本の旅Ⅴ

「高倉健の美学」小田貴月・文藝春秋社編  令和2年2月13日 第1刷発行

鈴木 2020.11、記
-1960年代後半から今に至るまで最も印象に残る俳優さんといえば、「高倉健」・健さん<1931-2014>である。この時期(60-70年代)、健さんは数多くの作品に出た。当時最高に多忙な俳優さんだったと思う。月1本以上の封切り。年間で12本~。多い時は18本。「残侠伝」シリ-ズ(昭和残侠伝)が9作、「侠客伝」シリ-ズ(日本侠客伝)11作、「網走番外地」18作。この3シリ-ズだけでも1964-1972・の8年間で合計38作品。(因みに「男はつらいよ」は1969-1995・27年間で48作品・渥美清死後の特別編をのぞく)。高倉健の主役なくしては成り立たない映画ではあった。年齢的にも33歳~41歳で最も精力的でエネルギッシュだった。昭和残侠伝シリ-ズは唐獅子と牡丹を背中(刺青)にして、池辺良さんと敵地(死出)に赴くシ-ンが強く印象的である。日本侠客伝の中で印象に残るのは「花と龍」1969。相手役は東映の女優さんでなく星由里子(1943-2018)。若大将シリ-ズでは絶対に見ることの出来ない役、沖仲仕、健さんの女房・マンを演じた。1972年の「望郷子守歌」でも共演。こちらはきっぷと度胸の良い姉御の芸者役であった。他に1971年「新網走番外地」シリ-ズ7作目・吹雪の大脱走、1972年「昭和残侠伝」シリ-ズ第9作目、最終作・破れ傘でも共演。健さんはこの時期、中村錦之助主演・「宮本武蔵」全5部作の3作目、二刀流開眼(1963)から、佐々木小次郎役で出演している。
「日本侠客伝」・花と龍 1969年 共演の星由里子。
健さんの東映時代(1956-1976)の20年間の映画出演本数は170本。フリ-後の作品を含めると生涯の出演作品は205本である。実に東映作品が約8割以上をしめる。-鈴木慶治

高倉健さん 1931-2014 の本 享年 83歳 


「高倉健 Ken Takakira 1936-2014 」
 文春ムック 平成27年2月9日発行

健さんの言葉がたくさんつまった本-

自伝的な作品-少年時代の健さんを知る最適かつ貴重な本。

父のこと-カメラ好き、小田家の先祖のこと。

母のこと-躾に厳しい。学校の教師

優しい兄のこと

子どもの頃のこと-病弱、陸上部、ボクシング部、海外にあこがれたこと、夜汽車に乗って故郷の福岡を離れた・・・

「南極のペンギン」は高倉健自身の朗読が付録のCDで聞ける。

「あなたに褒められたくて」-第13回日本文芸大賞エツセイ賞受賞
-高倉健の言葉
「母が逝ったとき、自分は告別式に行けなかった・。「あうん」の大事なシ-ンを撮影しているときでした・・・・葬式に出られなかったことって、この悲しみは深いんです。撮影の目処がついて、雨上がりの空港に降り・・・実家へ行く途中、菩提寺の前で車を停めててもらって、母のお墓に対面しました。母の前でじ-っとうずくまっているとね、子どものころのことが、走馬燈のようにグルグル駆けめぐって・・・僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがってた背中に刺青を描れて、返り血浴びて、さいはての「網走番外地」、「幸福の黄色いハンカチ」の夕張炭鉱、雪の「八甲田山」北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれました。別れって哀しいですね。いつも・・・。どんな別れでも・・・・。

