本の部屋Ⅲ

本棚の本も長い間に結構な数になり、家人にその重さで迷惑をかけています。
         2019.8.19        鈴木慶治

 小説ありノンフィクションあり、随筆あり、詩集あり、写真集ありといった具合・・。最近は小説を読むことが少なくなり、
写真紀行・歴史随筆、対談本が多くなりました。作品からというよりも、作家で読むことが多いかも。
旅に関しても、どこへでも行きたがる旅をしてきましたが、最近は気に入った土地に何度も行くようになりました。
                          鈴木慶治 

10代の頃に読んだ本で心に残る本-学校の期末試験が間近にせまった時、学校図書館で借りたのが「吉川英治の宮本武蔵」。
勉強しなければいかんのに、息抜きと思ったのか、第1巻 地の巻・水の巻を借りた。これが面白いのなんの。勢いにまかせ
気が付いたら6巻目まで読んでいた。肝心の試験勉強はどうなったのか。今思い起こしても武蔵の記憶に比べて勉強した記憶
は曖昧である。
 後年、図書館で借りた本と同じものが読みたくて神田古書店で探し求めた。 昭和37年10月20日・15版 中央公論社
この本との出会いがその後に続く、読書の原点になるように思う。原点といえばもう1冊、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」を
あげることができる。

大好きな場面をとりあげる。
沢庵がたけぞうを千年杉の梢に縛り上げて諭す場面は-荒くれ者のたけぞうを人間に改心させる一歩となる。
以下沢庵の言葉-引用
「惜しむべし、憎むべし。おぬし、折角人生まれながら、猪、狼にひとしい野生のまま、一歩も、人間らしゅう
 至らぬ間に、紅顔、あたらここに終わろうとする。」
「今までの振る舞いは無知から来ているいのち知らずの蛮勇だ。人間の勇気ではない。武士さむらいの強さとは
 そんなものじゃないのだ。怖いものの怖さを知っているのが勇気であり、生命は惜しみいたわって珠とも抱き
 そして真の死に所を得ることが、真の人間というものじゃ。・・・おぬしには生まれながら腕力と剛気はあるが
 学問がない。武道の悪いところを学んで、知徳を磨こうとしなかった。・・」
            挿画 矢野橋村 

白鷺城の本丸-天守閣・開かずの間
 ここには、暦日というものがない。春も秋もない、また、あらゆる生活の物音も聞こえて来ない。
ただ一穂の燈し灯とそれに照らされるたけぞうの青白く頬の削げた影とがあるだけであった。
 机のそばには、まだ山のように書物が積んであった。・・彼のまわりは本で埋まっているといってもよい。
沢庵は
「書物はいくらでも見よ。古の名僧は、大蔵へ入って万巻を読み、そこを出るたびに、少しずつ心の眼をひらいた
という。おぬしもこの暗黒の一室を、母の胎内と思い、生まれ出る支度をしておくがよい。・・ここを暗黒蔵として
住むのも、光明蔵として暮らすのも、ただおぬしの心にある」
と諭した。

花田橋のたもとのお茶やで、お通はただひたすら武蔵に再会できることを唯一の望みにして生きてきた。
3年ぶりに再会したつかの間に、武蔵は橋の欄干に
  ゆるしてたもれ 
  ゆるしてたもれ
と書き残していずこともなく去って行く。

佐藤忠良 1912-2011 享年98
帽子の女 1963

舟越保武 1912-1999 享年88
長崎二十六殉教者記念碑 1962年の制作
1976年の夏、長崎で初めてこの像を見た衝撃は、強烈でした。特に少年3人が含まれていることにショツクと驚きを感じました。鈴木
遠藤周作-切支丹の里-一枚の踏み絵から
「-彼等は1597年、慶弔2年に京都の辻で左の耳を少し切り取られた後、後手にしばられ、荷車に乗せられて京都、伏見、大阪と
引きまわされた。見物する沿道の人の涙を誘ったのは、なかに12.3歳の少年、3人がまじっていたことだった。12歳のルドビコ茨木
、14歳のトマス小崎、13歳のアントニオ・・アントニオは父母から切支丹の教えを捨ててくれといわれたが、どうしても首を縦にふらな
かつた。ルドビコ茨木も後に死刑執行役の寺沢から教えを捨てれば武士にしようと誘われたが、これを断った。」                                       

