本紀行Ⅳ-文学・歴史・記録


とりあげる人物<・司馬遼太郎・辻邦生・立花隆・柳田邦男・東日本大震災関係記録本・吉村昭・原爆関係記録本・原民喜・沢木耕太郎・司馬遼太郎・須田剋太・ドナルド・キ-ン・石牟礼道子・福永武彦・吉本隆明・土門拳・ロバ-ト・キャパ・須賀敦子・森本哲郎・椎名誠 > <敬称略>

司馬遼太郎(1923-1996)
私にとっての旅
「私のたのしみというのは、毎日、書斎でうずくまっていることらしい。杜子春が辻で人を待っているように、断簡零墨を見、やがてそこから人間がやつてくるのに逢う。むろん、無数の場合、逢いぞこねてもいる。いまだにやつて来ぬ人もいる。旅には、そのために出かけるようなものだ。・・・人間という痛ましくもあり、しばしば滑稽で、まれに荘厳でもある自分自身を見つけるには、書斎だけの思案だけではどうにもならない・・・自分自身に出逢うには、そこにかつて居た-あるいは現在もいる-山川草木のなかに分け入って、ともかくも立って見ねばならない。・・・私にとって「街道をゆく」とは、そういう心の動きを書いているということが、手前のことながら、近頃になってわかつてきた」 1983.7 
<司馬遼太郎が考えたこと12>・2005.11.1新潮文庫発行 P.102

辻邦生(1925-1999)
本との出会い- 
<辻 邦生 「海辺の墓地」から>
「本との出会いは、人との出会いと同じく宿命的なものがあります。私たちが会うべくして会う本、また会うべき時に会う本というものがあるものです。そしてそれは若い時のこともあり、年とってからのこともあります。しかしそうやって出会った本は生涯私たちの傍らにあり、私たちの支えとなり糧となるものです」

司馬遼太郎や辻邦生とは違い、私たちの多くは、「本と密接なつきあい」をしているわけではありません。傍らにあって支えとなる本と出会うことはないかもしれません。また辻で人を待つ杜子春にもなれないかもしれません。しかし読書から新たなる感動、未知なる知識、情報を得て、自身の考え方が多少は深まったかなと感じるときは、時々あります。-鈴木慶治

古典がそれを解釈する人(辻邦生氏)の鑑賞・解釈でより味合い深いものになる時があります。これも読書から得られる喜びです。
芭蕉の句。<-荒海や 佐渡によこたふ 天の川->
荒涼とした暗い日本海の夜を思い、その漆黒の荒磯に打ち寄せる波を耳に思い起こすと、そこに満天の星が輝きはじめる。その永遠の宇宙の静寂はかえって荒々しい浪の音によって深められていく。佐渡という語感のなかに歴史の語る悲運の響きが重くあるので、その分だけ天の川の永遠性が深まる。哀愁と悲愴の織りなす一瞬に仰ぐ永遠というべきだろうか。」
<-夏草や 兵どもが ゆめの跡->
「人の世の栄枯盛衰を超えて、自然の時間は大河のように流れる。春が去り、夏が来て、茂る草の中に横たわる城跡の石は、何よりもそうした生命のはかなさと、時の永遠を思わせる。芭蕉は杜甫の「国破山河在 城春草木深」に触発されてこの句を作った」-芭蕉のなかの永遠-辻邦生「海峡の霧」から 


辻邦生氏の作品/他に「天草の雅歌」など- 鈴木・蔵書

辻邦生 「霧の廃墟から」
-私は時おりこの世に「朝」があり「夜」があり、「季節」があることが、何か信じられぬ不思議と見える日がある。そんな日はことさら、私は部屋にこもり、好きな本をひろげ、風のように見知らぬ町々、村々を訪ねたいと思う。想像力のはばたき一つで、霧深い古城や、雨の降りしきるロンドンの夜や、イタリアの古い町に飛び、さまざまな人生を生きてみたいと思うのである。そして時々、本から眼を上げて窓の外を吹く風の音を聞きながら、人間が生きていること、たのしい詩や小説がこの世にあることの幸福を、しみじみ嬉しく思わないわけには行かない。-

「海辺の墓地から」-長崎天草を訪ねて
 九州の西海岸-平戸から佐世保、長崎を経て天草にいたる一帯は、大小の複雑に湾曲する海岸線と、青い海に散在する無数の島々をかかえる日本でも有数の自然美に恵まれた地方である。かりに小高い岬の鼻に立てば、浸蝕された岩肌に砕ける白い波と、松林をこえて、静かな入り江に臨む村落と、そこにひっそり建つ天主堂の十字架を望むことができる。もし平戸から長崎まで、あるいは牛深から水俣まで定期観光船に乗れば、木々に覆われた島影や奇岩に飾られた瀬戸や、隠れキリシタンのひそむ深い入り江などを見ることができる。

ノンフィクション関係の書籍  立花隆1940-2021.4 80歳  ・柳田邦男1936-・沢木耕太郎1947- 

立花隆 「宇宙からの帰還」  昭和58年1月20日初版/昭和59年1月15日25版 中央公論社

一人の詩人も宇宙飛行士に採用されなかったが、詩人になった宇宙飛行士はいる。画家は宇宙飛行士にならなかったが、画家になった宇宙飛行士はいる。宗教家・思想家になった宇宙飛行士もいれば、政治家になつた宇宙飛行士もいる。平和部隊に入った宇宙飛行士もいれば、環境問題に取り組み始めた宇宙飛行士もいる。・・・宇宙体験の内的インパクトは、何人かの宇宙飛行士の人生を根底から変えてしまうほど大きなものがあった。宇宙体験のどこが、なぜ、それほど大きなインパクトを与えたのか。宇宙体験は人間の意識をどう変えるのか。そこのところを宇宙飛行士たちに直接聞いてみようと1981年の8月から9月にかけてアメリカ各地をまわり、さまざまの生活をしている元宇宙飛行士たち12人に取材してきた結果をまとめたのがこのレポ-トである。・・・宇宙飛行は宇宙飛行士にとつてテクニカルな体験であると同時に内的体験でもあった。前者については、宇宙飛行士は充分すぎるほどそれについて語る機会を与えられたが、後者についてはそうではなかった。たしかに、宇宙飛行を終えて帰還すると、たちまち新聞、テレビのレポ-タ-に取り囲まれて"感想"を求められるのが常だったが、問う方も答えるほうも、その場かぎりの表面的なやりとりで満足した。だが、機会を与えられたとしても、彼らに自分の内的体験を充分語ることができたかどうかは疑問である。自分の内面を表現するには特別な能力がいる。ジム・ア-ウィンは、宇宙で、自分に詩人や作家のような表現力があったらと望んだという。何人かの宇宙飛行士はその体験を本にした(ほとんどはゴ-ストライタ-の力を借りている)。・・・NASAはもっぱら技術者と科学者の集団である。ヒュ-ストンの宇宙センタ-で、NASAの歴史をまとめる係りに任ぜられた歴史学者E・C・エゼル博士は会った時、「ここで人文科学を専攻した人間は私一人しかいないはずだ」といった。・・・現代文化の最大の特徴は、科学技術系の文化と、人文系の文化の二つに引き裂かれていることにある。どちらの文化の担い手たる知的エリ-トも、もう一つの文化に関しては、ごく少数の例外を除いては、大衆レベルの知識しか持っていないのである。NASAは技術系インテリのベスト・アンド・ブライテストを集めた集団であったが、彼らの間の人文系の文化に関する知識と関心といったら「まあ、せいぜいその辺のハイスク-ル卒業の平均レベルといったところだろう。思想的に深みのある書物を読んだことのある人などというのは、きわめて少ない。特に宇宙飛行士はそうだ。彼らの大部分は軍人で、ウェストポイント(陸軍士官学校)またはアナポリス(海軍士官学校)の卒業生で、その後の学位も、軍に在籍したまま大学に通って取ったものだ。哲学書などは読む暇がない人生を送ってきた連中だ。知識はあるが、すべてプラクチカルな知識だ。もちろん、少数の例外はあるがね」と、エゼル博士はいう。・・・」


・・宇宙体験に限ったことではないが、体験はすべて時間とともに成熟していくものである。とりわけそれが重要で劇的な体験であればあるほど、それを体験しているまさにその瞬間においては、体験の流れの中に身を委ねる以外に時間的余裕も意識的余裕もないから、その体験の内的合意をつかむことができるのは、事後の反省と反芻を経てからになる。もちろん、それは覚醒した意識上での認識の話であって、潜在意識下では、その体験の瞬間から、何らかの変化がはじまっている。どんな体験でも体験者を少しは変えずにはおかない。とるに足りない体験はとるに足りないくらいに、小さな体験は小さく、大きな体験は大きくその人を変える。といっても体験の価値的大小は主観的判断だから、ある人にはとるに足りない体験にすぎないものが別の人にはその生涯を変えるような大きな体験になるということも、またその逆もしばしばある。・・もつぱらその人の内省能力にかかわる問題だ。世の中には、いかなる体験についても、手軽な解釈に便利な常套句が沢山用意されている。たいていの人は、そこで満足する。それに満足できない人は、自己認識を求めて内省の旅に出る。そして、一杯のお茶を飲んだときにふとよみがえった記憶からはじまって、残りの一生かけて「失われし時を求めて」をかいたマルセル・プル-ストのような人物も出る。宇宙体験という特異な体験を持った宇宙飛行士たちは、その体験によって、内的にどんな変化をこうむったのだろうか。人類が170万年間も慣れ親しんできた地球環境の外にはじめて出るという特異な体験は、それがどれだけ体験者自身によって意識されたかはわからないが、体験者の意識構造に深い内的衝撃を与えずにはおかなかったはずである。」第一章 上下・縦横・高低のない世界から 立花隆
「ここで語られていることは、いずれも安易な総括を許さない、人間存在の本質、この世界の存在の本質(の認識)にかかわる問題である。そして、彼らの体験は、我々が想像力を働かせれば頭の中でそれを追体験できるというような単純な体験ではない。彼らが強調しているように、それは人間の想像力をはるかに超えた、実体験したのみがそれについて語りうるような体験なのである。・・・人類の肉体がこれまで知らなかった宇宙という新しい精神的空間を手に入れるであろうことは確実であることだ。その中身については、確かなことはまだ何一ついえなくとも、確からしいことはいろいろいえそうだということが、宇宙飛行士たちとのインタビュ-から汲み取れるだろう。私がこれまでにしてきたさまざまの仕事の中で、この宇宙飛行士たちとのインタビュ-ほど知的で刺激的であった仕事は数少ない。これだけのインタビュ-をものにするために、大変な苦労を積み重ねなければならなかったが、その苦労すべて忘れるほど、一つ一つのインタビュ-が面白かった。-「宇宙からの帰還」-むすびから  立花隆

立花隆の代表作として「田中角栄研究」があげられるが、私にとっては「宇宙からの帰還」や「武満徹・音楽創造への旅」・「青春漂流」などの方が、代表作としてふさわしく感じるのだがどうであろうか。<鈴木慶治> 2021年、亡くなられてますますその感を強くしている。2021.6.18
「武満徹・音楽創造への旅」 文藝春秋発行  2016.2.20
-「武満徹は1930年生まれで、私は1940年生まれ。たった10年しかちがわないのだが、武満徹は私にとってずっと大きな存在であり続けた。
「1996年に武満さんが65歳で亡くなった時、私は55歳。そのころ私は、武満さんのメ-キング・オブを、雑誌「文学界」に「武満徹・音楽への創造」として連載していた。あの連載は、スタ-トの時点で、30時間徹底インタビュ-を行った上で始めたものだが、その後も随時、補充インタビュ-をおこなっていた。そのスケジュールの調整を考えはじめた矢先に武満さんの死去の報が入った。その死は、あまりに唐突だった。私はショックを受け、連載をつづけられなくなった。「武満徹・音楽創造への旅」は連載プラスあらゆる素材を集めて再編集したものだ。この本を完成させないでは武満さんに申し訳がたたないと死後20年目の今年・2016年・頑張って出したものだ。幸い本が売れつづけているので、いま長年の借財(恩義)わ返済しつつあるような気がしている。・・武満は、かつて日本より世界でよく知られた孤高の現代音楽作曲家というイメ-ジだった。だが同時に、日本では映画、テレビドラマ、合唱曲などを通じて、実は広く大衆に愛され知られ、歌われてきた作曲家でもあった。・・・武満がつけた映画音楽には「太平洋ひとりぼっち」、「他人の顔」、「砂の女」、「利休」、「どですかでん」、「不良少年」、はなれ瞽女おりん」、「沈黙」、「怪談」、「狂った果実」、「心中天網島」、「乱」などなど、映画史に傑作として残っているものが多い。-立花隆 「知的ヒントの見つけ方」文春文庫から