池部良さんの本 1918-2010年 享年92歳 
「昭和残侠伝」シリ-ズ全9作品に出演、風間重吉の役名は4作目から。健さんより13歳年上。最初、監督希望で映画界に入る。甘いマスクとスマ-トさで「万年青年」といわれる。1965年当時は日本映画協会会長を務めた。1983-2009年日本映画俳優協会初代理事長。戦後映画界復帰を高峰秀子が強くすすめたのは有名な話。
「山脈ヤマをわたる風」-Ⅰ <男ともだち、女ともだち> 憎たらしいが可愛い弟-鶴田浩二/魅惑の城-越路吹雪/嫌な野郎-佐田啓二/正論には毒がある-倉本聰/年下の先輩-高峰秀子/気になる人-芥川比呂志/そそられる女-カトリ-ヌ・ドヌ-ブ/牛蒡ゴボウといわれた男-の中で次のように俳優・高倉健を語る。  P80-
「僕は俳優だから、同業者の芝居を、どうのこうのといえる立場にはいないが、上手い、不味いは技術の差で、なんとも曰く言い難しだから、不味ければ黙っているし、上手くて感じが出ていれば「いいな」ということにしている。彼(高倉健)の芝居を見て、確かに、ぶっきら棒で、牛蒡みたいと思うけれど、「いいな」と口にしてしまうときがままある。映画俳優、殊に主役の場合、二通りの「在り方」があるようだ。一つは、役の人物を、デ-タを集めて創造し、それを自分の肉体に植え付けて演技する。自分自身とは全く別人格を作って演ずる俳優。二つには、役の人物の創造に頓着せず、自分の肉体の魅力を心得て駆使するか、自分の生活を役の人物に移して演ずる俳優。商業映画の俳優としては、どちらが正しく、どちらが善である、とは考え難い。映画俳優というものの演技が、観る人に感銘を与えるならば、どっちだっていい。・・・健ちゃんの存在は、二つめの分類に属するような気がする。・・・アメリカ映画の良さ、面白さは「アメリカン・ドリ-ム」の具現に花を咲かせ実を結ばせようとしたところにある。ジョン・ウェイン、ゲ-リ-・ク-パ-、クラ-ク・ゲ-ブル、ジェ-ムズ・スチュア-ト等々のスタ-たちは、「ドリ-ム」を夢見させてくれた。もし日本に、「ニッポン・ドリ-ム」というものがあるとすれば、それを具現させてくれる映画の主役は、もう君しかいない。君の私生活の知識はゼロだけれど、君が画面に現れるとき、君の、ものに対する純粋性、鍛えたバランスのいい体、下唇の出すぎが気になるが、あらゆることを真摯に受け止めているかに見える容貌は「ニツポン・ドリ-ム」を満たしてくれるに十分な映画俳優だ。こういう映画俳優は、健ちゃんが最後の人ではないかと思う。得がたい人だ。・・・たっての頼みだが、もう少しでいいから男の色気を出し惜しみしないでくれないかな。「和事」のできるなんて、すてきだと思うよ。」 付記-「昭和残侠伝」9作目・<破れ傘>1972年がシリ-ズ最終作。3年後の1975年に東映を退社する。

緒形拳さん 1937-2008 享年71歳 
-今村昌平監督の死 監督の言葉 「天に向かってエンギしてください」 哀しみを寂しさを乗り越えて、天を見上げる。-「地球徒歩トボトボ」

-死ぬってことはね、残った人の中で生きるってことなんですよ-「緒形拳からの手紙」

斎藤明美はその著作「最後の日本人」-で緒形拳さんのことを書いている。
「緒形さんは昔から、私の好きな俳優だった。人の好き嫌いというのは厄介なもので、理屈ではない。・・好きだから好きなんだ。私は苦労人が好きだ。自分が苦労なしに育った甘ちゃんだから憧れに似た尊敬の念を抱くのかもしれない。・・・苦労して、なおその苦労に染まらず、乗り越えてきた人。そんな人は、必ず"いい顔"をしている。厳しくて穏やかで、深くて強い。緒形拳はそんな顔をしている。・・・役者、殊に男優の良し悪しに容姿は関係ない。人生で培った"顔"がものを言うのだ。役者が人間として持つ力なのだ。・・・「汗水垂らして仕事がしたい」、こんな言葉が心底から言えるこの人が好きだ・」

古今亭志ん朝さん 1938-2001 の本 享年63歳

志ん朝師匠は、確かにタレント噺家のはしりかもしれないが、それは役者にもあこがれていた志ん朝さん自身の気持ちの自然のながれであったと思う。獨協高校卒業後の希望は、噺家になる気はなく「外交官」になることであり、東京外語大学に進むことを目指した。19歳で父、古今亭志ん生に入門。真打ち昇進までわずか5年であった。役者修業も菊田一夫、三木のり平、演出の舞台にでたり、森繁劇団の芝居に参加するなどして遊びの芸では決してなかった。志ん朝さんは終生ドイツが好きで、休みがとれるとよく訪独したという。そして名代のジャズ愛好家でもあったという。しかし志ん朝は間違いなく「落語家名人・三代目古今亭志ん朝」であった。-鈴木慶治

