き、隣人や友人から厄介がられたり、疎まれたりした。「あの者に近づくな」とカトリツクの神父が村人に警告したりした。・・かれは、自殺を讃美したことは一度もない。が耳切り事件の2年後、麦畑のなかでピストルを発射してしまった。古ぼけた連発式ピストルで、自分の左脇にあてて撃ち、そのまま宿に帰って、ベッドに寝た。パリから、かれの終生の保護者だった弟のテオがかけつけたとき、ゴッホは冷静にいった。「泣かないでくれ。みんなのためによかれと思ってこうしたのだ」(アルバ-ト・J・ル-ビン、高儀進訳「ゴッホ/この世の旅人」講談社」やがて、テオの腕のなかで死んだ。・・ゴッホの絵は、楽しさとはべつのもののようである。といつて、思わせぶりな陰鬱さはない。明暗とか躁鬱とかいった衣装で測れるものではなく、はね橋を描いても、自画像を描いても、ひまわりを描いても、ついにじみ出てしまう人間の根元的な感情がある。それは「悲しみ」というほか、言いあらわしようがない。・・人として生まれてきたことについての基本的なものである。厭世主義や悲観論的なものではなく、いつそ聖書的といったほうがよく、そのためかれの悲しみは、ほのかに荘厳さをもち、かがやかしくさえある。
ゴッホは、正規の教育をさほどにはうけなかった。土地の小学校に入学したものの、父の意志で数年で退学した。牧師館の子らしく他の町の寄宿学校に転校したのである。しかし、経費が高すぎたのか、そこにいたのは1年半ほどで、15歳のとき退学したのである。日本ふうにいえば、中学中退ということになる。学校の成績がよかったという話は伝わっていない。ゴッホ自身、学校ではなにも学ばなかった、とさえいっている。エジソンを教えられる教師がいなかったように、ゴッホの場合もそうだったろう。かれの卓越した知性をつくりあげたのは、母ゆずりの知的なものへの関心と、おどろくべき読書好きの性格だった。・・・画家になろうと決意し実行するのは、信じがたいほどのことだが、27歳になってからである。ベルギ-にゆき、王立美術学校に入ったが、ここでもかれの熱狂的な絵画への志向のわりには、学校からは理解されず、絵画上のばかあつかいされ、1ヶ月で落第させられた。信じられるだろうか、不滅の天才が、13歳か15歳の初心者のクラスにおとされたのである。かれは早々に去った。だから、ゴツホは美術学校出でさえない。それどころか、弟テオをのぞくほか、世のすべてから疎外されたひとだった。・・・いま、私どもはゴツホの書簡集や伝記を、図書館その他で簡単に手に入れることができる。それらはすべてゴツホの義妹(テオの未亡人)ヨハンナのおかげといつていい。彼女は書簡を整理して後世に残しただけでなく、ゴッホについての小伝を書いたのである。彼女の書いた小伝は情愛と客観性に富み、すべてのその後の伝記の原資料になっている。いうならば、ゴッホの生前、この画家をはげまし、生活費を送り続けた弟テオがいなかったら、画家フィンセント・ファン・ゴッホはこの世に存在せず、ヨハンナの労がなければ、後世のゴッホ像はいまの半分もなかつたろう。さらには、彼女とテオのあいだに生まれたフィンセント・W・ファン・ゴッホ博士が、両親の無償の心の"事業"のあと、資料保存に全生涯をついやさなかったら、後世におけるゴッホ像がいまのようであったかどうか。・・現世において短命で、めぐまれなかったが、死語において華やいだのである。・・・・」-司馬遼太郎

「馬鈴薯を食う人々」 1885年  

○「ゴッホの手紙」小林秀雄  ゴッホの手紙 上・中・下 
彼(ゴッホ)は、近代画家のうちでとは言わず、画家史上、最も画家らしくない画家であったと言える。彼の自殺に了った孤独な短い生涯は、苦痛、不安、懐疑の連続であった。なるほど、近代画家達に不安や懐疑は、附き物のようであるが、ゴッホはその中でも極端な異例を示す。彼にあって懐疑はただ信じられない悩みではなかった。否定的なものと肯定的なものとの激突であった。彼は、この激突に焼かれ、遂に身を滅ぼすに至った。彼の生涯は、不安なというより、強迫された生涯であった。・・・如何に生くへきかの問いが現れた人生の旅立ちから、ゴッホは嵐の中にあった。このひとかけらの空想も許さなかった現実派を、絶対探求者と呼ぶのが当を得ないなら、或る絶対的なものが、彼の肉体を無理にも通過しようとする苦痛を驚くほどの誠実で経験し通した人といって言いだろう。ゴッホが画家を志して勉強を始めたのは、27歳の時であった。自殺したのは37歳だから、彼の画家生活は10年に過ぎぬ。 -小林秀雄