下  2014.8.16 撮影

「二十六聖人」の歴史事績を記した遠藤周作氏の紀行文・吉村 昭氏の小説

佐藤忠良 ボタン・大 1967-69
「ものには、見えるものと、見えないものがあります。人は、目に見えるものを書いたり作ったりしながら、
 実は、やさしさとか真実とかいった、目には見えないものを表そうとしました。-見えるものを通して、見えないもの
 を表現したかったのです。」 小学校図工科「子どもの美術6」現代美術社 1994年度用
忠良さんの娘さんは、年配の方でしたら多分ご存じかと思います。俳優の佐藤オリエさん。
この像のモデルもそのオリエさん。

佐藤忠良 帽子のチコ 1985

舟越保武 原の城 1971 島原の乱の兵士

聖ベロニカ 1977

舟越保武 ゴルゴダⅡ 1993
1987年・75歳の時、脳梗塞で倒れ右半身不随になり。左手でのデッサンを描きはじめる。
81歳。ゴルゴダⅡの出品 左手での作品 端正な作品からの変容。
この作品の圧倒的な存在感に強く魅了される。


最近購入た本。2019.8
「他者の苦痛へのまなざし」。
この本には戦争写真にかんする多面的な考察がなされている。
戦争やテロなど残虐な行為の映像はテレビやコンピュ-タ-の画面を通して日常茶飯事となっていて、
それらを見る人びとの現実認識はそうしたイメ-ジの連続によってよい方向へ、例えば、戦争反対の
方向へと変化するだろうか。という問題提示。

以下-鈴木慶治
確かに日常的にに残酷な映像シ-ンを目にしている結果、我々が現実と虚構の世界の境界線が曖昧に
なっているのは事実である。
世界同時多発テロ9.11の時、旅客機2機が「貿易センターに激突」する映像を見て人びとの発した言葉
-まるで映画のようだ-。
ハリウッドの映像がオ-バ-ラップして、目の前で起きていることへの現実感が感じられない。
虚構のハリウッド映像世界の中では死者は出ない・・。しかし現実の世界多数の死者が目の前で出ている。
にもかかわらず、映画・夢を見ているのではという。
この地についていないような現実に対する浮遊感覚・空虚感。何が起きているか認知出来ない。
残酷さや残虐な場面は「お茶の間」やゲ-ムで日常的に見慣れていたりして経験ずみ??。
自身が極限状態に置かれて初めて「知る」・「体現」するということが少ないか全く無い。
知識・想像力だけでは、戦争の悲惨さ残虐さを理解することは不可能か。
私たちの現実認識の立ち位置は、映画館の観覧席にいて眺めていることと変わりがないのか。                                        鈴木慶治  2019.9.18

アウシュビッツ関係の写真は、見ていてもとてもつらいものがあります。しかし目を背けるわけにはいかない。

収容所の跡地

死の門-文字通り、くぐつたら後戻りは出来ません。そして生きてこの門を出ることは不可能でした。

毒ガス室-

始点にて終点、地上のすべての街道、人びとのすべての呼び声が幽魂の去来するこの土地に行きつく。この地は
ほかのいかなる場所とも似てはいない。ここには夜の王国があり、そこでは神もおのれの顔を覆いかくし、そこでは
炎の燃え立つ空が呑み込まれた一人類全体にとっての呪われた墓地に変貌している。  エリ・ヴィ-ゼル 「夜の国への巡礼」

夜と霧はワ-グナ-のオペラ「ニ-ベルングの輪」からとられ、ヒットラ-が気に入りこの大量虐殺の作戦に命名したというと
いわれる。私たちは、今の世界と未来を担っていく子ども達のために、背筋を伸ばして、戦争が残した人びとの痛みと人間の尊厳
を考えていきたい。同時代を生きる者として、知らぬ顔して通り過ぎてしまってはならない。   大石芳野 「夜と霧は今」

