本の旅Ⅳ

司馬遼太郎氏(1923-1996)は<司馬遼太郎が考えたこと12>・2005.11.1新潮文庫発行-の中で次のように書いています。 P.102
私にとっての旅<自分自身との出会い>
「私のたのしみというのは、毎日、書斎でうずくまっていることらしい。杜子春が辻で人を待っているように、断簡零墨を見、やがてそこから人間がやつてくるのに逢う。むろん、無数の場合、逢いぞこねてもいる。いまだにやつて来ぬ人もいる。旅には、そのために出かけるようなものだ。・・・人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳でもある自分自身を見つけるには、書斎だけの思案だけではどうにもならない・・・自分自身に出逢うには、そこにかつて居た-あるいは現在もいる-山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。・・・私にとって「街道をゆく」とは、そういう心の動きを書いているということが、手前のことながら、近頃になってわかつてきた」 1983.7 

本との出会い-<人との出会いと同じ> 
辻邦生氏は「出会い」について次のように書いています。<辻 邦生1925-1999 「海辺の墓地」から>
「本との出会いは、人との出会いと同じく宿命的なものがあります。私たちが会うべくして会う本、また会うべき時に会う本というものがあるものです。そしてそれは若い時のこともあり、年とってからのこともあります。しかしそうやって出会った本は生涯私たちの傍らにあり、私たちの支えとなり糧となるものです」

司馬遼太郎や辻邦生とは違い、私たちの多くは、「本と密接なつきあい」をしているわけではありません。傍らにあって支えとなる本と出会うことはないかもしれません。また辻で人を待つ杜子春にもなれないかもしれません。しかし読書から新たなる感動、未知なる知識、情報を得て、自身の考え方が多少は深まったかなと感じるときは、時々あります。-鈴木慶治

古典がそれを解釈する人(辻邦生氏)の鑑賞・解釈でより味合い深いものになる時があります。これも読書から得られる喜びです。
芭蕉のよく知られている俳句。<-荒海や 佐渡によこたふ 天の川->
荒涼とした暗い日本海の夜を思い、その漆黒の荒磯に打ち寄せる波を耳に思い起こすと、そこに満天の星が輝きはじめる。その永遠の宇宙の静寂はかえって荒々しい浪の音によって深められていく。佐渡という語感のなかに歴史の語る悲運の響きが重くあるので、その分だけ天の川の永遠性が深まる。哀愁と悲愴の織りなす一瞬に仰ぐ永遠というべきだろうか。」
<-夏草や 兵どもが ゆめの跡->
「人の世の栄枯盛衰を超えて、自然の時間は大河のように流れる。春が去り、夏が来て、茂る草の中に横たわる城跡の石は、何よりもそうした生命のはかなさと、時の永遠を思わせる。芭蕉は杜甫の「国破山河在 城春草木深」に触発されてこの句を作った」-芭蕉のなかの永遠-辻邦生「海峡の霧」から       

辻邦生氏の作品/他に「天草の雅歌」など- 鈴木・個人蔵

ノンフィクション関係の書籍  立花隆1940-・柳田邦男1936-・沢木耕太郎1947- 

東日本大震災関係の書籍-どれも痛切な思いなくしては読み進めません。人々の「苦境に立ち向かう勇気・努力」から学ぶことは、ひじょうに大きなものがあると思います。人は悲哀、絶望、嫌悪、を避けて自身の人生を生きることは出来ません。-この世をともに生きている、-との思いを深くするためには目を背けず「何がおきたか」を知ることは大事なことです。 鈴木慶治

東日本大震災関係書籍-鈴木慶治・個人蔵
「心のおくりびと」-東日本大震災復元納棺師・今西乃子/「あの日のわたし」-東日本大震災99人の声・星雲社/「希望-命のメッセ-ジ」・鎌田 實/「だけどくじけない」・長倉洋海/「日本を信じる」・瀬戸内寂聴、ドナルド・キ-ン/「春をうらんだりしない」・池澤夏樹/「遺体」・石井光太/「津波の墓標」・石井光太/「三陸物語」・萩尾信也/「生と死の記録」・萩尾信也/「寄り添い支える」-公立志津川病院内科医の3.11・菅野武/「三陸の海」・津村節子/「三陸海岸大津波」・吉村昭/「大槌町震災からの365日」・東野真和/「その後とその前」・さだまさし、瀬戸内寂聴/「特別授業3.11君たちはどう生きるか」・河出書房新社/文藝春秋 「つなみ」-被災地の子ども80人の作文集/文藝春秋 「つなみ」-5年後の子どもたちの作文集/「つなみ」の子どもたち-作文に書かれなかった物語/「気仙沼に消えた姉を追って」・生島淳/「ファインダ-越しの3.11」・安田菜津紀、佐藤慧、渋谷淳志/「再び立ち上がる」・河北新報社/「河北新報社のいちばん長い日」・河北新報社/「いまだから読みたい本」-3.11以後の日本・坂本龍一+編纂チ-ム編/「闘う東北」・朝日新聞社/「記者は何を見たのか3.11」・読売新聞社/「がれきの中で本当にあったこと」・産経新聞社/「被災地からの手紙、被災地への手紙」・西條剛央/「石巻赤十字病院の100日間」・石巻赤十字病院/「がれきの中の天使たち」・椎名篤子/「生きる」-生き残れし者の記・工藤幸男/証言記録「東日本大震災」・NHK出版/「石巻の人たちの50日間」-ふたたびここから・池上正樹/石巻市立大川小学校「事故検証委員会を検証する」・池上正樹、加藤順子/「あのとき大川小学校で何が起きたのか」・池上正樹、加藤順子/東日本大震災-「希望の種をまく」・寺島英弥/「明日へ」-東日本大震災の記録・NHK東日本大震災プロジェクト/「震災三十一文字-鎮魂と希望」・NHK「震災を読む」取材班編/東日本大震災詩歌集-「悲しみの海」・谷川健一、玉田尊英編/「HOPE311」-陽また昇る・バ-ビ-・山口/「ここから始まる」・広田泉/「あの日」のこと・高橋邦典/「HOME-美しき故郷よ」・宍戸清孝写真集/「THE DAY AFTER」-東日本大震災の記録・石川梵/「南三陸から2011.3.11~2011.9.11」・佐藤信一写真/「南三陸から2011.9.11~2012.3.11」・佐藤信一/「南三陸から2012.3.11~2013.3.11」/おばあちゃんの紙しばい「つなみ」・田畑ヨシ/「東北思い出の写真館」・宝島社/「南三陸町からの手紙」-東日本大震災それぞれのあの日制作委員会/「みやぎの海辺、思い出の風景」-航空写真集/"その時、閖上は"・小齋誠進/東日本大震災「写真家17人の視点」/「陸前高田」・畠山直哉/岩手日報-岩手の記録「平成の三陸大津波」/岩手日報-岩手の記録Ⅱ「明日への一歩」/岩手日報-岩手の記録Ⅲ「軌跡」大津波からの5年/岩手日報-岩手の記録Ⅳ「てんでんこ未来へ」/河北新報社・緊急出版・特別報道写真集3.11大震災「巨大津波が襲った」/河北新報社「東日本大震災全記録」/東日本大震災3.11「宮古地方版」・宮古民友社/毎日新聞社「写真記録・東日本大震災3.11から100日」/毎日新聞社-明治、昭和、平成「巨大津波の記録」/朝日新聞社-報道写真全記録2011.3.11-4.11「東日本大震災」/朝日新聞社「震災1年全記録」/読売新聞社-特別縮刷版「1ヶ月の記録」/