「2016年に出した「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)は、そもそも「文学界」に1992年6月号から98年5月号まで、5年11ヶ月にわたって連載されたものをまとめたもの・・連載最終回の末尾で近いうちに単行本として出版予定と記したが・・・実際は18年間も出版されないで放置されていた。武満さんの96年の死はあまりに唐突だつた。身体の調子がよくないことは知っていたが、まさかあそこであんな形で、突然なくなってしまうとは夢にもおもわなかつた。気が動転してなにもかもやる気がなくなつてしまった。一言でいえば、私の精神と神経がコラプス(崩壊)状態を引きおこし、仕事の継続を拒否したのだ。・・私は武満さんも武満さんの音楽も大好きだった。・・武満徹が死んだとき、この作曲家が日本ではまるで正当に評価されていないことに僕は淋しい思いをした・・・
イギリスの指揮者、サイモン・ラトルの言葉-
「彼の曲は、聴衆だけでなく、世界中の作曲家におおきなインパクトを与えました。それは彼がオ-ケストラの新しい可能性を教えてくれたからです。ドビュッシ-もオ-ケストラの新しい可能性を見出した作曲家でしたが、ドビュッシ-が地上のオ-ケストラをちょっと空中に持ち上げてみせた作曲家だとしたら、武満はそれを宇宙空間にまで持ち上げてしまつた作曲家といっていいでしょう。彼はこれからずっと、現代の最も偉大な人物の一人として記憶されることになるでしょう。・・・」
武満が世界からこれほどの評価をうけている作曲家であることを、日本人のほとんどが知りません。僕が武満について書きつづけたのは、そのギャップを埋めるためでもあったのです。・・・武満の音楽は、いわゆるクラシック音楽、つまり古典派やロマン派の音楽にもっぱら慣れ親しんだ耳には、決して聞きやすい音楽ではありません。武満の曲はそういう耳が聞いたことがないような音楽を、古典的楽曲の形式からはまったく外れたシ-ケンスでならべ、聞く者を挑発します。そして聞く者の聴覚は安全な空間の外に追い出されるのです。知覚は「美」から解き放たれて、それまで閉じていた思考回路が開かれ、激しく思考することを強いてくるのです。・・・」立花隆 文春文庫 「知の旅は終わらない」 2020年1月20日 第1刷発行

「青春漂流」昭和60年・1985年8月23日 講談社スコラ 第1刷発行
-プロロ-グ 「恥なしの青春、失敗なしの青春など、青春の名に値しない
「これが青春というものなんだなア」などと、自分でしたり顔にうなずくなどという場面は、よほど浅博な精神の持主にしか起こりえないものである。それが青春であるかどうかなど考えるゆとりもなく、精一杯生きることに熱中しているうちに青春は過ぎ去ってしまうものである。・・いつからいつまでが青春などと、青春を時間的に定義できるものではない。自分の生き方を模索している間が青春なのである。それは人によって短くもあれば、長くもある。はじめから老成してしまっていて、青春など全く持たない人も、必ずしも珍しくない。どういうわけか、最近その手の若者がふえているような気がする。肉体は若く、精神は老いぼれた青年である。世間の常識から一歩も外れないようなことばかりいい、また、そういう身の処し方、生き方しかしようとしない。そういう人の人生は、精神的には墓場まで一直線の人生である。・・迷いと惑いが青春の特徴であり特権でもある。それだけに、恥も多く、失敗も多い。・・若者の前にはあらゆる可能性が開けているなどとよくいわれる。そのとき、あらゆる可能性には、あらゆる失敗の可能性もまた含まれていることを忘れてはならない。精神が老化した青年とは、実は、あらゆる失敗の可能性を前にして足がすくんでしまった青年のことである。またあらゆる失敗の可能性を忘れている人は、いかに大胆に生きようと、無謀に生きたというだけである。あらゆる失敗の可能性を見据えつつ大胆に生きた人こそよく青春を生きたというべきだろう。・・・人生における最大の侮恨は、自分が生きたいように自分の人生を生きなかったときに生じる。これからはじまる連載に登場してくる男たちは、いずれも、自分の人生を大胆に選択して生きようとしている男たちである。」 立花隆氏 当時・45歳

「人間の肉体は、結局、その人が過去に食べたもので構成されているように、人間の知性は、その人の脳が過去に食べた知的食物によって構成されているのだし、人間の感性は、その人のハ-トが過去に食べた感性の食物によって構成されているのです。すべての人の現在は、結局、その人が過去に経験したことの集大成としてある。その人がかつて読んだり、見たり、聞いたりして、考え、感じたすべてのこと、誰かと交わした印象深い会話のすべて、心の中で自問自答したことのすべてが、その人のもつとも本質的な現存性を構成する。・・・」立花隆・「知の旅は終わらない」2020年1月20日第1刷発行 文藝春秋 -人は無数の旅の集積体-

「立花隆 最後に語り伝えたいこと」2021年8月10日 初版発行 中央公論社 
-まえがきに代えて-菊入直代氏・(立花隆氏の実妹) 2021年7月
2021年4月30日に兄・立花隆が亡くなり、80日あまりが経った。本書は、次代を担う人々に、兄がどうしても伝えたいと切望したラストメッセ-ジを、講演録や対談など書籍未収録だった「肉声」を中心に編んだものである。第1部「戦争の記憶」には、なんとしても戦争の恐ろしさについて伝えたいと思った兄が、2015年1月に長崎大学で行った公演「被爆者なき時代に向けて」を収めた。「ヒロシマ、ナガサキ、アウシュビッツ」に代表される<戦争と平和>の問題は、ある時期から兄が生涯をかけて取り組もうと決めた大事なテ-マの一つだった。・・・第2部「世界はどこへ行くのか」には、兄が、終生心の支えにしていた大江健三郎氏との二日にわたる対談の一部を収録した。対談が行われたのは、ソビエト連邦崩壊直後の1991年12月である。

「立花隆のすべて 知の巨人」 文春ムック 令和3年9月16日発行
-何かを学ぶ上で、何より重要なのは、学ばんとする意志である。それさえ強烈にあれば、あとはどうにでもなる。それはどこから出てくるかといえば、結局、好きな気持ちから出てくるのである。(「好き嫌いこそすべての始まり」)

「立花隆 長崎を語る」 2021年9月10日 初版 長崎文献社発行
・1940年 長崎医科大学病院で生まれる ・1942年 父の北京勤務のため一家で北京移住 ・1946年 引揚げ 水戸市に住む
「僕と長崎はいささか深い関係がありまして、僕と原水禁運動というのも、あんまり知る人はいないのですが、結構深い関係があるのです。・・・
僕は長崎で生まれたのですが、そのどこかと問われれば、皆さんよくご存じのあの長崎医科大学のの中庭的な場所にあった産婦人科病棟です。僕はそこで原爆5年前に生まれました。あの爆心地から水平距離で500メ-トルくらいのところの距離です。幼いころ、ずっと長崎におれば僕も被爆しているところだったでしょうか。・・・」立花隆

「思えば、私はずっと旅をしてきた。人間みな四次元時空の中で人生という旅をしている旅人なのだから、それは比喩的には誰にでもあてはまることだろうが、私の場合は、引き揚げ世代というということもあって、人生の最初から、文字通りの旅をしてきた。最初の旅は一歳からはじまる・・・」
立花隆・「思索紀行」上 



柳田邦男氏の著作本

柳田邦男(1936-
「言葉の力、生きるちから」新潮文庫 平成17年7月1日発行
「誰も傷つけなかった草よ」 星野富弘(1946-
人は身体カラダが不自由になった時、心で生きる/人は身体が動かなくなった時、心で世界を見る/心が身体のぶんまで生きる時、心は言葉に魂を投影させる。だから、その言葉はいのちの響きを持つのだ。
この十年余り、星野富弘さんの詩画集を折々に開いては、絵筆がたどつた跡をゆっくりと追い、言葉を一行ずつ句切って静かに音読するという読み方をしてきたが、その度に上に書いたことを思う。星野さんの詩と絵が多くの人々の心をとらえるのは、星野さんの魂が解き放たれ、自由に飛翔し、重力の重圧感を感じさせないからだろう。頑張らなくていいのを知った魂。

「月夜の晩に、拾ったボタンは」中原中也(1907-1937)
人は自分の死が避けられなくなった時、何によって死を受け容れられるようになるのか。難しい問題だ。友人・知人や取材で知った人々の死に接するうちに、楽曲の主題の旋律のように脳裏に浮かぶようになったのが、中原中也の詩「月夜の浜辺」の一節なのだ。
月夜の晩に、ボタンが一つ/波打際に、落ちてゐた。
それを拾って、役立てようと/僕は思ったわけでもないが/月に向かってそれは抛れず/浪に向かってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
こう歌う「月夜の浜辺」を中也が発表したのは、2歳の愛児文也を小児結核で喪い、悲嘆のあまり精神の平衡を失っていた時だった。・・・私が中也の詩集を手にしたのは、小説や詩集を脈絡もなく読み耽っていた高校時代だった。・・・中也にとって、月夜の晩に拾ったボタンは、耐え難い喪失感の中で生き続けることを支える「かけがえのない大事なもの」のことだった。愛する者の喪失場面だけでなく、自分自身の喪失を目前にした時の-生を支える大事なものという意味を加えて、光沢を増すようになった。・・人は自分だけの色のボタンをポケットから取り出して確認できた時、人生に納得し、死を受容できるにちがいない、と思うようになった。

<悲>の心を語る五木寛之(1932-
五木氏はなぜ蓮如に傾倒したのか、・・蓮如における<悲>の感情の豊かさに惹かれたからであるように見える。蓮如の母は賤しき身分の女だつたため、6歳の蓮如を置いて消えてしまう。そういう不幸な母への思慕の情が、蓮如の内面に差別を受ける人たちに対する肉体的な共生感覚を育ませたのだろう。他人の痛みは理解できても自分の力ではどうしてやることもできないで、ただ涙を流すそういう感情を<悲>と言う。あるいはがんばれと言っても効かないぎりぎりの立場の人間は、「それ」でしか救われない。それを<悲>と言う。そのような意味での<悲>の心が、いまこそ求められている時代なのだと、五木氏は説く・・・戦後半世紀、日本は合理的で効率的な社会を作り、結果、人間の心も文化もカラカラに乾いたものになってしまった。人間の真の知性を育てる土壌としての<悲>の心、己の無力さに涙するというものを豊かに持つことが私たちの課題だという語りかけに私も全幅の共感を覚えるのだ。


東日本大震災関係の書籍は、どれも痛切な思いなくしては読み進めません。人々の「苦境に立ち向かう勇気・努力」から学ぶことは、ひじょうに大きなものがあると思います。誰しもまた悲哀、絶望、嫌悪、を避けて「自身の人生」を生きることは出来ません。多くの人とこの世をともに生きている、との思いを深くするためにも、悲惨さに目を背けず「何がおきたか」を知ることは大事なことと思います。 鈴木慶治

東日本大震災関係の本-鈴木慶治・個人蔵
「心のおくりびと」-東日本大震災復元納棺師・今西乃子/「あの日のわたし」-東日本大震災99人の声・星雲社/「希望-命のメッセ-ジ」・鎌田 實/「だけどくじけない」・長倉洋海/「日本を信じる」・瀬戸内寂聴、ドナルド・キ-ン/「春をうらんだりしない」・池澤夏樹/「遺体」・石井光太/「津波の墓標」・石井光太/「三陸物語」・萩尾信也/「生と死の記録」・萩尾信也/「寄り添い支える」-公立志津川病院内科医の3.11・菅野武/「三陸の海」・津村節子/「三陸海岸大津波」・吉村昭/「大槌町震災からの365日」・東野真和/「その後とその前」・さだまさし、瀬戸内寂聴/「特別授業3.11君たちはどう生きるか」・河出書房新社/文藝春秋 「つなみ」-被災地の子ども80人の作文集/文藝春秋 「つなみ」-5年後の子どもたちの作文集/「つなみ」の子どもたち-作文に書かれなかった物語/「気仙沼に消えた姉を追って」・生島淳/「ファインダ-越しの3.11」・安田菜津紀、佐藤慧、渋谷淳志/「再び立ち上がる」・河北新報社/「河北新報社のいちばん長い日」・河北新報社/「いまだから読みたい本」-3.11以後の日本・坂本龍一+編纂チ-ム編/「闘う東北」・朝日新聞社/「記者は何を見たのか3.11」・読売新聞社/「がれきの中で本当にあったこと」・産経新聞社/「被災地からの手紙、被災地への手紙」・西條剛央/「石巻赤十字病院の100日間」・石巻赤十字病院/「がれきの中の天使たち」・椎名篤子/「生きる」-生き残れし者の記・工藤幸男/証言記録「東日本大震災」・NHK出版/「石巻の人たちの50日間」-ふたたびここから・池上正樹/石巻市立大川小学校「事故検証委員会を検証する」・池上正樹、加藤順子/「あのとき大川小学校で何が起きたのか」・池上正樹、加藤順子/東日本大震災-「希望の種をまく」・寺島英弥/「明日へ」-東日本大震災の記録・NHK東日本大震災プロジェクト/「震災三十一文字-鎮魂と希望」・NHK「震災を読む」取材班編/東日本大震災詩歌集-「悲しみの海」・谷川健一、玉田尊英編/「HOPE311」-陽また昇る・バ-ビ-・山口/「ここから始まる」・広田泉/「あの日」のこと・高橋邦典/「HOME-美しき故郷よ」・宍戸清孝写真集/「THE DAY AFTER」-東日本大震災の記録・石川梵/「南三陸から2011.3.11~2011.9.11」・佐藤信一写真/「南三陸から2011.9.11~2012.3.11」・佐藤信一/「南三陸から2012.3.11~2013.3.11」/おばあちゃんの紙しばい「つなみ」・田畑ヨシ/「東北思い出の写真館」・宝島社/「南三陸町からの手紙」-東日本大震災それぞれのあの日制作委員会/「みやぎの海辺、思い出の風景」-航空写真集/"その時、閖上は"・小齋誠進/東日本大震災「写真家17人の視点」/「陸前高田」・畠山直哉/岩手日報-岩手の記録「平成の三陸大津波」/岩手日報-岩手の記録Ⅱ「明日への一歩」/岩手日報-岩手の記録Ⅲ「軌跡」大津波からの5年/岩手日報-岩手の記録Ⅳ「てんでんこ未来へ」/河北新報社・緊急出版・特別報道写真集3.11大震災「巨大津波が襲った」/河北新報社「東日本大震災全記録」/東日本大震災3.11「宮古地方版」・宮古民友社/毎日新聞社「写真記録・東日本大震災3.11から100日」/毎日新聞社-明治、昭和、平成「巨大津波の記録」/朝日新聞社-報道写真全記録2011.3.11-4.11「東日本大震災」/朝日新聞社「震災1年全記録」/読売新聞社-特別縮刷版「1ヶ月の記録」/

