本の旅-絵画・他


美術関係の書籍、図版、単行本-<個人所蔵>2022.8~現在
小さな本屋さん、図書館を自宅に開くのが夢でした。それにしても買い集めましたね。 鈴木慶治

○「三岸節子展」心の旅路-満開の桜のもとに 没後10周年記念 2010. 朝日新聞社文科事業部編集
・1945.9 戦後初の個展「焼土の東京の人々に送る花束」花の絵などで人気作家となる。・1954 渡欧 「風景画を自分のものにしてパリで個展を開きたい」 ・1968.12 63歳 -南仏に移住 ・1989.7 84歳 -帰国 大磯にアトリエ 1999.4.18 急性循環不全のため逝去 94歳 
(最後に描いたのは、アトリエから見える満開の桜、夫、好太郎の好きだつた黄色い花の絵であった)
「-絵画の中に私は神を見ようとしている。一枚のタブロ-の完成は絵画の中に神を見た時である。技術の追求でもない。業でもない。理知の追求では如何ともしがたい。常識の枠を遙かに超えた、インスピレ-ションという所の神秘の幕がかかって、技術と精神衝動と一致して無我の境地に入ったところの、あの瞬間のエネルギ-、それが絵画の神性だと私は信じている」 (三岸節子 黄色い手帖)
 「自画像」 1925年 20歳 

○「一枚の絵から」 高畑勲 2009.11.27 岩波書店
高畑勲(1935-2018) 82歳没 アニメ-ション映画監督・東京大学文学部仏文科卒・1985年宮崎駿らとスタジオジブリ設立。「アルプスの少女ハイジ」・「赤毛のアン」・映画「セロ弾くきのゴ-シュ」・「火垂るの墓」・「おもいでぽろぽろ」・「平成狸合戦ぽんぽこ」(監督、演出作品)。
「風の谷のナウシカ」・「天空の城ラピュタ」(プロデュ-ス作品)
「美術が好き・・・長年アニメ-ション映画制作に従事してきたとはいえ、私はただの素人。好きな絵を好きなように楽しんできただけ・・・」
スタジォジブリの月刊誌に2003.1-2008.6まで5年以上61回連載した内容を本にした。「私たち映画人から見れば依然絵画は大芸術・・西洋画では作家性が重んじられ、作者の人生や思想を投影して絵を見なければという傾向・・・まずは気楽に好きな絵を自己流に楽しんでもいいのではないか」

○「興福寺国宝展」-鎌倉復興期のみほとけ 東京芸術大学 大学美術館 2004年9月18日~11月3日 表紙は国宝「無著像」
興福寺は古都奈良を代表する大寺。7世紀後半に中臣鎌足(藤原鎌足)の病気平癒を祈願して建立した山背国山階寺に起源をもつ。710年の平城京遷都に際して現在地に移される。本展では肖像彫刻の最高傑作といわれる運慶制作の無著ムジャク・世親セシン両菩薩像をはじめとする鎌倉期の彫像、曼荼羅、絵画、など興福寺に伝わる宝物に加えて各地の寺社、博物館などが所蔵するゆかりの宝物を展示する。本展覧会では何と言っても「無著」「世親」の両菩薩立像で圧倒的な存在感を示していた。ともに運慶作である。

○「運慶展」-興福寺中金堂再建記念特別展 東京国立博物館 2017年9月26日~11月26日 
運慶(生年不詳-1223年)は、平安時代から鎌倉時代へと移り変わる激動の時代に写実的で力強い仏像を数多く生み出した仏師。本展覧会は運慶が20代半ば頃に造ったとみられる安元二年(1176)の円成寺大日如来坐像から、晩年の建保4年(1216)の作である光明院大威徳明王坐像まで運慶作の仏像を一堂に集めた。大日如来坐像は申すに及ばず、他の諸仏にも深い感動を覚えた。毘沙門天立像 八大童子立像、四天王立像などなど・・・。この展覧会では13年ぶりに「無著・世親」の両菩薩像にも再会できた。個人的なことだが、奈良興福寺には何度も行っているが、無著、世親がおられる北円堂は、限られた時期にしかその内部を見ることが出来ず残念な思いがしていた。-鈴木

○「東山魁夷展」-生誕100年 東京国立近代美術館 2008年3月29日~5月18日
1908年(明治41年)、横浜市に生まれる。 
「東山の一生の多くは旅を重ねることに費やされる。ただ自然の美しさを見ようとしただけではない。ひたすら風景と対話する中で東山が求めたものは、たんなる外見的の美しさではなく、眼前の風景の奥に潜む自然の営み、その逞しさであった。・・互いに移ろい変化していく自然と自己の一瞬の出会いと合一は、一期一会の世界にも似ている。東山の旅とはその瞬間を捉えるためのものであり、画業はその記憶を画面に刻み続けることであった。怒り、悲しみ、喜び、安堵といった個々の感情は旅を続け風景との密やかな会話を交わす過程で具体性が取り払われ抽象化されていく。・・・東山の作品はいずれも長い遍歴の旅と徹底した自然観照から生まれた心象風景であり、自身の内面の表白、心の奥底に潜む想いを見る者に伝える。豊かな叙情性や深い精神性が多くの人を惹きつけて止まない。」-尾崎正明(東京国立近代美術館、本展企画者)

○「風景との対話」 東山魁夷著 新潮選書 昭和42年5月15日 発行
「絵になる場所を探すという気持ちを棄てて、ただ無心に眺めていると、相手の自然のほうから私に描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出合う。その、何でも無い一情景が私の心を捉え、私の足をとめさせ、私のスケッチブックを開かせる。」-東山魁夷

「美しくさはやかな本である。読んでゐて、自然の啓示、人間の浄福が、清流のやうに胸を通る。これは東山魁夷という一風景画家の半生の回想、心の遍歴、作品の自解であるが、それを通して美を求める精神をたどり、美の本源をあかそうとするこころみは、清明に温和にそして緊密に果たされてゐる。散文詩のやうな文章が音楽を奏でてゐる。旅を人生とも芸術ともし、流転無常を人間の運命とも観じながら、そして孤独憂愁もうちにひめながら、万物肯定の意志を貫き、自然に新鮮な感動を常とし、謙虚誠実の愛情に生きる風景画家、東山氏の本質は、この書にも、私たちに親しい調べで高鳴ってゐる。すぐれた美の本である。」-川端康成

「いままで、なんと多くの旅をして来たことだろう。そして、これからも、ずっと続けることだろう。旅とは私にとって何を意味するのか、自然の中に孤独な自己を置くことによって、解放され純化され活発になった精神で、自然の変化の中にあらわれる生のあかしを見たいというのか。
いったい生きるということは何だろうか。この世の中に、ある時やってきた私は、やがて何処かへ行ってしまう。常住の世、常住の地、常住の家なんて在るはずがない。流転、無常こそ生のあかしであると私は見た。私は私の意志で生まれてきたわけではなく、また死ぬということも私の意志ではないだろう。」-以上、東山魁夷「風景との対話」 第1章 風景開眼から

「山並みは幾重もの襞を見せて遙か遠くへと続いていた。冬枯れの山肌は沈鬱な茶褐色の、それ自体は捉え難い色であるが折からの夕陽に彩られて、明るい部分は淡紅色に、影は青紫色にと、明細の微妙な諧調を織りまぜて静かに深く息づいていた。その上には雲一つない夕空が、地表に近づくにつれて淡い明るを溶かし込み、無限の広がりを見せていた。・・・佐貫駅からの三時間の鹿野山までの道のり・・・昭和21年の冬のことであった。山上の寺の宿坊に泊めてもらう以外には泊まる場所もない。」-以上、東山魁夷「風景との対話」第2章 冬の山上にてから。この旅から「残照」が生まれ第3回日展での特選、政府買い上げとなる。

