本紀行Ⅶ

美術関係の書籍-展覧会の図版、単行本。<個人蔵>  書籍の解説は写真の後に記述します。

○「一枚の絵から」 高畑勲 2009.11.27 岩波書店
高畑勲(1935-2018) 82歳没 アニメ-ション映画監督・東京大学文学部仏文科卒・1985年宮崎駿らとスタジオジブリ設立。「アルプスの少女ハイジ」・「赤毛のアン」・映画「セロ弾くきのゴ-シュ」・「火垂るの墓」・「おもいでぽろぽろ」・「平成狸合戦ぽんぽこ」(監督、演出作品)。
「風の谷のナウシカ」・「天空の城ラピュタ」(プロデュ-ス作品)
「美術が好き・・・長年アニメ-ション映画制作に従事してきたとはいえ、私はただの素人。好きな絵を好きなように楽しんできただけ・・・」
スタジォジブリの月刊誌に2003.1-2008.6まで5年以上61回連載した内容を本にした。「私たち映画人から見れば依然絵画は大芸術・・西洋画では作家性が重んじられ、作者の人生や思想を投影して絵を見なければという傾向・・・まずは気楽に好きな絵を自己流に楽しんでもいいのではないか」

○「興福寺国宝展」-鎌倉復興期のみほとけ 東京芸術大学 大学美術館 2004年9月18日~11月3日 表紙は国宝「無著像」
興福寺は古都奈良を代表する大寺。7世紀後半に中臣鎌足(藤原鎌足)の病気平癒を祈願して建立した山背国山階寺に起源をもつ。710年の平城京遷都に際して現在地に移される。本展では肖像彫刻の最高傑作といわれる運慶制作の無著ムジャク・世親セシン両菩薩像をはじめとする鎌倉期の彫像、曼荼羅、絵画、など興福寺に伝わる宝物に加えて各地の寺社、博物館などが所蔵するゆかりの宝物を展示する。本展覧会では何と言っても「無著」「世親」の両菩薩立像で圧倒的な存在感を示していた。ともに運慶作である。

○「運慶展」-興福寺中金堂再建記念特別展 東京国立博物館 2017年9月26日~11月26日 
運慶(生年不詳-1223年)は、平安時代から鎌倉時代へと移り変わる激動の時代に写実的で力強い仏像を数多く生み出した仏師。本展覧会は運慶が20代半ば頃に造ったとみられる安元二年(1176)の円成寺大日如来坐像から、晩年の建保4年(1216)の作である光明院大威徳明王坐像まで運慶作の仏像を一堂に集めた。大日如来坐像は申すに及ばず、他の諸仏にも深い感動を覚えた。毘沙門天立像 八大童子立像、四天王立像などなど・・・。この展覧会では13年ぶりに「無著・世親」の両菩薩像にも再会できた。個人的なことだが、奈良興福寺には何度も行っているが、無著、世親がおられる北円堂は、限られた時期にしかその内部を見ることが出来ず残念な思いがしていた。-鈴木

○「東山魁夷展」-生誕100年 東京国立近代美術館 2008年3月29日~5月18日
1908年(明治41年)、横浜市に生まれる。 
「東山の一生の多くは旅を重ねることに費やされる。ただ自然の美しさを見ようとしただけではない。ひたすら風景と対話する中で東山が求めたものは、たんなる外見的の美しさではなく、眼前の風景の奥に潜む自然の営み、その逞しさであった。・・互いに移ろい変化していく自然と自己の一瞬の出会いと合一は、一期一会の世界にも似ている。東山の旅とはその瞬間を捉えるためのものであり、画業はその記憶を画面に刻み続けることであった。怒り、悲しみ、喜び、安堵といった個々の感情は旅を続け風景との密やかな会話を交わす過程で具体性が取り払われ抽象化されていく。・・・東山の作品はいずれも長い遍歴の旅と徹底した自然観照から生まれた心象風景であり、自身の内面の表白、心の奥底に潜む想いを見る者に伝える。豊かな叙情性や深い精神性が多くの人を惹きつけて止まない。」-尾崎正明(東京国立近代美術館、本展企画者)

○「風景との対話」 東山魁夷著 新潮選書 昭和42年5月15日 発行
「絵になる場所を探すという気持ちを棄てて、ただ無心に眺めていると、相手の自然のほうから私に描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出合う。その、何でも無い一情景が私の心を捉え、私の足をとめさせ、私のスケッチブックを開かせる。」-東山魁夷

