映画紀行

 

映画は自分にとって、ちょつとオ-バ-ですが、「人生を考える学校」のようなものです。  鈴木慶治 2020.3-

子どもの頃への旅-1960年代-
町中にあった映画館によく祖父に連れられて行った。駅前に2館、主として東映系・大映系の映画が封切られて いた。当時は3本立て。暗闇で正面のスクリ-ンに映るスタ-の動きに心がおどった。日常を離れた、仮想の「異空間」に身を置ける不思議な快感。60年以上前のことでも、今も鮮烈に振り返ることが出来る。 東映系の封切り作品はなんといっても、「清水の次郎長」シリ-ズの時代物。片岡千恵蔵・御大が扮する「東海道一の大親分・次郎長」が格好良かった。 富士山をバックに次郎長一家が、三度笠をかぶり並んで歩く姿は、目にやきついている。次郎長シリ-ズは何本見ただろう。 市川右太衛門(北大路欣也さんの御父上)の吉良の仁吉役も格好良かった。「任侠東海道」1958年・というタイトルだったかな。 「遠州森の石松」・1958年・錦ちゃん・中村(萬屋)錦之助の 扮する「森の石松」が竹藪のなか、惨殺されるチャンバラ場面は、壮絶で怖かった・・。
今思えば、子どもの見る映画の場面ではなかったと思う。大映系ではラブシ-ンの入った現代劇を祖父と一緒に何も分からず見ていた。
10歳前後であった。
 それ以前、7.8歳頃の思い出としては、実家の近くにモモキさんというお宅があって、地方まわりの旅芸人の方々がよく来ていた。
舞台を設置し生の芝居を見せてくれた。舞台上で演じられる-どんな演目であったかは忘れてしまったが-役者さんの動きに、映画とはまた違った不思議な感じを受けた。時代モノが多く、扮装する前後でひとりの人間が別人格のようになる、それがとても不思議だった。
その頃から「想像的なもの、日常からはなれたもの、夢見るようなもの」-に興味を感じはじめていたのかもしれない

モロッコへの旅

「カサブランカ」のイングリッド・バ-グマン(1915.8.29-1982.8.29)

 

鈴木慶治-心に残る映画
最近、(2020.3)「カサブランカ」を・BS放送で見た。 -「イングリッド・バ-グマン」-は心に残る魅力的な俳優さんだ。
1960年代後半の10代の終わりで見た時は、社会・歴史背景-フランス領モロッコと反ナチ活動-などがよく理解出来ず、
バ-グマンの演じるイルザという女性の葛藤・心の揺らぎがよくわからなかった。
その当時の自分より遙かに「大人の映画」だったのだ。恥ずかしいことに単なる恋愛劇かとさえ思っていた。
今、この映画の制作が、1942年・昭和17年-第2次大戦中の映画だったのが信じられない。反ナチ活動は映画の中だけの事ではなかった。
最初の感想からバ-グマンの魅力は「清らかで美しい」という印象。大戦中という時代の中、2人の男性の間で心が切ないほどの揺れ動く。
バ-グマンの感情表現・・単に美しいだけでない理知的なイルザ役のバ-グマンがいた。
そしてリックを演じるハンフリ-・ボガ-ドの渋さ-男っぽさいに痺れた。
                                         
カセブランカ Casablanca ワ-ナ-・ブラザ-ズ 1942年 制作 ハル・B・ウォリス
監督 マイケル・カ-ティス 
出演 ハンフリ-・ボガ-ド イングリッド・バ-グマン ポ-ル・ヘンリ-ド クロ-ド・レインズ 他

イングリッド・バ-グマンはどんな女優さんだったのだろう。
映画「カサブランカ」のシ-ン

○「イングリッド・バ-グマン-時の過ぎゆくまま」からの引用  P.114-115
「イングリッドは1942年4月20日、ついに新しい映画の役がついたことを知った。彼女はこれ以上興奮できないほど興奮した。
ベッドに入っても眠れなかった。彼女は三度も階下に降りて独りで居間にじっとすわっていなければならないほどだった。数日後には出発してハリウッドへ、自分の世界に帰って行く。彼女は新しい映画について「カサブランカ」という題名以外何も知らなかった