ヒロシマの惨劇を伝える本は数多い。
「ヒロシマを伝える」の本には、「屍の街」を書いた大田洋子についてこんな記述がある。214頁 -以下引用
-大田は、地獄という言葉を使うだけでは原爆のなんたるかは表現できないことを誰よりもよくわかっていた。だから
 原爆というテ-マにこだわり続けたのだった。しかし世間はそれを正当に評価しなかった。これは文学ではない、
 あくまでも素材にすぎない、いつまで原爆を売り物にするのか。もっと別のテ-マはないのか。広島を知らないひと
 だけでなく、広島を体験したひとからも、心ない言葉が投げつけられた。大田は戦前から名の知れた第一線の作家
 だったが、原爆をテ-マに小説を書き始めてから、文壇からは「原爆文学者」という枠組みのなかで、特別視される
 ようになった。
 晩年の大田は悩み多き日々を送っていたという。「原爆文学はもう必要ない」という声が、大田を傷つけていたという。
 「私は広島の記憶を捨てたい。作品の主題にそれを使うことから逃れたい・・・」1956.8 
 1963年12月10日、福島県猪苗代町で入浴中に死亡。61歳。死因に原爆の後遺症がとりざたされたという。
 現在 広島市中央公園内に、大田自身のペンの字を拡大した「大田洋子文学碑」がある。「屍の街」の原稿の一節。
 -少女たちは、天に焼かれる 天に焼かれる と歌のように 叫びながら 歩いて行った -

市川和広氏 1957- 福岡生まれ 「浦上物語」 
 被爆から60年が経ち、浦上の街並みは、今では何事もなかったように日々の時を刻んでいる。
 あの時、はるしゃ菊の咲く浦上の丘で誓い合った少女たちがいた。それぞれに長い苦悶の歳月があった。
 そして、今もなお、たくましく、たおやかに生き抜いておられる4人の女性に、この物語を捧げる。
 
 家族を原爆で失い、生き残った姉と妹が、戦後の長崎浦上の地で懸命に生きていく。貧困・被爆差別・苦痛
 妹は自身の被爆体験と思いを寄せる相手との葛藤で鉄道自殺をしてしまう。
 静かに深く考えさせらられる物語である。    鈴木慶治  

宮本輝さんは1947年生まれ。年代の離れた吉本ばななとの対談。輝先生とよんでいる箇所が何度も出てくる。宮本が吉本
の父「吉本隆明」氏を意識した言葉がある。-どんな父親だったの-とか。
向田邦子さんは飛行機事故で急逝。対談の中で黒柳徹子さん・森繁久弥氏・との会話は、軽妙洒脱、秀逸。親しい関係がよくわかる。
黒柳さんは自身の本-トットひとり-で、38歳頃に向田さんの霞町のアパートに毎日のように転がり込んでいたという。・・
向田邦子 1924-1981 享年51才 向田さんは飛行機嫌いであったという。
            鈴木慶治

似たような著作名-亡くなった立松さんは1947年生まれ。昭和22年の生まれ。対して五木さんは1932年生まれ。
今年87歳になるもお元気でおられれる。巡礼の中身は当然のことながら異質である。

だれもその素顔を知らないといえば、緒方さんも原節子さんも共通している。とくに原さんは映画界から
突然、縁を切るようにして去ってしまった。
 原節子 1920-2015 享年95才 緒形拳 1937-2008 享年71才

高峰秀子さんの本を挟むようにして、司馬遼太郎氏の著作をならべてある。
高峰さんは司馬さんのことを「司馬先生」と敬意をこめてよんだ。
高峰秀子 1924-2010 享年86才
子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。
1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で5才で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。
ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどの天才子役ぶりで名を馳せた。名文家でもある。
「わたしの渡世日記」-こんな本を書いた俳優さんは高峰秀子さんの前にも後にもいない。