「三陸海岸大津波」 吉村昭氏 
小説家吉村昭氏によるルポルタージュ。
初版は1970年(昭和45年)に『海の壁 三陸沿岸大津波』の題名で刊行された。1984年(昭和59年)に中公文庫版が刊行された際に現行のタイトルに改題された。吉村の死の2年前、2004年(平成16年)に文春文庫版が再刊された。
内容は、明治29年の大津波、昭和8年の大津波、チリ大地震大津波の3部構成である。三陸海岸各地の大津波を受けての被害状況、人々の行動を克明に記録している。三陸津波
-その時、沖合から不気味な大轟音が鳴り響いた――「ヨダだ!」大海嘯ともヨダとも呼ばれる大津波は、明治29年、昭和8年、昭和35年の3度にわたって三陸沿岸を襲った。平成23年、東日本大震災で東北一帯を襲った巨大津波は「未曾有」ではなかったのだ。過去に海面からなんと50メートルの高さまで上り、家々をなぎ倒す津波があったことが記録されている。家族を亡くした嘆き、地方自治体の必死の闘い…生き延びた人々の貴重なインタビューや子どもたちの作文が今も残っている。そこには忘れてはいけない歴史の真実がある。昭和8年の大津波は昭和8年3月3日・午前2時32分(深夜のこと)、釜石町東方二百キロの海底が震源。岩手県の宮古市田老だけで901名の死者を出したと記録にある。流失家屋は550戸中500戸-地震の後の寒さ(被災当日とその後数日の三陸地方の気温は、零下7.8度~17.1度で積雪が海岸をおおい、さらに雪もちらつく状態)に辟易してふとんに入り眠ってしまった者は逃げ遅れてすべてが死亡したという。生き残った、当時12歳の少女の作文がある。「8人家族のうち7人が亡くなり」-ほんとうに「一人ぼっちになった」-という記述を読むと、その悲惨さに胸をつかれる。この少女(女性)は、90歳になり2011年の大震災も経験した・・・。      鈴木慶治

表紙は震災前の気仙沼市 下は震災直後の宮城県亘理町

畠山直哉 「陸前高田





ヒロシマ・ナガサキ関係の本
自然災害とことなり、原爆投下は「人類が犯した最大の歴史的恥辱」です。再びこうした惨禍が未来に皆無であるとだれが断言できるでしょうか。むしろその不安は増大しつつあるように思います。被爆国であるにもかかわらず、この国は「核兵器禁止条約」に加わらず、保有国と非保有国との橋渡しというが、実質は何もしないという、信じがたい「傍観的、第三者的立場」に終始するという、被爆国としての自覚、責任すら見られないのはどうしたことか。-鈴木

「ヒロシマ・コレクション」-広島平和記念資料館 蔵 1995年7月31日 第1刷  2016年12月25日 第4刷発行
撮影・筆者 土田ヒロミ NHK出版発行
「核は、一瞬のうちに、老若男女の別なく無差別に、徹底的に、そして極めて大量に生命の喪失を招きました。そのため、その死を確認することができず、「遺品」さえ残すことができなかった人たちが多かったのです。資料館には、家族のもとに戻ることができた僅かな「遺品」などの被災資料が、再び、自分たちが経験した惨劇、悲しみ、苦しみを地球上の誰もが経験しないための証となってほしいという願いをこめて寄贈され続けています。これらの「遺品」は物言わぬ資料ですが、核兵器廃絶への強い願いが、そのひとつひとつに込められているのです。」
-「広島平和記念資料館」寄稿文より-

「ヒロシマから問う」-平和記念資料館の「対話ノ-ト」 編者 「対話ノ-ト」編集委員会 京都 かもがわ出版 2005年7月10日 初版発行
対話ノ-トへの記帳は、1970年10月に始まりました。その数は922冊(2005年4月末現在)を超えています。1冊が約2週間のうちに書き尽くされていることになります。多くは短い文章ですが、その一つひとつが平和への強いメツセ-ジを発信しています。 編集委員会


原爆ド-ムの中から今も聞こえてくる人々の声 肉親を呼ぶ声、泣き叫ぶ声 声 声・・・
・資料館に住むハトだって知っています。戦争が悪いことだって。でも資料館に住むハトにはわからないのです。このノ-トに戦争反対だなんて書 いている人が、ほんのささいなことでもいがみあっているのが。
・君たちは戦争が終わったと思う? 俺はもう一度考えてみるよ。
・もし人間が戦いを好む動物ならば私は人間になりたくない。
・幾度来ても幾度もなき、幾度も怒り、幾度も誓いを新たにさせられる。20歳代を大陸、南方の戦場に彷徨させられた者として。
・お母さん、今日は朝から雨です。あなたが過去帳(原爆死没者名簿)に入ってもう13年。今年はヒロシマは台風が大きな被害を残して、冬の牡蠣は 大きな打撃です。今日も多くの修学旅行生がきています。平和を今ほど自覚してほしい子供達は、顔をそむけています。ここへ来るたびに気持ち が沈んできます。又、会いにきます。
・今日、再び広島を訪れ、過ぎし日を思い出しました。昭和20年8月7日早朝広島駅に降り立った光景です。プラットホームにずらりと並べられ た被害者のやけただれた姿、川を埋め尽くした死者の姿。何とも悲惨な光景でした。これをどのように伝えたらよいか判りません。今の広島から 想像できません。・・・
・母と弟は紙屋町の自宅で、中1だった姉は学徒動員先で亡くなりました。全身被爆した父も後年亡くなって、ひとり生き残りました。核による抑 止力などという言葉は、人間の作った屁理屈じゃないでしょうか。
・昭和20年8月6日、私は3歳でした。山口県にそかいしていました。父は一人、段原東裏にて被爆しましたが、家の下敷きになり、ひたいにガ ラスのきずをうけただけで、元気に山口県に帰ってまいりました。3歳の私にとって忘れることの出来ないあの日の夕方のことです。母は父が死 んだものと8月6日に生まれた妹と私をひざにおき、毎朝夕、仏様に手を合わせておりましたが、頭に包帯をして田舎の山道を歩いて家の方へ向 かってくる父をみつけ、私は父の顔を忘れたのか、何とも言えないおそろしいかんじがで抱かれるのをいやがり泣きました。夕焼けが父の顔を照 らし、白いほうたいはうす赤くそまったように見えました。その父も82歳まで長生き出来ました。8月6日を忘れることなく、平和を念じてや みません。

「ヒロシマ」著者 ジヨン・ハーシー 1949年4月25日 初版第1刷 2014年6月10日 新装版第1刷 法政大学出版局
「20世紀アメリカ・ジャ-ナリズムの業績トップ100」の第1位に選ばれた、ピュリッツア-賞作家による史上初の原爆被害記録

「ヒロシマを暴いた男」著者 レスリ-・M・M・ブル-ム 2021年7月20日 第1刷 集英社発行
<1945年以来、世界を原爆爆弾から安全に守ってきたのは広島で起きたことの記憶だった。ジョン・ハ-シ->

「アメリカ政府は広島に、1945年8月6日午前8時15分に4.5トン近くの原子爆弾-これには"リトルボ-イ"というあだ名がついていて日本の天皇宛の口汚いメツセ-ジが殴り書きされていた-を落とした。爆弾の創始者たちの誰も、当時まだ実験段階だつたこの兵器が作動するかどうかも、確かなことは知らなかった。リトルボ-イは初めて戦争で使われた核兵器であり、広島市民はその不運な実験台に選ばれた。・・・広島市は当初、この爆弾投下で4万2千人以上の市民が死亡したと見積もった。1年以内に、この見積もりは10万人に増える。正確な人数がわかることはないだろうが、この爆弾の影響で1945年末までに28万人が死んだのではないかと推定された。以来何十年ものあいだ、街の地中からは遺骸が頻繁に発見され、いまだに見つかることがある。1987年、縮景園で64人の遺体が発見された。「60センチも掘れば、骨がある」と広島県知事湯﨑秀彦は言う。「わたしたちはその上で生きている。爆発の中心地の近辺だけでなく、街中がそうだ」。・・・最初のうちは報道関係者も、広島と長崎の運命について適切な報道をしているようだった。やがて世界が原子力時代に入ったことの意味を察知して、世界中の編集者や記者たちは、これが戦争に関する最大の記事どころか、人類の歴史上、最大のニュ-ス記事であると理解した。何千年ものあいだ、人類はますます恐ろしく効率的な殺人機械を考案してきたが、ついに自分たちの文明を全滅させる手段を発明した。・・・だが、湧き上がるキノコ雲の下で実際に何が起きたのかを世界が知るには、何ヶ月もの時間-それと一人の若いアメリカ人記者と編集者たちが必要でだった。・・・」  レスリ-・M・Mブル-ム
「<ジヨン・ハーシー著「ヒロシマ」は、アメリカ政府による原子爆弾に関する事実の隠蔽を暴く行為でもあった。ハ-シ-の気持ちを広島に向かわせたキ-ワ-ドは"人間性"だった。どんな人間でも、敵の人間性を見失ったとたんに残虐な行為に走ることを、彼は戦地の経験を通して知っていた。広島での悲劇を、自分たちと同じ人間の身に降りかかったこととして捉えた報道が必要だと考えた彼は、日本への取材旅行を敢行したのだ。」 訳者あとがき 高山祥子  

「ヒロシマ爆心地」-生と死の40年 昭和61年7月20日第1刷 NHK広島局・原爆プロジェクト・チ-ム
-昭和20年8月6日、熱線と放射線がすべてを焼き尽くしたかに見えた爆心地に居ながら、生きのびた人々がいた。彼らは後障害の影に怯えながらどのように生きたのか。爆心地とは、原爆の爆発点直下の地点から半径500メ-トル圏内を言う。原爆が与える打撃は熱線、爆風、放射能である。
昭和20年8月6日、午前8時15分、原爆炸裂の瞬間、そこには推定2万1000人の人々がいた。(この数字は、昭和22年、広島市調査課が県下の市町村長や市内の町会長に呼びかけ、あるいはまた新聞を通じて、被爆者本人や、その縁者からの報告をもとに集計したもの)-そして彼らはすべて死に絶えた 。一般には、こう信じられてきた。しかし私たちの調査した事実によれば、40年後(1985年)も57人に生存者がいたのである。
-原爆は爆発の瞬間、セ氏数百万度という、高温のファイヤ-ボ-ルを生んだ。それは、1秒後には最大半径205メ-トルに膨らみ、およそ10秒間、上空で輝き、そこから熱線を放射した。熱線は初めの3秒間に、最も強烈であり、そのため爆心の地表は、瞬間、3000度から4000度に達した。太陽光のもたらす熱の実に数千倍という強さである。この時、爆心地近くの人々の内臓は蒸発し、身体は瞬時に燃え尽きてしまったに違いない。爆心から3.5キロにいた人々にさえ熱傷を負わせた。2キロ以内では大火災を発生させ、木造家屋のことごとくを焼き尽くした。屋外にいた人は2キロ地点でも、3度の熱傷を受けている。1.2キロ以内ではあらゆる物が瞬時に着火。人体の皮膚は完全に炭化し、屋外にいた殆どの人が、致命的な熱傷を負い命を落とした。・・・爆発の瞬間、爆発点には数十万気圧という巨大な圧力が生じ、その圧力は、衝撃波と呼ばれる超音速の波動として伝わり、そのあとに音速以下の突風がふく。この波動と突風がいわゆる爆風であり、直下の爆心では圧力30トンに達し、秒速380メ-トルもの突風が吹いた。爆心1.6キロの木造は全壊。730メ-トル圏内では、鉄筋コンクリ-トのビルでさえ、その殆どが全壊するという。・・・こうして破壊された建物の天井や壁は、人々の上に覆いかぶさり、その身体を押しつぶし、あるいは生き埋めにした。砕け散ったガラス片やコンクリ-ト片は、皮膚を破り、血管を切り、骨にまで達した。爆風により、全身を床にたたきつけられて死んだ人も多い。この様にして、たとえ爆発の瞬間、建物の中にあり、辛うじて熱線を避けることができた人々も、半径730メ-トル圏内では、爆風につかまり、命を落とさぜるを得なかったのである。・・・熱線をさけ、爆風からも守られた幸運な人々。しかし、目に見えないものが彼らの生命をおびやかす。放射線である。熱線よりも、爆風よりも、この放射線こそ原爆のもつ恐怖の最たるものである。爆発後1分以内にファイヤ-ボ-ルから放射された放射線は、初期放射線と呼ばれ、様々な物質を透過する強い力を持っている。頑丈なコンクリ-ト壁といえども完全に遮ることはできない。致死量をはるかにこえた放射線が降り注いだ。原爆直下の爆心で、40センチメ-トルの壁を持ち、破壊されないで残った建物も例外ではなかったという。