鈴木慶治-補足
題名以外何も知らなかった、とは驚きである。この時期、イングリッド自身が満足出来る作品が少なかったようだ。ハリウッドの大物プロデュ-サ-、セルズニックがバ-グマンと専属契約を結び、映画作品をほぼ独占的に管理、選択をしていて、自由に仕事を選べることが出来ずにいた。はやく次の仕事をしたいという強い願望があった。それが満たされる歓喜-興奮であったと思われる。バ-グマンにとって休息は仕事の中にあったのだ。

イングリッド・バ-グマンを知る評伝・自伝の資料-がある。鈴木慶治蔵
○「イングリッド・バ-グマン」 時の過ぎゆくまま 1989.10.30 第1刷発行 朝日新聞発行 
著者 ロ-レンス・リ-マ- 訳者 大社淑子 501ペ-ジ

○「イングリッド・バ-グマン-マイストリ-」1982.1.20 第1刷発行 新潮社版 
筆者 イングリッド・バ-グマン、アラン・バ-ジェス
訳者 永井 淳 訳   610ペ-ジ

 

○イングリッド・バ-グマンは「カサブランカ」をどう考えていたか。-<時の過ぎゆくまま>-p.134 から引用。
「カサブランカ」は、イングリッドの考えでは単なる商業映画にすぎない、妥協の産物のような作品であった・・。
イングリッドの女優歴につきまとう皮肉の一つは「カサブランカ」が不朽の名作となったことである。
彼女がマリア役-「誰がために鐘は鳴る」の役-を失ったと思い、その悲しい代替物としか考えなかった映画
(カサブランカ)こそ、イングリッド・バ-グマンの人気の素地を作った作品だった。
それは彼女の他の多くの映画が地下倉庫に移管されたあとも、いつまでも愛され、讃えられ、上映されることになった映画だった。
鈴木慶治-
自分たちの心に残る映画が、本人にとっては「妥協の産物」であり、単なる商業映画、次の作品への合間の映画であるとしたら
何か寂しくもある。バ-グマンの目指す映画が他にあったのを簡単に納得・理解したくない気持ちになる。より文芸的・芸術的なものをと考えていたのだろうが・・・・。 
○バ-グマンはどこに眠っているのか- 
沢木耕太郎氏の著作に「キャパへの追走」-文春文庫・2017.10.10。
-その中でイングリッド・バ-グマンの墓にふれた文章がある。長くなるがなかなかに詩情あふれる文章なので紹介する。
スウェ-デンへの旅
墓地に降る雪-<時の過ぎゆくまま>-p.134 から 引用
「1944年6月6日の「ノルマンディ-上陸作戦」から1年後の1945年の6月6日、」
キャパと「世紀の大女優」との1年以上も続くロマンスが始まるのだ。・・キャパがイングリッドに出した手紙が、
バ-グマンの自伝「マイ・ストリ-」にある。「-きみがつぎつぎ契約書にサインして、ますます人間らしさを失い、
伝説と化していくことを憂えている。成功は失敗よりも危険で、人間を堕落させるから、充分注意しなくちゃならない。」
バ-グマンは、キャパの死から28年後の1982年、ガンに冒されて死ぬ。・・私がスウェ-デンのストックホルムを訪れたのは
12月に入ったばかりのときだった。中央駅の近くのホテルに泊まった私は、翌朝、フロントの女性に「北霊園」までの行き方を訊いた。
そこにイングリッド・バ-グマンが眠っているはずだったからだ。フロントで教えられたとおりバスを2度乗り継ぎ、市街地から
だいぶ離れた寂しい停車場で降りた。大きな通りの向かいにある墓地はすぐにわかった。
しかし、中に入ったもののあまりにも広大すぎてバ-グマンの墓をどのように捜していいかまったく見当もつかない。
やがて雪が舞いはじめてきた。-ようやくこれがバ-グマンの墓なのかと思えるような質素な造りの墓を発見することができた。
細かく小さな雪の降る広大な墓地は、墓参の客などひとりもいないのではないかと思えるほど静まり返っている。
空からは灰色の雲が重く垂れ下がっているため、午前と思えないほどあたりは暗い。私は中央にただ「イングリッド」とだけ
記された墓の前に立って、しばし思いを巡らせた。キャパの死は不慮の死だったが、バ-グマンは病の中で自らの死について考える時間が充分にあっただろう。そのうえで、病と戦い、勇敢に仕事をつづけ、自覚的に死んでいった。
その彼女は、ハリウッドのスタ-時の名前である「バ-グマン」として死んだのか、再婚したロッセリ-ニの国で呼ばれていただろう「ベルグマン」として死んだのか、あるいはこの墓がある生まれ故郷のスウェ-デンの名である「ベリマン」として死んだのだろうか。
・・私は、本格的に降りはじめた雪の中を霊園の出口に向かって歩きながら、この寒さの中で少女時代を過ごした彼女にとっては、やはり「ベリマン」として生き、死んだと考えるほうが自然かもしれないな、などと思ったりしていた。」