「美しくさはやかな本である。読んでゐて、自然の啓示、人間の浄福が、清流のやうに胸を通る。これは東山魁夷という一風景画家の半生の回想、心の遍歴、作品の自解であるが、それを通して美を求める精神をたどり、美の本源をあかそうとするこころみは、清明に温和にそして緊密に果たされてゐる。散文詩のやうな文章が音楽を奏でてゐる。旅を人生とも芸術ともし、流転無常を人間の運命とも観じながら、そして孤独憂愁もうちにひめながら、万物肯定の意志を貫き、自然に新鮮な感動を常とし、謙虚誠実の愛情に生きる風景画家、東山氏の本質は、この書にも、私たちに親しい調べで高鳴ってゐる。すぐれた美の本である。」-川端康成

「いままで、なんと多くの旅をして来たことだろう。そして、これからも、ずっと続けることだろう。旅とは私にとって何を意味するのか、自然の中に孤独な自己を置くことによって、解放され純化され活発になった精神で、自然の変化の中にあらわれる生のあかしを見たいというのか。
いったい生きるということは何だろうか。この世の中に、ある時やってきた私は、やがて何処かへ行ってしまう。常住の世、常住の地、常住の家なんて在るはずがない。流転、無常こそ生のあかしであると私は見た。私は私の意志で生まれてきたわけではなく、また死ぬということも私の意志ではないだろう。」-以上、東山魁夷「風景との対話」 第1章 風景開眼から

「山並みは幾重もの襞を見せて遙か遠くへと続いていた。冬枯れの山肌は沈鬱な茶褐色の、それ自体は捉え難い色であるが折からの夕陽に彩られて、明るい部分は淡紅色に、影は青紫色にと、明細の微妙な諧調を織りまぜて静かに深く息づいていた。その上には雲一つない夕空が、地表に近づくにつれて淡い明るを溶かし込み、無限の広がりを見せていた。・・・佐貫駅からの三時間の鹿野山までの道のり・・・昭和21年の冬のことであった。山上の寺の宿坊に泊めてもらう以外には泊まる場所もない。」-以上、東山魁夷「風景との対話」第2章 冬の山上にてから。この旅から「残照」が生まれ第3回日展での特選、政府買い上げとなる。

「人生にはいくたびか波が打ち寄せてくると云われる。たしかに戦争の時は荒波が私達の頭上に襲いかかり、その激動の中で誰しもが辛うじて生きて来た。・・・人間がいきているということは波の中に漂っているようなものかもしれない。大きな波、小さい波が、始終打ち寄せる中に。」
以上「風景との対話」第5章 波から。

「静かな海面を滑るように船は進んで行った。島々は緑の樹木に蔽われ、急な斜面を段々畑が海ぎわから山の上まで続いていた。小さな村の家々がまるで自然の中に溶け込むように点在している。「群青と緑青の風景だ」と私は思った。昭和10年の秋のこと・・・2年間の欧州滞在を終え、1ヶ月の航海の後に瀬戸内海にさしかかると、この、いかにも日本的な風景をもの珍しく感じるのだった。」 第6章 東と西から