近藤日出造 1908-1978 の言葉
「男前だとは聞いていたが、これほどの色男が、あの志ん生師匠のタネでできあがるとは意外だった。いや志ん生師匠も若いころは、水もしたたる美男だったかもしれない。ずいぶん女にモテた話を聞いているのだから。とすると、つまりこの朝太(志ん朝)君も、何十年後にはいまの志ん生師匠のような顔になり・・・・志ん生師匠、芸人としては「最高」の顔である。何十年後の朝太君の顔が、いまの志ん生師匠そっくりになれば、名人朝太ができあがっているということになる。並みたいていの修行で「志ん生顔」がつくりだせるものではない。朝太君は、親の名をはずかしめない素質の持ち主だそうで、将来の落語界を背負って立つ器、と期待されている。・・・若手には若手らしく、多少理屈っぽい話題をもちかけた。そして「頭脳上等」とわたしは折り紙をつけた。」 <もう一席うかがいます> から。 

京須偕充トモミツの文 1942- 「志ん朝の高座」から
三百人劇場の「志ん朝の会」には、ほんとうに雨がよく降った・・・古今亭志ん朝は自他ともに許す「雨男」だった。日本晴れのような高座には似つかわしくないことだが。2001年(平成13)10月1日、志ん朝の訃報は秋雨に煙る東京の街に流れた。やみそうでやまず、夕方近くになってようやく上がった雨だった。私は、やっぱり降りましたね志ん朝さん、とつぶやいた。それはしかし、いくらか古今亭志ん朝と縁があった者のつぶやきである。大部分の志ん朝ファンにとっては、あのそぼ降る雨は、天も喪失を嘆く涙雨だったにちがいない。10月6日の葬儀当日は打って変わって文字通りの日本晴れだった。その日、護国寺の門を出て行く柩の車に贈られた拍手が忘れられない。晴天の下、門の内外で葬列の車群を見送るおびただしい会葬者の中から、おそらく自然に湧き上がった、古今亭志ん朝への最後の喝采である。後尾の車の中で私は、かつて数々聞かされた志ん朝の決まり文句をそっとお返しした。思い出すことは種々あるが、耳にしっかりと残る第一のことばは、そして噺のサゲのように返せることばは、他になかった。
-まだ早いよ、志ん朝さん。・・・・・

「志ん朝の高座」から-
-古今亭志ん朝が志ん生に入門した1957年(昭和32)は、志ん生が落語協会の会長に就任した年・・・。ラジオがしきりに落語を流し"もはや戦後ではない"といわれた上り坂の世の中で、落語はブ-ムの様相を呈していた。・・古今亭朝太の日の出は速やかだった。59(昭和34)年に二ッ目、62(昭和37)年には三代目志ん朝と改名して早くも真打ち。・・・タレントとして、スタ-として、朝太-志ん朝が広く芸能界に売り出した・・テレビの飛躍に乗るようにして志ん朝も羽ばたいのだつた。が、志ん朝がどんなに落語の垣根を越えたスタ-であっても、その当時、落語の世界には大先輩たちが「名人上手」がひしめいていた。スタ-でも若手は若手。それが、この時代のものの見方だつた。そういう時代であっても、志ん朝の足跡は抜きんでていた。「東横落語会」で志ん朝が初めてトリをとったのは四十歳の夏(1978年8月30日の212回)である。・・それまで長らく交互にトリをとってきた圓生、小さん、馬生が中入り前に回り、志ん朝、圓楽、談志が後半を受け持つというので、その当時ずいぶんと話題になつたものである。」

高座に上がる志ん朝師匠-

森繁久弥氏  1913-2009 の本 96歳 
-15歳 ただぼんくらな坊主だった 25歳 大地(満州)の大きさに、唖然とする許り 35歳 ものの良し悪しの判断もなく、ただがむしゃらに働きかつ遊んだ 45歳 仕事と酒と睡眠不足に 朦朧として生きていた  いたずらに早い歳月が私の足もとを流れ・・・自分の出ているテレビを見ながら・・・何といい加減な俳優だろうかと 砂を噛む思い許りがつきあげる  「人師は遭い難し」