鈴木慶治-補足
キャパについて「ロバ-ト・キャパ」。1913.10.22にハンガリーの首都ブタペスト生まれた。本名エンドレ・エルネ-・フリ-ドマン。
スペイン、中国、アフリカ、イタリ-、ノルマンディ、イスラエルなど、戦闘の最前線を駆けめぐり「戦争」を撮り続けた世界的に著名な報道写真家、フォトジャ-ナリス。バ-グマンより2歳年上。1954年、40歳のとき、ヴェトナム・ハノイの南方で地雷に吹き飛ばされて即死。亡くなる直前まで日本に滞在していた。
バ-グマンの墓が人目につかない場所にあり、しかも質素なつくりというところに胸をつかれる。人生の華やかな表舞台に
比較すれば、何という落差だろうか。今や完全とまではいわなくとも「忘れられた」ようにひっそりとバ-グマンは眠っている。
あたりに人の声もなく、「ただ-あたりに白い雪が降っている-」。読みながら自分もバ-グマンその人に思いをめぐらしていた。

鈴木慶治-
映画といえばこの人、この人といえば映画-次はナガハルさんこと「淀川長治」先生の著書を紹介します。

淀川長治 氏-1909-1998 享年89歳
「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」 近代映画社 1988.12.25第一刷発行

鈴木慶治-
淀川長治さんが、テレビ放送「ララミ-牧場」の解説を引き受けたのは、氏が51歳・昭和35(1960)年とのこと。
当時私は10歳前後。他に娯楽の少なかったこともあり、毎週、むちゅうでこの番組「ララミ-・・」を見ました。
最後に淀川さんが必ず、毎回「・・・。ハイ、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」という言葉は、鮮烈な記憶です。
淀川長治さんから見た、イングリッド・バ-グマン
淀川-
「スウェーデン生まれのガルボが一生涯、演技で苦労したように、バ-グマンも一生涯、演技で苦労した不幸な女性と思う。
ガルボもバ-グマンも、私には美人にはまちがいないが、いつまでも女優でなく素人というような気がつきまとったものである。
・・バ-グマンは2度、アカデミ-主演女優賞をとっている。一つは「ガス燈」(1944)であり、もう一つは「追想」(1956)。
私は「追想」と「秋のソナタ」(1978)にバ-グマンの実力を見た。・・自分が映画界で生きるか死ぬかはこの「追想」の出来不出来
にあると見たバ-グマンの悲壮な決意があの名演をもたらし、彼女はアカデミ-賞をとったのである、と私は思った。」
鈴木慶治-補足
夫と子を捨ててロッセリ-ニ監督のイタリアに去った(1950-)ことで、バ-グマンはハリウッドから大きな批判、怒り、悪評をかい
なかば追放処分になっていた。それが数年がたち、ハリウッドのバ-グマンへの怒りが冷めて、彼女を迎えてやろうとした作品が「追想」
であった。・・
淀川-
「バ-グマンには「ガス燈」の前に「誰がために鐘は鳴る」(1943)があり、そのもうひとつ前に「カサブランカ」(1942)がある。
どちらもオスカ-は受けていない。このころバ-グマンはただもう美しいの一語に尽きた。・・いままでのアメリカ映画でこれほど
清らかで、しかも美しい女優がいたであろうかと見とれるばかりであった。・・
「カサブランカ」という舞台劇の映画化にバ-グマンをイルザの役・・バ-グマンの映画女優のまさに歴史はここにはじめてスタ-トした
というほどのこれは大成功であった。バ-グマンはやっぱり清らかで美しく、しかも恋に酔うと言うよりも、恋に泣くといった可憐な
女性の役が向くのであった。・・
私はバ-グマンを不幸だった女性と思う。美しいばかりに女優の世界に入りこんだそのことが彼女を生涯苦しめたと私は思う。
バ-グマンの本格女優時代がきたと思った矢先に死亡した。1982.8.29 享年67歳。」
鈴木慶治-
バ-グマンにはロッセリ-ニの間に3人の子どもがあり、そのひとり、イサベラ・ロッセリ-ニ(1952.6.18-)はケビン・コスナー主演
の「ワイアット・ア-プ」(1994)に出た。生涯ア-プに連れ添う重要なケイト役-ア-プ夫人-を演じたのを数年前に見た。
見た時はバ-グマンの娘と気づかず、好きな俳優さんのタイプだなあと思っていた。他の作品は残念ながら、今まで見る機会がない。
                               鈴木慶治 2020.4.18 記