○「わが遍歴の山河」 東山魁夷 昭和32年5月20日 新潮社発行
欧州の旅 その一
「昭和8年8月、私は日本を離れて欧州へ向かいました。船が五島列島を右に見て、これで本州との別れという時、私の胸にはなんともいえない爽快な感じが浮かびました。とうとう飛び出して来たという実感、何だか息をすることが苦しくなっていた小さな甕の中から、廣い天地へ逃げ出してきた開放感をしみじみ味合いました。この喜びは、乏しい私の生活の中で、この1年に外遊の費用を作り出した努力の思い出にもよるものであり、未知の世界への好奇、長途の旅行に対する冒険心等の集まったものですが、何よりも自分一人になり得た喜びが大きかったのです。
 日本画家としても将来自分の進路を判断する上に、日本画でない芸術を見ておく必要がある。・・独逸を選んだのは、西洋を研究するのに都合のよい設備が整っているからであり、日本人の画家がいないことだけでも静かで有り難い。フランスはエレガントで、イタリ-は明るいが、ドイツの持つあの暗さ、荘重なものに私は牽かれる。
こんなことを日記に書いていますが、これは凡て表向きの感心な理由で、実際はどうしても逃げ出したい理由もあったのです。それは私自身どうにもならない気持ちになっていて、この状態を何か突き破らなければまいってしまう處へ落ち込んでいたのです。・・・美校を卒業して欧州へ行くまでの2年間引き続き研究科に在学しました。・・・美校時代の半ば頃から私の家は、兄の死や父の商売の不振等でかなり憂鬱な時期が続き、又私自身もまだろくに絵も描けないのに、絵を描くことに疑問を持つようになりました。入学以来傍目もふらずに進んできたのですが、ふと、その非人間的な在り方に反感を感じてきました。・・絵の基礎になる修業は生易しいものではなかったからです。・・・その時分、純粋に画家であるよりも、もっと他のもの、いわば人間であったからです。画家であると云うことは、人間以外のものであることを必要とする峻烈なものです。・・・絵のことよりも人を愛することに価値を考えても、結局それに一途になり得ず、そうかといって絵の方にも情熱を感じないというどっちつかずの苦しい状態でした。然し徒弟の遍歴には道草もつきものでしょう。その後欧州へ出かけたことも大きな迂路でしょうが、今から見ればそれらの凡てが私にとっては必要な道程であったとも思えるのです。」

父と母、少年時代-
楽天家で殆ど感情だけで生活している父と、悲しみを理性で抑えているような母、この極端に異質の二人の間には、相当深刻な問題があって、まだ小学校に入ったばかりの頃から、私は人間の間にある愛憎とその業とも云うべきものの姿を見てきた。中学生の頃には人を愛することの喜びと苦しきをはげしく味合う人間になっていた。・・・情熱に惑溺する傾向と、それを引き留めている理性との危いバランスが時々破れると、気が変になりそうな苦しみに襲われる。そんな時、いつも慰めてくれたのは神戸をめぐる自然であり、救いとなったのは、絵に対する精進の道を選んだからのことであったと思います。 -追憶の海から