高峰秀子さんは、森繁さんのことを次のように書いている。-「いっぴきの虫」から
「初めて見たのは帝国劇場の「モルガンお雪」の舞台であった。・・芝居も上手いが、それ以前にひどく魅力的な人間くさい俳優という印象をうけて同じ俳優としてビックリもしたし、楽しかった。・・・坂道を転がる雪ダルマのごとくゴロゴロと走り出し、二まわりも三まわりも大きくなりながら転がり通して、ついに日本映画界の"花も実もある大親分"になってしまった。この花も実もあるというところが肝心で、たいていの俳優は、花を開いても実を結ばなかったり、実はあっても花が貧弱だったりで、俳優としては及第点でも、話してみると上げ底、お粗末な人が多い。このごろの森繁さんをみていると、どうも中身が濃くなりすぎて、ヘナチョコ監督などでは歯が立たず、ただ圧倒されてひき下がり、あとには口をへの字に結んで、ちょっと困ったような森繁さんが孤独に立っている、というような場面が多いらしい。これは森繁さんのひとつの不幸だろうと思う。・・・・森繁久弥五十八歳。この可能性のかたまりは、いよいよ底知れぬ魅力を蓄えつつあるようだ。蓄えられたエネルギ-は、詩となり、文章となり、テレビに舞台にラジオにと発散されている。でも私は、現在の森繁さんのを映画でみたい。この俳優さんと四つに組んで土俵の上を飛びまわり、パッと砂煙りをあげるような映画監督よ、いったい、お前さんはどこにかくれているの?と私はじれったい思いである。」

高峰秀子さん 1924-2010 86歳
「いっぴきの虫」-まえがきから
「男の中には、いつもいっぴきの虫がいて、その虫があらゆる意欲をかき立てるのだという。虫が好く、とか、虫がいい、とかいう言葉はそんなところから来たのかどうか私は知らないけれど、それなら女の私の中にも虫がいるのか?と考えてみたが、私はもともと虫けらのような女だから、お腹の中にもういっぴきの虫を飼うなどという余裕はない。私は、私のトレ-ドマ-クにしている蝸牛、でんでん虫のように、自分の住所を背中にしょってモタモタと歩き続け、頭をツン!と叩かれると首をひっこめて住居の中に閉じこもり、またぞろ這い出してチョロッと仕事をしてはオマンマを食べてきた。この本に登場する方たちは、それぞれお腹に立派な虫を持ち、ひとすじの道を倦まずたゆまず歩き続けて来た優秀な人間ばかりである。・・幽明を境にした人もあるけれど、私はこれらの立派な方たちにお目にかかれた幸せを感謝すると同時に、私がいただいたお言葉のひとつひとつは、おそまつな私とは関係なく、この世に残しておかなければならないと考えて、あの世から戻っていただいた。1978年7月7日 高峰秀子

-大いなる皮肉をこめたかに思える、見事な書き出しで、本文を読む前から唸ってしまった。人間そのものが大小、賢愚を問わず、「はかない虫」そのものであるか。-鈴木慶治

装丁画は安野光雅氏 

池部良さんはその著書「山脈をわたる風」の中で-高峰秀子さんのことを見事な文章で、こう記している。
「高峰秀子といえば、やはり敬愛する先輩としか言いようがない。本当は敬愛の「敬」を外しておいた方が、僕の気持ちになじむ気がするのだが、彼女は女優さんであり女性でもあるから、ただ「愛する先輩」と言うと、何かと誤解を招く恐れがある。もっとも秀子さんは、伊東深水とか歌麿の描く美人とはおよそ懸け離れていて、美人の類いには入れられない。すべてが丸い顔立ちは、かわいらしさが抜群であったにもかかわらず、いささか、色気の点に欠けていたようだから、僕が今日の日まで思っている「愛する先輩」の中には、男が女を愛する、あの感情は含まれていない。愛する。これは親しいと解釈しておいた方がいいのだが、「先輩に親しいなんて、馴々しいよ」とお叱りを受けそうだつたので、ならば愛の上に敬をくっつけておこうというわけ。だが、実際には尊敬するのも当然なキャリアと才能を持っている女優さんだから、「敬」の字を付けたとしても、あながち僕のお世辞だとも言い切れない。・・・年が5つか六つ下だから、先輩と言うのはおかしなことだが、何しろ芸歴が十何年も先だし、僕が大学を卒業して俳優になったとき、形式とはいえ俳優募集の審査員であったから、先輩と呼ぶ以外、なんて呼んだらいいのか見当がつかなかった。・・・」