「人生にはいくたびか波が打ち寄せてくると云われる。たしかに戦争の時は荒波が私達の頭上に襲いかかり、その激動の中で誰しもが辛うじて生きて来た。・・・人間がいきているということは波の中に漂っているようなものかもしれない。大きな波、小さい波が、始終打ち寄せる中に。」
以上「風景との対話」第5章 波から。

「静かな海面を滑るように船は進んで行った。島々は緑の樹木に蔽われ、急な斜面を段々畑が海ぎわから山の上まで続いていた。小さな村の家々がまるで自然の中に溶け込むように点在している。「群青と緑青の風景だ」と私は思った。昭和10年の秋のこと・・・2年間の欧州滞在を終え、1ヶ月の航海の後に瀬戸内海にさしかかると、この、いかにも日本的な風景をもの珍しく感じるのだった。」 第6章 東と西から

○「わが遍歴の山河」 東山魁夷 昭和32年5月20日 新潮社発行
欧州の旅 その一
「昭和8年8月、私は日本を離れて欧州へ向かいました。船が五島列島を右に見て、これで本州との別れという時、私の胸にはなんともいえない爽快な感じが浮かびました。とうとう飛び出して来たという実感、何だか息をすることが苦しくなっていた小さな甕の中から、廣い天地へ逃げ出してきた開放感をしみじみ味合いました。この喜びは、乏しい私の生活の中で、この1年に外遊の費用を作り出した努力の思い出にもよるものであり、未知の世界への好奇、長途の旅行に対する冒険心等の集まったものですが、何よりも自分一人になり得た喜びが大きかったのです。
 日本画家としても将来自分の進路を判断する上に、日本画でない芸術を見ておく必要がある。・・独逸を選んだのは、西洋を研究するのに都合のよい設備が整っているからであり、日本人の画家がいないことだけでも静かで有り難い。フランスはエレガントで、イタリ-は明るいが、ドイツの持つあの暗さ、荘重なものに私は牽かれる。
こんなことを日記に書いていますが、これは凡て表向きの感心な理由で、実際はどうしても逃げ出したい理由もあったのです。それは私自身どうにもならない気持ちになっていて、この状態を何か突き破らなければまいってしまう處へ落ち込んでいたのです。・・・美校を卒業して欧州へ行くまでの2年間引き続き研究科に在学しました。・・・美校時代の半ば頃から私の家は、兄の死や父の商売の不振等でかなり憂鬱な時期が続き、又私自身もまだろくに絵も描けないのに、絵を描くことに疑問を持つようになりました。入学以来傍目もふらずに進んできたのですが、ふと、その非人間的な在り方に反感を感じてきました。・・絵の基礎になる修業は生易しいものではなかったからです。・・・その時分、純粋に画家であるよりも、もっと他のもの、いわば人間であったからです。画家であると云うことは、人間以外のものであることを必要とする峻烈なものです。・・・絵のことよりも人を愛することに価値を考えても、結局それに一途になり得ず、そうかといって絵の方にも情熱を感じないというどっちつかずの苦しい状態でした。然し徒弟の遍歴には道草もつきものでしょう。その後欧州へ出かけたことも大きな迂路でしょうが、今から見ればそれらの凡てが私にとっては必要な道程であったとも思えるのです。」

父と母、少年時代-
楽天家で殆ど感情だけで生活している父と、悲しみを理性で抑えているような母、この極端に異質の二人の間には、相当深刻な問題があって、まだ小学校に入ったばかりの頃から、私は人間の間にある愛憎とその業とも云うべきものの姿を見てきた。中学生の頃には人を愛することの喜びと苦しきをはげしく味合う人間になっていた。・・・情熱に惑溺する傾向と、それを引き留めている理性との危いバランスが時々破れると、気が変になりそうな苦しみに襲われる。そんな時、いつも慰めてくれたのは神戸をめぐる自然であり、救いとなったのは、絵に対する精進の道を選んだからのことであったと思います。 -追憶の海から

肉親との別れ- 
「結婚生活がはじまりました。・・どうにか落ち着いて仕事に打ち込めると意気込んだのですがそれも束の間で、運命はなかなか私に微笑んではくれなかったのです。弟が学校を終えて就職したのはよかったのですが、間もなく結核になり、近江八幡の療養所へ入院、又、神戸の母が新婚の家庭を手伝ってくれるつもりで上京した翌日から脳溢血で倒れ、寝たきりになつてしまいました。神戸の父は従妹が身の回りの世話をしてくれたのですが、借財の上に二人の病人で全く困ってしまいました。・・・日本が一歩々々戦争へと近づいた時代です。・・・父は心臓喘息で急になくなりました。(1942年)-死ぬ1日、2日前まではまだ元気に頭から水なんかかぶっていたそうです。暑い夏でした。危篤の電報を受け取っても、こちらにいる母の病気が病気だけに連れてゆくことも出来ません。・・夜おそく神戸へ着くと父はまだ息を引き取ってはいなくて、うつろな眼にぜいぜいした息をしていました。その手を握りしめると熱い手でした。顔を寄せて、母のことや弟のことは心配するなというと、わかったのかわからなかったのか、一寸、表情に反応があったようでしたが、2.3分後に息を引き取りました。・・・東京へ帰って、母になんと知らせてよいものか・・・奥へ入っていくと、母は床の上に坐って本でも見ている様子です。私はこみあげてきそうになるのを辛うじておさえながら、出来るだけ優しく「お母さん。」とよびました。母は気が付いて「あ、お父さんどうだったの。」と案外に平静に云うのです。私はなるべく静かに、父の話をしました。あの時母が心配していたほど取り乱さなかったのは、私の気持ちを察してこらえていたものでしょう。神戸の家が無くなった以上、弟を近江の病院に入れておくわけにはゆかないので、中野の療養所に移しました。
(1945年)-召集解除になって、私は高山に向かいましたが、途中千里に降り、弟を病院に訪れますと、母と妻は甲府の川崎の疎開先へ移ったことを知りました。甲府盆地を廻る山々は澄み切った空にはっきりと山襞を見せていました。桑畑の間の道、清らかな細流、その向こうに懐かしい家の屋根。皆手を振ってこちらを見ています。母も縁側の柱につかまって手を上げている様子です。・・こうして家族が久しぶりに一緒になることが出来ました。・・・こんな一家の団欒は間もなく母の容態の変化によって沈痛なものになっていきました。母が次第に衰弱してゆくのに気付きました。老医師ははっきりと母がもう助からないことを告げました。聞いた後で居ても立ってもいられない愛着と侮恨の衝動にかられました。それから母の死までの2週間ぐらい、妻も私も必死になって看病しました・・母は意識ははっきりしていて、私達が夜遅く看護していると風邪をひかぬように、早く寝るようにとよく云いました。・・弟に電報を打ちました。弟は富山から無理な旅をしてきたと見えて、蒼い顔をしていました。私は弟にかいつまんで母の態を話すと、弟は「もう間に合わないかと思っていた。間に合ってよかった」・・・弟自身も容態が相当悪いことを私に話しました。・・・「泰ちゃんが来たよ」と母に云うと、眼の上に始終当てていた手拭いをとらせて、一寸弟の顔を見ただけで、又、すぐ布をかけさせてしまいました。もうあまり口をきくこともなくなっていたのです。唯、一筋の涙が目尻から皺をつたって耳の方へ流れているだけでした。弟はすっかり覚悟をしてきたのか、少しも取り乱したところがないので私は救われた気持ちでした。母の枕許に顔をすりよせて、母の手をさすっている姿は、むしろ幸福に浸っている人のように見えるのでした。母も又、幸福であったかもしれません。・・弟は2泊して帰って行きました。どんな断ちがたい想いで弟は帰っていったのかと、私はその姿をいつまでも見送りました。その夜から母は全く昏睡状態となり・・臨終の表情になりました。
(1946年)-富山の療養所で弟の顔を見る・・喉頭結核がひどくなつていて、手のほどこしようがなくなつていました。・・枕下の小さな物入れのふたの内側に死んだ父と兄の戒名を書いた紙片が貼ってあり・・弟はその紙に母の戒名も書き添えてくれと頼むので書き込みました。持って行った紙にいろんな絵を描いて弟の寝ているところから見える壁にピンで止めてやると、マリアの像も描いてくれという。どうにか聖母に見える絵も描いた。「花園のようだ」と弟はしげしげと見ていました。環境の淋しさや病気の苦しみを一言も訴えない弟によくここまで人間が出来てきたと感心した・・それから1週間経たぬうちに弟は死にました。弟の死後、粗末な紙に書きつづられていた手記を私は涙を流しながら読み返して、そのすべてが感謝と諦念に貫かれているのを深い感動を持って知りました。母の骨を納めたばかりの墓に弟のを納め、これで私の喜びを一番親身にになって喜び、私の悲しみを最も深く悲しんでくれる肉親が一人もいなくなったことを思いました。