司馬遼太郎氏と高峰秀子氏の著書-
「おいしい人間」-人間たらし・から
私たち夫婦にとっての司馬遼太郎先生は、大げさではなく「生き甲斐」ともいえる御方だと思う。人間は誰でも、ただ、その人と同時代に生まれたこと、その人と同じ空の下で同じ空気を吸っているのだ、と思うだけで心の支えになる、というアラヒトガミを心に持っていると思う。・・・私たち夫婦の日常会話の中でなにかにつけて、「司馬先生なら、きっと・・・・」とか、「みどり夫人だったら・・・・」などと、いと親しげにお名前を口にするだけで、ああ、とっても倖せ。・・・「惚れたが悪いか!」と、ひらき直っている心境である。
 昭和53年の春、・・・司馬遼太郎先生ご夫婦の一行が中国を訪問されることになり、なぜか私ども夫婦もその末席に連なり・・・2週間余りの日々はあっという間に終わり香港で解散した。別れは淋しい。ことに司馬先生御夫婦とはこれきりお目にかかる機会はないにちがいない・・・・。けれど、そういう私たちの心を見ぬくかのように、司馬先生が例のやわらかい口調でこうのたもうたのである。
「旅には終わりがありますなァ。でも、あなたがたとは、これが旅のはじまりだっていう気がするんだ」 どうやら私たち夫婦はこの瞬間に、カチカチ山の狸になってしまったようである。あぁ、この見事な、すさまじいほどの殺し文句。もしかしたら、司馬先生は「人間たらし」の達人なのかもしれない。
高峰さんの司馬先生への思い-「にんげん蚤の市」・文藝春秋 菜の花から
先生が逝かれてから、十日余りが経っている。もう大丈夫(なにが大丈夫かわからないが)と思ったとたんに、鼻の奥がツ-ンと痛くなり、眼の中が熱くなって涙が溢れだした。メソメソはビショビショになり、ワアワアとなってとめどのない号泣となった。
「ところで、司馬先生はいま、どこにいられるのですか? 菜の花は、来年も、さ来年も咲きます。 
 来年の菜の花は、どちらへお届けしたらいいのでしょう」    補足 高峰さんより1歳年上の司馬遼太郎は菜の花が大好きであった。

ヒロシマについて、自分なりにまとめたのが以下の写真集です。鈴木慶治  2015.1-8

最近の出来事から 2019.10.15 <友人Aさんにあてたメ-ルです>
-教員に対する教員のいじめ- 鈴木慶治
猛烈なとか史上最悪という言葉が増え、精神的にもバランスがとれないことが多い昨今です。気候の危機というそうです。
何かが違うと意識する人が増えました。自然現象だけではありません。教員の教員による「いじめ」。我が耳を疑う事件でした。
本来子供たち同士のいじめを根絶?することに精魂込めるはずの教員であるはず。教育に対する信頼感は益々低下しました。
マスコミの取り上げて方も異常と言えるのですが。ネットを通しての拡散の中にはとんでもない声もあります。
暴力的犯罪行為が世間一般にも日常化している感じです。

-宮城県石巻市立大川小学校の訴訟-鈴木慶治

震災から3年後、検証委員会が最終報告書を発表。10人からなる有識者グループ。
市から5700万円の費用が委員会に割り当てられたという。高額である。委員会の結論は「どの学校でも起こり得る事故」とした。
過失の言葉や責任という文言はなかった。委員会の報告書から1か月後、23人の児童の遺族が市と県を相手に民事訴訟を
仙台地方裁判所に提起。市と県の過失、被害者ひとりにつき1億円の損害賠償を求めた。以上ーが訴訟に至る簡単なあらましです。
なぜ74人の遺族からの提訴でなく23人だったのか。難しい問題です。村社会の保守性が一因をなしているかも知れません。
以下大川小学校のある釜谷地元の人の話し。「多くを話しすぎたり、何か物議を醸すようなことをすればお役所に助けてもらえなく
なるのが一般的な考えです。家族、自宅、財産を失ってしまった人達は不平不満を口にしたりお役所批判をしたりはしません。
」黙っていたほうが安心だ、という意識が働いたのも否定出来ない?と思います。東北地方の住民が我慢強く、
寒さ、貧困、不安定な収穫に耐えてきた歴史、時には娘たちを身売りし息子たちを帝国軍の捨て駒として送り出す。
そんな抑圧された悲しい歴史をその背景に挙げる識者もいます。自分たちが立ち上がって議論を始めたら、他人にどう思われるだろう?。
対立が不道徳と見なされ、不調和さえ暴力の一種だと考えられる、長い間に根付いた意識があったと考えるのも大きな間違いではない
ように思うのです。裁判に訴えることへの潜在的な疾しさ。直訴感覚。お上に盾突く。いろいろな思いが錯綜したと考えます