「三陸海岸大津波」 
小説家吉村昭氏によるルポルタージュ。
初版は1970年(昭和45年)に『海の壁 三陸沿岸大津波』の題名で刊行された。1984年(昭和59年)に中公文庫版が刊行された際に現行のタイトルに改題された。吉村の死の2年前、2004年(平成16年)に文春文庫版が再刊された。
内容は、明治29年の大津波、昭和8年の大津波、チリ大地震大津波の3部構成である。三陸海岸各地の大津波を受けての被害状況、人々の行動を克明に記録している。
-その時、沖合から不気味な大轟音が鳴り響いた――「ヨダだ!」大海嘯ともヨダとも呼ばれる大津波は、明治29年、昭和8年、昭和35年の3度にわたって三陸沿岸を襲った。平成23年、東日本大震災で東北を襲った巨大津波は「未曾有」ではなかったのだ。津波の前兆、海面から50メートルの高さまで上り家々をなぎ倒す海水、家族を亡くした嘆き、地方自治体の必死の闘い…生き延びた人々の貴重なインタビューや子どもたちの作文が伝える、忘れてはいけない歴史の真実がある。昭和8年の大津波は昭和8年3月3日・午前2時32分(深夜のこと)、釜石町東方二百キロの海底が震源。岩手県の宮古市田老では911名の死者、行方不明者を出したと記録にある。小学生の作文には、8人家族のうち実に7人が亡くなり、ほんとうに一人ぼっちになったという当時12歳の女の子の記録が特に痛ましい。この子(女性)は、90歳になり2011年の大震災も経験した・・・。-鈴木

表紙は震災前の気仙沼市 下は震災直後の宮城県亘理町

畠山直哉 「陸前高田

 

ヒロシマ・ナガサキ関係書籍
自然災害とことなり、原爆投下は「人類の犯した最大の歴史的恥辱」です。再びこうした惨禍が未来に皆無であるとだれが断言できるでしょうか。むしろその不安は増大しつつあるように思います。被爆国であるにもかかわらず、この国は「核兵器禁止条約」に加わらず橋渡しというが、実質は何もしないという、信じがたい傍観的、第三者的立場に終始する。被爆国としての自覚、責任すら見られないのはどうしたことか。-鈴木

書籍名/著者、編者 
<鈴木慶治-個人所蔵>2020・7/30現在
「平和のバトン」広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶・弓狩匡純・協力、平和記念資料館/「原爆句抄」・松尾あつゆき/「命かがやいて」・大西知子/「なみだのファインダ-」・柏原知子監修/ 「HIROSHIMA-半世紀の肖像・大石芳野/「死の同心円」・秋月辰一郎/「広島爆心地中島」・広島遺跡保存運動懇談会編/「ヒロシマを壊滅させた男 オッペンファイマ-」・ピ-タ-・グッド・チャイルド・池澤夏樹訳/「ヒロシマ戦後史」・宇吹 暁/「ヒロシマ」・ジョン・ハ-シ- /「サダコ 原爆の子の像の物語」・NHK広島「核・平和」プロジェクト/「私はヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した」・チャ-ルズ・W・スウィニ- 黒田剛訳/「カウントダウンヒロシマ」・スティブン・ウォ-カ- 横山啓明訳
広島を復興させた人びと「原爆」・石井光太/「原爆と戦った特攻兵」・豊田正義/「原爆供養塔」-忘れられた遺骨の70年-・堀川惠子/
「遠きヒロシマ」-記憶の物語-・青木幸子/「空が赤く焼けて」-原爆で死にゆく子たちの8日間・奥田貞子/「少女十四歳の原爆体験記」・橋爪 文/「ヒロシマ絶後の記録」・小倉豊文/「星は見ている」-全滅した広島一中一年生父母の手記集・秋田正之編/「広島日記」・蜂谷道彦/「花の命は短くて」-原爆乙女の手記・小島 順/「屍の街」・大田洋子/「長崎原爆記-被爆医師の証言」・秋月辰一郎/「この子を残して」・永井 隆/「ロザリオの鐘」・永井 隆/「長崎の鐘」・永井 隆/「原爆詩集」・峠 三吉/「廣島-戦争と都市-」・岩波写真文庫/「長崎の鐘はほほえむ」-残された兄妹の記録-・永井誠一/「ぼくは満員電車の中で原爆を浴びた」-11歳の少年が生きぬいたヒロシマ・由井りょう子 文
米澤鐵志 絵/「原爆の子」上・長田 新編/「原爆の子」下・長田 新編/「原爆の子」その後-原爆の子執筆者の半世記・原爆の子きょう竹会編/「ぼくの家はここにあった」-爆心地~ヒロシマの記録-付録DVD復元中島町・田邊雅章/よみがえった都市-復興の軌跡「原爆市長」復刻版浜井信三/「原爆が消した廣島」・田邊雅章/「娘よここが長崎です」-永井 隆の遺児茅乃の平和への祈り・筒井茅乃/「永井 隆」・永井誠一/
「ヒロシマはどう記録されたか」上・小河原正己/「ヒロシマはどう記録されたか」下・小河原正己/「焼き場に立つ少年」は何処へ・ジョ-・オダネル・吉岡栄二郎/「ガイドブックヒロシマ」-被爆の跡を歩く-・原爆遺跡保存運動懇談会編/「いしぶみ」-広島二中一年生全滅の記録・広島テレビ放送編/「ヒロシマをさがそう」-原爆を見た建物・山下和也、井手三千男、叶 真幹/「原爆が落とされた日」・半藤一利、湯川 豊
「チンチン電車と女学生」・堀川惠子、小笠原信之/「牧師の涙」・川上郁子/「HIROSHIMA1958」・エマニュエル・リブァ写真/「長崎旧浦上天主堂」1945-1958 失われた被爆遺産・高橋 至、写真、横手一彦、文/「ヒロシマから問う」平和記念資料館の「対話ノ-ト」編集委員会編
「被爆の遺言」・被災カメラマン写真集/「昭和二十年代~三十年代 百二十八枚の広島」・明田弘司写真/「生きていた広島 広島1945」南々社
立ち上がる広島・1952 岩波書店編集部編/「写真記録 ヒロシマ25年」佐々木雄一郎/「決定版 長崎原爆写真集」小松健一、新藤健一編/
「広島・長崎 原子爆弾の記録」・平和のアトリエ/集英社 戦争と文学 第19巻 「ヒロシマ ナガサキ」-閃-/「ヒロシマを伝える-詩画人 四國五郎と原爆の表現者たち」・永田浩三/「広島第二県女二年西組」・関千枝子/「原爆死真実」-きのこ雲の下で起きていたこと・NHKスペシャル取材班/「原 民喜全集 全二巻」-夏の花・原 民喜/「ヒロシマ 消えたかぞく」-このえがおがずっとつづくとおもっていた-・指田 和、写真 鈴木六郎/「おこりじぞう」・絵 四國五郎 文 山口勇子/「トランクの中の日本」・ジョ-・オダネル/「黒い雨」・井伏鱒二/
「死の島」上・福永武彦/「死の島」下・福永武彦/「浦上物語」・市川和広/「ヒロシマ」土門拳全集10・小学館/「長崎の痕」・大石芳野写真集/大石芳野写真集「戦争は終わっても終わらない」/広島平和記念資料館臓・撮影、土田ヒロミ「ヒロシマ・コレクション」/