○「唐招提寺への道」 東山魁夷 新潮選書 昭和50年4月25日発行 新潮社
「画家が残した手記は、世の中に沢山ある。が、一つの作品が造り上げるまでに、どれ程多くのものを見、多くのことを感じたか、心の襞の奥底まで立ち入らせてくれる場合は少ない。・・「唐招提寺への道」という何気ない題に、読者はだまされてはいけない。その道は、鑑真和上が辿った厳しい道程であり、和上を祀る開山堂の壁を飾るために、筆者が自らに課した画道への精進と、遍歴の記録でもある。私達は筆者に導かれて、大和の山野に遊び、北国の雪景色に、身の引き締まるのを覚える。・・・長い旅路の終わりに、私達はアトリエの密室に案内される。そこにはすでに障壁画の下絵がいくつも出来上がっており、私達は胸をわくわくさせて完成の日を待つばかりだ。 -白州正子

「唐招提寺への道」は、私にとって遙かな道である。私の旅が心の旅路であるからには、唐招提寺も、奈良、大和も、共に象徴の世界である。これは、心の遍歴を常とする一人の画家の、旅と探求の記録でもあり、祈りと願望の記述でもある。生涯のこの時期に、ここに歩み寄り、ここを巡ることは、私にとって必然の道程であったと思わないではいられない。-東山魁夷

障壁画作成の準備で東山魁夷氏が巡った場所<「唐招提寺への道」から抜粋> 鈴木

(海の旅) 青森浅虫-竜飛崎-岩手盛岡-宮古-浄土ヶ浜-北山崎-田老山王岩-船越-秋田男鹿半島-入道崎-山形温海-青森十和田湖-田沢湖-石川能登-千里浜-能登金剛-福浦-富来-輪島-曽々木-仁江-越前海岸-京都奥丹後-宮津-与謝海-伊根村-丹後松島-犬岬-間人-城崎-但馬海岸-香住-余部-浜坂-浦留-湯村温泉-浜坂海岸-七坂峠-網代港-浦留-網代-岩井温泉-蒜山高原-白兎海岸-倉吉-関金-鳥取戸倉峠-益田-戸田小浜-青海島-仙崎-小郡-瀬戸内海-下津井港-櫃石島-塩飽諸島-鞆の浦-宮島-大三島-高知足摺岬-室戸岬-手結-九州福岡-唐津-伊万里-有田-佐世保-弓張岳-九十九島-柳川-熊本-天草-大江天主堂-崎津天主堂-下田
(山の旅)黑部-宇奈月-黒薙-猫又-鐘釣-猿飛-欅平-黑部渓谷-名剣温泉-立山-称名の滝-美女平-撫平-弥陀ヶ原-室堂-滝見台-大観峯-
黑部平-飛騨高山-平湯-平湯大滝-安房峠-上高地-田代池-高山-白川街道-小鳥峠-松ノ木峠-御母衣ダム-白川郷-天生峠等々・・・

海と山の旅は、1月から8月へかけて行ったものであり、青森県浅虫の駅へ雪の降りしきる中を降り立ってから、瞬く間に日々は過ぎ去っていった。スケッチの数々を眺めて、私は漸く準備の旅が終わったのを感じた。私がこれらの旅で特に嬉しく思ったのは、私を感動させてくれる自然が、まだ日本の中に残っているということであり、同時にそれは、自然に対して新たな感動を感じる心が、私の中に在るという証左でもあった。

第5章-障壁画への歩み
「昭和45年の暮れ、唐招提寺御影堂の揮毫希望の話があった。この突然の話は強い啓示のように心に響く・・・しかしこれはたいへん困難な仕事で承諾の返事迄かなり長い時をかけた。天平の遺構である雄大な建築群、素晴らしい仏像の数々を持つ由緒深いみ寺・・ことに日本の肖像彫刻の最古最高の傑作「鑑真和上像」を安置する厨子の内扉と、その御影堂の障壁画と云うことになると、先ず自分の非力を恐れる気持ちが強かった。・・鑑真和上や唐招提寺についての知識も乏しく・・承諾の返事をお伝えするのに5ヶ月以上かかったわけである・・・。昭和46年6月6日、御影堂のお厨子の扉が開かれる日、私は唐招提寺を訪れた。・・もし一切を任せて下さるなら、この仕事はお引き受けすべきであると、私はようやく心に決めた。自信のない私にこのような勇気を与えてくれたのは、鑑真和上の強い精神力への讃仰の心からであり・・・全力を挙げて着実に進めて行けば成就するであろう。・・大仕事はこれが最後に感じたからである。昭和47年7月10日、承諾の返事。昭和47年から50年の春(3年半)の計画。47年は鑑真和上、唐招提寺の研究、奈良、大和路の自然と歴史、文化の探求、風物の写生。48年は準備の写生と下図。49年-50年は本制作の計画。・・・・


○「信州讃歌」1995年10月10日 画・文 東山魁夷 初版 長野県信濃美術館・東山魁夷館 編
編者あとがき-より・東山魁夷画伯と信州
 信州は長野市、古刹善光寺を間近に仰ぐ長野県信濃美術館に併設して「東山魁夷館」が建てられたのは、1990年(平成2)のことであった。横浜に生まれ神戸に育ち、戦後は一貫して市川に居をかまえた画伯の経歴を知る人は、その名を冠した美術館がなぜ長野に建設せられたのかと意外に思われるかも知れない。東山画伯が初めて信州を訪れたのは、東京美術学校に入学した1926年(大正15)のことであった。天幕を背負って木曽山中に分け入った画伯は「初めて接した山国の自然の厳しさに強い感動を受けると共に、そこに住む素朴な人々の心の温かさに触れる事が出来た」と、この体験が自らにもたらした影響の大きさを告白している。以後、画伯は信州の自然に多く題材を求めるようになり・・・かかる縁をもって「私の作品を育ててくれた故郷ともいえる長野県」に自作を寄贈し、東山魁夷館が設立せられるに至ったのである。・・・思えば信州を描いた作品もまた、学生時代60有余年にわたって営々と築かれてきた一大連作と称することが可能であろう。1994年、東山魁夷館の開館5周年を記念する「東山魁夷信州を描く」展を開催し、これが機縁となつて、本書が出版されることとなった。