-大川小学校の訴訟と水俣訴訟-鈴木慶治

水俣病訴訟を思い出しました。
水俣市民と訴訟当事者たちとの間で深い軋轢があったことをです。ひどい差別が訴訟者=発症者に向けられました。
水俣市を公害という、ダークなイメージに貶めた、という心ない言葉。村八分ならぬ市八分状態があったそうです。
伝染するから傍に来るなという言葉。そんなに賠償金がほしいのかとも。福島の原発問題でも全く同じことがありました。
訴訟申し立ては当然の権利の筈。それが、この国では煙たがられる傾向にあるのはなぜでしょう。
本当に民主主義がこの国では育っているのかと思わせます。いじめも閉鎖的な小集団の保身から起きていることだと思います。
平気で痛みを理解しようともせず、他を排斥する極めて狭い了見です。
訴訟に対しても周囲の冷ややかな視線があるのは否定出来ないでしょう。訴訟に何らかの理由で係われなかったか、自分の意志から?
関わりを持たなかった人たちからの声は、聞こえてきませんね。よく頑張った?とかの声はなさそうです。
利害関係?が生じて大事なかけがえのない子どもを失ったという強くて深い共通点が、両者の間から薄れてしまった感があります。
遺族の間には微妙でいて深い溝が震災直後からあったようです。学校への迎えで津波被害を免れた人達とー命をおとしてしまった
人達の間で生じた心の何というか不協和音?。さらに子どもさんを亡くされた親御さんの間にも、早くに発見されたか、
時間がかかったとか、さらにはまだ行方が不明であるかによっても、大きな心の隔たりが生まれたといいます。
今回の訴訟勝訴にもーなんであの人達だけーという嫉妬に似た感情が生まれているかも知れません。お金が絡むと、
いやな想像が膨らみがちです。人の世って卑しいところありますよね。綺麗事でないドロドロした感情。
案外と先を見通してーこうしたことが嫌でー訴訟に加わらなかった人もいたのかも知れませんね。
今後に賠償金額がいくら支払われても、失われた幼い命は帰ってこない!のだけは間違いないのですが。
空しい感情が訴訟の有無如何を問わず両者に残る気がしてなりません。
以上記したことがらは何もわかっていない、所詮、門外漢、部外者の言葉に過ぎないのかも知れない。-  鈴木慶治

椎名 誠氏の作品 -北への旅-から
 旅の多い人生だ。外国を含めていろんなところにいく。遠いところが多い。「いいですね。」と言うヒトが多い。
そうかなあ、と思う。そんなに羨ましがられるほど、本人は楽しくない。「どうしてかなあ」と考えたら答えは
簡単だった。今のぼくの旅のほとんどが「仕事」だからなのだ。・・だから、そんなに「いいですねえ」と言われる
ほど、旅する当人の気持ちは浮き立ってはいない。第一、ここんところの旅では「旅情」というのをめったに感じた
ことがない。
 むかし、本当の「旅」をいくつもしたことがある。それはしばしば写真を撮りにいく旅だった。誰に頼まれたわけでも
なく、ひとりできままに行った旅である。

宮本 輝氏の作品 「田園発港行き自転車」から
-私は自分のふるさとが好きだ。ふるさとは私の誇りだ。何の取り柄もない二十歳の私が自慢できることと
いえば、あんなに美しいふるさとで生まれ育ったということだけなのだ。・・
黒部川扇状地は、かつては農民を苦しめる痩せた土地だった。険難な黑部峡谷と、そこを源とする黒部川が、
海までの短い距離のあいだにある平野部につねに襲いかかって田畑を水びたしにし、さらに一帯を砂でうめつづけた。
・・だが、治水事業が成功して豊かな土壌を得た黒部川扇状地では、かつての災禍が恵みと変じた。
それは清らかな湧き水の出現だ。

1940年代生まれの作家
椎名 誠 1944- 池澤夏樹 1945-  沢木耕太郎 1947-  宮本 輝 1947-  立松和平 1947-2010 北方謙三 1947-
村上春樹 1949-
  