土門拳全集10・月報に寄せた、大江健三郎氏の「土門拳のヒロシマ」という文章がある。以下引用である。
「土門拳の「ヒロシマ」のすべての現代的意義は、従来の原爆をめぐる写真集が1945年8月6日、原爆投下の日の原爆写真的な性格をもち、焦点がこの日にむかってあてられていたのとちがい、今日のヒロシマ、1958年のヒロシマにおける、原爆と人間の戦いを現在形でえがくことにすべての目的があることだ。土門拳は1958年に日本人がいかに原爆と戦っているかを描き出す。それは死せる原爆の世界をではなく、生きて原爆と戦っている人間を描き出す点で、徹底して人間的である・・・。われわれにとって最も重要な関心は、生きているわれわれの群衆の中にのみある。「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから」という抒情的で厭らしい書体で書いた記念碑のよそよそしい無益な感じはこういうところに由来するのだろう。土門拳の「ヒロシマ」がえがきだすのは、安らかに眠るどころか、悪戦苦闘して生きてゆく、われらの群衆の中のかれらである。・・・ある根元的な不安と恐怖、それに疲労からおびえて無気力ではあるが、鳥のように清潔で美しい少年の生と死をえがいた写真がある。少年は爆心地附近を歩いた母親の胎児であったが、土門拳のカメラにおさまったあと急性骨髄性白血病で死亡した。この少年にとって人間世界は、暴力的に希望の芽をおしつぶす不可解な地獄でしかなかったわけだ。その人間世界であまり長いとは期待できない人生のために死ぬ苦しみで頬へ腿の皮膚を移植する少女もいるのだ。・・・「ヒロシマ」の写真の数々は私の文章が雑音のように排除しきれずひびかせるセンチメンタリズムなどとはまったく無縁の場所に達成されているのである・・・。」

核の脅威は、戦後75年たってもなお現在形である。これは疑いのない事実である。未来にむかってますます恐怖の念が増しているようにも思う。私たちは「原爆投下」という悲惨な出来事から、何をいったい学んできたのだろうか。-鈴木慶治

土門拳氏の言葉-「憎悪と失意の日日-ヒロシマはつづいている」(写真展「憎悪と失意の日日-ヒロシマはつづいている」展示パネル・1968年)
「ぼくは1958年(昭和33年)に写真集「ヒロシマ」(研光社)を出してから十年ぶりに広島に行った。十年ぶりの広島は、内外ともに様相を一変させていた。まず広島の街の目覚ましい復興ぶりに驚かされた。地方都市ながら近代都市らしい消費文化の発展はすさまじく、広島の街は平和と繁栄の泰平ム-ドにまるで酔いしれているみたいだった。
 しかしそれは見てくれだけのものだった。一歩内部に踏みこんでみると、理不尽な矛盾と悲惨は十年前以上に拡大深化していた。・・・建物や樹木には復興や再生ということはあり得ても、1945年(昭和二十年)8月6日午前8時15分広島市上空に投下された一発の原子爆弾が広島市民の肉体に与えた爪跡は、消えるということがないのであった。・・・人間の尊厳をむしばみつづけて消えることがない。・・・原爆ド-ムをはさんで南に平和公園、北に原爆スラムと呼ばれる相生通りがある。太田川川岸2キロメ-トルに連なる約千世帯、四千人の人たちが生活している。三世帯にひとりは被爆者がいるといわれる。また全世帯の三分の一は朝鮮人だともいわれ、朝鮮人被爆者も多い。原爆のために身よりを死なし、生活保護を受けているひとり暮らしの老人、失対事業で働く夫婦、さまざまの人たちの生活がくりひろげられている。原爆スラムは広島の中における差別の町である。・・就職、結婚については広島の中でも理不尽な差別を受けている。掘立小屋の戦後的不良住宅や不法建築については、市も県も無為無策・・・原爆スラムが存続するかぎり、広島では戦後は終わっていないというほかない。

宮本常一の言葉「私の日本地図4-瀬戸内海・広島湾付近」
「広島というところは川水のきれいな町である。・・・太田川の水は澄んでいた。そして底はきれいな砂である。・・このきれいな流れと、白島あたりは堤防に桜を植えて、春ともなれば花見の客が堤を埋めている風景はこの上なくこのましいものであったが、昭和20年、この町に原爆がおとされて、一望の焼け野になってからは、川にそって小さなバラックが密集してしてつくられ、・・土地所有者が誰であったかさえわからなくなってしまいスラム街が発生したのである。広島の川のほとりの密集集落を見るたびに、この町が原爆でうけた痛手の深さを思い知るとともに、この密集集落の解消されるまでは、広島の戦後は終わっていないと思っている。

-個人的なことだが、土門さんが十年ぶりに広島を訪れたという昭和43年は、戦後生まれの自分が高校3年になった年である。戦後23年もたとうとしているのに当時「原爆スラム」が存在し、「差別」が根強くあったということは大きな驚きである。それを土門さんは憎悪と失意と表現した。2015年になって広島を訪れたとき、「原爆差別」は依然として続いていることを、平和公園で耳にしたことがある。-鈴木慶治

広島平和公園-原爆犠牲国民学校教師と子どもの像   原爆ド-ム-写真・鈴木慶治

他の写真は、下のヒロシマをクリックしてください。

沢木耕太郎の作品

沢木耕太郎の対談-セッションズ本 対談者と内容
Ⅰ 達人、かく語りき -あう
/吉本隆明・肉体 異国 青春/吉行淳之介・逆襲ムカシばなし篇/淀川長治・私の 愛した 映画/磯崎 新・時の廃墟へ/高峰秀子・旅が教えてくれたこと/西部 邁・1960年を中心に/田辺聖子・男から学んだこと、女から学んだこと/瀬戸内寂聴・比叡山での日々/井上陽水・いつかの続き/羽生善治・ジグソ-バズルにピ-スをひとつ
Ⅱ 青春の言葉 -きく   
/長谷川和彦・アクション タ-ゲット/武田鉄矢・貧しくても豊かな季節/立松和平・事実の力、言葉の力/吉永小百合・いくつもの人生を生きて/尾崎 豊・見えない水路/周防正行・みんなあとからついてくる/先崎 学・陶酔と憂鬱/福本伸行・ソウルで話そう/大沢たかお・あの旅の記憶/上村良介・帰りなん、いざ
Ⅲ 陶酔と覚醒 -みる   
/山口 瞳む・スポ-ツ気分で旅に出ようか/市川 崑・映画とオンピック/後藤正治・スポ-ツを書くということ/白石康次郎・海があって、人がいて/安藤忠雄・すべてはつくることから/森本哲郎・最初の旅、最後の旅/岡田武史・サッカ-日和/山野井泰史・山野井妙子・垂直の情熱について/山野井泰史・記憶の濃度/角田光代・拳をめぐって
Ⅳ 星をつなぐために -かく
/柳田邦男・ノンフィクションの可能性/篠田 一士・事実と無名性/猪瀬直樹・アマチュア往来/柳田邦男・書くことが生きることになるとき/辻井 喬・フィクションとノンフィクションの分水嶺/村井由佳・砂の声、水の音/瀬戸内寂聴・それを信じて/角幡唯介・歩き、読み、書く ノンフィクションの地平/後藤正治・鋭角と鈍角/梯久美子・奪っても、なお