「木曽路への旅はその時は気がつかなかったが私に大きな影響を与えたものであることが後になってわかった。神戸で少年時代を送った私は、生まれてはじめて山国の姿を見たのである。それは私の少年時代を育ててくれた環境とは全く違ったもので、素朴で、厳しく、逞しいものであった。感覚的な自然環境に恵まれていた私が、この山国の旅で意志的なものを知ったのは、絵の世界という峻厳な道に踏み入る最初の時期であっただけに、なにか私の人生に、一つの眼を開いてくれたといってよい。また、あの山国の人々の人情も忘れ得ないものである。私は自然の深さにひかれ、風景画家としの道を辿ったが、自然と私を強く結びつけてくれたこの青春の日の木曽路の旅は、長い年月を経た今でも、鮮やかに浮かんでくるのである。
「放浪する者は故郷を遠く離れ、その心は絶えず流れ去って行くものに従い、休む時もなく青い山の向こうに牽かれてゆく。・・・(神戸の)港や船や倉庫は、私の心の奥の引き出しの中に、しまいこんである故郷の姿であって、追憶の中での現実の風景であり、それは、私という人間の形成過程の上で、いつも、地底の泉のように、にじみ出てくるものであるが、私はもう一つ奥にある引き出しの中身に気付いたのではないだろうか。それは、汽船や赤煉瓦とはちがって、きれいな水の流れる青い山の風景である。後者はより象徴的であり、より根元的であるといえるかもしれない。・・・私の心の引き出しにある二つの故郷的なイメ-ジは、私の遍歴の路にどんなふうに織り交ぜられて行くのだろうか。そして、いま、戦後の荒廃の中で、私の心の向かう故郷の象徴として、この川の流れる風景が静かに私にささやきかけてきたのではないか。・・」

○「川端康成と東山魁夷」-響き合う美の世界  2006年9月21日 初版 求龍堂発行 川端香男里 東山すみ 監修
2005(平成17)年、川端康成と東山魁夷の未公開の往復書簡が現存することが明らかになった。書簡は1955(昭和30)年から、川端の死の半年前の1971(昭和46)年11月まで交わされた。本章では、二人の芸術家がなにを思い、なにを語ったのか、書簡を通してその交流を探る。

「川端康成は実にまめに手紙を書く人でありました。三島由紀夫との往復書簡はよく知られておりますが、密度の濃さからいつて、それに次ぐ書簡のやりとりが9歳年下の画家東山魁夷との間に行われました。そのうち百通以上が現存いたします。美についての語らいと並んで、仕事の上での協力関係も密になり、川端の東山作品の所蔵も「北山初雪」をはじめとして秀作がそろうようになります。・・・

東山さんのすべての絵にある潤ひは、日本の国土の湿度ではなく、東山さんの心の潤ひであり、その潤ひには東山さんのいつくしみの音声がほのかにただよひ、またやはらかくこもってゐる。東山さんの北欧風景画展の時、「雪原譜」の広い雪の斜面に立ち並ぶ樅の列が、音譜のやうに見え、音楽が聞こえると、私の娘は言った。-川端康成

「残照」も私を自分の少青年時代の、心の故郷にかへらせる。夕空に遙か遠くへ続く、山並みの襞の重なりを、「人影のない山頂の草原に腰をおろして、刻々に変わってゆく光と影の綾を私は見ていた。冬の九十九谷を見渡す山の上に在って、天地のすべての存在は、無常の中を生きる宿命において強く結ばれていることを、その時、しみじみと感じた。」と東山さんは「残照」を言ふ。-川端康成

年を送り、年を迎えるこの時に、多くの人の胸に浮かぶであろう、あの気持ち。去り行く年に対しての心残りと、来る年に対してのささやかな期待。年々を重ねてゆく凋落の想いと、いま、巡り来る新しい年にこもる回生の希い。「行き交う年もまた旅人」の感慨を、京の旅の上で私はしみじみ感じた。こうして、私の京の旅は終わった。-東山魁夷

1968年、川端康成がノ-ベル文学賞を受賞し、東山夫婦がお祝いに駆けつける。その夜、書「秋乃野に鈴鳴羅し行く人見えず」と数枚書き、うち一枚を東山に贈った。
巡礼の鈴の音が秋の野に聞こえる。けれども、その巡礼の姿は見えない。木の間にかくれてか、すすきの群れにさへぎられてか。その木の葉は色づき、あるひはすでに落ちつつあるかもしれない。(中略)などと、あやふやな句解きは恥ぢよ。「野に鈴」の「野」と「鈴」とで「ノオベル」になる、言葉遊びに過ぎないのだ。それを「秋の野」と季節に合わせ、「鳴らし行く人見えず」と字数を合わせたのだ。私は即興のこの句を紙に大きい字で書いた。(中略)ノオベル文学賞が発表の日の夜半過ぎ、私は一人書斎に閉じこもってゐたのだ。-川端康成

東山から川端宛の書簡-10月25日付け 市川から鎌倉へ  (ノ-ベル賞受賞のお祝いとお礼)
拝啓
先日は夜おそくお伺い致しましてお邪魔しました。先生の御受賞が國を挙げての大きな喜びになり、誠に嬉しいことに存じます。先生から日頃親しくして戴いてゐます私共は、言葉に云い尽くせない感動を日増しに深く感じて居ります。先生の御作品や御人柄は今回の御受賞の有無にかかわらず、この上なく尊敬申し上げて居りますのですが、ご厚情に甘えて失礼ばかりして居りましたことが、今更のやうに恥ずかしく申し訳なく存じます。
先生の御作品を通じて日本人の美の心が、世界の人の心に触れ合えるといふことが一番嬉しく感じられます。先生はいつも私の美を求める心の大きな支えとなり励みになってゐて下さるのです。常日頃、過分のご厚情を戴いてゐますばかりで申し訳なく存じて居りますところ、先夜はあのお祝い客の混雑の中をゆっくりお話伺うことが出来まして本当に有り難い気持ちでいっぱいでした。・・・先生へのお祝いの言葉も思うように申し上げられなかった私ですのに、先生はいつもと変わらぬ静かな御様子で私の京都の絵のことについて御親切なお言葉を賜り・・誠に御禮の申し上げやうもございません。全てに至らぬ私にこのやうな御心深い御配慮を賜りますことは、生涯忘れ得ぬ喜びでございます。先生の御信頼にそむかぬやうますます精進いたしたいと念じて居ります。何卒今後共よろしく御鞭撻賜りますやう願い上げます。・・いづれ改めて御祝いやら御禮に参上致したく存じて居ります。引き続き大勢の人々が先生の御宅へおしかけてゐますでせうが、何卒お疲れの出ませぬやうお祈り申し上げます。また御奥様もその応待で毎日大変なことでせうと存じますが御自愛下さいますやう願い上げます。・・・・