1945.8.6の広島の惨状を記録した写真はたったの5枚しかないといいます。その1枚が表紙になった本が
「なみだのファインダ-」という本です。現在は絶版で手に入りにくい本です。監修者の柏原知子(現大西知子)さんに
偶然「原爆資料記念館」でお会いできました。<2015.1.11のことです> 大西さんからはその後ご自身著作の
「命かがやいて-被爆セ-ラ-服のなみだ」という本を送っていただきました。

新藤兼人監督の序文から-
1945年、8月6日8時15分がきた。
原子爆弾が炸裂。太陽よりも熱い熱線と凄まじい爆風で広島の街はコッパミジン。人びとは五体が千切れ、首が飛び
手足がもがれ、熱線に焼かれた皮膚をボロ布のように引きずった。
原爆投下に成功したエノラ・ゲイ機からは無電で報告。固唾を呑んで報告を待っていた科学者と軍人は、成功に歓喜して
祝杯をあげ、グラスを足下に叩きつけた。
広島では、そのとき、頭を砕かれて死んだ子を抱え、助けて、と叫びまわる狂乱の母親、熱い、熱い、と悲鳴をあげて川に
飛び込み溺死する女、水をくれ、のどが焼ける、とのたうちまわる瀕死の人。
放射能がしずかに地を這い、人びとの骨まで忍び込み、死の谷へと引きずっていく。
ああ、あっ、と叫ぶひまもなく、何がどうなったか知らないうちに死んだ人たちの骨が、いまも広島の街の地下にある。
あるいは川の底にある。-これを拾いましょう。    新藤兼人
-セ-ラ-服の当時13歳であった少女が、8/6朝、自宅を出て、被爆しその後命懸けで避難した、その経路地図が
この本には添えられている。自分もいつかこの「命の道」を歩きたいと思う。    鈴木慶治 2019.11.18 記
      

被災者が避難した「御幸橋」 上の地図で4.3の場所。-現在、記念モニュメント写真に立ち止まって
見入る人はほとんどいない。 写真は2015.1.12 に撮る 鈴木慶治

「なみだのファインダ-」の表紙写真と同じ場所・角度から撮ってみました。

1945.8.6に「御幸橋」でおきた出来事が詳細に語られている書籍と、ドキュメント動画です。鈴木慶治 蔵

下のDVDの凄さは、御幸橋の写真-なみだのファインダ-表紙-がコンピュ-タ処理によって動画映像に
忠実に表現されている点です。そのリアルさに驚くしかありませんでした。

後藤純男展-追想-  埼玉県松伏町にて開催。2020.1.28現在  

後藤純男展。追想 場所は松伏市民会館ーエローラで2020.2月16まで。
10時から20時まで。月曜日と2月12日ー休館日。ご存知でしたら申し訳ないです。未見でしたらぜひ足を運んで見てください。
大作です。「新雪嵐山」1985年。絵の見方を一変させます。見る自分が主体ではなく、絵に小さい自分という存在が取り込まれ
てしまうー主客の逆転ーを感じる絵です。変な表現ですが、それほど圧倒的です。画面の大きさも半端でないです。
1.8×3.7メートル。何度も行って見たくなります。西洋絵画とは一線を画する日本画の世界に魅了されました。
絵の前に立ち尽くすというより、絵の中に知らずに参入?している感じでした。雪の銀閣寺、大和の寺、那智、秋よりも冬の絵
に強く惹かれます。やや装飾性、心象風景の要素が強いかなとも思います。平山郁夫さん、東山魁夷さんとも違います。   
              鈴木慶治 2020.1.28

昭和の絵師-美人画の名手 上村一夫

学生時代-昭和40年代-に熱烈な上村一夫ファンがいて、アパ-トの天井に大きな美人画が張ってあった。
こんなに妖艶な顔で見つめられていたら、かえって眠れないのではないかなと思った。もう50年も前のことである。
彼は新潟で元気にやっているかな。上村さんとその友人が重なって思い出された。
作詞家の阿久悠さんと深い親交のあったことを最近放映のTV番組で知った。
あの当時 林静一も人気が高かったです。       鈴木慶治 2020.1.29