「原爆が消した廣島」 2010年11月25日 第1刷発行 文藝春秋社
田邊雅章 1937年広島市生まれ。生家は産業奨励館(原爆ド-ム)の東隣り。
・原爆ド-ムの前で修学旅行の女子高校生がVサインで記念写真をとっていた。その時筆者は決意する。この地でなにが起きたのかをきちんと伝えなければならないと。懐かしいふるさとの風景が人びとの記憶から消えてしまわぬうちに、原爆が奪った街を甦らせよう・・・・。

「ぼくの家はここにあった・爆心地-ヒロシマの記録」朝日新聞社版
-少年の頃の思い出が昨日のことのようによみがえってくる・原爆ド-ムの前身である広島県産業奨励館は、当時、ヒロシマを代表するヨ-ロッパ風の堂々とした、レンガ造りモルタル仕上げの建造物だった。 田邊雅章
原爆が炸裂・・館内には50人を上回る人びとが働いていた。全員が犠牲となった。 核弾道が炸裂した時、瞬間地表温度は五千度を上回ったという。焼き物の窯の中は約千度、鉄を溶かす溶鉱炉が千五百度であるという。爆心地近くにいた人びとの骨も肉も跡形も無くという表現は誇張でも何でもない。-鈴木慶治


「原爆供養塔」-忘れられた遺骨の70年 2015年5月25日 第1刷 文藝春秋発行
堀川惠子 1969年 広島県生まれ 広島テレビ放送にて報道記者 ディレクタ-。2004年退社。フリ-のジャ-ナリスト。
・広島の平和記念公園にある原爆供養塔には、7万人もの被爆者の遺骨がひっそりとまつられている。戦前、この一帯には市内有数の繁華街が広がっていた。ここで長年にわたって遺骨を守り、遺族探しを続けてきた「ヒロシマの大母さん」と呼ばれる女性がいた。
序章から
「平和記念公園の足元は一面、分厚いコンクリ-トで塗り固められている。その冷たい塊の下にはかつて、ヒロシマ有数の繁華街があった。・・原爆慰霊碑のまわりには、映画館やハイカラなカフェ-、旅館が立ち並んでいた。東西を走る商店街にはビリヤ-ド場、うどん屋、靴屋、薬局、楽器店に印刷所が軒を連ねた。東の元安川の岸にある大きな舟着場には、上流の村々や下流の島々から野菜や木材がどっさり届いた。川伝いに方々から物資が集まる場所だから公設市場もあって、にぎやかな掛け声が辺りにこだました。そこは公園などではなく、人々の暮らしの息吹に満ちていた。あの日、瞬時に命を奪われた人たちが、足元にはまだ大勢眠っている。・・・緑の小山の下に、その場所はある。原爆供養塔の北側にある数段の階段。そこを降りると、人ひとりやっと通れるほどのステンレス製の扉が頑丈に施錠されている。この扉は、あの日、生と死を分けた人々の間をへだてる"境界線"だ。扉の向こうにあるのは、薄暗い10畳ほどの小さな空間。正面には阿弥陀仏が置かれ、境界線から内側に足を踏み入れてくる人たちを静かに見つめている。壁の三方にはコの字型の六段の棚。その床から天井まで、代償の箱が壁一面にぎっしりと積み上げられている。納められているのはすべて、人の骨だ。この地下室に遺骨として眠る人の数、およそ7万人・・・大きな箱には大量にひとまとめにされた遺骨の山が、小さな骨箱にはひとりひとり、小分けにされた遺骨が納められている。遺骨となった死者たちは、あの地下室に無縁仏として置かれたまま。その遺骨の上に今、70年という歳月が流れようとしている。7万人もの遺骨が納められた原爆供養塔は、いわばヒロシマの墓標だ。・・・遺骨となった死者たちにまつわる苦しみに満ちた記憶は遠ざけられてしまつた。・・・広島の戦後から、死者たちの姿はどんどん消えていく。平和とはまるで、白いハトを青空に飛ばすことであり、折り鶴を飾ることであり、緑豊かな公園や子どもらの美しい歌声にとって代わってしまったようだ。70年前、無念のまま町のあちこちで燃やし尽くされた死者たちの声は、どんなに耳を澄ましても聞こえてこない。・・・これまで語られてことのなかった、もうひとつのヒロシマ。原爆供養塔、そこに眠る死者たちの物語を始めたい。」  堀川惠子

「なみだのファインダ--広島原爆被災カメラマン 松重美人の1945.8.6の記録」柏原知子監修 松重美人著 
2003.8.6初版発行 ぎょうせい発行
○「8月6日の原爆投下、心を鬼にして写した5枚の写真は、ファインダ-が涙で曇り、写すことの限界を感じました。・・・柏原知子さんの根強い平和の願いが、私の魂を揺り動かし、ペンを執るきっかけとなりました。・・世界で最初の原爆の被害を伝えるこの写真の役割は、核兵器がなくなるまで終わることはないと思います。」  松重美人氏の言葉

「命かがやいて」-被爆セ-ラ-服のなみだ 著者 大西知子 2011年2月1日 東信堂発行 
○「私が(セ-ラ-服の少女)と初めて会ったのは、平成13年(2001年)のことです。出会いのきっかけとなったのは、「涙のファインダ-」でとり上げた1枚の写真でした。・・・松重氏が被爆直後の御幸橋西詰め(橋の人道は断末魔の負傷者でびっしり埋まっている光景)を指して「この後ろ姿の三角衿のセ-ラ-服の女性は今も生きているのですよ。」と話されたのです。私は、被爆時の状況やその後の人生について是非お話を伺いたいという思いが日増しに高まり、さまざまな情報から必死に探しました。そして、1年後にやっとの思いで・・辿り着いた次第です。」-大西知子さんの言葉

「きのこ雲の下で何が起きていたのか」 2015年8月6日 NHK総合テレビで放送
御幸橋で記録された写真を最新の映像処理にて再現・・何が起きていたのかを探る。写真を動画編集して表現されたそのシ-ンは衝撃的だ。 
 NHKスペシャル取材班は放送版の他に書籍「原爆死の真実」2017年7月25日第1刷・岩波書店発行も出している。書籍の方が内容は詳細で ある。鈴木慶治

 
<鈴木慶治-個人蔵> 2021・8/29現在  書籍名/著者、編者/発行年
「平和のバトン」広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶・弓狩匡純・協力、平和記念資料館2019.6/「原爆句抄」・松尾あつゆき2015.3.20/「命かがやいて」・大西知子2011.2.1/「なみだのファインダ-」・柏原知子監修2003.8/ 「HIROSHIMA-半世紀の肖像・大石芳野1995.3.3/「死の同心円」・秋月辰一郎2011.6.30/「広島爆心地中島」・広島遺跡保存運動懇談会編2006.8/「ヒロシマを壊滅させた男 オッペンファイマ-」・ピ-タ-・グッド・チャイルド・池澤夏樹訳1995.6.15/「ヒロシマ戦後史」・宇吹 暁2014.7.9/「ヒロシマ」・ジョン・ハ-シ- 谷本清、他訳1949.4.25 /「サダコ 原爆の子の像の物語」・NHK広島「核・平和」プロジェクト2000.7.30/「私はヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した」・チャ-ルズ・W・スウィニ- 黒田剛訳2000.7.31/「カウントダウンヒロシマ」・スティブン・ウォ-カ- 横山啓明訳2005.7.10
広島を復興させた人びと「原爆」・石井光太2018.7.10/「原爆と戦った特攻兵」・豊田正義2015.7.31/「原爆供養塔」-忘れられた遺骨の70年-・堀川惠子2015.5.25/
「遠きヒロシマ」-記憶の物語-・青木幸子2014.11.10/「空が赤く焼けて」-原爆で死にゆく子たちの8日間・奥田貞子2015.6.30/「少女十四歳の原爆体験記」・橋爪 文2001.7.20/「ヒロシマ絶後の記録」・小倉豊文2010.12.10/「星は見ている」-全滅した広島一中一年生父母の手記集・秋田正之編2010.12.10/「ヒロシマ日記」・蜂谷道彦/「花の命は短くて」-原爆乙女の手記・小島 順/「屍の街」・大田洋子2010.7.25/「長崎原爆記-被爆医師の証言」・秋月辰一郎/「この子を残して」・永井 隆2010.7.25/「ロザリオの鐘」・永井 隆2014.6.25/「長崎の鐘」・永井 隆2010.7.25/「原爆詩集」・峠 三吉2010.7.25/「廣島-戦争と都市-」・岩波写真文庫/「長崎の鐘はほほえむ」-残された兄妹の記録-・永井誠一1995.5.20/「ぼくは満員電車の中で原爆を浴びた」-11歳の少年が生きぬいたヒロシマ・由井りょう子 文2013.7.16
米澤鐵志 絵/「原爆の子」上・長田 新編/「原爆の子」下・長田 新編/「原爆の子」その後-原爆の子執筆者の半世記・原爆の子きょう竹会編/「ぼくの家はここにあった」-爆心地~ヒロシマの記録-付録DVD復元中島町・田邊雅章/よみがえった都市-復興の軌跡「原爆市長」復刻版浜井信三/「原爆が消した廣島」・田邊雅章/「娘よここが長崎です」-永井 隆の遺児茅乃の平和への祈り・筒井茅乃/「永井 隆」・永井誠一/
「ヒロシマはどう記録されたか」上・小河原正己/「ヒロシマはどう記録されたか」下・小河原正己/「焼き場に立つ少年」は何処へ・ジョ-・オダネル・吉岡栄二郎/「ガイドブックヒロシマ」-被爆の跡を歩く-・原爆遺跡保存運動懇談会編/「いしぶみ」-広島二中一年生全滅の記録・広島テレビ放送編/「ヒロシマをさがそう」-原爆を見た建物・山下和也、井手三千男、叶 真幹/「原爆が落とされた日」・半藤一利、湯川 豊
「チンチン電車と女学生」・堀川惠子、小笠原信之/「牧師の涙」・川上郁子/「HIROSHIMA1958」・エマニュエル・リブァ写真/「長崎旧浦上天主堂」1945-1958 失われた被爆遺産・高橋 至、写真、横手一彦、文/「ヒロシマから問う」平和記念資料館の「対話ノ-ト」編集委員会編
「被爆の遺言」・被災カメラマン写真集/「昭和二十年代~三十年代 百二十八枚の広島」・明田弘司写真/「生きていた広島 広島1945」南々社
立ち上がる広島・1952 岩波書店編集部編/「写真記録 ヒロシマ25年」佐々木雄一郎/「決定版 長崎原爆写真集」小松健一、新藤健一編/
「広島・長崎 原子爆弾の記録」・平和のアトリエ/集英社 戦争と文学 第19巻 「ヒロシマ ナガサキ」-閃-/「ヒロシマを伝える-詩画人 四國五郎と原爆の表現者たち」・永田浩三/「広島第二県女二年西組」・関千枝子/「原爆死真実」-きのこ雲の下で起きていたこと・NHKスペシャル取材班/「原 民喜全集 全二巻」-夏の花・原 民喜/「ヒロシマ 消えたかぞく」-このえがおがずっとつづくとおもっていた-・指田 和、写真 鈴木六郎/「おこりじぞう」・絵 四國五郎 文 山口勇子/「トランクの中の日本」・ジョ-・オダネル/「黒い雨」・井伏鱒二/
「死の島」上・福永武彦/「死の島」下・福永武彦/「浦上物語」・市川和広/「ヒロシマ」土門拳全集10・小学館/「長崎の痕」・大石芳野写真集/大石芳野写真集「戦争は終わっても終わらない」/広島平和記念資料館臓・撮影、土田ヒロミ「ヒロシマ・コレクション」/「ヒロシマを暴いた男-米国人ジャ-ナリスト、国家権力への挑戦 レスリ-・M・M・ブル-ム 集英社/「空白の天気図」柳田邦男 文春文庫/「ヒロシマ爆心地」-生と死の40年 1986年7月20日 第1刷 日本放送出版協会発行/