「作家との遭遇」
/必死の詐欺師・井上ひさし/青春の救済・山本周五郎/虚構という鏡/記憶を読む職人・向田邦子/歴史からの救出者・塩野七生/一点を求めるために・山口 瞳/無頼の背中・色川武大/事実と虚構の逆説・吉村 昭/彼の視線・近藤紘一//運命の受容と反抗・柴田錬三郎/正しき人の・阿部 昭/旅の混沌・金子光晴/絶対の肯定性・土門 拳/獅子のごとく・高峰秀子/ささやかな記憶から・吉行淳之介/天才との出会いと別れ・檀 一雄/虚空への投擲・小林秀雄/乱調と諧調と・瀬戸内寂聴/彼らの幻術・山田風太郎/スポ-ツライタ-の夢・P・R・ロスワイラ-/苦い報酬・T・カポ-ティ/旅するゲルダ・ゲルダ タロ- 

司馬遼太郎の作品

「司馬遼太郎が考えたこと」9-エッセイ1976.9-1979.4の中から。司馬さんは詩人であると思う。エッセイにふれるとその思いが深くなる。鈴木
茫々たる想い-
「翔ぶが如く-を書き了えて想うことといえば、遠い古代から流れてくる大河の景観である。水上ミナカミは天に懸かり、地を沈々と流れ、ある時期の肥薩の地と人を浸し、それを書いた時期の私を浸し、はるかな未来にむかって流れ去ってゆく。書き終わったいま、茫々として人も草も見えない。ただひたすらに青い水が、ときに天に接しながら流れてゆくのが見えるだけで、際限もない抽象世界の中にいる自分を思わざるをえない」

街道をゆく 全43冊- 「週刊朝日」1971年1月1日号・連載開始~ 1996年3月15日号・連載終了 
街道をゆく1 「甲州街道 長州路ほか」-楽浪の志賀-
○「「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。・・・
近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。」

25年に及ぶ「街道をゆく」の連載は、上記の文章からではじまった。近江という国が・・雨のふるさとや粉雪のふるさであるという。そんな詩的情景の近江・においさえのこすという近江の国には自分も何度となくでかけた。-鈴木慶治

街道をゆく43 「濃尾参州記」-
最後の文章は、以下、信玄の死、死と繰り返される。信玄とともに私たちの目の前から司馬さんは去っていかれた。思いがけない別れであった。
-鈴木
○「・・・信玄はこのあと三河に攻め入ったが、野田城包囲の陣中で病を得、軍を故郷にかえす途次、死ぬ。死は、秘された。-未完」

「街道をゆく」のなかで自分の好きなのは、「島原・天草の諸道」17/「近江・奈良散歩」24/「オホ-ツク街道」38/「北のまほろば」41/である。-鈴木慶治
「北のまほろば」
太宰治の「津軽」に関する記述も多いが、棟方志功についての司馬さんの言葉がとても印象的だ。
○「棟方志功の自己は、まことに大きい。いつも朝の野のように初々しく露で濡れていて、その初々しさは縄文時代から迷わずにこの世にきた人ではないかと思えるほどである。・・・言葉に鋭敏だった。それにあどけないほどに光明にあこがれていた。・・・「わだば、ゴッホになる」と志功がいったのは、ゴッホの「ひまわり」が在来の絵画が拘束してきた煩瑣なとりきめから、たかだかと自由だったからにちがいない。ひょっとすると志功にとってこの大音声は、-ゴッホをめざさば、すなわち自由だという独立自尊の宣言のようなものだったのではないか。・・・」 司馬遼太郎
以下、太宰治とその著作についての記述である。
○「太宰治の「津軽」は、その代表作の一つである。津軽への愛が、ときに含羞になり、自虐になりつつも、作品そのものを津軽という生命に仕上げていて、どの切片を切りとっても、津軽の皮膚や細胞でないものはなく、明治以後の名品といっていい。・・「津軽」に飢饉のことがでてくる。元和元年(1615)の大凶から・・書き写された凶作の年表はえんえんと4ペ-ジにおよぶ。太宰は、故郷を悲しき国としてなげくのである。」同上
「島原・天草の諸道」
○「天草は旅人を詩人にするらしい。まして詩人が旅人であれば、若い日の北原白秋たちがそうであったように、鳴き沙のなかにはるかな西方の浪の音まで聴きわけ、歴史という虚空のなかにまで吟遊して歩く人になるのかもしれない。
○「島原半島は、有明海に対して拳固をつきだしたようにして、海面から盛り上がっている。拳固から小指だけが離れ、関節がわずかにまがって水をたたえているのが、古代からの錨地である口之津である。
○「鬼池オンノイケの波止場から、いま船で横切ってきた早崎瀬戸を眺めてみると、もし故郷が自由にえらべるとすれば、自分は天草をえらぶだろうと思った。

からゆきさんとよばれた天草乙女が鬼池から口之津にわたり、遠く異国の地に売られていったという。遠い昔の哀話ではない。

参考 山崎朋子氏(1932- )著作「サンダカン八番娼館」から。-
「<からゆきさん>とは「唐行人カラヒトユキ」または「唐ん国行カランクニユキ」という言葉のつづまったもので幕末から明治期を経て第一次大戦の終わる大正中期までのあいだ、祖国をあとに北はシベリアや中国大陸から南は東南アジア諸国をはじめ、インド・アフリカ方面まで出かけていって、外国人に肉体をひさいだ海外売春婦を意味している。その出身地は全国に及んだが、特に九州の天草島や島原半島が多かったといわれている。」


○「人間は自然に依存するもろい生きものにすぎない。そのことは、陸(おか)にいるときより海にうかんでいるときにはなはなだしい。船と称される材木の切れっぱしに帆を立てたものに乗るとき、風浪のままに動き、あるいは風浪が追っかけて来ない海岸線の切れ込みのなかに遁げこむ。
「近江・奈良散歩」
○「興福寺の阿修羅には、むしろ愛がたたえられている。少女とも少年ともみえる清らかな顔に無垢の困惑ともいうべき神秘的な表情がうかべられている。無垢の困惑というのは・・多量の愛がなければ困惑はおこらない。しかしその愛は、それを容れている心の器が幼すぎるために慈悲にまで昇華しない。・・・阿修羅は、相変わらず蠱惑的だった。顔も体も贅肉がなく、性が未分であるための心許なさが腰から下のはかなさにただよっている。眉のひそめかたは、自我にくるしみつつも聖なるものを感じとってしまった心のとまどいをあらわしている。すでに彼-あるいは彼女-は合掌しているのである。・・・これを造仏した天平の仏師には、モデルがいたにちがいない。貴人の娘だったか。未通の采女だったか・・・・」