ハ-ビ-・山口さん
1950年東京都出身 自分とほぼ同世代。生後2ヶ月で腰椎カリエスを発症。
-孤独と絶望の日々。中学2年で写真をはじめる。-
写真のテ-マ 人の心が清くなるような写真を撮りたい。人が人を好きになるような写真を撮りたい。
どのペ-ジにも氏の素敵な優しい文章、写真がつまっている。
世界が決してなくしてはいけないもの-と本の帯にある。
なくしてはいけないもの-それは人が人に寄せる優しさだろうと思う。
このことをしっかりと考えたい。自己主義やその権利の間違った正当化が多く見られます。
他者の痛みの感じ取れない、精神の荒廃した社会にならないようにと強く思います。。   鈴木慶治 2020.2.20

アウシュビッツの図書係-から
ディタはそれらの本を見つめ、優しく撫でた。縁がこすれ、ひっかき傷があり、読み古されてくたびれ、赤っぽい湿気による
シミがあり、ペ-ジが欠けているものもあるが、何ものにも代えがたい宝物であった。困難を乗り越えたお年寄りたちのように
大切にしなければ。本がなければ、何世紀にもわたる人類の知恵が失われてしまう。本はとても貴重なものなのだ。私たちに世界
がどんなものかを教えてくれる地理学。読む者の人生を何十倍にも広げてくれる文学。数学に見る科学の進歩。私たちがどこから
来たのか、そしておそらくどこに向かって行くべきなのかを教えてくれる歴史学。人間同士のコミュニケーションの糸をときほぐして
くれる文法・・・。その日ディタは、図書係というだけでなく、傷んだ本の世話係にもなった。 <P40>
アゥシュビッツの夜が更ける。暗闇の中、列車が到着し続け、途方に暮れて木の葉のように震える罪のない人々を置き去りにしていく。
そして煙突の赤みがかった強い光が、休むことなく炉が燃え続けていることを物語る。家族収容所に入れられている者たちはシラミ
だらけのわら布団に横になり、恐怖と戦いながら眠ろうとする。ひと晩ひと晩を生き抜くことが小さな勝利だ。<P236>
文学は、真夜中、荒野の真っただ中で擦るマッチと同じだ。マッチ1本ではとうてい明るくならないが、1本のマッチは、周りに
どれだけの闇があるのかを私たちに気づかせてくれる。        ウィリアム・フォ-クナ-

20世紀最大・最強の長編小説-原著で全7巻、翻訳では原稿用紙にして1万枚、文庫本にして10冊以上。
本好きにとっては、若い時からいつか読みたいと念願していた本。縮約版でわかるのかと疑問?に感じながらも手にした。鈴木慶治
<全体で522ペ-ジ> 角田光代さん-小説家。1967年神奈川県生まれ。荒川泰久さん-フランス文学者。1951年埼玉県生まれ。
角田さんの学生時代-早稲田大学-のフランス語の先生が荒川さんである。いわば師弟関係にあるお二人による共編、共訳。
2020.3.05

池上正樹さん 1962年生まれ 東日本大震災・石巻市の人たちの50日間 2011.6.6 第一刷発行 ポプラ社
本書は2011年3月23日から4月28日まで、東日本大震災の被災地・石巻市および女川町などを現地取材し
書き下ろしたものです。-あとがきから-

記者は何を見たのか-3.11東日本大震災 2011年11月10日 初版発行 読売新聞社 中央公論社発行
この本は、東日本大震災の取材にあたった記者78人が現地で何を見て、いかに感じ、何を考えたかの体験記
てある。-まえがきより-

東日本大震災から9年目-をむかえる。おりしも今、新型肺炎ウィルスが日本はおろか全世界で拡散危機に陥っている。
この時期であるからこそ、もう一度震災の意味を問い直し、生きることの大切さを見直したいと思う。2020.3.11 鈴木慶治