「ヒロシマを暴いた男」 レスリ-・M・M・ブル-ム 2021年7月20日 第1刷発行 集英社から
-新聞や雑誌の大半は、寿命が短い。だが「ヒロシマ」について古びたのは、たった一つの点だけだった。記事の主人公である、地獄をもたらすリトルポ-イが、爆発から何ヶ月かあとにハ-シ-が1946年の記事を書くころには、すでに旧式だと見なされていたのだ。アメリカはすでに、日本に投下された原子爆弾より何倍も強力だとされる水素爆弾の開発を始めていた。今日の核兵器庫には、リトルポ-イやファットマンよりはるかに強力な爆弾が何百も蓄えられている。(もっとも強力な核爆発装置-1961年にソ連によって起爆された、ツァ-リ・ボンバと呼ばれるもの-は、広島と長崎に落とされた爆弾の合計の核出力の1570倍、そして第二次世界大戦のあいだに爆発した従来の兵器の総量より10倍も強力だといわれている)
世界の現行の核兵器の総目録には、1万3500以上の弾同があると見積もられている。




土門拳全集10・月報に寄せた、大江健三郎氏の「土門拳のヒロシマ」という文章がある。
「土門拳の「ヒロシマ」のすべての現代的意義は、従来の原爆をめぐる写真集が1945年8月6日、原爆投下の日の原爆写真的な性格をもち、焦点がこの日にむかってあてられていたのとちがい、今日のヒロシマ、1958年のヒロシマにおける、原爆と人間の戦いを現在形でえがくことにすべての目的があることだ。土門拳は1958年に日本人がいかに原爆と戦っているかを描き出す。それは死せる原爆の世界をではなく、生きて原爆と戦っている人間を描き出す点で、徹底して人間的である・・・。われわれにとって最も重要な関心は、生きているわれわれの群衆の中にのみある。「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから」という抒情的で厭らしい書体で書いた記念碑のよそよそしい無益な感じはこういうところに由来するのだろう。土門拳の「ヒロシマ」がえがきだすのは、安らかに眠るどころか、悪戦苦闘して生きてゆく、われらの群衆の中のかれらである。・・・ある根元的な不安と恐怖、それに疲労からおびえて無気力ではあるが、鳥のように清潔で美しい少年の生と死をえがいた写真がある。少年は爆心地附近を歩いた母親の胎児であったが、土門拳のカメラにおさまったあと急性骨髄性白血病で死亡した。この少年にとって人間世界は、暴力的に希望の芽をおしつぶす不可解な地獄でしかなかったわけだ。その人間世界であまり長いとは期待できない人生のために死ぬ苦しみで頬へ腿の皮膚を移植する少女もいるのだ。・・・「ヒロシマ」の写真の数々は私の文章が雑音のように排除しきれずひびかせるセンチメンタリズムなどとはまったく無縁の場所に達成されているのである・・・。」大江健三郎
土門拳とヒロシマ

大江健三郎とヒロシマ

核の脅威は、戦後75年たってもなお現在形である。これは疑いのない事実である。未来にむかってますます恐怖の念が増しているようにも思う。私たちは「原爆投下」という悲惨な出来事から、何をいったい学んできたのだろうか。-鈴木慶治

土門拳氏の言葉-「憎悪と失意の日日-ヒロシマはつづいている」(写真展「憎悪と失意の日日-ヒロシマはつづいている」展示パネル・1968年)
「ぼくは1958年(昭和33年)に写真集「ヒロシマ」(研光社)を出してから十年ぶりに広島に行った。十年ぶりの広島は、内外ともに様相を一変させていた。まず広島の街の目覚ましい復興ぶりに驚かされた。地方都市ながら近代都市らしい消費文化の発展はすさまじく、広島の街は平和と繁栄の泰平ム-ドにまるで酔いしれているみたいだった。
 しかしそれは見てくれだけのものだった。一歩内部に踏みこんでみると、理不尽な矛盾と悲惨は十年前以上に拡大深化していた。・・・建物や樹木には復興や再生ということはあり得ても、1945年(昭和二十年)8月6日午前8時15分広島市上空に投下された一発の原子爆弾が広島市民の肉体に与えた爪跡は、消えるということがないのであった。・・・人間の尊厳をむしばみつづけて消えることがない。・・・原爆ド-ムをはさんで南に平和公園、北に原爆スラムと呼ばれる相生通りがある。太田川川岸2キロメ-トルに連なる約千世帯、四千人の人たちが生活している。三世帯にひとりは被爆者がいるといわれる。また全世帯の三分の一は朝鮮人だともいわれ、朝鮮人被爆者も多い。原爆のために身よりを死なし、生活保護を受けているひとり暮らしの老人、失対事業で働く夫婦、さまざまの人たちの生活がくりひろげられている。原爆スラムは広島の中における差別の町である。・・就職、結婚については広島の中でも理不尽な差別を受けている。掘立小屋の戦後的不良住宅や不法建築については、市も県も無為無策・・・原爆スラムが存続するかぎり、広島では戦後は終わっていないというほかない。

宮本常一の言葉「私の日本地図4-瀬戸内海・広島湾付近」
「広島というところは川水のきれいな町である。・・・太田川の水は澄んでいた。そして底はきれいな砂である。・・このきれいな流れと、白島あたりは堤防に桜を植えて、春ともなれば花見の客が堤を埋めている風景はこの上なくこのましいものであったが、昭和20年、この町に原爆がおとされて、一望の焼け野になってからは、川にそって小さなバラックが密集してしてつくられ、・・土地所有者が誰であったかさえわからなくなってしまいスラム街が発生したのである。広島の川のほとりの密集集落を見るたびに、この町が原爆でうけた痛手の深さを思い知るとともに、この密集集落の解消されるまでは、広島の戦後は終わっていないと思っている。

-個人的なことだが、土門さんが十年ぶりに広島を訪れたという昭和43年は、戦後生まれの自分が高校3年になった年である。戦後23年もたとうとしているのに当時「原爆スラム」が存在し、「差別」が根強くあったということは大きな驚きである。それを土門さんは憎悪と失意と表現した。2015年になって広島を訪れたとき、「原爆差別」は依然として続いていることを、平和公園で耳にしたことがある。-鈴木慶治

広島平和公園-原爆犠牲国民学校教師と子どもの像   原爆ド-ム-写真・鈴木慶治

NHKスペシャル 2010年8月6日 総合テレビで放送
「封印された原爆報告書」  DVD
アメリカ国立公文書館に、181冊、およそ1万ペ-ジに及ぶ原爆被害の調査報告書が眠っている。こどもたちが学校のどこでどのように亡くなったかを詳しく調べたもの、200人以上の被爆者を解剖し放射線の影響を分析したもの・・・・。調査は医師や科学者ら総勢1300人に上る日本の調査団によって、原爆投下直後から2年間にわたって行われた。しかし、その結果はすべて原爆の"効果"を知りたがっていたアメリカへ渡されていた。

NHKスペシャル 「原爆投下 -活かされなかった極秘情報-」 2011年8月6日NHK総合テレビ放送  DVD
・想定外の奇襲とされてきたヒロシマと長崎の原爆投下。しかし実際は、日本軍は原爆投下に向けた米軍の動きを察知していたことが当時の資料や当事者の証言などから初めて明らかになってきた。陸軍特殊情報部は、後にヒロシマと長崎に原爆を投下した米軍の特殊任務機の動きを克明に傍受し、その情報を陸軍上層部や幹部へ報告していたのだ。危険が迫っていることを知りながら、最後までその重大な情報を伝えることの無かった軍の指導者たち。なぜ多くの人びとが無防備のまま亡くなられなければならなかったのか。なぜ情報はいかされなかったのか。

「ヒロシマの記憶」 原爆調査の一環として行われた日本映画社の撮影は、原爆投下の2ヶ月後のことである。「ヒロシマの記憶」は明日を創るための記憶である。
収録内容・相生橋/袋町小学校/広島城/西蓮寺・西向寺/天満橋と元安橋/植物の被爆/広島逓信局/広島赤十字病院-姉と弟/一番電車/広島産業奨励館  フィルムに映る幼い姉と弟は爆心地から1キロの舟入町で被爆。数日後2人は脱毛や発熱などを訴え始めました。原爆の放射線による急性症状でした。広島赤十字病院には原爆投下後の混乱の中で、医師がかきとめた血液検査の膨大なデ-タが保存されています。

1951年3月13日・午後11時30分・「中央線西荻窪駅を出発した下り電車の運転士は、数十秒後、距離にして200Mほど進んだあたりで、前方の線路上に人が横たわっているのに気付いた。急いで警笛をならし、ブレ-キをかけたが間に合わず、・・・50Mほど進んだところで停車した。」
梯久美子 「原民喜-死と愛と孤独の肖像」から
原民喜46歳の生涯であった。1951.3.12生まれの自分とこの事件は、わずか1日しか違いがない。そのためか特別に原民喜という作家のことは記憶に強く残っている。原爆作家という呼称とともに。原爆ド-ム近くに原民喜の詩碑がある。
 <遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻> 
「コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ」(原爆小景) から
「水ヲ下サイ アア 水ヲ下サイ ノマシテ下サイ 死ンダホウガ マシデ 死ンダホウガ アア タスケテ タスケテ 水ヲ ドウカ ドナタカ オ-オ-オ-オ- オ-オ-オ-オ- 天ガ裂ケ 街ガ無クナリ 川ガ ナガレテイル オ-オ-オ- オ-オ-オ-  夜ガクル 夜ガクルヒカラビタ眼ニ タダレタ唇ニ ヒリヒリ灼ケテ フラフラノ コノ メチャクチャノ 顔ノ ニンゲンノウメキ ニンゲンノ 」

「広島第二県女二年西組 -原爆で死んだ級友たち-」 関千枝子 2013年11月25日 第八刷 筑摩書房 
○「1945年八月六日、広島県立広島第二高等女学校二年西組の生徒たちは、広島市雑魚場町の建物疎開の解体作業に勤労動員されていて、午前八時十五分、被爆した。現場は爆心から南へ、僅か1.1キロメ-トルの地点にあった。二名の女性教師をはじめ、生徒三十九名のうちの一名を除いて全員が被爆から二週間以内に死亡した。ただひとり生き残った生徒も、24年後の1969年に37歳の若さで他界した。その日たまたま、病欠などで参加しなかった六人の級友がいた。・・その六人の中に筆者がいたのである。以後、彼女は生き残ってしまったことへの後ろめたさで、級友たちの死を胸の奥へ収める。それから31年めの夏、彼女は二年西組の被爆記録の収集を思いたつた。そして8年の取材調査の結果、この作品がまとめられた。・・・高等女学校の二年生といっても、いまの中学二年生である。僅か13歳から14歳の少女たちである。筆者の感情をおさえた簡潔な文章と際限された死者たちのおもかげの愛くるしさが、強烈な悲しみを誘う。・・・」解説 生涯にひとつの作品 山中 恒

本を開くと目次のあとすぐに「被爆当時の広島市と級友の死亡地点」という精細な地図資料が表記されている。ひとりひとりがどの場所で亡くなったかということが、一目見てわかる。筆者の級友への執念に似た思いというものが見るものに伝わってきて、深い感動と驚きを感じる。-鈴木慶治  

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永井隆博士の同名の原作を木下恵介が監督した作品。1983年 加藤剛・十朱幸代 主演


永井隆・「この子を残して」から

「この世をやがて私はさらねばならぬのか!」母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?。」 永井隆

永井誠一・「長崎の鐘はほほえむ」-残された兄妹の記録から

「カヤノ、お母んが帰ってきたぞ、はやく来い。お母さんが待っとるぞ、いそげ、いそげ!-と、大きな声でカヤノを呼びに行くことはできませんでした。お母さんは変わりはてて、カンの中に詰まっいる。あたたかさもない、無言の骨なのです。・・カヤチャンノオカアサンハドコニオットヤロウカネといって、待ちわびている幼いカヤノに、どうしてこんなに悲しい発見を知らせ、対面させることができるでしょうか・・」永井誠一
<兄のまことは10歳 妹のかやのが4歳の夏のことでした>

永井隆  1908-1951 享年43歳 
永井緑  1907-1945 享年38歳  
永井誠一 1935-2001 享年66歳
筒井茅乃 1941-2008 享年66歳

「この子を残して」や他の永井隆氏の著作は青空文庫で読めます。

1945年10月・長崎医科大学周辺の写真


長崎原爆資料館

永井隆記念館 


 



沢木耕太郎の作品

沢木耕太郎の対談-セッションズ本 対談者と内容
Ⅰ 達人、かく語りき -あう
/吉本隆明・肉体 異国 青春/吉行淳之介・逆襲ムカシばなし篇/淀川長治・私の 愛した 映画/磯崎 新・時の廃墟へ/高峰秀子・旅が教えてくれたこと/西部 邁・1960年を中心に/田辺聖子・男から学んだこと、女から学んだこと/瀬戸内寂聴・比叡山での日々/井上陽水・いつかの続き/羽生善治・ジグソ-バズルにピ-スをひとつ
Ⅱ 青春の言葉 -きく   
/長谷川和彦・アクション タ-ゲット/武田鉄矢・貧しくても豊かな季節/立松和平・事実の力、言葉の力/吉永小百合・いくつもの人生を生きて/尾崎 豊・見えない水路/周防正行・みんなあとからついてくる/先崎 学・陶酔と憂鬱/福本伸行・ソウルで話そう/大沢たかお・あの旅の記憶/上村良介・帰りなん、いざ
Ⅲ 陶酔と覚醒 -みる   
/山口 瞳む・スポ-ツ気分で旅に出ようか/市川 崑・映画とオンピック/後藤正治・スポ-ツを書くということ/白石康次郎・海があって、人がいて/安藤忠雄・すべてはつくることから/森本哲郎・最初の旅、最後の旅/岡田武史・サッカ-日和/山野井泰史・山野井妙子・垂直の情熱について/山野井泰史・記憶の濃度/角田光代・拳をめぐって
Ⅳ 星をつなぐために -かく
/柳田邦男・ノンフィクションの可能性/篠田 一士・事実と無名性/猪瀬直樹・アマチュア往来/柳田邦男・書くことが生きることになるとき/辻井 喬・フィクションとノンフィクションの分水嶺/村井由佳・砂の声、水の音/瀬戸内寂聴・それを信じて/角幡唯介・歩き、読み、書く ノンフィクションの地平/後藤正治・鋭角と鈍角/梯久美子・奪っても、なお