司馬さんの文章は、「阿修羅像を表現」する時もまことに詩的である。-鈴木

「オホ-ツク街道」
○北海道には自然だけでなく、人文のふしぎさもすくなくない。網走のまちを流れる網走川は、オホ-ツク海に注いでいる。その河口の砂丘に、いままで知られていた"歴史的日本人"とはちがうひとびとが住んでいたことを発見したのは、米村喜男衛翁であった。そのあたりに小地名がなかったので、付近の最寄村から名をとり「モヨロ遺跡」と名付けた。発見したのは、大正二年(1913)九月で、この人の二十一歳のときである。米村さんは、明治二十五年(1892)青森県で生まれ、昭和五十六年(1981)網走で亡くなった。八十九歳であった。亡くなる前、「オレは倖せだったなあ」と繰り返し呟いていたという。達人といっていい。・・死後、夫人によって「モヨロ悠遠」という遺稿集が編まれた。それらを読んでいると、似たような人として、ハインリッヒ・シュリ-マン(1822-90)と思い重ねざるをえない。どちらも無学歴で在野の学者であった。むろんめざした対象がちがう。・・私ども日本人が所有している古代は、じつに素朴である。米村さんが研究し、予感し、掘りあてたのは遠い世にオホ-ツクの海を渡ってきた素朴な民族の遺跡なのである。むろん、(トロい・モヨロともに)その価値にかわりがない。どちらも、われわれ地球上の人間を今日に在らしめている"過去"という荘厳さなのである。
司馬さんの人を見る目は、かぎりのない優しさに充ち満ちている。シュリ-マンの「トロイ遺跡」発見という歴史の縦糸と、米村さんの「モヨロ遺跡」発見という、いわば近現代の横糸とが見事に交差した文章となっている。モヨロの浦から-鈴木
以下、松浦武四郎のことである。
○「松浦武四郎のことをおもった。その日記や紀行文のたぐいを持ってきた。武四郎が愛した山川草木のなかでその文章を読むと、自分がアイヌになって武四郎と話しているような気になる。・・・武四郎の生涯をつらぬいている精神は独立自尊であった。みずからの知的関心のままに生きた。かれにとっての知的対象は諸国の人文、自然の地理だった。諸国遍歴を志して家を出たのは十七歳のときである。懐中には父からもらった小判一枚きりであった。・・・頑健な体と色白で中高のふしぎな容貌と社交的な性格をもっていた。アイヌの境涯に対するはげしい同情をもち自らもアイヌ語を話し松前藩の暴政を江戸に出て訴える・・。この幕末の北方探検家は、北海道を隈なく歩き・・・宇登呂の浜にもきた。さらに海上ながら先端の知床岬をもきわめた。-北海道の命名者ともいわれる。
以下個人の実際の体験である。
宇登呂(ウトロ)の港、オロンコ岩の下に松浦武四郎没後100周年を記念した顕彰碑が建立(昭和63年9月)されている。武四郎の詠んだ歌を詠むことができる。
-山にふし 海に浮寝の うき旅も 慣れれば慣れて 心やすけれ-   鈴木慶治

「街道をゆく」全43冊の中には海外編も何冊か含まれている。モンゴル紀行/中国・江南のみち、他/南蛮のみちⅠ、Ⅱ/愛蘭土紀行Ⅰ、Ⅱ/ニュ-ヨ-ク紀行/等々である。中でもオランダ紀行がすきだ。レインブラントやル-ベンス、そしてゴッホが登場する。
「オランダ紀行」から
○私どもは、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)の旅に出る。すこし気どっていえば、才能に抱イダかされてしまった者への悲しみの旅といっていい。芸術家にとって最大の侮辱は、-君には才能がない。-ということだが、普通の生涯を送ろうとする者の場合、才能とはおよそ荷厄介なものである。善良な父が、あどけない嬰児に才能をもとめるだろうか。才能のために、窮乏、あるいは数奇な生涯を送ることをのぞむかどうか。常人である何人も、ゴッホの生涯を真似たいとはおもわないはずである。自殺によって閉じた生涯は37年にすぎず、その間、弟に養われ、収入もなく、絵についてなんの評価もされず、無名のまま生き、隣人や友人から厄介がられたり、疎まれたりした。「あの者に近づくな」と、カトリック教会の神父が村人に警告したりした。そういう生涯よりも、タクシ-の運転手になって幸福な家庭をつくるか、仕事仲間と一緒に酒場に行って愉快な会話を楽しむほうがずっといい。(むろん、こういう言い方は、多分に反語である。じつはひとびとはその心の底に壮烈なものをもとめる衝動があり、たとえ自分がそのようにならなくとも、ゴッホのような生涯を憧憬する気分がある)。ともかくも、ゴッホはうまれつき才能という毒気に中っていた。・・・ごく一般的にいって、絵画は人にとって身のまわりの装飾である。絵のかかった部屋でコ-ヒ-を飲むのは楽しい・・が、ゴッホの絵は、楽しさとはべつのもののようである。・・はね橋を描いても、自画像を描いても、ひまわりを描いても、ついににじみ出てしまう人間の根源的な感情がある。それは、「悲しみ」というほか言いあらわしようがない。・・どうもかれの悲しみは、人として生まれてきたことについての基本的なものである。・・いっそ聖書的といったほうがよく、このためかれの悲しみは、ほのかに荘厳さをもち、かがやかしくさえある。・・・ゴッホは牧師の子として生まれかれ自身も一時期伝道師をしたこともあり、ほとんど(愚直なほどに)聖書的に生きた。

-司馬さんの「ゴッホ」についての記述は、1冊の中で74ペ-ジにも及ぶ。「オランダ紀行」全ペ-ジ数が397ペ-ジであるから、実に約18.6%がゴッホについてである。「わざわざ言うまでもないが、私はゴッホの絵がすきである。」と司馬さんが言うのもむべなるかなである。-鈴木
「オランダ紀行」には、他にドン・キホ-テ、フランダ-の犬、ハイネ、シ-ボルト、スピノザ、ユダヤ人、等々にもふれていてまことに内容が濃い。少女アンネ・フランクにもふれる。「アンネの日記」を書いたのは、ナチ占領下であったオランダ・アムステルダムの隠れ家であったことは、よく知られた事実である。オランダは建国以後、他民族に対し、寛容で、追われてきたユダヤ人に対してきわめて同情的であつたという。-鈴木

司馬さんは、私にとつての旅-「ガイド 街道をゆく 近畿編」の中で、-旅-について次のように記している。
「たとえ廃墟になつていて一塊の土くれしかなくとも、その場所にしかない天があり、風のにおいがあるかぎり、かつて構築されたすばらしい文化を見ることができるし、その文化にくるまって、車馬を走らせていたかぼそげな権力者、粟粥の鍋の下に薪を入れていた農婦、村の道を歩く年頃のむすめ、そのむすめに妻問いする手続きについて考えこんでいる若者、彼女や彼を拘束している村落共有の倫理といった、動きつづける景色を見ることができる。・・・ひとびとの空想も、家居しているときは泡状の巣の中にあり、旅にでるということは、空想が音をたてて水の中に落ちることにちがいない。私にとって「街道をゆく」とは、そういう心の動きを書いているということが、近頃になってわかってきた。」


司馬遼太郎全講演5冊の内容

司馬遼太郎全講演1-講演内容
1964-1968年 <司馬さん41歳~45歳> 死について考えたこと/法然と親鸞/歴史小説家の視点/大阪商法の限界
1969-1971年 <司馬さん46歳~48歳> 学生運動と酩酊体質/うその思想/松陰と河井継之助の死/松陰の優しさ/河井継之助を生んだ長岡/
大化の改新と儒教と汚職
1972-1974年 <司馬さん49歳~51歳> 薩摩人の日露戦争/民族の原形1-儒教/民族の原形2-毛沢東/民族の原形3-日本の将来
司馬さんの控え室 井上靖さんと組合/天皇について/司馬さんの控え室 司馬さんと雅子妃/国盗り斎藤道三/幕末の三藩
解説 「思想嫌い」の思想 関川夏央

司馬遼太郎全講演2-講演内容
1975-1979年 <司馬さん52歳~56歳> 週刊誌と日本語/土地問題を考える/「空海の風景」余話/日本人と合理主義/世間について/大坂をつくった武将たち/浄土教と遠藤周作/鉄と日本史
1980-1983年 <司馬さん57歳~60歳>  松山の子規、東京の漱石/文章日本語の成立/「坂の上の雲」と海軍文明/控え室 戦車と軍艦/朝鮮文化のル-ツ/
1984年    <司馬さん61歳> 土佐人の明晰さ/訴える相手がないまま/ロシアについて/医学の原点/孫文の日本への決別/日本の文章を作った人々/控え室 福山坂の漱石と一葉
解説 思い出の司馬さん 桂米朝 