 映画「カサブランカ」のラストシ-ン



スタ-は自分自身の私生活もドラマにかえてしまう。

鈴木慶治-
イングリッド・バ-グマンの次に紹介する俳優さんは、バ-グマンより2歳年上の女優-。

タラへの旅  南北戦争がドラマの時代背景。
スカ-レット・オハラを演じる女優を捜すためにディヴィッド・O・セルズニックは5万ドルの費用と2年半の月日を費やした。
「風と共に去りぬ」の撮影は1938年のよく晴れた、冷たい12月のゆうべ、7台のテクニカラ-・カメラが待機している彼の撮影所で、
主演女優がきまらないまま開始された。・・・マ-ガレット・ミッチェルの世界的に名の知られたヒロイン-スカ-レット・オハラ・・・。
ジョ-ジア州の3つの部でもっとも細い、17インチ(43センチ)のウェストの彼女は発見できないのではないかと思われた。・・・

鈴木慶治-
1967.7.8 ロンドンのアパ-トで誰からもみとられることなく、たったひとりで亡くなった女優がいた。
彼女の代表作は「風と共に去りぬ」1939・「哀愁」1940・「欲望という名の電車」1940 など・・。
彼女の名前はヴィヴィアン・リ-Vivien Leigh 。-亡くなった時は54歳という若さであった。
ヴィヴィアン・リ-(1913.11.5-1967.7.8)
イングリッド・バ-グマンは(1915.8.29-1982.8.29)。

○淀川さんから見たヴィヴィアン・リ-
淀川-
「ヴィヴィアン・リ-の美しさは、あたかも冬の夜の三日月を思わせた。
 ヴィヴィアン・リ-の美しさは、5月の風にそよぐ白いカ-テンの影に見え隠れする、リンデンの黄色い花を思わせた。
 ヴィヴィアン・リ-の美しさは、エメラルドよりもダイアモンドよりもパ-ルを思わせた。」
鈴木-
ナガハルさん(淀川長治)は、ヴイビアン・リ-を上のように形容した。その美しさに対する最大限の賛辞だ。
イギリス映画最高の名優ロ-レンス・オリビエにヴィヴィアンは夢中になり、オリビエを追ってハリウッドへ。(25歳)
オリビエの案内したセルズニックのスタジオからビビアンの-歴史的歯車が回転しだした。
主役のスカ-レット・オハラが決まらぬまま「風と共に去りぬ」のアトランタの火災シ-ン。これをオリビエはヴィヴィアンに見せた。
その彼女をセルズニックが、ひと目で惚れ込んでスカ-レット・オハラ役を彼女に・・。


○ヴィヴィアン・リ-はどんな女優だったか。ウィキペディアからの引用-
オハラ役の女優はなかなか見つからない。1936.7から2年4ヶ月の間に面接した候補者は1400人。
スクリ-ンテストを受けた者は90人・・ベティ・デイブィス、キャサリン・ヘプバ-ン、ラナ・タ-ナ-、ス-ザン・ヘイワ-ド・・
セルズニックのイメ-ジに合う女優はいなかった主演女優未定のまま撮影に入り、いきなり映画の中盤の見せ場であったアトランタ市街
の炎上シ-ンから撮影を始めたが、その時にたまたま見学にきた英国の舞台女優ヴィヴィアン・リ-がアトランタ炎上の撮影場面を見つめていた。
その姿を見てセルズニックが叫んだ。
「スカ-レット・オハラがここにいる」と。1回のカメラテストで即主演女優に決まった。

鈴木慶治-補足
映画「風と共に去りぬ」は1939年の制作。制作費、390万ドル(425万ドルという説もある)・大作。日本での初公開は戦後の1952年。
ヴィヴィアン・リ-はこの時・25歳。 制作費の参考 1956年作・11億円-出演したマ-ロン・ブランドの出演料1億2千万だそうです。
両作品には17年の時間差があり「風と共に・・」との比較は不可能ですが、現在の390万ドルとは桁が大きく違うことは言うまでもない。