「作家との遭遇」
/必死の詐欺師・井上ひさし/青春の救済・山本周五郎/虚構という鏡/記憶を読む職人・向田邦子/歴史からの救出者・塩野七生/一点を求めるために・山口 瞳/無頼の背中・色川武大/事実と虚構の逆説・吉村 昭/彼の視線・近藤紘一//運命の受容と反抗・柴田錬三郎/正しき人の・阿部 昭/旅の混沌・金子光晴/絶対の肯定性・土門 拳/獅子のごとく・高峰秀子/ささやかな記憶から・吉行淳之介/天才との出会いと別れ・檀 一雄/虚空への投擲・小林秀雄/乱調と諧調と・瀬戸内寂聴/彼らの幻術・山田風太郎/スポ-ツライタ-の夢・P・R・ロスワイラ-/苦い報酬・T・カポ-ティ/旅するゲルダ・ゲルダ タロ- 

司馬遼太郎の作品

「司馬遼太郎が考えたこと」9-エッセイ1976.9-1979.4の中から。
茫々たる想い-
「翔ぶが如く-を書き了えて想うことといえば、遠い古代から流れてくる大河の景観である。水上ミナカミは天に懸かり、地を沈々と流れ、ある時期の肥薩の地と人を浸し、それを書いた時期の私を浸し、はるかな未来にむかって流れ去ってゆく。書き終わったいま、茫々として人も草も見えない。ただひたすらに青い水が、ときに天に接しながら流れてゆくのが見えるだけで、際限もない抽象世界の中にいる自分を思わざるをえない」

司馬さんは詩人である。エッセイの言葉にふれるとその思いが深くなる。鈴木慶治

街道をゆく 全43冊- 「週刊朝日」1971年1月1日号・連載開始~ 1996年3月15日号・連載終了 
街道をゆく1 「甲州街道 長州路ほか」-楽浪の志賀-
○「「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。・・・
近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。」

25年に及ぶ「街道をゆく」の連載は、上記の文章からではじまった。近江という国が・・雨のふるさとや粉雪のふるさであるという。そんな詩的情景の近江・においさえのこすという、近江の国に自分も何度か出かけた。-鈴木慶治

街道をゆく43 「濃尾参州記」-
最後の文章は、以下、信玄の死、死と繰り返される。信玄とともに私たちの目の前から司馬さんは去っていかれた。思いがけない別れであった。
-鈴木
○「・・・信玄はこのあと三河に攻め入ったが、野田城包囲の陣中で病を得、軍を故郷にかえす途次、死ぬ。死は、秘された。-未完」

「街道をゆく」のなかで自分の好きなのは、「島原・天草の諸道」17/「近江・奈良散歩」24/「オホ-ツク街道」38/「北のまほろば」41/である。-鈴木慶治
-「北のまほろば」から
太宰治の「津軽」に関する記述も多いが、棟方志功についての司馬さんの言葉がとても印象的だ。
○「棟方志功の自己は、まことに大きい。いつも朝の野のように初々しく露で濡れていて、その初々しさは縄文時代から迷わずにこの世にきた人ではないかと思えるほどである。・・・言葉に鋭敏だった。それにあどけないほどに光明にあこがれていた。・・・「わだば、ゴッホになる」と志功がいったのは、ゴッホの「ひまわり」が在来の絵画が拘束してきた煩瑣なとりきめから、たかだかと自由だったからにちがいない。ひょっとすると志功にとってこの大音声は、-ゴッホをめざさば、すなわち自由だという独立自尊の宣言のようなものだったのではないか。・・・」 司馬遼太郎
以下、太宰治とその著作についての記述である。
○「太宰治の「津軽」は、その代表作の一つである。津軽への愛が、ときに含羞になり、自虐になりつつも、作品そのものを津軽という生命に仕上げていて、どの切片を切りとっても、津軽の皮膚や細胞でないものはなく、明治以後の名品といっていい。・・「津軽」に飢饉のことがでてくる。元和元年(1615)の大凶から・・書き写された凶作の年表はえんえんと4ペ-ジにおよぶ。太宰は、故郷を悲しき国としてなげくのである。」同上

島原・天草の諸道
○「天草は旅人を詩人にするらしい。まして詩人が旅人であれば、若い日の北原白秋たちがそうであったように、鳴き沙のなかにはるかな西方の浪の音まで聴きわけ、歴史という虚空のなかにまで吟遊して歩く人になるのかもしれない。 天草と詩人
○「島原半島は、有明海に対して拳固をつきだしたようにして、海面から盛り上がっている。拳固から小指だけが離れ、関節がわずかにまがって水をたたえているのが、古代からの錨地である口之津である。
○「鬼池オンノイケの波止場から、いま船で横切ってきた早崎瀬戸を眺めてみると、もし故郷が自由にえらべるとすれば、自分は天草をえらぶだろうと思った。

からゆきさんとよばれた天草乙女が鬼池から口之津にわたり、遠く異国の地に売られていったという。遠い昔の哀話ではない。-鈴木慶治

参考 山崎朋子氏(1932- )著作「サンダカン八番娼館」から。-
「<からゆきさん>とは「唐行人カラヒトユキ」または「唐ん国行カランクニユキ」という言葉のつづまったもので幕末から明治期を経て第一次大戦の終わる大正中期までのあいだ、祖国をあとに北はシベリアや中国大陸から南は東南アジア諸国をはじめ、インド・アフリカ方面まで出かけていって、外国人に肉体をひさいだ海外売春婦を意味している。その出身地は全国に及んだが、特に九州の天草島や島原半島が多かったといわれている。」


○「人間は自然に依存するもろい生きものにすぎない。そのことは、陸(おか)にいるときより海にうかんでいるときにはなはなだしい。船と称される材木の切れっぱしに帆を立てたものに乗るとき、風浪のままに動き、あるいは風浪が追っかけて来ない海岸線の切れ込みのなかに遁げこむ。
「近江・奈良散歩」
○「興福寺の阿修羅には、むしろ愛がたたえられている。少女とも少年ともみえる清らかな顔に無垢の困惑ともいうべき神秘的な表情がうかべられている。無垢の困惑というのは・・多量の愛がなければ困惑はおこらない。しかしその愛は、それを容れている心の器が幼すぎるために慈悲にまで昇華しない。・・・阿修羅は、相変わらず蠱惑的だった。顔も体も贅肉がなく、性が未分であるための心許なさが腰から下のはかなさにただよっている。眉のひそめかたは、自我にくるしみつつも聖なるものを感じとってしまった心のとまどいをあらわしている。すでに彼-あるいは彼女-は合掌しているのである。・・・これを造仏した天平の仏師には、モデルがいたにちがいない。貴人の娘だったか。未通の采女だったか・・・・」

司馬さんの文章は、「阿修羅像を表現」する時もまことに詩的である。-鈴木

「オホ-ツク街道」
○北海道には自然だけでなく、人文のふしぎさもすくなくない。網走のまちを流れる網走川は、オホ-ツク海に注いでいる。その河口の砂丘に、いままで知られていた"歴史的日本人"とはちがうひとびとが住んでいたことを発見したのは、米村喜男衛翁であった。そのあたりに小地名がなかったので、付近の最寄村から名をとり「モヨロ遺跡」と名付けた。発見したのは、大正二年(1913)九月で、この人の二十一歳のときである。米村さんは、明治二十五年(1892)青森県で生まれ、昭和五十六年(1981)網走で亡くなった。八十九歳であった。亡くなる前、「オレは倖せだったなあ」と繰り返し呟いていたという。達人といっていい。・・死後、夫人によって「モヨロ悠遠」という遺稿集が編まれた。それらを読んでいると、似たような人として、ハインリッヒ・シュリ-マン(1822-90)と思い重ねざるをえない。どちらも無学歴で在野の学者であった。むろんめざした対象がちがう。・・私ども日本人が所有している古代は、じつに素朴である。米村さんが研究し、予感し、掘りあてたのは遠い世にオホ-ツクの海を渡ってきた素朴な民族の遺跡なのである。むろん、(トロい・モヨロともに)その価値にかわりがない。どちらも、われわれ地球上の人間を今日に在らしめている"過去"という荘厳さなのである。
司馬さんの人を見る目は、かぎりのない優しさに充ち満ちている。シュリ-マンの「トロイ遺跡」発見という歴史の縦糸と、米村さんの「モヨロ遺跡」発見という、いわば近現代の横糸とが見事に交差した文章となっている。モヨロの浦から-鈴木
以下、松浦武四郎のことである。
○「松浦武四郎のことをおもった。その日記や紀行文のたぐいを持ってきた。武四郎が愛した山川草木のなかでその文章を読むと、自分がアイヌになって武四郎と話しているような気になる。・・・武四郎の生涯をつらぬいている精神は独立自尊であった。みずからの知的関心のままに生きた。かれにとっての知的対象は諸国の人文、自然の地理だった。諸国遍歴を志して家を出たのは十七歳のときである。懐中には父からもらった小判一枚きりであった。・・・頑健な体と色白で中高のふしぎな容貌と社交的な性格をもっていた。アイヌの境涯に対するはげしい同情をもち自らもアイヌ語を話し松前藩の暴政を江戸に出て訴える・・。この幕末の北方探検家は、北海道を隈なく歩き・・・宇登呂の浜にもきた。さらに海上ながら先端の知床岬をもきわめた。-北海道の命名者ともいわれる。
以下個人の実際の体験である。
宇登呂(ウトロ)の港、オロンコ岩の下に松浦武四郎没後100周年を記念した顕彰碑が建立(昭和63年9月)されている。武四郎の詠んだ歌を詠むことができる。
-山にふし 海に浮寝の うき旅も 慣れれば慣れて 心やすけれ-   鈴木慶治

「街道をゆく」全43冊の中には海外編も何冊か含まれている。モンゴル紀行/中国・江南のみち、他/南蛮のみちⅠ、Ⅱ/愛蘭土紀行Ⅰ、Ⅱ/ニュ-ヨ-ク紀行/等々である。中でもオランダ紀行がすきだ。レインブラントやル-ベンス、そしてゴッホが登場する。
「オランダ紀行」から
○私どもは、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)の旅に出る。すこし気どっていえば、才能に抱イダかされてしまった者への悲しみの旅といっていい。芸術家にとって最大の侮辱は、-君には才能がない。-ということだが、普通の生涯を送ろうとする者の場合、才能とはおよそ荷厄介なものである。善良な父が、あどけない嬰児に才能をもとめるだろうか。才能のために、窮乏、あるいは数奇な生涯を送ることをのぞむかどうか。常人である何人も、ゴッホの生涯を真似たいとはおもわないはずである。自殺によって閉じた生涯は37年にすぎず、その間、弟に養われ、収入もなく、絵についてなんの評価もされず、無名のまま生き、隣人や友人から厄介がられたり、疎まれたりした。「あの者に近づくな」と、カトリック教会の神父が村人に警告したりした。そういう生涯よりも、タクシ-の運転手になって幸福な家庭をつくるか、仕事仲間と一緒に酒場に行って愉快な会話を楽しむほうがずっといい。(むろん、こういう言い方は、多分に反語である。じつはひとびとはその心の底に壮烈なものをもとめる衝動があり、たとえ自分がそのようにならなくとも、ゴッホのような生涯を憧憬する気分がある)。ともかくも、ゴッホはうまれつき才能という毒気に中っていた。・・・ごく一般的にいって、絵画は人にとって身のまわりの装飾である。絵のかかった部屋でコ-ヒ-を飲むのは楽しい・・が、ゴッホの絵は、楽しさとはべつのもののようである。・・はね橋を描いても、自画像を描いても、ひまわりを描いても、ついににじみ出てしまう人間の根源的な感情がある。それは、「悲しみ」というほか言いあらわしようがない。・・どうもかれの悲しみは、人として生まれてきたことについての基本的なものである。・・いっそ聖書的といったほうがよく、このためかれの悲しみは、ほのかに荘厳さをもち、かがやかしくさえある。・・・ゴッホは牧師の子として生まれかれ自身も一時期伝道師をしたこともあり、ほとんど(愚直なほどに)聖書的に生きた。