司馬遼太郎全講演3-講演内容
1985年 <司馬さん62歳> 松陰の松下村塾に見る「教育とは何か」/「菜の花の沖」について/時代を超えた竜馬の魅力/控え室 高知の空と僕の竜馬/小村寿太郎の悩み/
1986年 <司馬さん63歳> 義経と静御前/奄美大島と日本の文化/近松門左衛門の世界/控え室 上方花舞台と司馬さんの詞/「文明の窓口」としての朝鮮/「見る」という話
1987年 <司馬さん64歳 > 文学から見た日本歴史/三河と宗教/偉大な江戸時代/東北の巨人たち/細川家と肥後もっこす/裸眼で見る「文明と文化」/控え室 「文明と文化」を語る理由/言葉の文明/日本人のスピ-チ
1988年 <司馬さん65歳> 横浜のダンディズム/人間という「商売」の話/敗者たちの戊申戦争
解説 司馬文学の鍵 出久根達郎

司馬遼太郎全講演4-講演内容
1988年 <司馬さん65歳> 日本の言語教育/大隈重信が目指した文明/医学が変えた近代日本/
1989年 <司馬さん66歳> オランダの刺激/「砂鉄のみち」と好奇心/ものを見る達人たち/控え室 海音寺潮五郎さんへの思い/戦国から幕末の「防長二州」/
1990年 <司馬さん67歳> 義務について/新島襄とザビエル/心と形/私のモンゴル語/鎌倉武士と北条政子/控え室 正月と嶋中さん
1991年 <司馬さん68歳> 秦氏の土木技術/踏み出しますか/控え室 タイムの旅行者/ポンペ先生と弟子たち/宇和島の独創性/日本仏教に欠けていた愛/漱石の悲しみ/控え室 講演の後に文化功労者の記者会見
解説 貫いた「たけくらべ」の視点 田中直毅

司馬遼太郎全講演5-講演内容
1992年 <司馬さん69歳> 播磨と黒田官兵衛/九州の東京志向の原形/草原からのメッセ-ジ/建築について/
1993年 <司馬さん70歳> 秀吉を育てた近江人脈/防衛と日本史/「花神」から「胡蝶の夢」へ/日本の朱子学と楠木正成/控え室 司馬さんの論語のススメ
1994年 <司馬さん71歳> 「坂の上の雲」秘話/会津の悲運/竜馬とエネルギ-/正岡子規のリアリズム/モンゴルとういろう/清正と大阪の名市長/控え室 司馬デスクと三浦浩さん/ノモンハン事件に見た日本陸軍の落日/
1995年 <司馬さん72歳> 臓器移植と宗教/控え室 写真のなかの司馬さん/少数民族の誇り/
解説 近代の「風土記」を書いた人 山崎正和 (1934-2020.8.19)
通巻索引 巻末

以下-山崎正和氏の解説-・近代日本の「風土記」を書いた人-から
「司馬さんの講演集を読んでいると、めだつのは地方でおこなわれた講演であり、その地方を土地の人とともに愛する言葉だろう。九州へ行けば、あらためてここが日本の稲作の発祥の地であることを思い出し、また関東で生まれた武士気質がじつは九州でこそ確立されたのだと推察する。東北を訪れれば、声を励まして縄文文化の中心地の栄光を讃え、その時代の東北がいかに豊かな自然を日本人に恵んでいたかを強調する。さらに福島県の聴衆をまえにしては、会津の知的な伝統について力説したうえに、戊申戦争の敗北さえただの悲惨な事件ではなく、あれが明治革命の野蛮な情念を発散させる捨て石として役立ったことを主張する。・・・これは必ずしもその人たちの歓を買うための言葉ではない。司馬さんが讃え、寿いでいるのは、(その土地の)国柄であり、歴史につながるこの国の風土と文化なのである。・・・・晩年の司馬さんが小説の筆を折って「街道をゆく」という旅行記に精力を注いだ・・・司馬さんは行く先ざきで土地に住む人と語り合い、その郷土愛をわがものとして歴史を振り返る。近代日本の「古事記」を書いた作家は、じつはつねに「風土記」の筆者であろうと努めていたにちがいないのである。・・・・司馬遼太郎は歴史家であったが、それ以上に文学者であり、詩人であった。歴史家は文明の興亡を眺めていたが、詩人はその底にひそむ地霊の呟きに耳を傾けていたようである。」
          

司馬遼太郎短篇全集・目次-<幕末を舞台にした短篇>
「司馬遼太郎短篇全集七 1963.1~63.6」  奇妙なり八郎/伊賀者/鴨川銭取橋/花屋町の襲撃/猿が辻の血闘/虎徹/割って、城を/土佐の夜雨/前髪の惣三郎/祇園囃子/胡沙笛を吹く武士/上総の剣客/妬の湯/軍師二人/三条碩乱刃/千葉周作

「司馬遼太郎短篇全集八 1963.7~63.12」 逃げの小五郎/海仙寺党異問/死んでも死なぬ/沖田総司の恋/彰義隊胸算用/槍は宝蔵院流/浪華城焼打/弥兵衛奮迅/最後の攘夷志士/四斤山砲/桜田門外の変/菊一文字/英雄児

「司馬遼太郎短篇全集九 1964」 斬ってはみたが/慶応長崎事件/鬼謀の人/人斬り以蔵/薩摩浄福寺党/五条陣屋/侠客万助珍談/肥前の妖怪
喧嘩草雲/天明の絵師/愛染明王/伊達の黒船/ただいま十六歳-近藤勇/酔って候

個人写真集-鈴木作成 2015.4.14
表紙の写真は、天草鬼池港 

口之津から鬼池にむかう-早崎瀬戸

「ドナルド・キ-ン著作集」キ-ンさんは日本人いじょうに日本人である。-キ-ンさんは東日本大震災後に日本国籍を取得した。
石川啄木の評伝-「著作集第15巻」所収-はキ-ンさん93歳時の作品である。(ドナルド・キ-ン 1922-2019)

「日本で最も人気があり愛される詩人であった30年前に比べて、今や啄木はあまり読まれていない。多くの若い日本人が学校で「古典」として教えられる文学に興味を失ったからだ。テレビその他の簡単に楽しめる娯楽が本に取って代わった。・・啄木の絶対な人気が復活する機会があるとすれば、それは人間が変化を求める時かもしれない。地下鉄の中でゲ-ムの数々にふける退屈で無意味な行為は、いつか偉大な音楽の豊かさや啄木の詩歌の人間性の探究へと人々を駆り立てるようになるのではという期待を抱かせる。・・・」

「ロ-マ字日記を読んでいて我々が感じるのは、その描かれた真実に対する称賛の気持ちと、数々の失敗を重ねることにさえ親近感を覚えてしまう一人の男(啄木)に対する愛着であろう。その男の陥った窮境は、時代や不運のせいというよりは自分の身勝手が招いたものかもしれない。しかし最終的には我々は、それがたぶん天才である一人の詩人に不可避なものとして、その身勝手さを受け入れる。・・・おそらく啄木は自分がすでに散文の傑作「ロ-マ字日記」を書いていることに気づいていなかった。」