肉親との別れ- 
「結婚生活がはじまりました。・・どうにか落ち着いて仕事に打ち込めると意気込んだのですがそれも束の間で、運命はなかなか私に微笑んではくれなかったのです。弟が学校を終えて就職したのはよかったのですが、間もなく結核になり、近江八幡の療養所へ入院、又、神戸の母が新婚の家庭を手伝ってくれるつもりで上京した翌日から脳溢血で倒れ、寝たきりになつてしまいました。神戸の父は従妹が身の回りの世話をしてくれたのですが、借財の上に二人の病人で全く困ってしまいました。・・・日本が一歩々々戦争へと近づいた時代です。・・・父は心臓喘息で急になくなりました。(1942年)-死ぬ1日、2日前まではまだ元気に頭から水なんかかぶっていたそうです。暑い夏でした。危篤の電報を受け取っても、こちらにいる母の病気が病気だけに連れてゆくことも出来ません。・・夜おそく神戸へ着くと父はまだ息を引き取ってはいなくて、うつろな眼にぜいぜいした息をしていました。その手を握りしめると熱い手でした。顔を寄せて、母のことや弟のことは心配するなというと、わかったのかわからなかったのか、一寸、表情に反応があったようでしたが、2.3分後に息を引き取りました。・・・東京へ帰って、母になんと知らせてよいものか・・・奥へ入っていくと、母は床の上に坐って本でも見ている様子です。私はこみあげてきそうになるのを辛うじておさえながら、出来るだけ優しく「お母さん。」とよびました。母は気が付いて「あ、お父さんどうだったの。」と案外に平静に云うのです。私はなるべく静かに、父の話をしました。あの時母が心配していたほど取り乱さなかったのは、私の気持ちを察してこらえていたものでしょう。神戸の家が無くなった以上、弟を近江の病院に入れておくわけにはゆかないので、中野の療養所に移しました。
(1945年)-召集解除になって、私は高山に向かいましたが、途中千里に降り、弟を病院に訪れますと、母と妻は甲府の川崎の疎開先へ移ったことを知りました。甲府盆地を廻る山々は澄み切った空にはっきりと山襞を見せていました。桑畑の間の道、清らかな細流、その向こうに懐かしい家の屋根。皆手を振ってこちらを見ています。母も縁側の柱につかまって手を上げている様子です。・・こうして家族が久しぶりに一緒になることが出来ました。・・・こんな一家の団欒は間もなく母の容態の変化によって沈痛なものになっていきました。母が次第に衰弱してゆくのに気付きました。老医師ははっきりと母がもう助からないことを告げました。聞いた後で居ても立ってもいられない愛着と侮恨の衝動にかられました。それから母の死までの2週間ぐらい、妻も私も必死になって看病しました・・母は意識ははっきりしていて、私達が夜遅く看護していると風邪をひかぬように、早く寝るようにとよく云いました。・・弟に電報を打ちました。弟は富山から無理な旅をしてきたと見えて、蒼い顔をしていました。私は弟にかいつまんで母の態を話すと、弟は「もう間に合わないかと思っていた。間に合ってよかった」・・・弟自身も容態が相当悪いことを私に話しました。・・・「泰ちゃんが来たよ」と母に云うと、眼の上に始終当てていた手拭いをとらせて、一寸弟の顔を見ただけで、又、すぐ布をかけさせてしまいました。もうあまり口をきくこともなくなっていたのです。唯、一筋の涙が目尻から皺をつたって耳の方へ流れているだけでした。弟はすっかり覚悟をしてきたのか、少しも取り乱したところがないので私は救われた気持ちでした。母の枕許に顔をすりよせて、母の手をさすっている姿は、むしろ幸福に浸っている人のように見えるのでした。母も又、幸福であったかもしれません。・・弟は2泊して帰って行きました。どんな断ちがたい想いで弟は帰っていったのかと、私はその姿をいつまでも見送りました。その夜から母は全く昏睡状態となり・・臨終の表情になりました。
(1946年)-富山の療養所で弟の顔を見る・・喉頭結核がひどくなつていて、手のほどこしようがなくなつていました。・・枕下の小さな物入れのふたの内側に死んだ父と兄の戒名を書いた紙片が貼ってあり・・弟はその紙に母の戒名も書き添えてくれと頼むので書き込みました。持って行った紙にいろんな絵を描いて弟の寝ているところから見える壁にピンで止めてやると、マリアの像も描いてくれという。どうにか聖母に見える絵も描いた。「花園のようだ」と弟はしげしげと見ていました。環境の淋しさや病気の苦しみを一言も訴えない弟によくここまで人間が出来てきたと感心した・・それから1週間経たぬうちに弟は死にました。弟の死後、粗末な紙に書きつづられていた手記を私は涙を流しながら読み返して、そのすべてが感謝と諦念に貫かれているのを深い感動を持って知りました。母の骨を納めたばかりの墓に弟のを納め、これで私の喜びを一番親身にになって喜び、私の悲しみを最も深く悲しんでくれる肉親が一人もいなくなったことを思いました。

○「唐招提寺への道」 東山魁夷 新潮選書 昭和50年4月25日発行 新潮社
「画家が残した手記は、世の中に沢山ある。が、一つの作品が造り上げるまでに、どれ程多くのものを見、多くのことを感じたか、心の襞の奥底まで立ち入らせてくれる場合は少ない。・・「唐招提寺への道」という何気ない題に、読者はだまされてはいけない。その道は、鑑真和上が辿った厳しい道程であり、和上を祀る開山堂の壁を飾るために、筆者が自らに課した画道への精進と、遍歴の記録でもある。私達は筆者に導かれて、大和の山野に遊び、北国の雪景色に、身の引き締まるのを覚える。・・・長い旅路の終わりに、私達はアトリエの密室に案内される。そこにはすでに障壁画の下絵がいくつも出来上がっており、私達は胸をわくわくさせて完成の日を待つばかりだ。 -白州正子

「唐招提寺への道」は、私にとって遙かな道である。私の旅が心の旅路であるからには、唐招提寺も、奈良、大和も、共に象徴の世界である。これは、心の遍歴を常とする一人の画家の、旅と探求の記録でもあり、祈りと願望の記述でもある。生涯のこの時期に、ここに歩み寄り、ここを巡ることは、私にとって必然の道程であったと思わないではいられない。-東山魁夷