○「ゴッホの手紙」小林秀雄
ゴッホとの2年間パリでの共同生活について-妹へのテオの手紙の一節 
「僕の家庭生活は殆ど耐え難いものだ。もう誰も僕を訪ねて来る者はない。ここへ来ればおしまいには喧嘩になると決まっているからだ。喧嘩だけではない。ヴィンセントはだらしがないから、客を通そうにも部屋がもう目も当てられない有様なのだ。何処かへ行って、独りで生活して貰いたいと思う、彼自身も時々そう思う。ところがだ、若し僕の方から彼に出て行って欲しいと言うとする、するとそれがまさに彼には出て行かない理由になるのだ、つまり僕は彼に対して無能だということになるらしい。僕が彼に望むところはたった一つだ、此処に居る以上は、僕をそっとしといてくれ、それだけだ、僕はもうどうやら我慢がならない。・・・彼の中にはまるで二人の人間が棲んでいる様だ、驚くほど才能のある優しい、精緻な心を持った人間と利己的な頑固な人間と。二人は変わる変わる顔を見せる、一人の話を聞くと次にもう一人の話を聞かねばならぬ、二人はいつも喧嘩している。彼は彼自身の敵なのだ、気の毒な事だ。他人の故ばかりではなく、自分自身の故に、生活が辛いものとなつているのた」弟は兄の天才を信じていた。そしてそれは「彼は彼自身の敵である」事を理解することであった。これは気の毒な事だ、と兄は考えた筈である。相互の深い認識が、二人を苦しめた。或る日、商会から還って来ると、弟は兄の仕事場が、何時になく整然と片付けられているのを見た。兄はもうパリにいなかった。ゴッホが、パリからアルルに着いたのは1888年2月であった。アルルは、まだ雪であったが、南国の春は非常な速力で近付いていた。・・・-小林秀雄

○「ゴッホの手紙」小林秀雄
「ゴ-ギャンがアルルに着いたのは1888年の10月20日である。」ゴ-ギャンの手記-1903年、マルキ-ズ群島において。
-死の直前に記した断片的なノ-ト、回想録-から
「アルルとその附近の粗野や風致をはっきり掴むのに、私は数週間の滞在を要した。何物も断乎たる仕事を妨げるものはなかった。ヴァンサン(ゴッホの姓名のフランス語読み)の方は殊にそうであった。彼と私という二人の人間の間には、一人は噴火山だったし、一人は見かけは兎も角、内心は熱湯だったし、何かしら争闘めいたものが準備されていた。私は、最初、至る処、何から何まで無秩序なのに驚いた-チュ-ブはみんな押し出されたままで、栓もせず、絵具箱のなかで、ごった返って、蓋も出来ない有様だが、このぬかるみにも係わらず、彼の画面全体は緋色に輝いていた。彼の言葉も輝いていた。ド-デとゴンク-ルとバイブルとが、このオランダ人の頭脳を焼いていた。アルルでは、波止場も橋も舟も、南仏全体が、彼には、オランダになったのだ。・・この無秩序な頭脳の裡にに、当人の批判の合理的理由を見定めようと、私は出来るだけ努めてみたが、彼の絵と彼の意見との間にある全くの矛盾を解く事が出来なかった。・・最初の月から、私等共同の財政は、どうやら同じ無秩序状態に落ち入った。-ゴ-ギャン

