ヒロシマ2

戦前-被爆前の広島地図

長田 新 「原爆の子」 序文から
中国山脈から流れ出る太田川が6つに分かれて瀬戸内海に注ぐ。そのデルタの上に跨がった広島市が世界最初に
投下された原子爆弾によって一瞬の間に焦土と化し、全人口43万のうち実にその過半数の24万7千人の尊い生命が
消し飛ばされてから6年、当時黒焦げの屍で埋まった川には、今は澄み切った水が静かに流れ、川辺に青々とした茂
った樹々の影を映しており、街にもようやく商店が立ち並んで復興への息吹きが感じられる。
とはいえ、表通りを離れて一歩足を裏町に踏み入れてみると、そこにはまだ倒れたままの墓石や赤錆びた鉄片や煉瓦
のかけらなどの散乱した焼け跡が残っていて、雑草の生い茂った空き地が続いており、昔はあかあかと街燈が並んで
いた町々も夜になると、暗闇の中に沈んでしまう。

現代の広島 

撮影日   2015/01/11

 原爆慰霊碑と原爆ド-ム

 撮影日   2015/08/07

原爆の投下目標となった「相生橋」-実際は島病院の上空で破裂

相生橋の欄干

原爆ド-ムから相生橋を見る

相生橋から見た本川の流れ。多くの被爆者がこの川に飛びこんで亡くなった。

原爆ド-ムと原民喜の詩碑

原 民喜・詩碑  遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻
下の写真 広島城

原子爆弾投下により消滅した広島城

「いしぶみ」-広島二中一年生全滅の記録より
 まっすぐ、自分たちの方に向かって落ちてくるのが爆弾と気づいて、とっさにだれかが「退避、逃げろ」とさけびました。
「ふせろ」という声を聞いた生徒もいます。一瞬、直径が百メ-トル、表面の温度が九千度もある太陽のような火の球ができ
、そこからオレンジ色の閃光と熱線、その後を強い爆風が追いかけました。わずか五百メ-トルの間近にいた広島二中の一年生
は、閃光に目を焼かれ、服は燃えだし、そして小さな体は地面にたたきつけられ、十メ-トルも吹き飛ばされたのでした。  
撮影日   2015/01/11

なぐさめの 言葉志らねば ただ泣かむ 汝がおもかげと いさをしのびて 
広島二中慰霊碑

原爆資料館のところから平和公園の南側に出て、平和大通りを渡り、元安川に架かる東平和大橋の方向に歩くと、その歩道の右側に
「広島市高等女学校原爆慰霊碑」があります。

あの日、広島市立高等女学校の1、2年生( 12・13歳)がこのあたりで建物疎開作業に従事中、
生徒541人、教職員7人全員が亡くなり、その他の動員先を含め676人が被爆死しました。

友垣に まもられながら 安らかに ねむれみたまよ このくさやまに 

義勇隊の碑
旧広島県安佐郡川内村温井地区(現広島市安佐南区)から国民義勇隊として建物疎開作業中に被爆死した180人の碑。
川内村には六つの義勇隊が組織されていたが、あの日動員されていたのは温井地区だけだった。
自宅にたどりついて亡くなったのは、わずか7人。いまだに100人以上の遺骨が見つからない。
当時、人口約千人の温井地区は一瞬のうちに働き盛りの男手を失い、お年寄りと女性、子どもだけが取り残された。

御幸橋-松重美人氏による撮影 被爆した6日に写された数少ない写真の一枚。モニュメント。

現在2015.1.11 御幸橋 
生死を分けた橋-爆心地から避難する人びとと救援に向かう人びとがこの橋で「人生の交差」をした。

鶴見橋 建物疎開に従事していた多くの子ども達-学徒動員の名のもと-が命を落とした。戦前は多くの子ども達がこの
川で水遊びをしたという。

師団司令部地下壕-原爆投下の第一報が、ここで従事していた比治山高等女学校生により発信連絡された。
広島市による保存が決定したのは1990年代に入ってからという。実に約半世紀の時を要した。

被災した袋町小学校-救護所にあてられた。

佐々木禎子さんの母校 のぼり町小学校

京橋川 石垣は戦前からのものか。もの言わぬその目で多くの被災者を目撃したか。

泉邸 縮景園 今も水と供花が絶えない。

市のいたるところで、こうした歴史写真モニュメントを見ることが出来る。

現在の様子

原爆投下前、現在の平和公園にあった住居-どんな方がお住まいになっていたかわかる貴重な復元地図。