障壁画作成の準備で東山魁夷氏が巡った場所<「唐招提寺への道」から抜粋> 鈴木

(海の旅) 青森浅虫-竜飛崎-岩手守男か-宮古-浄土ヶ浜-北山崎-田老山王岩-船越-秋田男鹿半島-入道崎-山形温海-青森十和田湖-田沢湖-石川能登-千里が浜-能登金剛-福浦-富来-輪島-曽々木-仁江-越前海岸-京都奥丹後-宮津-与謝海-伊根村-丹後松島-犬岬-間人-城崎-但馬海岸-香住-余部-浜坂-浦留-湯村温泉-浜坂海岸-七坂峠-網代港-浦留-網代-岩井温泉-蒜山高原-白兎海岸-倉吉-関金-鳥取戸倉峠-益田-戸田小浜-青海島-仙崎-小郡-瀬戸内海-下津井港-櫃石島-塩飽諸島-鞆の浦-宮島-大三島-高知足摺岬-室戸岬-手結-九州福岡-唐津-伊万里-有田-佐世保-弓張岳-九十九島-柳川-熊本-天草-大江天主堂-崎津天主堂-下田
(山の旅)黑部-宇奈月-黒薙-猫又-鐘釣-猿飛-欅平-黑部渓谷-名剣温泉-立山-称名の滝-美女平-撫平-弥陀ヶ原-室堂-滝見台-大観峯-
黑部平-飛騨高山-平湯-平湯大滝-安房峠-上高地-田代池-高山-白川街道-小鳥峠-松ノ木峠-御母衣ダム-白川郷-天生峠-・・・

海と山の旅は、1月から8月へかけて行ったものであり、青森県浅虫の駅へ雪の降りしきる中を降り立ってから、瞬く間に日々は過ぎ去っていった。スケッチの数々を眺めて、私は漸く準備の旅が終わったのを感じた。私がこれらの旅で特に嬉しく思ったのは、私を感動させてくれる自然が、まだ日本の中に残っているということであり、同時にそれは、自然に対して新たな感動を感じる心が、私の中に在るという証左でもあった。

第5章-障壁画への歩み
「昭和45年の暮れ、唐招提寺御影堂の揮毫希望の話があった。この突然の話は強い啓示のように心に響く・・・しかしこれはたいへん困難な仕事で承諾の返事迄かなり長い時をかけた。天平の遺構である雄大な建築群、素晴らしい仏像の数々を持つ由緒深いみ寺・・ことに日本の肖像彫刻の最古最高の傑作「鑑真和上像」を安置する厨子の内扉と、その御影堂の障壁画と云うことになると、先ず自分の非力を恐れる気持ちが強かった。・・鑑真和上や唐招提寺についての知識も乏しく・・承諾の返事をお伝えするのに5ヶ月以上かかったわけである・・・。昭和46年6月6日、御影堂のお厨子の扉が開かれる日、私は唐招提寺を訪れた。・・もし一切を任せて下さるなら、この仕事はお引き受けすべきであると、私はようやく心に決めた。自信のない私にこのような勇気を与えてくれたのは、鑑真和上の強い精神力への讃仰の心からであり・・・全力を挙げて着実に進めて行けば成就するであろう。・・大仕事はこれが最後に感じたからである。昭和47年7月10日、承諾の返事。昭和47年から50年の春(3年半)の計画。47年は鑑真和上、唐招提寺の研究、奈良、大和路の自然と歴史、文化の探求、風物の写生。48年は準備の写生と下図。49年-50年は本制作の計画。・・・・


○「信州讃歌」1995年10月10日 画・文 東山魁夷 初版 長野県信濃美術館・東山魁夷館 編
編者あとがき-より・東山魁夷画伯と信州
 信州は長野市、古刹善光寺を間近に仰ぐ長野県信濃美術館に併設して「東山魁夷館」が建てられたのは、1990年(平成2)のことであった。横浜に生まれ神戸に育ち、戦後は一貫して市川に居をかまえた画伯の経歴を知る人は、その名を冠した美術館がなぜ長野に建設せられたのかと意外に思われるかも知れない。東山画伯が初めて信州を訪れたのは、東京美術学校に入学した1926年(大正15)のことであった。天幕を背負って木曽山中に分け入った画伯は「初めて接した山国の自然の厳しさに強い感動を受けると共に、そこに住む素朴な人々の心の温かさに触れる事が出来た」と、この体験が自らにもたらした影響の大きさを告白している。以後、画伯は信州の自然に多く題材を求めるようになり・・・かかる縁をもって「私の作品を育ててくれた故郷ともいえる長野県」に自作を寄贈し、東山魁夷館が設立せられるに至ったのである。・・・思えば信州を描いた作品もまた、学生時代60有余年にわたって営々と築かれてきた一大連作と称することが可能であろう。1994年、東山魁夷館の開館5周年を記念する「東山魁夷信州を描く」展を開催し、これが機縁となつて、本書が出版されることとなった。