ゴ-ギャンからテオへの手紙-二人の共同生活が2ヶ月ほど続いた頃。
「結局、私はパリに還らねばなりますまい。ヴァンサンと私とでは、簡単に言って、平和には暮らせません。気質がまるで違うからです。私にも彼にも、仕事のための穏やかな時間が要ります。彼は非常に聡明な人だ、私は彼を尊敬しているし、別れるのは辛いと思っているが、別れる事は必要なのです。貴方の私に対するお心尽くしには感謝しています。私の決心をお許し下さい」-ゴ-ギャン
ゴッホからテオへの手紙
「二人の議論は恐ろしい電気の様だ。時とすると、まるで放電を終わった蓄電池の様にへたばった頭を抱えて、二人は議論から出てくる。・・・本当のところを言えば、彼にしても僕にしても、ここの生活で、何かと拘束されていることが、いろいろな面倒を起こすもとなのだ。併し、面倒の原因は、外部にあるというよりも、寧ろ僕自身の裡にある。結局のところ、彼は断乎として出て行くか、断乎として止まるか、どちらかになるだろうと思う。ゴ-ギャンは精力に充ちているし、強い創造力を持っている。だからこそ穏やかな時間が彼には必要なのだよ。・・・」-ゴッホ

ゴ-ギャンの手記
「アルル滞在の終わり頃になると、ゴッホはひどく粗暴になり、騒がしくなり、かと思うと急に黙り込んで了うという風になった。こんな事は一と晩だけではなかったが、夜中にゴッホが眼を覚まし、私の寝台に近寄って来るのに気づいてハッとした。どうしてそういう時、私も眼を覚ますのか解らない。「ヴァンサン、どうしたと言うのだ」。落ち着いて静かにそう言ってやると、いつも彼は黙って寝台に戻り、ぐっすり寝込んで了う。
-ゴ-ギャン


○「コロ-展」-光と追憶の変奏曲 2008年6月14日-8月31日  国立西洋美術館 
「<真珠の女> コロ-はこの絵に強い愛着を持っていて、決して売らなかったが、晩年にはいく度か、知り合いの芸術家たちやこれを模写させたがった画商たちに貸し与えたという。この人物画のための若いモデルは、生地商人の娘で名をベルト・ゴルトシュミットといった。
カミ-ユ・コロ-(1796-1875)は、19世紀に活躍したフランスの画家。詩情あふれる風景画、人物画で世界的に知られる。本展覧会はル-ブル美術館の全面的な協力で初期から晩年までの作品を通してコロ-芸術の全貌を紹介した。コロ-の作品はル-ブル美術館に90点展示されている。最高傑作といわれるのは<青い服の夫人>・<真珠の女>。19世紀の風景画を代表し印象派の先駆者ともいわれる。」コロ-展図版から

<鎌を手にする収穫の女、あるいは鎌を持つ女> 1838年

<青い服の婦人> 1874年 1900年のパリの万国博覧会で初めて公開されセンセ-ションを巻き起こす。コロ-78歳の作品。モデルはエマ・ドビニ-といいコロ-のモデルを5年来務めていたという。人物画としてのコロ-の絶頂であり最も重要な作品である。-図版から

<緑の岸辺> 1865年 

<本を読む花冠の女、あるいはウェルギリウスのミュ-ズ> 1845年

○西岡文彦 1952- 「恋愛美術館」2011年5月25日初版第1刷 朝日出版社発行
「美とは、なにものかがなにものかを恋い求める際に、激しくかきたてられる感情を意味している。であるからこそ、恋うること、恋われることを求める人の心は、そのまま美を求める心へと連なることになるのである。本書は、そうした美の結晶した絵画彫刻の恋愛にまつわる物語を集めたものである。」-西岡文彦
目次
モディリアーニ 悲恋の記念碑/ピカソ 性の修羅 愛の地獄/ジェロ-ム 芸術、それは美神との恋/ドガ 夜明けのカフェ 不幸の居心地
ダンテとベアトリ-チェ 忘れ得ぬ女/マネとモネ 妻の面影 日傘の恋/ルノワ-ル 芸術と青春の聖地/ムンク 吸血鬼 暗黒の恋
カミ-ユ・クロ-デル 狂恋の門/モンマルトルの夜会/モンパルナスの娘 愛の墓碑銘