<コロナウィ-ルス感染について> 友人にあてたメ-ル文から。   鈴木慶治 
○2020.2.29  閉塞感が漂っていますね。マスクにとどまらずトイレットペーパーまで店頭から姿を消しました。店主に詮無いことですが、苦情を言いました。マスクのほとんどを中国産に依存、入荷がないとのこと。ペーパーは27日頃に突然客が押しかけ店頭から姿を消したとのこと。店側も何がなんだか?といった感じ。後でデマ拡散の結果ということが判明。見えないところで予想もしないことが起きているようです。東北の震災直後も風評被害やデマ拡散がありました。 学校の「一斉休校」には驚きました。なによりも首相の「要請事項」2.27が日を置かずして実施項目ー2.28となりました。仕事の遅い役所としては前代未聞ともいうべき出来事です。学校現場の戸惑いは言うに及ばす、社会全般に与える影響は計り知れません。感染拡大を抑制する効果はあるとのことですが・・・。3.2から春休みまで臨時休業ー。孫が学校から帰宅、発した言葉が「夏休みだー」には返す言葉を失いました。2.29朝日新聞の一面「首相独断休校見切り発車」の見出しには、閉塞感を一気に吹き飛ばず大きな危機感を感じました。文部科学省は「春休みの前倒し」で、状況に応じて本来の春休みに授業や部活を再開もできる、が念頭にあったというのですが・・・。
○2020.3.29 直近のイタリアの感染拡大には脅威を感じてます。もちろんイタリアに限っての話ではありませんが。伊1国の感染死者数が4032人ー3.22の朝刊ー、47201人の感染者。致死率が8.6%という高さ。1日あたり627人の感染者増も驚きです。日々刻々この数字は変化してます。回復された方が5129人というのが僅かな救い?でしょうか。1日も速い治療ワクチンの開発、普及を待つしかないのでしょうか。五輪の開催についても色々取り沙汰されてます。昔、歴史の教科書で末法、終末の世ということを言葉としては習いましたが、それが頭に浮かびました。感染することで、次は自分自身が他の人に感染させる加害の側になってしまう。その連鎖。何とか打開策、希望はないものでしょうか。
○2020.4.3 日々、大きな社会的な危機ー、うねりの中で生きている思いです。ほんの少し前まで、そのうち何とかなる、と思っていました・・。今、暗いトンネルの中で物事をネガティブに考えている自分を意識します。出口の明かりが見えたら、少しは元気も出るものと思うのですが。ただ希望的なことがあるとすれば、世界中の多くの人々が、ウィルス感染の脅威に対して、負けない!克服という共通理解・認識を持った!ということでしょうか。世界の一部の国が「自国第一、保護主義」を標榜することへの警鐘を鳴らすことになるように思うのですが。力を合わせて、共通の課題に取り組むことで、あらたな国際社会の関係が築かれていくことになりはしないかと考えます。「地球規模ひとつになった対策・対応」。 経済優先で物の豊かさを幸せの基準にして進んできた社会と真逆な生き方をした同世代の若者がいました。星野道夫1952-1996。アラスカの広大な大地で、生涯の20年ー半分以上を過ごしました。彼が求めた幸せは、物が過剰にあふれた社会にはないものでした。大自然の中、過酷な動物たちの生き方を見つめ写真に記録し、日常的な生死と共に自分が在る!という緊張感、充実感を日々の自分に課したように思います。これが星野さんの幸せの一要素、いやひょっとすると全要素だったかもーしれない。簡単には理解出来ないことではありますが、私たちの生き方に何らかの指針を示すものになるかもしれません。星野道夫はアラスカの大地とともに生き、そして44歳の若さで生涯を閉じました。24年前のことです。2020.4
星野道夫氏については、このサイトの「本の旅」にも記しました。

高橋 治 「風の盆恋歌」1985.4 新潮社発行 越中八尾の「おわら風の盆」を舞台にした小説。高橋氏は松竹の元監督という履歴の持ち主。
小津安二郎監督の助監督をしたこと-たった一度だが-もある。1929年千葉市生まれ。直木賞作家である。
「別れてのちの恋歌」は、1988.7 新潮社発行。長崎半島の「脇岬の祇園祭り」を舞台にしている。
鈴木慶治-補足 たえて忍ぶ、大人の男女の恋物語-おがいに家庭をもちながらも、過ぎ去った若き日の恋心にふりまわされる。言葉は妥当ではないかもしれないが、「中年版・ロミオとジュリエット」を感じさせる。「風の盆恋歌」の結末は・・・。心を通い合わせる場面は印象的。、古きよき松竹映画を彷彿とさせる・・ように思えた。