-司馬さんの「ゴッホ」についての記述は、1冊の中で74ペ-ジにも及ぶ。「オランダ紀行」全ペ-ジ数が397ペ-ジであるから、実に約18.6%がゴッホについてである。「わざわざ言うまでもないが、私はゴッホの絵がすきである。」と司馬さんが言うのもむべなるかなである。-鈴木
「オランダ紀行」には、他にドン・キホ-テ、フランダ-の犬、ハイネ、シ-ボルト、スピノザ、ユダヤ人、等々にもふれていてまことに内容が濃い。少女アンネ・フランクにもふれる。「アンネの日記」を書いたのは、ナチ占領下であったオランダ・アムステルダムの隠れ家であったことは、よく知られた事実である。オランダは建国以後、他民族に対し、寛容で、追われてきたユダヤ人に対してきわめて同情的であつたという。-鈴木

司馬さんは、私にとつての旅-「ガイド 街道をゆく 近畿編」の中で、-旅-について次のように記している。
「たとえ廃墟になつていて一塊の土くれしかなくとも、その場所にしかない天があり、風のにおいがあるかぎり、かつて構築されたすばらしい文化を見ることができるし、その文化にくるまって、車馬を走らせていたかぼそげな権力者、粟粥の鍋の下に薪を入れていた農婦、村の道を歩く年頃のむすめ、そのむすめに妻問いする手続きについて考えこんでいる若者、彼女や彼を拘束している村落共有の倫理といった、動きつづける景色を見ることができる。・・・ひとびとの空想も、家居しているときは泡状の巣の中にあり、旅にでるということは、空想が音をたてて水の中に落ちることにちがいない。私にとって「街道をゆく」とは、そういう心の動きを書いているということが、近頃になってわかってきた。」

須田剋太と司馬遼太郎  「司馬遼太郎全集49」月報から 1984年8月司馬さんと旅して-須田剋太
「街道をゆく」の連載が始まってもう14年、ずっと絵の方を受け持ってきましたので、ずいぶん司馬さんとは取材旅行をご一緒しました。司馬さんは最初から、事々しいことはよして、ありのままでぶっかりましょう、須田さん、トボトボ歩きましょう、とおっしゃって、この方針は一貫してつらぬかれてきたんじゃないでしょうか。名のある人に会うわけではなく、タクシ-の運転手さんやその辺のオバちゃんに話を聞いたりして・・・・。 旅をして、体が丈夫になりました。それになにより絵が変わりましたね。いろんなヒントを得たし、絵にリアル感が出てきたと思います。私にとって大変な収穫でした。それもこれも司馬さんのお蔭で、あの人が無名の私を世間に出してくれたんです。・・・あの人は権力風をふかす人が身震いするほど大嫌いなんです。人を愛すること、これだけですべてが成就する、と考えている人なんです。・・・私には生涯の恩人が三人います。最初の人は私の絵を根本から変えてくれた人で、造型とは何かということをたたきこんでくれた人です。次はお坊さんなんですけど、お前は造型のことしかいわないけど、人を愛することがもっと大切じゃないか、と人としての生き方を教えてくれた人、第三が司馬さんで、この二つをくっつけてくれた人です。あの人は若い頃新聞記者をされていたといいますが、あれはアルバイトだったんですね。初めから歴史家なんです。というより人間というものを深く見つめている大思想家なんです。司馬さんに出会えたということは、私は本当にめぐまれていると思う。道元に、同事ヲ知ルトキ自他一如ナリ、という言葉がありますけれど、いっしょに仕事をしておりますと、心が深い所で響き合って、自他の区別がなくなる、そういう瞬間をおこがましいけど司馬さんにある時ふっと感じるんです。馬さんも、私がとにかく一所懸命に絵を描いていることだけは認めてくれているんだと思います。そうでなくてはこんなに長く続かなかった、と考えているのですけれども。(談)

司馬遼太郎の風景1- NHK「街道をゆく」スペシャル「時空の旅人、司馬遼太郎」1997年10月25日第1刷
もう一つの眼・須田剋太
最初に須田剋太を挿画家に推したのは橋本さんだつた。彼は日本画家・橋本関雪のご子息である。司馬遼太郎と須田剋太の最初の出会いは、「湖西のみち」だった。1906年、明治39年生まれのこの画家は、そのとき64歳であった。以降、1989年、平成元年「オランダ紀行」まで、全72街道のうち実に63街道に絵筆をふるった。以下司馬遼太郎の言葉。 (出離といえるような)
「私は、画家より17年も歳下であるのに、年齢のちがいを感じる隙間など、この出離の人かと思える人物のあいだには、一瞬もなかった。まことに稀有な人と出会ってしまったような感じがした。以後、このひとと旅をし、やがてそれが作品になってあらわれてくるという二重の愉しみにひきづられるようにして、旅をかさねるようになった。「街道をゆく」は私にとって義務ではなくなり、そのつど須田剋太という人格と作品に出会えるということのために、山襞に入りこんだり、谷間を押しわけたり、寒村の軒のひさしの下に佇んだりする旅をつづけてきた。

街道をゆく」3-陸奥のみち、肥薩のみち
-須田さんは具体的なものよりも象徴的なものや抽象化された世界にひどく心をうごかすひとなのである。戦前この人は官展系のK会に属して特選を二度ももらいながら戦後その居心地のいい場所をすてて国画会に入り、やがて抽象画を描くようになった。日展に属していれば俗なことながら画壇序列からいってすでに芸術院会員になっているはずの歳だし(なったところでエライとはおもえないが)またあのまま具象画さえ描いていれば生活の上でもうまいことが多かったかもしれない。が、須田さんはそうはいかなかった。かれは道元に遭遇し、その抽象的世界にショックを受けてからちょうど西行のように-西行が武士すてて漂泊の世界に出たように-歩きはじめた。

司馬遼太郎
須田画伯とはじめてお会いしたのは「街道むをゆく」の最初の旅で近江の朽木街道に同行したときであった。1970年(昭和45年)の、もう冬にちかい晩秋だったように思う。冬近いとはいえ、近江路はよく晴れていた。花折峠をこえるとき、峠のあたりはまだ道は未舗装だったような記憶がある。1906年(明治45年)うまれの画家は、このときすでに64歳であるはずだつたが、せいぜい40前後にしか見えず、話しているうちに、溶けるようにしてただの書生になった。私は、画家より17年も歳下であるのに、年齢のちがいを感じる隙間など、この出離の人かと思える人物とのあいだには、一瞬もなかった。まことに稀有な人と出会ってしまったような感じがした。」

須田剋太さんは1990年7月14日に84歳2ヶ月で逝去-
亡くなる前、司馬さんは須田さんを見舞った。その時のことが「画狂 剋太曼荼羅」の中で以下のように記されている。
「司馬先生ご夫婦が来られたのはその頃(容態が少し変わる前)でした。もう何度もお見舞いをいただいているんですが、いつものお優しい笑顔で
「気分はどうです、須田さん」と言いながら、「家内とまたモンゴルへ行ってきますよ。ちょっと留守にしますが、頑張って下さいよ」と手を差し伸ばされたんですが、毎日見ているつもりでいた私でさえ、ハッとするくらい細くなっておられました。・・・その手を司馬さんがとられて静かに摩ってさしあげながら、お互いに黙ったまま目を見つめ合っておられるのです。-ああこのお二人には言葉は要らないんだ-これだけで百萬言も通じるんだと、そう思いました。・・作家と挿絵画家の関係を超えて完全な自由な世界を楽しんでおられたんだと思います。結局このときの見舞いが司馬先生との永のお別れになるんですが、その後剋太先生がお亡くなりになってから「朝日」の方からお聞きするんですが、モンゴルの旅先で剋太先生が亡くなられたことをお知りになった司馬先生、同行の方々に「街道をゆく」はもう終わりにしたいと、そうおっしゃって悲しまれたそうです。」
須田さんの門下生(﨑川冨美子 談) 平成9年

司馬遼太郎の須田剋太にむけた弔辞
-なんという別れになったものでしょう。私は、いま、17年前、須田さんと御一緒したモンゴル高原にいるのです。あのとき、草原での最初に迎えた朝、須田さんは、晴れ晴れと指をあげて、「シバさん、あの山まで歩きましょう」とおっしゃいました。その山までは、大阪から京都ほどの距離があるのです。空気が澄んでいるため、近所のタバコ屋ぐらいの距離にしか見えません。「百キロはあります」と申しあげましたが、須田さんはすでに歩き始めていました。止めなければ、歩きつづけていたでしょう。草原の夜は、おそろしいばかりの闇でした。「歩きましょう」そうおっしゃるので、二十歩ほど歩きましたが、星空の中を歩いているようでした。星のどれもが、金の鋲のように大きかったのを覚えています。このとき、須田さんは、突如、母君の背に負われている頃のことを思い出されました。場所は、武蔵のくに、熊谷の在で、明治40年ごろのことであったでしょう。「あの星をとってほしい」とむずかられたそうです。美しいものを自分のものにしたいという画家としての出発は、このときからはじまつたのでしょう。須田さんのご生涯は、剣のさきのように、弓矢の矢のように、単純で、簡素で、絵を描くというただ一つの目的のために造られつづけていたことに、いま、あらためて感動します。・・・・須田さんの大好きだつた道元にあっては、世界は空であります。それも、光に満ちあふれた世界であります。生死は、ささやかな一現象にすぎませんが、ただ世に在られぬという不自由さは、あの仄かなおかしみのこもった清らかなお姿やお声にふたたび接することができないということであります。しかしながら、私どものしあわせは、目の前に、ご当人そのものである須田芸術があることであります。母君の背を降りて以来、ご自分で方向を決め、ご自分で道をつくり、ご自分で歩いて来られた一足ずつの結果としての須田芸術が、私どもの目の前にあります。豊かな観賞者であることの幸福を与えてくださったことへの感謝を、虚空に満ち満ちておわす大いなる魂にむかい、ひたすら捧げまつります。 1990年7月16日 モンゴル高原にて   司馬遼太郎  上村元子代読

「芸術や創造というものは、その人のなかの少年の感受性の部分が、外界から吹きこむ風のなかでつねにふるえている状態のなかからなされるものだ」と信じていた司馬さんにとって<ほんものの少年の新鮮な目>をもつ「須田さん」との旅は、かけがえのない経験だったはずである。風景も人もあらゆるものがかわっていくなかで「須田さん」だけがかわらず、ひたすら「虚空に骨が鳴って宇宙の神韻を聴くような凄味」のある絵を描き続けた。その姿はほとんど<奇蹟>のように、司馬さんの眼には映っていたのだろうと思う。-司馬遼太郎が愛した「風景」・芸術新潮編集部-美しきものとの出会い 絵を描く善財童子 須田剋太

司馬遼太郎全講演5冊の内容

司馬遼太郎全講演1-講演内容
1964-1968年 <司馬さん41歳~45歳> 死について考えたこと/法然と親鸞/歴史小説家の視点/大阪商法の限界
1969-1971年 <司馬さん46歳~48歳> 学生運動と酩酊体質/うその思想/松陰と河井継之助の死/松陰の優しさ/河井継之助を生んだ長岡/
大化の改新と儒教と汚職
1972-1974年 <司馬さん49歳~51歳> 薩摩人の日露戦争/民族の原形1-儒教/民族の原形2-毛沢東/民族の原形3-日本の将来
司馬さんの控え室 井上靖さんと組合/天皇について/司馬さんの控え室 司馬さんと雅子妃/国盗り斎藤道三/幕末の三藩
解説 「思想嫌い」の思想 関川夏央

司馬遼太郎全講演2-講演内容
1975-1979年 <司馬さん52歳~56歳> 週刊誌と日本語/土地問題を考える/「空海の風景」余話/日本人と合理主義/世間について/大坂をつくった武将たち/浄土教と遠藤周作/鉄と日本史
1980-1983年 <司馬さん57歳~60歳>  松山の子規、東京の漱石/文章日本語の成立/「坂の上の雲」と海軍文明/控え室 戦車と軍艦/朝鮮文化のル-ツ/
1984年    <司馬さん61歳> 土佐人の明晰さ/訴える相手がないまま/ロシアについて/医学の原点/孫文の日本への決別/日本の文章を作った人々/控え室 福山坂の漱石と一葉
解説 思い出の司馬さん 桂米朝 

司馬遼太郎全講演3-講演内容
1985年 <司馬さん62歳> 松陰の松下村塾に見る「教育とは何か」/「菜の花の沖」について/時代を超えた竜馬の魅力/控え室 高知の空と僕の竜馬/小村寿太郎の悩み/
1986年 <司馬さん63歳> 義経と静御前/奄美大島と日本の文化/近松門左衛門の世界/控え室 上方花舞台と司馬さんの詞/「文明の窓口」としての朝鮮/「見る」という話
1987年 <司馬さん64歳 > 文学から見た日本歴史/三河と宗教/偉大な江戸時代/東北の巨人たち/細川家と肥後もっこす/裸眼で見る「文明と文化」/控え室 「文明と文化」を語る理由/言葉の文明/日本人のスピ-チ
1988年 <司馬さん65歳> 横浜のダンディズム/人間という「商売」の話/敗者たちの戊申戦争
解説 司馬文学の鍵 出久根達郎