「木曽路への旅はその時は気がつかなかったが私に大きな影響を与えたものであることが後になってわかった。神戸で少年時代を送った私は、生まれてはじめて山国の姿を見たのである。それは私の少年時代を育ててくれた環境とは全く違ったもので、素朴で、厳しく、逞しいものであった。感覚的な自然環境に恵まれていた私が、この山国の旅で意志的なものを知ったのは、絵の世界という峻厳な道に踏み入る最初の時期であっただけに、なにか私の人生に、一つの眼を開いてくれたといってよい。また、あの山国の人々の人情も忘れ得ないものである。私は自然の深さにひかれ、風景画家としの道を辿ったが、自然と私を強く結びつけてくれたこの青春の日の木曽路の旅は、長い年月を経た今でも、鮮やかに浮かんでくるのである。
「放浪する者は故郷を遠く離れ、その心は絶えず流れ去って行くものに従い、休む時もなく青い山の向こうに牽かれてゆく。・・・(神戸の)港や船や倉庫は、私の心の奥の引き出しの中に、しまいこんである故郷の姿であって、追憶の中での現実の風景であり、それは、私という人間の形成過程の上で、いつも、地底の泉のように、にじみ出てくるものであるが、私はもう一つ奥にある引き出しの中身に気付いたのではないだろうか。それは、汽船や赤煉瓦とはちがって、きれいな水の流れる青い山の風景である。後者はより象徴的であり、より根元的であるといえるかもしれない。・・・私の心の引き出しにある二つの故郷的なイメ-ジは、私の遍歴の路にどんなふうに織り交ぜられて行くのだろうか。そして、いま、戦後の荒廃の中で、私の心の向かう故郷の象徴として、この川の流れる風景が静かに私にささやきかけてきたのではないか。・・」

○「川端康成と東山魁夷」-響き合う美の世界  2006年9月21日 初版 求龍堂発行 川端香男里 東山すみ 監修
2005(平成17)年、川端康成と東山魁夷の未公開の往復書簡が現存することが明らかになった。書簡は1955(昭和30)年から、川端の死の半年前の1971(昭和46)年11月まで交わされた。本章では、二人の芸術家がなにを思い、なにを語ったのか、書簡を通してその交流を探る。

「川端康成は実にまめに手紙を書く人でありました。三島由紀夫との往復書簡はよく知られておりますが、密度の濃さからいつて、それに次ぐ書簡のやりとりが9歳年下の画家東山魁夷との間に行われました。そのうち百通以上が現存いたします。美についての語らいと並んで、仕事の上での協力関係も密になり、川端の東山作品の所蔵も「北山初雪」をはじめとして秀作がそろうようになります。・・・

東山さんのすべての絵にある潤ひは、日本の国土の湿度ではなく、東山さんの心の潤ひであり、その潤ひには東山さんのいつくしみの音声がほのかにただよひ、またやはらかくこもってゐる。東山さんの北欧風景画展の時、「雪原譜」の広い雪の斜面に立ち並ぶ樅の列が、音譜のやうに見え、音楽が聞こえると、私の娘は言った。-川端康成

「残照」も私を自分の少青年時代の、心の故郷にんかへらせる。夕空に遙か遠くへ続く、山並みの襞の重なりを、「人影のない山頂の草原に腰をおろして、刻々に変わってゆく光と影の綾を私は見ていた。冬の九十九谷を見渡す山の上に在って、天地のすべての存在は、無常の中を生きる宿命において強く結ばれていることを、その時、しみじみと感じた。」と東山さんは「残照」を言ふ。-川端康成

年を送り、年を迎えるこの時に、多くの人の胸に浮かぶであろう、あの気持ち。去り行く年に対しての心残りと、来る年に対してのささやかな期待。年々を重ねてゆく凋落の想いと、いま、巡り来る新しい年にこもる回生の希い。「行き交う年もまた旅人」の感慨を、京の旅の上で私はしみじみ感じた。こうして、私の京の旅は終わった。-東山魁夷