「年暮る」 1968年  「北山初雪」 1968年  -京洛四季-

「白馬の森」 1972年

「若葉の季節」 1972年

「晩鐘」 1971年 ドイツ・ブライブルグ

「唐招提寺 襖絵 上段の間」

「唐招提寺 襖絵 濤声部分」 1975年

○「父 高山辰雄」  高山由紀子 平成23年8月31日 初版発行 角川書店
1912-2007 享年95歳 
・「青衣の少女」 1984年  
「父の描いた多くの人物画のなかでもっとも美しい少女かもしれない。ゆったりと身体にまといつくような青い服の少女がソファに半身を起こしている。横顔は何かを捧げ持つように前に差し出した手の中を見ているが、そこには何も無い。後方に四角く切りとられた窓外の風景は暗いがわずかに稜線に沿って仄かな明かりが知と空とを分けていて幻想の中に溶け込んでいるようだ。人物の下方中央には銅器に入った花。今も私はこの絵に出会うと思わず眺め入らずにはいられない。」- 

・「牡丹 阿蘭陀壺に」1989年

・「いだく」1977年

・「春光」 1992 

○「聖家族1993 高山辰雄画集」講談社 宝木範義
-家族の情景を描くことで画家は何を語ろうとしたのだろうか。ここに登場するのは、母と子の結びつきを中心とした、多くは日常の断片的な映像であり、普段着の私たち自身である。美しい花や心を吸い込むような風景ではなく、時に重い人生を感じさせることさえある、人間のたたずまいである。

「聖家族 Ⅶ 」

「・・・自分、自分といっても、はっきり分からないところがあって、むしろ、まわりにあるものに自分を教えられるような気がするんです。いいなあと思った絵の数々が、私の身体の中にしょっちゅう流れているし、あるいは故郷への帰り道の途中の冬の風景とか夏の風景とか、そうしたものもみんな身体に流れている。汽車の窓から見たことがらだとか、その時、目に入った煤とか、そういうもののすべてが僕をつくり上げているような気がします。それ以外の僕はどこにいるんだろうと探すこともありますが、やつぱり外から入ってきたものによって自分がつくり上げられていることを、いつも思い知るような気がしますね。・・・」 高山辰雄

○「高山辰雄の世界」-素描と本画 2000年3月27日 思文閣出版
「絵の道の遠い事とは、生きるむつかしさと同じように重なってきます。日本画の絵の具は限りなく美しく、限りなく深い。しかしながら、技術に走っても、内容だけになってもよいものとは思えません。夕日は赤ではなく、植物は緑青でもない。・・全ては色におき換える場合、その動作の中に何かがあって、その動作の中に絵の全てがあるのかもしれない。」
「私の体、人間の体の組成は、宇宙を形づくる物質と全く同室のもので、それ以外の何も持っていません。あの遠くに輝く星、宇宙の果てにある星雲も同じ物質、微妙な世界の電子もまた我々の体を造っている同一のものです。考えてみれば、我々も星屑の一つと同一のように思えないでもない。・・極大と極微に通じて、宇宙と一体とも考えたりするのです。そして絵の上に、その事が表現されるべきものである、立派な作品、人びとの心にしみ入る作品、それ等は、極大極微に通じて宇宙と一体のものがそこにあって、私共に語りかけてくれるようです。」
「ものを見ることは、目だけだろうか。朝、夕、四季、それぞれに、私の体中にあるもの総てが、目も手も足も別々のものでなく、一体となって、ものを見ている感じの強い時がある。・・目で見ているが、皮膚を通して見ているようにも感じる。・・何も思わずそこにあるように、ものを写して見たい。しかも即物的でなく、私の中の生命と直結したものが写生帖の上に出てこないかな、と願う日がある。」 
「美術、美しい、醜いとはどんな事なのか。とても狭い、自分勝手の定め方をしているのではないだろうか。美術は悪い言葉ではないにしても、何か油断の出来ない言葉に私は思えてきます。」 高山辰雄

・「食べる」 1973年

・「寄る」 1973年

・「あけぼの」 1974年

・「少女」 1979年

・「秋の日」 1980年

・「二人」 1981年

・街の中の小さい流れ」 1990年


高山辰雄の言葉 
「・・・学生時代に、たしか川合玉堂先生だったと思うんですが「日本画は精神的なものじゃ」というようなことを言われました。まだ若かった僕は、もっとちゃんと言ってくれんかなあと思ったものです。・・・日本画で、もがきもがいて七十年もたつと、絵の良さというものは、結局、川合先生のおっしゃった「精神」とか「人間」とか、あるいは「気品」というような言葉でしか言えないんじゃないか、そんな思いが強くなってきます。・・・西洋画でも日本画でも、よい絵は「命の問題」に触れているように思います。突き詰めていけば、絵描きはみんな一つのものを求めながら描いているのかもしれません。なんとかしてそこに辿り着きたいと願い、そこを中心に、みんな苦しみもがいてじりじり回っている。」「芸術新潮 1998.5」

河北倫明-美術評論家の言葉  高山辰雄「聖家族1993」によせて
「・・・力づよく真摯な、しかし深い思いのこもる昨調で、子供を抱く母親を中心に、姉妹を描き、群像を描き、それらに風趣ゆたかな自然をからませている。一点一画に気持ちを打ちこんだ墨一色の画体に、群緑の微妙な彩調が加味されて特有の柔らかさと強さがあり、それにきびしく優しい情感がこめられている。ことに母親や子供たの眼もとや姿態には、いつもながらの高山式の「生のうごめき」といったものが漂っていて印象的であった。ずっと以前に、高山さんは自ら選んだ作品について次のように述べたことがある。「自分が心動かされるのは、一貫した信念をもった一途の生き方をしたことを感じさせる作品だ。しかし、それは動かない心というより、自信と不安、静と動とが交錯し、あくまで深くまた激しいものであったと思う」と。・・・「聖家族」といって、ただ平和に崇高に、決まった家族群像をまとめあげたような絵は一つもない。文字どおり、どの絵も、深さの中に激しいものをひそめつつ、何か生きた力がうごめいているような気配のものばかりである。」

高山辰雄の言葉
「花とか風景また人物を絵にする時、そのものが私の中をゆきつもどりつしながら通過していく事が必要なのです。私は写生に行ってもすぐにはかけない方で、二、三回同じ所に通ってはじめて写生出来るように思います。・・・一年前のスケッチからとか、二年前の写生から絵が生まれるのです。車で走ってチラッと見た事が十年もたって絵になることもあります。-高山辰雄  「芸術新潮 昭50.8月号」

「絵を志した時、絵の深さもむつかしさも同時に知ったのであった。今日、現在の日々もその道は遠く、遙かな道程を楽しさ苦しさの中に知るばかりである。・・・百年二百年あっても、志したあの一点に到達したい、そう念じ見つめながらも、しかも未完なのか。その日々の私の表現が私の絵であるのか、吞気に緊張の中を彷徨いつつ細い路は一歩一歩ゆくのであろう。 「高山辰雄 日本経済新聞社 1997年」

○「高山辰雄の世界」-素描と本画 刊行によせて・から 
「時々 所々 写生をし 画を描く 何かを見つめ 何かを求め 何かを教えられ 画面に手探りし 又考え 思ひつづける 」-高山辰雄

○「アサヒグラフ別冊 高山辰雄の作品」 1980.5.15から
澤田政廣-彫刻家
芸術の友 高山さん
「高山さんの絵の中には、必ずあるボリュ-ムがあり、それは彫刻を思わせるものです。高山さんの絵は物を見て描くのではなく、心の中からわき出してくるものであって、しかも、そのふんわりとした表現の中に、不思議な無尽の深さと重さがあり、また絵の中から形のない匂いさえ感じるのです。なんというか、心に食い込む不思議な詩があるのです。
今泉篤男-美術評論家
「この画家の表現しようとしているものは・・・抽象的な言葉だけれど「命の流れ」、「流れている命」といってもいい事柄かもしれない。・・高山辰雄は表現の内容を求めて躍起となっているのである。表現の内容とは何か、それは人間精神の深さに繋がるという一事につきる。・・画技の巧さということに抵抗する・・ゴツンとした大きな量塊をもってする画面の組み立て、絵というものを皮相な画技一辺倒に考えない。完全を目指すよりも窮まるところのない行く手を求める美術家のようである。