鈴木慶治-補足

鈴木慶治-
「風と共に去りぬ」は、テアトル東京・東劇・・と複数回見た。10代の後半のこと。衝撃は大きかった。上映時間222分。4時間近い。
前後半、間に「休憩」が入る。2019.12.NHKBSプレミアム放送で見て、すぐ録画した。ビデオもあるのだが・・。
この映画が現時点で約80年の時を経過していても、全く色褪せないで映像・内容が見れることに、脅威すら覚える。自分だけではないだろう。
アトランタの火災シ-ンは劇中でも最大のクライマックスシ-ン。ここにヴィヴィアンが見物人としていて、-オハラ役を掴むことになるなんて
事実は想像以上とはよく言ったものである。(事実は小説よりも奇なり)
個人的にはヴイビアン・リ-より、メラニ-役をやったオリヴィア・デ・ハヴィランドが最初に見た時から大好きである。(賢く・やさしい)
そしてバトラ-役のクラ-ク・ゲ-ブル、原作者のマ-ガレットはゲ-ブルを思い浮かべながらバドラ-を書いたとのこと。
<レッド・バドラ-はクラ-ク・ゲ-ブルそのものであり、ゲ-ブル以外の俳優は考えられなかった。>
「ゲ-ブルがオスカ-をこの作品でとれなかったは、不思議でいまもってふに落ちない。」と淀川さんは言っている。
この作品で忘れてはならない俳優さんがまだいる。スカ-レットのメイド役マミ-をしたハティ・マグダニエル1893-1952。彼女
はこの作品で黒人として、史上初めてアカデミ-助演女優賞をうけた。今から80年前のことで、もの凄いことです。演技も心に強く残る。
余談だがメラニ-役のハヴィランドは1916.7.1日本の東京生まれ。妹はジョ-ン・フォンティンも1917年・東京生まれの米国女優。
ハヴィランドは、1946年「遙かなる我が子」・1949年「女相続人」でアカデミ-主演女優賞。
妹のフォンティンも1941年ヒッチコック監督作品・「断崖」どアカデミ-主演女優賞をとっている。
実はフォンティンは「風と共に・・」のスカ-レット・オハラ役の多数の候補者のひとりにあがっていた。
もし実現していれば姉妹でこの大作に出演していたかもしれない。メラニ-とスカ-レットの役回りが姉と妹のようであったことを考えると
実生活の姉妹がしたことになり・・映画的な興味は尽きない。    鈴木慶治 2020.4.19 記


「ヴィヴィアン・リ-」1980.5.10 第1刷 筆者 アン・エドワ-ズ 訳 清水俊二
-栄光があまりにも輝かしく、華やかであったため、私たちはもう一人のヴィヴィアン・リ-がいたことに気がつかなかった。
それはヴィヴィアンにもう一つのオスカ-をとらせた「欲望とい名の電車」のブランチ・デュボアに象徴されている、
スカ-レットとは裏返しの女性であった。-清水俊二 あとがきより
鈴木慶治-補足
「欲望という名の電車」・テネシ-・ウイリアムズの舞台劇(1951)映画化。最後は発狂し、精神病院に連れ去られるブランチ
という役を演じ、2度目のアカデミ-主演女優賞をとった。しかし後年、ヴィヴィアン・リ-自身もまた精神に変調をきたしていくことになる。

「映画と共に歩んだわが半世紀」 平成20年12月10日 第1刷発行 筆者 淀川長治 近代映画社発行

「生きる」という贅沢 1998.4.10 第1刷 筆者 淀川長治
淀川長治さん-
「明治42年(1909)、4月10日生まれ。届けには4月1日生まれとなっている。家中が生まれたての私をのぞいて、
「ええ子や。男前やなァ」とほめそやしたらしい。母も父も私を自慢した。父が56歳のときに生まれた私は、この日から
過保護に染まった。4月1日生まれは、早生まれとしてあつかわれる。父は私を1年早く学校へ入学させた。戸籍届けにウソ
を書かれたことは幼年知るよしもないが、うすうす同級生より体も元気も勇敢さもおくれていることだけは身にしみた。・・・
私の運命というものは実はここから始まっていた。・・・我が家は家ぢゅう活動写真ファンだった。日ごと夜ごと、芝居に、活動写真
とにかく見るものすべてを見回っていた。明治42年(1909)、4月9日の夜も活動写真見物に出かけたが、「お父さん生まれそう」
との妻のうったえで父はびっくり。人力車のアト押しマエ曳き3人曳きの特急で母は家に帰った。それなのに父はまだ残って
活動見物をしていた。けれどやっぱり20分おくれて家に駆けかえったそうだ。
4月10日午前10時半、オギャ-ととびだたのが、私だ。男。家ぢゅうが沸きかえった。オトコハンヤデェ。・・・・」
「・・・家ぢゅう活動写真ファンだったおかげで、幼児の私も、神戸の新開地にある活動写真館に出入りした。3歳あたりでは
何を見たのかの記憶はなく、ただもう、活動写真館の暗がりで画面を見ているだけが好きだったのである。・・・・」