山川静夫氏 1933-  の本

立松和平氏 1947-2010 享年 62歳

鈴木慶治-記
人は大場政夫を「不世出の天才ボクサ-」と呼んだ。しかし大場の試合(昭和47.6.20・4度目の世界タイトル防衛線/48.1.2・・5度目の防衛戦)での闘いぶり?は決して天才の持つそれではなかったように記憶している。ほぼ同時代の自分(大場より1歳年下)は、リアルタイムで大場の試合をよく見ていた。世界戦での倒し倒されのダウンの応酬は精魂をこめた、死闘そのものであった。昭和24年10月21日生まれ。名門帝拳ジムに入門したのは中学を卒業した年、40年6月のことである。アスパラガスを思わせる、色の白い痩せた15歳の少年であったという・・・。5年後、両国日大講堂の世界タイトルマッチのリングに大場政夫は挑戦者として立っていた。向こっ気が強く負けず嫌い。相手が強ければ強い程、闘争心がわくファイタ-タイプのボクサ-であった。世界戦でも倒されれば倒し返すという、およそスマ-トとは言い難い試合を何度も繰り返す。見ている方にはスリリングでおもしろいということになるのだが、闘う側からすればまさに命懸け・・・例えはよくないが闘犬の姿に似て、闘う姿に悲壮感すら感じたものである。5度目の防衛戦からわずか、23日後、大場政夫の人生のテンカウントは、首都高速5号下り線で起きた。愛車に乗っての事故死-即死。・・・23歳という若さの思いがけないものであった。今も語り継がれるボクサ-という点では彼はまさに「天才ボクサ-」の一人になったといえるかもしれない。-

五木寛之氏 1932-  の本

永六輔氏 1933-2016 の本 享年 83歳 

岡部伊都子氏 1923-2008 の本 享年85歳

安野光雅氏 1926- の本 

向田邦子 1929-1981 放送作家、エッセイスト、享年51歳
代表作 「森繁の重役読本」「七人の孫」「だいこんの花」「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「あうん」「思い出トランプ」-「森繁の重役読本」では1962-1969の7年間・33歳~40歳までで2448回の台本/初のテレビ台本は「ダイヤル110番」1958年、29歳-51歳
 
直木賞受賞パ-ティ・1980.での挨拶・司会は親友の黒柳徹子(1933-)
「私は長いこと、男運の悪い女だと思い続けてきました。この年で(51歳)で定まる夫も子供もいません。でも今日、こうやって沢山の方にお祝いして頂きまして、男運が、そう悪いほうじゃないという事がやっとわかりました。私は欲がなくて、ぼんやりしておりまして、節目節目でおもいがけない方にめぐり逢って、その方が私の中に眠っている、ある種のものを引き出して下さつたり、肩を叩いて下さらなかったら、いま頃はぼんやり猫を抱いて(向田さんは大の猫好きだった)、売れ残っていたと思います。ほかにとりえはありませんけれど人運だけはよかったと本当に感じています。5年前(1975・46歳)のいま頃、私は手術(乳がん)で酸素テントの中におりました。目をあけると妹と澤地久枝さん(1930-)がビニ-ル越しに私を見ていたので「大丈夫」といったつもりが麻酔でロレツが廻りませんでした。そして明るく人生を過ごすことが出来るのか、人さまを笑わすものが書けるのか、どれだけ生きられるかも自身がありませんでした。頼りない気持ちでした。でも沢山の方のあと押しで、賞も頂き、5年ぶりにいま「大丈夫」とご報告できるように思えます。そんなわけで、お祝いして頂くことは、私にとって感慨無量です。ありがとうございました。」
 -黒柳徹子著・「トットひとり」から- 翌年・1981,8.22 台湾旅行中に航空機事故で死去。向田さんは飛行機が嫌いだったという・・・。

久世光彦 1935-2006 享年70歳 の言葉-「大遺言書」新潮社 2003.5.25発行
「向田さんとはじめて会ったのは、昭和39年の秋だった。「七人の孫」のリハ-サル室へ、森繁さんに連れられてやってきた。転校生みたいに、ちょっと構えて、思いつめた顔だつた。森繁さんが冗談を言っても、ニコリともしない。34歳の頭のいいインテリだと森繁さんは言う。私の苦手なタイプである。ついでに言えば、私は29歳だつた。「森繁の重役読本」の脚本がなかなか賢くてセンスがあるという。しかし、テレビドラマは、ほとんど書いたことがないという。森繁さんはよろしくでよかろうが、その後が大変だった。天皇のご託宣だからないがしろにはできない。海のものとも山のものとも知れないが、兎に角一度書かせてみるしかない。・・・それまで出来ていた脚本を見せ・・人間関係を説明し・・ホ-ムドラマの常識的なパタ-ンについて講釈して、その日は終わった。「わかりました。書きます」-最後まであの人は笑わなかった。「できました」-わずか3日で向田さんは原稿用紙の束を抱えてやってきた。ずいぶん早いなと私は思った。「面白いと思います」-そこで向田邦子は、はじめて笑った。けれど私は笑っていられなかった。いままで見たこともない不思議な本なのだ。・・・私は呆気にとられた。私は深いため息をついた。-先輩のディレクタ-に訊かれた。「どうだ?」私は即座に答えた。「ダメです」・・・・」