大岡信-詩人・作家
 「高山辰雄の世界」-極限を求めつづける-高山辰雄寸描 2000年3月から
「この画家はいつでもどこでも今いる場所、状態には飽き足らず、これとは別のがつんとして滑らかでありつづけるものを求めて、心に激しい戦闘意欲をたぎらせているところがある。外見からすれば穏やかな人格。物を言う時も物静かでむしろ無口。多くの人はこの画家の内面に不動明王の焔が猛っているなどとは想像しないだろう。高山さんはどうもずっと昔から、怜悧鮮明に割り切れる物事に対しては、全力の力をもってあらがい、対象の中の解きがたいものだけを慎重に選びとりつつ、前進しつづけてきた芸術家だと思うのである。ねばり強いというよりもむしろ頑固、探究心というよりもむしろ迷走好き。そして純粋というよりは、三つ児の魂風の純情の堅持。何を求めてそのような道を慎重に選んでいるのか、といえば、時々刻々、そして長い歳月を賭けて、高山辰雄にとっての「極限」を求め続けているからである。・・「極限」を求めることは、そこに達したという満足感とは永久に無縁である。満足感とはついに無縁のまま、不断に努力しつづけることのうちに、高山辰雄の静けさと謎にみちた絵の、涸れることのない魅力のもとがある。」

川合玉堂 1873-1957 

○「川合玉堂 写生帖 山水編」から 心技一体の写生 解説 佐々木直比古
「玉堂の絵画の温かさは、点景の人物によって生活の詩情が添えられていることである。それらの風物は、もう見かけることのできなくなったものも多い。水車がそうであり、杣を負う農夫ももはや見ることはできない。世は移り、年は変わったけれど、民族の気質のなかにこれらの風物は永遠に生きている。そこに吾々は郷愁を感じるのであろう。玉堂の絵画は晩年に向かうほど角がとれて、天衣無縫の境地にすすむ。・・・余分なものが放擲され、真なるものだけをのこす、簡潔な表現に向かう。晩年に到達した水墨の至妙の境地は、月光が紙の上に影を落とすようにさわやかである。「月天心」という名作がのこされたが、歌にも月を歌ったものが多い。」
-月すでに雲を離れて澄みゐたりしばしはなしにふけりたるかも-
-雲にみがき雨にあらひてまさやかにぬれたるままの月いでにけり-

奥多摩の渓流は今も変わらず流れ、夜々には峰々に月がのぼる。奥多摩の風景は今後、玉堂の絵をとおして、その風景を見ることになるであろう。奥多摩の風景であるとともに、それは画人玉堂の創りあげたた風景といってもよいであろう。

・「二日月」 1907 ・「月天心」 1954 ・「吹雪」 1950 ・「彩雨」 1940 ・「深林宿雪」 1943 ・「宿雪」 1934

西洋美術・彫刻/絵画

○「生と死の美術館」立川昭二 著 2003年 岩波書店発行 
表紙 レオナルド・ダ・ヴィンチ「リッタの聖母」1490年頃 エルミタ-ジュ美術館

下の写真
ミケランジェロ・「ピエタ」 1499年 サン・ピエトロ大聖堂
これは十字架から降ろされた死せるイエスを抱くマリアの悲哀(ピエタ)を刻ん高さ174センチの大理石の像。ミケランジェロ23歳の作品。
-奇蹟としかいえないこのピエタの美しさはこの世のものとは到底思えない。それにしても、マリアのなんと若いことであろうか。このマリアはどうみても20歳代。イエスが十字架にかけられたのは30歳代をすこし過ぎたころという。とすれば、すくなくともマリアは45歳以上でなければならない。そして、このマリアが抱くイエスは50歳以上に見える。イエスの方が生母より老けている。しかしそんな不合理などすこしも気にならない。それほど、このピエタは美しい。二人の年齢の矛盾について、ミケランジェロ自身「若さは純潔を反映したものであり、マリアにあどけない乙女の姿を付与することで、神の母たる人の汚れなき清純さを強調したかったのだ」とヴァザリ(美術列伝)に答えたという。・・・ある美術史家は、マリアの「容貌は精霊を宿す母なる少女の物思わしげな悲しみのうちに、この世の母親すべての苦悶を表している・・・」と語った。 立川昭二

パブロ・ピカソ「科学と恩寵」 1897年 ピカソ美術館
ピカソ16歳のときの絵。画家であった父ホセがバルセロナの美術学校の教師として赴任したため、生地のマラガを離れてバルセロナに一家が移ってきたのは、ピカソ14歳のときであった。すでに天才的な才能を発揮していた少年パブロは、父のすすめる美術学校に入り、官学的技法の修行に励んでいた。・・画業においては、彼は父や学校の方針に忠実に従っていた。・・その当時、近代科学は古い世界を大きく変えようとしていた。・・周囲の称賛をよそに、16歳のパブロに残ったものはおそらく得体の知れない自己嫌悪であったろう。やがて、パブロは自分自身を問いはじめ、生まれ変わるための自己変革をとげ、「青の時代」を経て、あのピカソになっていくのである。  立川昭二

フェルメ-ル「天秤を持つ女」 1664年頃 ワシントン、ナショナル・ギヤラリ-
ヤン・フェルメ-ル(1632-1675)は、オランダのデルフト生まれの画家。生涯は謎につつまれ、作品は今日わずか36点を残すのみである。テ-ブルの上の真珠や金貨は「虚飾」を暗示し、壁にかかる「最後の審判」は、大天使ミカエルが天秤で人間の魂をはかって天国と地獄にふり分ける場面で、この絵は寓意に満ちている。女の持っている天秤には何も載っていない。女はここに何を載せようとしているのであろうか? 真珠であろうか、金貨であろうか。それとも自分の魂であろうか? あるいは生まれてくる子どもの魂であろうか・・・。テ-ブルの上の布は「フェルメ-ルの青」といわれる深い群青色(ウルトラマリン)である。  立川昭二

エドヴァルト・ムンク「春」
ノルウェ-の画家ムンク1889年26歳の作品。-「叫び」の一連の作品でよく知られているムンク。このような静謐さを感じさせる絵があったことは自分には意外である。-鈴木慶治
「病床を出てきた少女は、安楽椅子に静かにもたれ、久しぶりに浴びる陽差し頬に受け、蒼白い顔をやや斜めに傾け、膝に置かれたハンカチにそっと手を寄せている。かたわらの母親は編み物をしながら、赤みのさした横顔を、娘の病み衰えた面にじっと向けている。・・・モデルの少女はムンクが14歳のとき死んだ1つ歳上の姉ソフィエ。付きそう母親のモデルはムンクが幼いとき死んだ母親のかわりに彼を育ててくれた叔母カ-レン・・・・。人は悲しいとき手を動かすものである。ムンクの言葉-「私はこの世に死んで生まれた。・・・病いと狂気と死とが、私の揺籃を守る黒い天使たちであった。そしてそれからもずっと生涯を通じて私に付き添った。」
ムンク一家には病が絶えなかった。5歳の時優しい母親が結核で死んだ。14歳の時には姉ソフィエが母と同じ病で死ぬ。父は医者であったが、二人のいのちを救うことができなかった。家中で神に祈ったが無駄であった。・・ムンク自身が腺病質で病気がちな少年であった。
ムンクが青年期を過ごした19世紀、ヨ-ロツパは結核(当時は不治の病)の全盛期であった。多くの詩人、作家が結核でいのちを奪われていた。ドストエフスキ-、チェ-ホフ、バルザック、メリメ、キ-ツ、ディケンズ・・・・。なかでも、その作品よりも痛ましく悲しいのは、ブロンテ三姉妹である。「ジェ-ン・エア」のシャ-ロット、「嵐が丘」のエミリ、「アグネス・グレイ」のアン。1847年、それぞれの作品を出版、世間を驚かしたのも束の間、翌年まずエミリが、つづいてアンが肺結核で落命、6年後にはシャ-ロットも妹たちのあとをおった。同じ時代、北欧の陰鬱な都会の路地裏に住むムンク一家が、時代の病の結核にとらわれたのは、避けられない宿命であった。」     立川昭二   