-啄木は絶えず小説家として成功する妄想に囚われていて、病気と称して社を休み机に向かっていたという・・やがて自分が小説家としては失敗者であると認めざるを得なくなる。明らかに小説は書く手段として啄木にふさわしいものでなかった。本人はあくまで「小説第一」で短歌(後年啄木の評価を高めた)作りに重きを置いていなかったというのは驚きである。赤裸々に自身のことを書いた散文が、キ-ンさんば傑作であるという。-鈴木

「著作集」の全てに日本文学に対するキ-ンさんの深い洞察、共感を読み取ることが出来る。啄木についても「啄木の思想は詩人として珍しいが、独創的ではない。その芸術は独創的であるばかりでなく、日本近代文学の一つの絶頂である」と言う。この場合の芸術というのは啄木の日記「林中日記」をさしている。これは啄木といえばまず短歌がうかぶ。日記は作品以外の個人的なものと思っていた自分には意外であった。鈴木

最終章-から P.516
「千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ啄木・・は自分の知的かつ感情的生活の自伝として使った。・・・啄木の日記を読むことは、単なる暇つぶしとは違う。これらの作品が我々の前に描き出して見せるのは、ひとりの非凡な人物で、時には破廉恥であっても常に我々を夢中にさせ、ついには我々にとって忘れ難い人物となる。・・・」

石牟礼道子の作品  

世界文学全集「苦海浄土」石牟礼道子 月報 池澤夏樹
「多少の文才のある主婦が奇病という社会現象に出会い、憤然として走り回って書いたノンフィクション、などという軽薄な読み方をするのなら最初から読まない方がいい。まずもってこれは観察と、共感と、思索と、表現のすべての面に秀でた、それ以上に想像と夢見る力に溢れた、一個の天才による傑作である。読むたびにどうしてこんなものが書き得たのかと呆然とするような作品である。」
「かつて水俣が・・幸福な地であったことを知るには同じ作者による「椿の海の記」という本を読むのがい。幼年時代の「みっちん」のふくふくと幸せなようすが、豊穣な自然や巷の賑やかな話題とともに記されている。」

福永武彦の作品

吉本隆明の作品
学生時代に友人に唆されて吉本作品を手元においたが、ともかく難解で、文字通り手も足も出なかった。家族のこととか身近な内容の著作にふれたことで、ようやく親近感をおぼえたものである。吉本ばななさんのお父さんである。画面の左に「吉本隆明全著作集」もあるのだが、遠慮してかすかに写してある。

土門 拳の作品

土門拳・(1909-1990)はいうまでもなく、戦前から戦後にかけての日本を代表する写真家である。そしてまた多くの著作を後世に書きのこしてくれた文章家でもあります。ひとことでいえば土門拳という熱血漢が書いた、読む者の心にその思いがストレ-トにとどく本です。-鈴木慶治
「死ぬことと生きること」-まえがき 1973年 11月
○「ぼくの数十年間書きためた原稿の一部が今度本になって諸君の目にとまることになった。古い原稿がどれほどの価値をもつか、ぼくは知らない。古い原稿に対して諸君がどれほど興味をもつか、ぼくは知らない。しかし、諸君の目に止まることになった現在、なるべく故郷を忘れないと云うことと同じ様に、深い興味をもたれることをぼくは心から期待している。古い原稿でもあたたかい血の通ったように新鮮な興味をもつことを望んでいる。
昔を思えば実にさまざまなことがあった。ぼくは若かった。その若さにまかせて自分の若さを前面に押し出すように自己顕示欲が非常に強かった。それは今から考えると馬鹿馬鹿しいほどであった。その強さが前面に押し出すようないやらしさが、その時分の意見なり仕事なりに露骨であった。しかし、それはそれでいいとしなければならないだろう。自己顕示欲はぼくの年と共に後方に押しやられた。昔は「鬼の土門」と云われたが、今は皆が「仏の土門」と云うようになった。・・・それは単に老いて若さがなくなったからと云うわけではない。ものに対して吟味する力が強くなったからである。ものに対して思考力が出てきたと云うことである。しかしガムシャラに自分の考えを表面に押し出して考える考え方、年をとった現在では考えられないほどの良さがある。若い者には若い者だけの考えの強さがある。・・・」
○-ぼくの名前
「ぼくの名前はドモンケンと読むのである。郵便局や銀行で、よくツチカドさんと呼ばれたりするが、ドモンが本当である。ペンネ-ムだろうと思っている人もいるらしいが、正真正銘の本名である。ぼくはまた、インドネシヤか沖縄県人かと間違われたこともあるが、山形県生まれの正真正銘の東北人である。ぼくは御飯、つまり、米の飯が大好きである。困ってしまうくらい好きなのである。豆腐の味噌汁が一番好きである。パンは閉口゛ある。・・・日本人としてのぼくは、どこの国よりも、日本が大好きである。そして日本的な現実に即して、日本的な写真を撮りたいと思っている。」
○-略歴
「明治42年10月25日、土門熊造の長男として、山形県酒田町(現酒田市)に生まれた。父は会社員、母は看護婦であった。父母が北海道などへ出稼ぎに行っている間、祖父母の許で育てられた。祖父母の家も貧しく、孤独な淋しい幼時であった。6才か7才の時に、借金取りに責められている祖母の涙声を障子のかげの炬燵の中で聞きながら"貧乏だからだ、貧乏だからだ"と蒲団をかんで口惜し泣きに泣いた記憶がある。しかし、外に出れば、町の人を閉口させる餓鬼大将であった。伯父の話によれば、ぼくが町の角に立って"集まれ"と叫ぶと、同じ年頃のこどもから、もう小学校へ行っている年上の子どもまでゾロゾロと集まってきたそうである。そのチャンバラごっこのために家の物干竿を持ち出しては何本もなくしたものである。夕方家に帰って、祖母に物干竿をさがしてこないと御飯をたべさせないぞと叱られ、もう暗くなった町へさがしに出たものの、物干竿はきまってなかったという記憶がある。小学校へ上る春、東京にいる父母の許へ引き取られた。・・・東京は谷中の万年町という有名な細民街にあった。谷中から麻布の飯倉に・・飯倉から横浜へ引っ越した。すべて父の勤務先の関係で・・・小学校も中学校も横浜で卒えた。・・ぼくは小学校時代から画家志望であった。中学を出たが、家が貧しく、すぐ働かなければならず、逓信省の日雇になり・・・常磐津三味線引きの内弟子になったり、弁護士事務所の事務員になったりした。日大専門部法科の夜学にはいったが、学校へはろくに行かず、二年ばかりでやめた。結局、二十四才の時、母の遠縁に当たる、上野池之端の宮内幸太郎先生の写場の内弟子になったのが、ぼくが写真をやることになった端緒である。それれまでにカメラを持ったことは一度もなかった。」