黒柳徹子の言葉-「トットひとり」から
「(向田邦子)の一番の理解者は、向田さんの作品をいくつも演出して大ヒットさせた、久世光彦(1935-2006)だったと思う。・・・久世さんが向田さんを書くには(「向田邦子との二十年」)、十年という歳月が必要だつた。・・・」  -以下久世光彦のこと。
「久世さんの葬式に参列して、護国寺を出ると早春の空が抜けるように青かった。-まだ誰も起きていない早朝、キッチンで倒れたという一人ぼっちの死。久世さんと作った向田さんのドラマのエンドシ-ンに「あの頃の東京の空は、今よりずつと青かった」というナレ-ションがあったのを私は思い出した。久世さんは昭和の青空が好きだった。」

鈴木-「七人の孫」や「だいこんの花」は、森繁さんのトボけたお祖父ちゃんぶりに何となく好感を感じてよく見ていた記憶がある。しかし「寺内貫太郎・・」には正直なじめなかった。頑固親父の暴力シ-ンには、63歳で死んだ「自分の父」と重なる。・・・何故か悲しさ・哀しさを感じた。 

久世光彦が向田に対する思いを書き記すのには10年という歳月が必要であった。
「向田邦子との二十年」-・遅刻から
-あれは四月の午後だった。春雨というにはちょっと激しすぎる雨が少し前から降り出して、ガラス窓の向こうの街は急に紗をかけたように白っぽくなった。私はその午後表参道の近くにある喫茶店で向田さんを待っていた。いつも必ずと言っていいくらい遅れて来る人だったから、その分を勘定して待っていたつもりだったのに、それでも向田さんはまだ来ていなかった。彼女が死んだあと、誰かが書いた追悼文を読んでいたら、約束の時間に1度も遅れたことのない礼儀正しい人だったというのがあって驚いたことがあるが、それはとんでもない話であんなに約束の時間にいい加減な人も珍しかった。でも、もしかしたらそれは私に対してだけで、他の人には律儀だったのかもしれない。そう思うと、あの人がいなくなって十年も経った今になって急に腹が立ってくる。私はいつもあの人を待っていた。・・・遅れる人がいれば、待つ人がいる。私は損な役回りでいつも向田さんを待っていたような気がするが・・・、それなら待たせる方がいい役かというと、そんなものでもない。・・私はいまになって、あの人がずっと長い間、何かを待っていたような気がしてならないのである。あの人が待っていたのは、いったい何だったのか。そんなことがわかれば人生なんて易しいのかもしれない。それがよくわからないから、人はいつだって不安なのだ。・・・
鈴木-
久世さんは、太宰治の「走れメロス」を引き合いに出して、「待っている幸せ」をこの小説が教えてくれたという。そして、太宰を認める方でない向田さんだが、この小説だけは好きだと言った。久世さんは少年時代太宰病に罹って(かく言う自分もそうだが)、いつまでも治りきらない、という。実は向田さんを待つことに久世さんは、損な役回りどころか、太宰の言うところの「待っている幸せ」な-自分という役回りを意識していた筈である。そうでなければ十年経っても来る筈の無い-向田さんを「待ってる」久世光彦はいないはずだから・・・。