ミレ- 「オフェ-リア」 1852年
イギリスのヴィクトリア朝時代の画家ミレ-は早熟の天才であり、また画家としてサ-(準男爵)の称号をはじめて得た人物である。
作品「オフェ-リア」はシェ-クスピアの名作「ハムレット」のなかの悲劇の女性オフェ-リアの死に題材をとつた。「恋人のハムレットに父親を殺されたオフェ-リアは錯乱し、小川で木の小枝に花輪をかけようとして枝が折れ、流れに落ちて溺死する。」この情景を再現するため、ミレ-はモデルにこだわった。ラファエル前派の画家が競って描いた女性-愛称がリジ-という18歳の彼女を4ヶ月以上にもわたってバスタブに満たしたお湯のなかでポ-ズをとらせたという。リジ-は若くして肺結核を患い、咳に苦しんだ。「オフェ-リア」が完成してから10年後、28歳で亡くなった。

ジャン・ジャンセン 「老人と子供」1950年 安曇野ジャンセン美術館
今まで聞いたこともない名前の画家であったが、日本の信州、安曇野にその美術館があるということについても初めて知った。-鈴木慶治
「-老人の胸に顔をうずめて泣いている女の子。その子をじっと見つめる老人と少年・・・・。老人は少女の祖父であろうか。少年は少女の兄であろうか。三人とも見るからに貧しい身なりである。女の子はなんで泣いているのであろうか。大事なものでも失ったのであろうか。それともだれかに叱られたのだろうか。・・この三人を包む暗緑色の画面かは、なにかふかぶかとした「物語」がただよってくる。ジャンセンは1920年に中央アジアのアルメニアで生まれた。アルメニア人は苦難の歴史を背負った民族で、彼も民族の受難の渦中で青春期を過ごし、パリで画家となった。この作品は何度か訪れたスペインのどこか貧しい町の路地裏で彼が目撃した情景であろう。彼が描くのはいずれも表の明るい場面ではなく、生活の吐息がもれる暗い部分である。全ては光と翳が存在している。美しいと思えるものはそこに翳が、美しいと思えないものがあるからだ。翳がなければ輝きも美しさも何もない。」  立川昭二

カリエ-ル1849-1906 「病気の子ども」 1885年 オルセ-美術館
「若い母親が膝に子どもを抱いて坐っている。子どもは右手をだらりと下げているが、左手は母親の右頬にあて、額を母親の頬にすりよせている。母親は右手で子どもの背中をやさしく抱き、左手は足にそっとあてている。室内の淡い色調が親子のかぎりない抱擁をしっかりとつつんでいる。カリエ-ルの「病気の子ども」と題された1885年の作品。フランスの画家カリエ-ルは、エコ-ル・デ・ボ-ザ-ルに学び、はじめは色彩豊かな作品を描いていたが、晩年になると色彩をおさえた明暗の諧調による詩情的な世界を描くようになった。とりわけ慈愛にみちた母性を主題にした作品で知られる。門下からはマティスやドランが出ている。母性の画家カリエ-ルの数ある母子像のなかで、この「病気の子ども」は代表作といわれる。
・・ここに描かれた「抱く」というしぐさのかぎりないやさしさに見る人はひき込まれていく。・・子どもを抱くというしぐさは子育ての原点である。子どもにとって母親に抱かれているときこそ、この世でもっとも安心していられるときである。」  立川昭二


グランマア・モ-ゼス「ドクタ-」

「この若々しい絵を描いた画家は、このときなんと90歳! しかも76歳ではじめて絵筆をとるまではアメリカの片田舎の一介の農婦だったのである。アンナ・メアリ-・ロバ-トソン・モ-ゼスは、ふつうグランマア・モ-ゼス(モ-ゼスおばさん)と呼ばれている。1860年に生まれ1961年に101歳で亡くなった。緑の草原と深い森に囲まれた農家に生まれ、早くから他人の家で働き、結婚してからは自分たちの農場を持ち、10人の子どもを育て、勤勉に誠実に働きとおした。夫の死後、リウマチが悪くなり、編み物もできなくなったので、ふと絵筆を握って板きれに絵を描き始めた。それが76歳のときである。以後亡くなるまでの25年間に千六百余点の作品を残した、その1点1点のどれもが世界中の人々から愛され、何枚枚というクリスマスカ-ドやカレンダ-になって人びとの手から手へと渡っていった。」  立川昭二
-モ-ゼスの言葉
「物事はとても変わりました。今も変わりつつむあります。これからも、もっと変わるのでしょうか。これ以上の進歩を想像できますか。・・・・でも、時々、わたし達が本当に進歩しているのかどうか、考えてしまうのです。わたしが子どもの頃には生活は多くの点で違っていました。テンポはもっとのろかったし、良い、幸福な生活がありました。人々はそれぞれのやり方で人生をもっと楽しんでいたと思います。すくなくとも人々はもっと幸福そうに見えました。当節は幸福になるための時間を費やさないのです。」
-95歳の時・テレビのインタビュ-の質問に答えて
「これからの20年間、何をなさいますか」
「あそこへ行きますよ。当然-当然、そうしなければなりません。わたしくらいの年齢に達すると、あまり長くつづけることを期待できなくなりますから」-モ-ゼス
「あなたはこのことについて恐怖とか不安は持っておられないのですね?」
「持っていません。眠りについて、次の世界に目覚めるような-そんなものだと思います。いつ眠ったか意識したことがありますか?」-モ-ゼス
「いいえ」
「いつ最後に考えたか-あなたは意識しなかった」-モ-ゼス
「その通りです」
「翌朝起きて、ああ、あれを考えていたのだった、と思うかもしれない。でも、その最後に考えたのがいつだったか、覚えていない。ええ、そういうふうに眠りにつくのですよ」-モ-ゼス
うつろう自然と呼吸を合わせて生きてきたモ-ゼスおばさんにとって、死もまた自然のめぐりのひとつであった。古今東西の哲学者や宗教家が死について限りなく語ってきたが、この一介の老農婦のことばほど、生から死への過程をやさしくあたたかく語ってくれたものはほかにない。立川昭二