-モディリアーニ 
「生前のモディリアーニの個展は一度のみ。死のの二年前、数少ない彼の理解者のひとりで新進画商のズボロフスキ-の尽力で開催にこぎつけるが・・・最初で最後の個展は、成功にはほど遠かった。・・・モディリアーニの画風に、同時代人の視線は冷淡そのものであった。個展の翌々年、持病であった結核を制作からくる過労と飲酒と麻薬で悪化させ、画家は35歳で還らぬ人となってしまう。死の直前モディリアーニの部屋を友人が訪ねると、凍りつくような寒さのなか、酒瓶とオイル・サ-ディンの缶が散らかる病床に、身重の妻が寄り添っていたという。21歳、二人目のモディリアーニ子を身ごもったジャンヌであった。部屋代も滞っていたのだろう。モディリアーニの死後、家主は彼の作品をマットレスを修繕する布地に使ってしまった。・・・病院で夫の亡骸と最後の対面をするジャンヌに立ち会った旧友は、彼女は夫の記憶のみにすがり、それ以外の一切を見まいとしているかのようであったと書き残している。おそらくジャンヌにとって世界は、夫を失った時点で見るに耐えないものへと変貌してしまったに違いない。再三にわたって自殺を試みた彼女は、夫の死の翌々日の夜明けを待たず、その思いをとげてしまう。・・・モディリアーニをめぐる伝説のひとつは、死の床で彼がジャンヌに「天国で僕のモデルになつてくれ」と頼んだと伝えている。・・・」-西岡文彦

-モネ
「モネが日傘のカミ-ユを描いた作品が残されている。モネとカミ-ユが出会ったのは、ルノワ-ルと画風を模索していた頃。二十代なかばのモネと十代終わりのカミ-ユは意気投合して一緒に暮らし始める。結婚したのは、サロンで評価を得られないままモネが三十歳を迎えた年。すでに三年前、貧窮のなかでカミ-ユは長男ジャンを出産していた。ようやくモネを支援する画商やパトロンが出てきたのが、この結婚の少し後からだったが、長く続いた貧窮は確実にカミ-ユの体を蝕んでいた。白いドレスの彼女を見上げる画面は・・・ベ-ルが薫風でカミ-ユの顔にたわむれている。かたわらに立つ息子ジャンの正面向きのポ-ズが、斜めに向いたカミ-ユの美しさを強調している。・・幸福に満ち満ちて映る画面ながら、この夏、彼女は病に倒れて四年後に夫の栄光を見ることもなく世を去っている。18歳でモネと出会い32歳で亡くなるまで、画家の不遇を分かち合った14年間の労苦が報われることはなかった・・」-西岡文彦 
モネ「散歩、日傘をさす女性」 1875年

「ボヘミアの女」 ルノワ-ル

-ルノワ-ル
「恋のさなかにあった28歳のルノワ-ルが、彼女をモデルに描いてサロンに出品した作品は、<ボヘミアの女>と名付けられている。18歳でルノワ-ルと恋におちたリ-ズが、建築家ジョルジュ・ブリエ-ルと結婚するのは24歳の時。小説やオペラの中では真実の愛を勝ち取るボヘミアンだったが、無名のルノワ-ルが恋したボヘミアンの女神は貧しい芸術家のもとを立ち去り、以後、二度と彼に会おうとはしなかった。ボヘミアの女リ-ズが去った時、おそらくルノワ-ルの青春もまたひとつの終わりを迎えたのであろう。しきりにモネの家を訪ねては若妻カミ-ユを描いたいた当時、カミ-ユの姿に、自身がリ-ズと共にすることのできなかった幸福を見出していたのかもしれない。ルノワ-ルが、生涯の伴侶となるアリ-ヌ・シャリゴと出会ったのは、リ-ズが去って8年後のこと。じき40歳になろうとしていた。明朗快活を絵に描いたような女性であったという彼女との間に、5年後、長男ピエ-ルが誕生、その5年後に二人は正式に結婚している。以降、25年の結婚生活を共にするが、アリ-ヌは持病の糖尿病と息子を第一次世界大戦に送った心痛から50代なかばでなくなってしまう。残されたルノワ-ルは70代なかば。その少し前から、リュ-マチで麻痺した手に筆を縛り付けて車椅子で制作するようになっていた。・・・晩年のルノワ-ルに会った人は皆、彼の手の惨状に茫然としたという。」-西岡文彦