山口瞳- 1926-1995 享年69歳  <向田邦子全対談>から
-小説でも随筆でも、TVドラマでもそうだった。短時間に出せるものは出し尽くしてしまった。どれもが名作傑作だったというつもりないが、何をやってもイキイキと輝いていた。六十ワットの電球が、いきなり百ワットになったと書いたことがある。そう思ったら、突然消えてしまった。
竹脇無我 1944-2011 享年67歳
-僕は向田さんの弟みたいなものだった。・・・「だいこんの花」で初めて向田さんに会った。先生と名のつく人は、人を見透かすようで嫌いだったが、向田さんはそうではなかった。堂々としたなかに女らしさと男っぽさが混じり合い、そして自分の才能を秘めているところが僕は好きだった。
澤地久枝 1930-
-たがいにひとりものであつた気安さもあって、向田んとは夜中にえんえんと電話で話しあい、午前三時、四時になったこともめずらしくない。それが、あのひとの執筆前の苦しい時間の一時のがれと知った・・・やがて一周忌が来ようというこの頃、わたしはよく向田さんと噺をしている。返事はないけれど、無言の話しかけだけで心安らぐものがある。返事が聞こえる日もある。
倉本聰  1935-
-賢姉愚弟という間柄であった。この対談を読まれれば、その位置関係は明瞭であろう。変な話だが、あの夏の日の向田さんの遭難を思い出す度に僕は南国の入道雲の峰を次々とハ-ドルの如く飛び越えていく彼女の英姿を想起してならない。古風な教えをきちんと守り、右手は全前方で直角に折り曲げ、左手は真後ろにピンと伸ばしきり、そうして指先は律儀に揃っている。その姿で小さく掛声をかけつつ、エイッエイッと雲の峰を跳んで行く。頭には- 頭には何故か豆しぼりの鉢巻。

「向田邦子の本棚」2019.11.30初版 河出書房新社
-本屋の女房- 
「はじめて自分で選んで本を買ったのは、小学校4年のときである。お年玉かなんかでお小遣いがたまり、祖母がつきそって本屋に出かけたのである。散々迷った末に選んだものだが「良寛さま」。・・・随分しおらしいものを選んだが、40年前には今ほど子供向きの本はなかった。(1981.8執筆)
はじめて自分で本を選ぶ晴れがましさに、本屋中の人がみな自分を見ているような気がした。本屋はその時分住んでいた鹿児島の金港堂である。学校から帰るとランドセルをおっぽり出すようにして読みふけった。・その頃、私は「大きくなったら本屋のオヨメさんになる」と言っていたらしい。無料で、しかも1日中本が読めると思ったのだろう。或時父に、食べながら本を読んでいるのを見とがめられ「食いこぼしがついたらどうする。そういうことでは本屋へヨメにゆけんぞ」と叱られた。将来書く側に廻ろうなど夢にも思わなかった時代のことである。」

-心にしみ通る幸福から-
「好きな本は2冊買う。時には3冊4冊と買う。面白いと人にすすめ、強引に貸して「読みなさい」とすすめる癖があるからだ。貸した本はまず返ってこない。あとで気がつくと、一番好きな本が手許にないということになる。乱読で読みたいものを手当たり次第に読むほうである。・外国旅行には必ず本を持って行き、帰りは捨ててこようと思うのだが、結局捨てきれず重い思いをして持って帰ってくる。外国のホテルに、日本語の本を置いてけぼりにするのは、捨て子をするようで情において忍びないものがある。読書は、開く前も読んでいる最中もいい気持ちだが、私は読んでいる途中、あるいは読み終わってから、ぼんやりするのが好きだ。砂地に水がしみ通るように、体のなかになにかがひろがっていくようで、「幸福」とはこれをいうのかと思うことがある。」

鈴木慶治-
藤原ていさんが遺書のつもりで書いた本、「流れる星は生きている」がベストセラ-になった時、後に山岳小説家として名高い、新田次郎(1912-85)はまだ誕生していない。役所で「藤原ていの夫」といわれたことに強い憤懣を覚えて、ていさんに発した言葉「オレも、小説を書く」
「お前の出来ることぐらい、オレにも出来る」-これが作家・新田次郎の誕生へとつながることになる。運命的な夫婦の縁というものであろうか。・・・。藤原ていさんの「流れる星は・・・」は誰がなんといおうと名作である。事実を書いた作品に名作はないだろうが、心に強く残る作品で、読みながら何度も、涙がここぼれ、感動の処置、出所に困った思いでがある。 

「母、藤原てい、長兄5歳、次兄2歳、生後1ケ月の私を連れ、昭和20年8月9日、満州へ侵入したソ連軍に追われるように新京を脱出、無蓋貨車に揺られ壮絶な引揚げの旅へと出発した。・・・父は、満州時代の約3年間の多くを語ることはなかった。殊にソ連の捕虜となって、厳冬の延吉で過ごした1年間は「望郷」「豆満江」「夕日」などの小説に残されるのみである。  -藤原咲子- 「追想 高梁」から」