「一俳優の告白」1986.5.25 第1刷 筆者 ロ-レンス・オリビエ 訳 小田島雄志
本来俳優というものは、・・孤立してはありえない芸術家である。それぞれ個性の強い男優や女優たち、
演出家や裏方たち興行主やスポンサ-たち、さらには批評家や観客たちと、愛憎こもごもの火花を散らしながら一つの舞台、
一本の映画を作っていかなければならない。それ自体がドラマである。 
                     訳者 あとがきより

ロ-マへの旅
「ロ-マの休日」  オ-ディション  ・オ-ドリ-・ヘプバ-ン

「ロ-マの休日」 グレゴリ-・ペック

オ-ドリ-・ヘプバ-ン (1929.5.4-1993.1.20) 享年63歳 ベルギ-で生まれ スイスの自宅で亡くなる。
「ロ-マの休日」出演での最大の宝物は、ウィリアム・ワイラ-(監督)とグレゴリ-・ペックとの終生の友情である。」と
オ-ドリ-は語っている。
淀川さんは、
「いつまでたっても"お嬢さん"という可愛さがつきまとい、それに品があって、百合の白い花みたいでアメリカの誇りとなった」という。
鈴木慶治-
映画「ロ-マの休日」のオ-ドリ-に対する印象が強烈であったため、他の作品には・・。
余談
各俳優さんの身長は以下の通り

イングリッド・バ-グマン 175 cm    
ヴィヴィアン・リ- 160cm  
オ-ドリ-・ヘプバ-ン 170cm
グレゴリ-・ペック 190cm 
エリザベス・テ-ラ- 162cm  
ジェ-ムス・ディ-ン 170cm
クリント・イ-ストウッド 193cm

ヴィヴィアン・リ-やエリザベス・テ-ラ-は、日本人女性と変わりありませんが、スクリ-ンでは大きく感じました。
イングリッド・バ-グマン 67歳 ヴィヴィアン・リ- 53歳  オ-ドリ-・ヘプバ-ン 63歳 
エリザベス・テ-ラ- 79歳   (亡くなった年です。)

グレゴリ-・ペック

鈴木慶治-

男優さんのことを書こう。オ-ドリ-・ヘプバ-ンと「ロ-マの休日」(1953)で共演し、その後「終生の友」とオ-ドリ-に言わせた
グレゴリ-・ペックのことを。
淀川長治さんはペックを形容して
男らしさと正義感にあふれたリンカ-ン大統領のような俳優さん-事実ペックはリンカ-ン尊敬し、その蔵書は1000冊-
・はなばなしく映画界にデビューした清らかでハンサムな新人
・どの作品でも男らしいたくましさを見せるアメリカ映画界の名優
・ハリウッド入りする前から舞台の俳優としても一流の演技者
グレゴリ-・ペック 1916年4月5日 カリフォルニア生まれ。父はイギリス人、母はアイルランド人。父は薬剤師。
両親はペック4歳の時離婚。父の願いの医者になるべくサンディエゴの州立カレッジの医学部に入学運動好き、医師に向かぬこと
家が貧しいことで2年で退学。トラックの運転手、掃除夫-ニュ-ヨ-クで演劇の勉強。ハリウッド入り(28歳)以前に舞台でも一流の
演技者であった。      「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」 淀川長治
鈴木慶治-補足
プライベート写真に写るペック夫人は、オ-ドリ-・ヘプバ-ンによく似ているのでびっくりした。(1955年結婚)
オ-ドリ-と共演して、2人のあいだにはプライベ-トにロマンスの噂があったという。
自分がグレゴリ-・ペックの映画を初めてみたのは「白鯨」(1956)。執念で鯨を追い続け、最後はモリをつきたてたまま
白い鯨もろとも海中に沈んでいくシ-ンには度肝を抜かされた。