以下、ロバ-ト・キャパ(1913.10.22-1954.5.25享年40歳)のことである。エンドレ・エルネ-・フリ-ドマン(キャパの本名)は、ハンガリ-、ブタペストに生まれた。丸々と太り、元気がよく、健康そうで、顔の色は浅黒く、黒い眉と大きな瞳を持つ、一見ジプシ-の子のような赤ん坊であったという。ユリアはエンドを溺愛し、この子がどれほど可愛らしく利発であるかをしょっちゅう友人に話していたという。-「キャパその青春」
レイングリッド・バ-グマンとの世紀の恋物語(1945-1946)は、うたかたの夢泡の如く消えてしまったが、キャパの残した数々の戦場写真は歴史に残った。その伝記も多く、破天荒で常識外れたところもあるが、気取りのない人間だったようだ。付き合った女性は美女ばかり、それもとびっきりの美人であった。女性になぜかとても好かれた。-鈴木
リチャ-ド・ウィ-ラン著、「キャパその青春」沢木耕太郎訳 P.11-15
「父親のデジェ-・ダ-ヴィド・フリ-ドマンは貧しいユダヤ商人の息子として1880年、西トランシルヴァニアの小さな村で生まれた。母親ユリアンナ・ヘンリエッタ・ベルコヴィッチは1888年の生まれである。両親は極端に異なる個性の持ち主で、母ユリアは頑健さと強固な意志と勤勉さを持つ-やり手の女性で、自分の家族には不自由のない暮らしをさせるのだ、という固い決意を抱いていた。成功したファッション・サロンの女主人として、彼女は有能で魅力があり賢く、顧客からは愛され、使用人からは信頼されるという、非常に優れた女性経営者だった。父デジェ-はサロンの共同経営者で、きゃしゃで小粋のある男だつたが、責任感のあまりない楽天家で、カ-ド遊びのため仕事場から早く抜け出し、遅くまで外にいる口実を見つけ出すのが得意だった。ユリアは物を手に入れるためには働かなければならないという信念を持っていたが、デジェ-は魅力や機知や縁故や調子のよさの方が一生懸命働くよりはるかに重要だと信じていた。・・・これらの資質は、キャパの人生において、彼の内部で激しくせめぎあうことになる。ユリアの父ヘルマン・ベルコヴィッチは写真によるとハンサムで知的な容貌の靴屋あった。また父親のデジェ-もユリアが知り合った若い頃はハンサムで魅力的であったという。」
キャパのハンサムな容貌は母方の祖父、実父譲りか。そして世の中をうまく渡っていくという能力、話をことさら面白くするという能力も父から受け継いだといえそうだ。そうすると母マリアからの資産は何だったのだろう。キャパへの深い愛とこたえるしかない。-鈴木慶治

ロバ-ト・キャパの写真 戦争の生んだ深い悲劇がここにもある。
ドイツ協力のフランス人女性-シャルトル・フランス 1944.8.18 ドイツ軍兵士とのあいだに子どもをもうけた若い女性頭をそられて嘲笑をあびながら帰宅させられる。この女性はドイツという国家に協力したわけではない。個人的にドイツの青年に恋して子をなしたと思いたい。国家間の「正義と悪」は個人の生活にはあてはまらない。その是非を問うことも出来ない。-鈴木
女性が抱えた子どもは三ヶ月の女の子であったという。-沢木耕太郎著「キャパへの追走」P.248には「女性は家に戻ったあとで収容所に入れられ、シャルトルを十年間離れることになる。十年後にまた戻ったが、町の人に相手にされないまま四十代の半ばで死ぬ。その後、娘に成長した子はパリに去ったが、いまでも「そのこと」についてはひとことも語ろうとしない」。 

うずくまる女 1938.6-9 漢口、中国

激しい戦闘のあとのマドリ-ドの町で遊ぶ子ども マドリ-ド スペイン 

部隊が養子にした戦災孤児と一緒にすごすアメリカ軍兵士 イギリス、ロンドン 1943.1-2

パリ解放を祝うパレ-ドを見る家族  1944.8.26

キャパの撮った写真には、むごい戦場場面だけではなく、日常の子ども達を写した写真も少なくない。

1949年 インディアナ州 アメリカ 野外の劇場でショ-を楽しむ子どもたち。

1954年4月 日本の新聞社の招きで日本を訪れたキャパは、滞在した三週間で日本各地を訪れ多くの作品を残した。
同年5月、日本を発ってインドシナに向かったキャパは、5月25日-ヴェトナム、ナムディンで地雷を踏んで命をおとす。40歳だった。
「最愛の母さん。東京で誕生日のお祝いの手紙を書きました。・・・いまようやくその手紙とプレゼントを船便で送ったところです。
-東洋は実に美しいところです。-・・・インドシナにいるのはほんの2.3週間程度で、月末には東京に戻ります。・・・母さんの予定を教えてください。体に気をつけて。愛をこめて -あなたの息子  キャパ
キャパが東京に戻ることはなかった。そしてこれが母にあてた、最後の手紙となりました。
「日本に来たキャパは、どこでも大歓迎された。彼は満足して語った「日本はカメラマンの天国だ」と。京都、奈良、大阪、神戸、尼崎に足を伸ばし、行った先々で子どもたちにレンズを向けたという。  キャパの研究者- リチャ-ド・ウェラン
 下の写真  焼津 静岡「働く母親と子ども」 

四天王寺 大阪 1954.5

キャパの5才年下の弟。コ-ネル・キャパ 1960年 イ-グル・ブリッジ ニュ-ヨ-ク 「ひ孫」

1958 モスクワ ホリショイ・バレエ学校

コ-ネル・キャパ-戦後50年展で兄を語った言葉  「キャパ兄弟 子ども達の世界」から
「兄のロバ-ト・キャパは自分の人生を精一杯生き、精一杯に愛しました。生まれた時も、亡くなった時も、無一文でした。唯一残したのは、ユニ-クな旅の物語と、人間はどんな困難にも打ち勝つことが出来るのだという証言です。」

須賀敦子 1929-1998 翻訳家(日本文学のイタリア語翻訳・紹介)、書評家、エッセイスト、詩人、大学教授・・・
「遠い朝の本たち」-まがり角の本たち-少女時代の本とのかかわりを回想して-
「何冊かの本が、ひとりの女の子の、すこし大げさにいえば人生の選択を左右することがある。女の子は、しかし、そんなことに気づかないで、ただ吸い込まれるように本を読んでいる。自分をとりかこむ現実に自身がない分だけ、彼女は本にのめりこむ。その子のなかには、本の世界が夏空の雲のように幾層にも重なって湧きあがり、その子自身がほとんど本になってしまう。
このほんの数行だけで、須賀敦子が書いた他の文章が読みたくなったのはなぜだろうか。-鈴木慶治
最初の著作(ミラノ霧の風景)が世に出たのが1990年で、須賀敦子61歳。69歳の時にはすでにこの世を去っていた。作家活動はなんと10年にも満たない。生前に出た本も5冊。にもかかわらず没後には・・全集9巻が刊行された。前代未聞の出来事と言えるが、それは作品の中にこの人はいったいどういう人だろうと想像させるものが潜んでいるからであり、人物への関心なくしては考えられないだろう。・・・どうやら、須賀敦子という人は、人々の心にある一言で言い尽くしがたい部分を腑分けして、引き出してしまうところがあるようだ。単に文章がすばらしいだけではこうはならないだろう。作品のなかにたしかな越えをもった人々がいて、彼らの声が読む人を励まし、刺激し、生きることの深遠さについて考えさせる。-「須賀敦子の旅路・大竹昭子/文春文庫・はじめにから

須賀敦子・「国語通信」-「父の手紙」から-
「本に読まれる」といって、私はよく母に叱られた。また本に読まれている。はやく勉強しなさい。本は読むものでしょう。おまえみたいに年がら年中、本に読まれていてどうするの。そういうふうに、このことばは使われた。何年もたってから、母が若いとき、そういって祖母に叱られたのだと聞いて、笑ってしまった。われを忘れて読書に没頭する、という意味だったのだろうけれど、母は、なにか主体性のないこととして、批判的なニュアンスでこの表現を用いたので、私は「本に読まれる」のははずかしいことだという意識をもった。」