「5歳、2歳、0歳の幼児を連れて、母が1年余り北朝鮮の野山を彷徨する間、父はそこにいなかった。一緒に南下する機会があり、母も父にとりすがってそれを請うたが、満州気象台に部下を残したまま家族と脱出することを、父は拒否した。公を私に優先したのだった。そのおかげで母子4名は文字通り死線をさまようことになつた。そもそも満州にわたったのも、もっぱら父のやむを得ぬ事情だつた。・・・母の記憶で最も古いのは病床の母である。終戦と同時に、満州を着の身着のままで脱出した母子4人が、やつとの思いで帰国したのは昭和21年の9月だつた。当初は母の故郷の諏訪で静養をかねて暮らしていたが、まもなく父がシベリアから帰国、春をまって一家で上京した。昭和22年の5月、3人の子供達は順調に健康を回復した。ところが今度は、それを待っていたかの如く母が、引き揚げ時の無理がたたり心臓病で床についてしまつた。私は満4歳になつていた。ぼんやりとした記憶はこの頃に始まる。長くは生きられまいと思った母が、遺書のつもりで「流れる星は生きている」を書いたのはこの頃のはずだが、私の記憶に残っていない。戦争が終って5年もたっていたのに、その頃の母はまだ闘っていたようだ。病弱と闘い、貧困と闘い、子供達を守り育てるために闘っていた。3人の子供達を無事に連れ帰ることだけを考え、北朝鮮の赤い山を這い、泥の河を渡った体験が、母の身体の奥深くにまで染みこんでしまっていたのだろう。 -藤原正彦「父の威厳 数学者の意地」

「私は、夫にかくしつづけている遺書のことを思った。打ち明けるべきか。おそらく見せたら笑いとばすか、破りすてるか、あるいは私の、めめしい行為と、軽蔑するかもしれない。廊下を手放しで、つまりひとり立ちして歩けた日、私は夫に、思い切って遺書を見せた。それはノ-ト2冊、細かく書き込んであった。「もう必要ありませんものね、焼き捨てましょうか」。夫は吸い付けられたように読んでいる。その横顔を見ながら不安になって声をかけてみた。ふとノ-トの上に、水が落ちた。つづけて、また一滴、また二滴。それが夫の涙と気付くまでに、数秒かかつた。私は不思議な光景をでも見るように夫の顔をのぞき込んだ。夫の涙というものを、今まで見たことがあっただろうか。あの北朝鮮の丘の上から、シベリアへ送られていく時も涙は見せなかった。「生きるんだよ。子ども達を頼むぞ」。そう言った時の顔は、青く引き締まって、異常な決心だけがみなぎっていたが、涙はなかった。 -藤原てい- 「旅路」から

「望郷」-1977.1.20 新潮社 -豆満江・延吉捕虜収容所 から
-全身しびれるような寒さであった。汽車はいつか止まっていた。真暗な貨車の中にじっとしていると、そのまま凍えてしまいそうであった。すべてあきらめきったのか、行先の詮索に精も根もつき果てたのか、ここがどこであるかを外に出て確かめようとする者さえいない。皆眼を覚ましていたが、誰も口をきかなかつた。・・・・全員下車の命令がかかるまで、誰もここが延吉であることは知らなかった。男達はそこが延吉であろうがシベリアであろうが、とにかく終点に早く着くことを望んでいた。

藤原正彦-「弧愁」あとがきより
「1980年2月15日の寒い朝、父は突然の心筋梗塞で倒れ、私の腕の中で息を引き取った。それまでに味わったことの無い衝撃であったが、哀しくはなかった。怒りに震えていた。毎日新聞に連載中の「孤愁」にかけた父の気迫は大変なものだつた。ポルトガル、マカオ、長崎、神戸、徳島とモラエスのゆかりの場所を何度か訪れ丹念に取材したうえで1979年に執筆にとりかかったのであった。それが連載が始まり1年足らずで暴力的に中断させられたのである。父の無念を思い、冷酷な自然の摂理に怒り、その不条理に憤った。恐らく翌日だったと思う。父の作品を、父が書いたであろうように完成することで父の無念を晴らそうと決意したのは。・・・以来32年間、父の訪れた処はすべて訪れ、父の読んだ文献はすべて読んだ。ポルトガルへは3度、父が「僕の宝物」とよんだ9冊の取材ノ-トを手に訪れた。父と同じル-トを辿り、父と同じ人々に会い、父と同じ宿に泊まり、父と同じ料理を食べ、父と同じ酒に酔った。徳島は十数回も訪れた。そして父の亡くなった年と同年齢になって、書き始めたのである。