下は「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」 淀川長治

上 ソフィア・ロ-レンと      上 少年時代
下 イングリッド・バ-グマンと   下 白鯨の撮影 

下 鈴木個人の所蔵

 

 


エリザベス・テ-ラ-(1932-2011) 陽のあたる場所1951 リズ19歳とは思えない美貌

下は「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」 淀川長治

エリザベス・テイラー(Dame Elizabeth Rosemond Taylor, DBE、
1932年2月27日 - 2011年3月23日は、イギリス出身の女優。少女時代からメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) で子役として映画出演しており、成人後には「ハリウッド黄金時代」(en:Hollywood's Golden Age) を代表する大女優の一人となった。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そして珍しいスミレ色の瞳で知られていた。

『緑園の天使』(1944年)が最初に成功したテイラーの映画出演作品となった。その後、『花嫁の父』(1950年)、『陽のあたる場所』(1951年)、『ジャイアンツ』(1956年)、『熱いトタン屋根の猫』(1958年)、『去年の夏 突然に』(1959年)などに出演している。1960年の『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞を受賞し、『クレオパトラ』(1963年)では、この作品で共演したリチャード・バートンと結婚した。バートンとの共演作は『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)など11本におよび、テイラーはこの『バージニア・ウルフなんかこわくない』で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。1970年代半ばからテイラーの映画出演は減っていき、ときおりテレビや舞台に出演するようになった。

テイラーの私生活は、8度の結婚と生命に関わる闘病生活で知られている。また、社会活動家でもあり1980年代半ばからエイズ撲滅運動を支持し、1985年に米国エイズ研究財団 (en:amfAR, The Foundation for AIDS Research) の創設メンバーの一人となり、1993年にはエリザベス・テイラー・エイズ基金を創設した。大統領メダル (en:Presidential Citizens Medal)、レジオンドヌール勲章、ジーン・ハーショルト友愛賞、AFI生涯功労賞 (en:AFI Life Achievement Award) を受賞し、AFIが選定した映画スターベスト100の女優部門では第7位にランクされている。
補足-1位・キャサリン・ヘプバーン 2位・ペティ・デ-ビス 3位・オ-ドリ-・ヘプバ-ン 4位・イングリッド・バ-グマン 
   5位・グレタ・ガルボ 6位・マリリン・モンロー 16位・ヴイヴアン・リ-

テイラーは長い闘病生活の末、2011年3月に鬱血性心不全のために79歳で死去した。
                     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

少女から娘へ

スザンヌ・プレシェット(Suzanne Pleshette, 1937年1月31日 - 2008年1月20日)


1937年ユダヤ系の両親のもとニューヨーク市ブルックリンに誕生した。父親はブルックリンのパラマウント・シアター(英語版)の舞台主任であり、母親はジェラルディン・リバーという芸名のダンサーであった。シラキュース大学で短期間学んだ後、フィンチ・カレッジでも学んだ。

1950年代後半に舞台女優としてデビューし、1958年のヘレン・ケラーの人生を扱った『奇跡の人』アン・サリバンを演じて注目を集める。当時の評論家は「彼女の漆黒の髪と灰がかった青色の美しい眼は冷笑的な気品を持ち、低い声質は情熱的な響きを持っている」と絶賛した。

映画界にデビュー当時、エリザベス・テイラーを彷彿とさせる美貌に恵まれ、舞台女優としても成功していたために将来を嘱望されたが、現実にはそれほど振るわずに終わった。 映画界にデビューした後、1962年に『恋愛専科』でトロイ・ドナヒューと共演。1964年には結婚し、当時話題をさらったが数か月後に離婚する。

1963年にヒッチコック監督の『鳥』で死亡する設定の女教師役を演じ、後にはテレビ映画やテレビドラマリーズにも進出。

1960年代後半からは主役級の仕事からは遠ざかり、脇役や端役を演じることが増えるが、それでも死の直前まで映画界において性格俳優・助演俳優として出演を続けた。2000年には日本映画『千と千尋の神隠し』の英語版で湯婆婆/銭婆役の声優を務めた。

2006年8月から肺がんを患い、化学療法を行っていたが2008年1月に呼吸器不全で死去した。71歳