三橋節子  「花折峠」 昭和45年  三橋節子美術館
100号の日本画の大作「花折峠」は近江(滋賀県)の伝説をもとに描かれた。京都から若狭へぬける途中にある花折峠。この美しい名の峠にはこんな伝説がある。「その昔、この里に心のやさしい娘と評判の悪い娘がいて、二人とも京に花を売りに行っていたが、心のやさしい娘の花ばかりがよく売れた。ある大雨の日、評判の悪い娘は日ごろの嫉妬心から、心のやさしい娘を橋から川につきおとし、村に戻ってきた。ところが、死んだはずの娘が先に帰っていて、夕飯の支度をして彼女を迎えた。驚いて橋に戻ってみると、あたりの花たちが一斉に折れているではないか。-。じつは、花たちがわが身を犠牲にして可哀想な娘を助けたのである」。この絵を描いたとき、三橋節子は34歳。彼女は琵琶湖を見下ろす大津市長等の自宅で絵筆をとったのであるが、じつは、その1年ほど前、節子は右肩鎖骨腫瘍のため手術し、利き腕の右腕を肩から切断していたのである。左手で描かれた作品・・・。節子はどんなおもいを胸にこの死と再生の物語をモチ-フにした絵を描いたのであろうか。・・・・。おそらく近づく死の予感のなかで、節子は花売り娘の悲話にたくし、幼い子どもと夫を残していかなければならない悲痛なおもいを表現したのであろう。・・・やがてがんは肺に転移し、3度目の入院。昭和50年2月24日、転移性肺腫瘍のため死去。35歳であった。彼女の生涯については梅原猛の「湖の伝説」にくわしい。   立川昭二

梅原猛 「湖の伝説」昭和59年10月25日発行 新潮社
「彼女(三橋節子)は、自分の画について、何も語ろうとしなかった。彼女はだいたい自らの画について語ることを好む人間ではなかった。画は、画をして語らしめよ、それが彼女のモット-であった。わけても、この死を前にした彼女の微妙な内面を、どうして人に語りえよう。この画について彼女は、夫にも父にも、何ひとつ語ろうとしなかった。そして肉親たちもまた、彼女に、彼女のかいた画の意味をたずねようとしなかった。節子の中には、どんな人間も立ち入ることの出来ない孤独があった。この場合、そういう孤独を大切にすることが、何よりも節子への思いやりであった。」
「人間には、逆境に強い人間と、弱い人間とがある。・・三橋節子もまた、逆境において、それ以前に予想されない能力を発揮した人間だった。学生時代の節子は、目立たない人間であった。学生時代ばかりか、一生の間ほとんど栄光の座に坐ったことはなかった。たとえ、新進画家として、2.3度賞に輝いたとしても、彼女の名は一般にはほとんど知られていなかった。思い切って言えば、病気が彼女を訪れるときまで、彼女は何ら目立った人間ではなかった。しかし、人間が想像しうるもっとも残酷な病気であると思われる病気が彼女をおそったとき、彼女は、予想も出来ない能力を発揮した。・・人間にとってもっとも耐え難いのは、やはり死の不幸であろう。節子の場合は、自己の片腕の切断と死という不幸である。不幸は多くの人間から、何物かをうばってゆく。死は人間から世界そのものを奪ってゆくのである。・・愛する夫や子どもにかこまれ、画家としてもやっと認められ始めていた33歳の三橋節子を暴君は突然襲った。画家としての利き腕である右手を奪うという仕方で彼女を襲ったのである。・・一切を知りながら画をかいていたのである。入院待ちの間に、一枚の画をかいていた。「湖の伝説」と題する画がそれである。・・・」表紙の絵  梅原猛

岡部伊都子 「湖の伝説」解説
「1976年度の「芸術新潮」への連載に、わたくしは「女人無限」をテ-マとした。その中に「風土記」逸文にある伝承「伊香小江イカゴノオウミの天女」をいれ、伊香小江、余呉湖へでかけた。湧水の湖だという余呉湖は、折から雨のふっているせいもあって、ほとんど人気がなく静かだった。まるで海のように巨きな琵琶湖とちがって、余呉湖はこぢんまりした、いかにも湖らしい湖だった。湖畔で休もうとして、わたくしは、はっとした。白く明るい雰囲気とはまったく異る、暗い印象の絵がかかっていた。絵を撮った写真であった。この絵は、35歳で2人のお子をのこして亡くなった節子さんの絶筆「余呉の天女」であるという。鎖骨腫瘍のため右腕を切断した画家。夫君に病名を明かせれ、死の恐怖とたたかい、覚悟をかためながら、右腕切断から死までの二年間、さらに左腕で、みごとな画業を重ねた女人。わたくしは、「伊香小江の天女」の末尾で、この絵の写真に触れ、「彼女もまた、仮に人の世に降り立ったひとりの天女だった」と記した。」  岡部伊都子

松本竣介 1912-1948 
36歳でなくなったこの画家の、冴えた透明感のある色調と密度のあるマチエ-ルをもつ作品に接すると、彼がいかに絵を描くことに歓びを感じていたかがよく伝わってくる。絵を描くことの歓びこそが、画家の最も本質的な資格であり、これなくしては、かりにいかに絵の主題が優れていたとしても見るものを魅了することはできない。 松本竣介-戦時下の画家  浅野 徹

舟越保武・彫刻家 「巨岩と花びら」
「竣介は付属小学校を出て、私と同じ年に盛岡中学に入ったのだが、級が別だったためか、ほとんど口をきいたことがなかった。二年の頃かに熱病を患った際に聴覚神経を冒されて、三年の頃にはまったく聞こえなくなってしまった。精神的も随分苦しんだことと思う。だが、その頃も既にかなり立派な絵を描いていた。その頃から彼の、眼で見て、眼で聴くという生活が始まった。そして 素晴らしい彼の感覚はそれに成功した。十幾年間の経験によって耳を使わずに話す(普通の場合、発声は耳の働きによって、自分の声を聞きながら調節して初めて可能なのだろう)ことに成功した。
澄んだ目で、朗らかに明るく話す人であった。彼の絵の静寂は、聴覚神経の欠如とは関係がない。竣介は静かな美しさを求めて絵を描いたのであって、そこには音の必要はなかった。もし彼が耳が聞こえていたとしても、やはりあの静かな絵を描いたに違いない。夕方の町を歩いていて、ふとスミレ色の光がまわりに見えるとき、ああ、竣介の時間だ、と私はつぶやく。

「私は白い花束を持って下落合の彼の家を訪ねたのは葬式が済んで幾日かしてのことであった。(竣介が死んだとき、私は郷里に疎開していた。展覧会の作品の制作で葬式に出れなかったとしてあるが、実は上京する汽車賃を工面することができなかった。)
遺骨のある仏壇の上の彼の自画像がじいっと私を見ていた。深い深い澄んだ眼で私を迎えてくれていた。この絵は呼吸している。私は唯一の友を失ったとおもったていたが、ここに竣介は生きている。私はこの絵を見るたびに制作の反省や鞭撻が得られるのだ。そう思う途端にハラハラと涙が流れていた。

「アトハキミガヤレ」と死んだ竣介はいうにちがいない。イヤダ、もう一度生き返って、あの橋の絵を描いてくれ。君ののこした子供の絵を仕上げてくれ。竣介、僕は君に初めて怒鳴りつける。なぜ断りなしに死んだのだ。

「立てる像」 1942年 

「子ども」 1943年

「街にて」1940年

「黒い花」 1940年

「建物と人」 1939年

「橋」 1941年

三岸節子・自画像

風間完 
1919年東京生まれ。画家 新制作協会会員 風景画、美人画、銅版画。週刊現代「青春の門」五木寛之。週刊朝日「真田太平記」池波正太郎、毎日新聞夕刊「花神」司馬遼太郎など。連載小説の挿絵をてがける。
-詩や歌が言葉であるように、また音楽が言葉であるように、絵もまた言葉なのです。それは人に語りかけてくるものだからです。・・・風間完