司馬遼太郎全講演4-講演内容
1988年 <司馬さん65歳> 日本の言語教育/大隈重信が目指した文明/医学が変えた近代日本/
1989年 <司馬さん66歳> オランダの刺激/「砂鉄のみち」と好奇心/ものを見る達人たち/控え室 海音寺潮五郎さんへの思い/戦国から幕末の「防長二州」/
1990年 <司馬さん67歳> 義務について/新島襄とザビエル/心と形/私のモンゴル語/鎌倉武士と北条政子/控え室 正月と嶋中さん
1991年 <司馬さん68歳> 秦氏の土木技術/踏み出しますか/控え室 タイムの旅行者/ポンペ先生と弟子たち/宇和島の独創性/日本仏教に欠けていた愛/漱石の悲しみ/控え室 講演の後に文化功労者の記者会見
解説 貫いた「たけくらべ」の視点 田中直毅

司馬遼太郎全講演5-講演内容
1992年 <司馬さん69歳> 播磨と黒田官兵衛/九州の東京志向の原形/草原からのメッセ-ジ/建築について/
1993年 <司馬さん70歳> 秀吉を育てた近江人脈/防衛と日本史/「花神」から「胡蝶の夢」へ/日本の朱子学と楠木正成/控え室 司馬さんの論語のススメ
1994年 <司馬さん71歳> 「坂の上の雲」秘話/会津の悲運/竜馬とエネルギ-/正岡子規のリアリズム/モンゴルとういろう/清正と大阪の名市長/控え室 司馬デスクと三浦浩さん/ノモンハン事件に見た日本陸軍の落日/
1995年 <司馬さん72歳> 臓器移植と宗教/控え室 写真のなかの司馬さん/少数民族の誇り/
解説 近代の「風土記」を書いた人 山崎正和 (1934-2020.8.19)
通巻索引 巻末

以下-山崎正和氏の解説-・近代日本の「風土記」を書いた人-から
「司馬さんの講演集を読んでいると、めだつのは地方でおこなわれた講演であり、その地方を土地の人とともに愛する言葉だろう。九州へ行けば、あらためてここが日本の稲作の発祥の地であることを思い出し、また関東で生まれた武士気質がじつは九州でこそ確立されたのだと推察する。東北を訪れれば、声を励まして縄文文化の中心地の栄光を讃え、その時代の東北がいかに豊かな自然を日本人に恵んでいたかを強調する。さらに福島県の聴衆をまえにしては、会津の知的な伝統について力説したうえに、戊申戦争の敗北さえただの悲惨な事件ではなく、あれが明治革命の野蛮な情念を発散させる捨て石として役立ったことを主張する。・・・これは必ずしもその人たちの歓を買うための言葉ではない。司馬さんが讃え、寿いでいるのは、(その土地の)国柄であり、歴史につながるこの国の風土と文化なのである。・・・・晩年の司馬さんが小説の筆を折って「街道をゆく」という旅行記に精力を注いだ・・・司馬さんは行く先ざきで土地に住む人と語り合い、その郷土愛をわがものとして歴史を振り返る近代日本の「古事記」を書いた作家は、じつはつねに「風土記」の筆者であろうと努めていたにちがいないのである。・・・・司馬遼太郎は歴史家であったが、それ以上に文学者であり、詩人であった。歴史家は文明の興亡を眺めていたが、詩人はその底にひそむ地霊の呟きに耳を傾けていたようである。」
          

司馬遼太郎短篇全集・目次-<幕末を舞台にした短篇>
「司馬遼太郎短篇全集七 1963.1~63.6」  奇妙なり八郎/伊賀者/鴨川銭取橋/花屋町の襲撃/猿が辻の血闘/虎徹/割って、城を/土佐の夜雨/前髪の惣三郎/祇園囃子/胡沙笛を吹く武士/上総の剣客/妬の湯/軍師二人/三条碩乱刃/千葉周作

「司馬遼太郎短篇全集八 1963.7~63.12」 逃げの小五郎/海仙寺党異問/死んでも死なぬ/沖田総司の恋/彰義隊胸算用/槍は宝蔵院流/浪華城焼打/弥兵衛奮迅/最後の攘夷志士/四斤山砲/桜田門外の変/菊一文字/英雄児

「司馬遼太郎短篇全集九 1964」 斬ってはみたが/慶応長崎事件/鬼謀の人/人斬り以蔵/薩摩浄福寺党/五条陣屋/侠客万助珍談/肥前の妖怪
喧嘩草雲/天明の絵師/愛染明王/伊達の黒船/ただいま十六歳-近藤勇/酔って候


司馬遼太郎と会津 -鈴木慶治 2023.2.15

-会津や会津人の歴史的なことに、個人的に以前から、関心がありました。それははっきりとした理由あるわけではなく、多分に幕末の様々な物語、逸話の延長戦上から、その興味、関心がきているようです。会津というと、鳥羽・伏見の戦・会津戦争・白虎隊・などからくる、「悲劇の藩」というイメ-ジが強く、それが自分の興味・関心の根元こあるようです。会津藩の「賊軍」という位置づけについても、正当な歴史評価ともいえません。薩長こそが賊軍であったかもしれない。松平容保に対する孝明天皇の信頼は厚かったと聞きますし、さらに容保自身もその帝の信認に応えようとしたといいます。容保自身の中には孝明天皇に対する親和感がありました。年齢もさほど変わらなかったといいます。容保個人の、孝明天皇に対する思いは、尊王という、そういう主義主張のものではなく、きわめて人間的のものであったように思います。孝明帝の死後、さまざまなことがあり、歴史は反転していきます。そして皮肉なことに、会津は反朝廷・「賊軍」の汚名を着せられることになりました。-

-作家、司馬遼太郎は、会津のことを様々な著作の中で書いていて、それらに触発されて関心が高まったこともあります。例えば「歴史を紀行する」「街道をゆく41・北のまほろば」「同33・白河会津のみち」「王城の護衛者」「新選組血風祿」「燃えよ剣」などです。


司馬遼太郎という人は、とにもかくにも動乱、変革の時期が好きなようで、幕末ものには特に魅力的な作品も多いように思います。なかでも会津に関する記述は多い。そこから歴史的な知識を得て、また多分にフィクション的な物語も読んできました。幕末の京都の世情は奇々怪々でした。攘夷、天誅の声がこだましていて世情不安でした。世の中がどう進展していくか、だれの目にも確かな見通しがなかった。逆に変革の時期であるがために確かな見通しが見えなかったと思います。1853年の来航にはじまり、1868年からの1868年の年号が明治にかわる、わずか15年の間だけでも、世相は実に目まぐるしく変転しました。後世に生きていて、本来は歴史を概観できる筈の?私達でも、この時期を理解することは、きわめて困難です。
-来航・外圧-攘夷-開国-粛正・弾圧-尊皇-尊皇攘夷-佐幕-公武合体-大政奉還-倒幕-王政復興-鳥羽伏見-戊申戦争江戸城の開城-幕府瓦解-奥羽越列藩同盟-会津若松城攻撃、白虎隊の自刃8.23-明治に改元9.8明治維新-会津藩降伏9.22-これらのことがわずか15年の間であったとは思えません。-
 以上が順番に沿って流れていったのではなく、その時々で、はなれたり、くっついたりしたから余計に理解を困難にさせました。(例えば会薩同盟・/薩長同盟・ )
※(明治に改元しても、なおも会津は戦場の舞台であり、数々の悲劇の物語が生まれていつたのは周知の事実です。痛恨の思い・悲憤の思いがします。)
○「晩秋の会津盆地ははなやかである。・・列車が会津に近づくにつれ、山々のあらゆる種類の落葉樹が、あらゆる種類の赤とあらゆる種類の黄にいろどられ、それが蒼天の下で映えわたっている。はなやかさと大きさは、日本のどこの景観にもないであろう。
紅葉は京の高雄や嵐山である、というがそれは渓流の対岸から賞でるたぐいの紅葉であり、会津の山々のそれとはちがう。会津の山々の紅葉は人を壮大な色彩のなかにうずめつくしての紅葉である。
 しかしながら会津盆地の華やぎ晩秋にあるというのは、日本歴史のなかの会津藩の運命をいかにも象徴しているようではないか。会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。」 (歴史を紀行する)

○「会津藩について・・・会津藩の初代保科正之は、儒仏のはやる江戸前期にはめずらしく神道家だった。いわば敬虔をもって思想と日常の核としてきた。正之は三代将軍家光の異母弟としてうまれた。信州高遠藩主の保科家で養われ、長じて藩主になり、寛永20年(1643)会津23万石をもらった。他藩にぬきん出て武士道的な藩風、旺盛な新田開発、税制の合理化、備荒精度の確立など、明治維新まで、諸藩の模範とされてきた。
 幕末、幕威が衰え、京都の治安がわるくなった。京の市中に諸国から攘夷浪士が流入してさかんにテロをおこなっただけでく、長州藩が過激派の公家をあやつり、幕府をゆさぶった。幕府はここに、京都守護職というあらたな治安維持機関を置くべく会津藩主松平容保に命じた。このため、容保は"時流の敵"になった。容保は、元来保守的だった孝明天皇の処遇を得たが、しかしながら、たとえば浪士結社の新選組をその傘下に置いたことなどで、討幕派から憎まれた。結局会津は戊辰戦争における最大の標的にされた。戊辰(1868)9月22日、会津鶴ヶ城は落城し、容保は新政府軍に降伏した。会津藩の石高は最末期には45万石とされたが、戦後没収され、下北半島(斗南)に移されたた。石高はわずか3万石だった。もっとも下北半島では米はほとんどとれないために、その3万石も名目にすぎなかった。いわば、会津藩は全藩が流罪になったことになる。」
(街道をゆく・北のまほろば)

○「会津は遺恨の土地であろう。太平洋戦争の敗戦すら戊申戦争の敗戦の深刻さに及ばないという、この土地の怨みは、すでにそれを歴史のなかの過去としてわすれてしまっている、われわれの無邪気さをはげしく嫉妬する。
○「会津人の怨恨は東山温泉の芸者の白虎隊踊りになり、バスガイドの説明になり、新築天守閣となり、いまや怨みもまた観光資源になっているというのが、当節であるが・・・この皮肉は会津には通用しない。怨恨はなお現実の病根として生きているのである。

-激烈な調子で司馬遼太郎は書いています。怨恨-いまなお、というこの記述に驚きます。地元に生活する気持ちの中に、こうした思いは意識的、無意識的にあるのかどうかということです。「長州、薩摩に対しての違和感、選挙でおちた市長、仲なおりはしない、結婚反対、埋葬禁止・・・等々。」

-長州閥という言い方は、現代の政界にあるように思うのですがどうでしょうか。「安部総理」につながる、歴代首相の系譜?をみれば、「ない」とは言えません。


 



個人写真集-鈴木慶治・作成 2015.4.14
表紙の写真は、天草鬼池港 

口之津から鬼池にむかう-早崎瀬戸

ドナルド・キ-ン著作集」キ-ンさんは日本人以上に日本人である。-キ-ンさんは東日本大震災後に日本国籍を取得した。
石川啄木の評伝-「著作集第15巻」所収-はキ-ンさん93歳時の作品である。(ドナルド・キ-ン 1922-2019)

「日本で最も人気があり愛される詩人であった30年前に比べて、今や啄木はあまり読まれていない。多くの若い日本人が学校で「古典」として教えられる文学に興味を失ったからだ。テレビその他の簡単に楽しめる娯楽が本に取って代わった。・・啄木の絶対な人気が復活する機会があるとすれば、それは人間が変化を求める時かもしれない。地下鉄の中でゲ-ムの数々にふける退屈で無意味な行為は、いつか偉大な音楽の豊かさや啄木の詩歌の人間性の探究へと人々を駆り立てるようになるのではという期待を抱かせる。・・・」

「ロ-マ字日記を読んでいて我々が感じるのは、その描かれた真実に対する称賛の気持ちと、数々の失敗を重ねることにさえ親近感を覚えてしまう一人の男(啄木)に対する愛着であろう。その男の陥った窮境は、時代や不運のせいというよりは自分の身勝手が招いたものかもしれない。しかし最終的には我々は、それがたぶん天才である一人の詩人に不可避なものとして、その身勝手さを受け入れる。・・・おそらく啄木は自分がすでに散文の傑作「ロ-マ字日記」を書いていることに気づいていなかった。」

-啄木は絶えず小説家として成功する妄想に囚われていて、病気と称して社を休み机に向かっていたという・・やがて自分が小説家としては失敗者であると認めざるを得なくなる。明らかに小説は書く手段として啄木にふさわしいものでなかった。本人はあくまで「小説第一」で短歌(後年啄木の評価を高めた)作りに重きを置いていなかったというのは驚きである。赤裸々に自身のことを書いた散文が、キ-ンさんば傑作であるという。-鈴木

「著作集」の全てに日本文学に対するキ-ンさんの深い洞察、共感を読み取ることが出来る。啄木についても「啄木の思想は詩人として珍しいが、独創的ではない。その芸術は独創的であるばかりでなく、日本近代文学の一つの絶頂である」と言う。この場合の芸術というのは啄木の日記「林中日記」をさしている。これは啄木といえばまず短歌がうかぶ。日記は作品以外の個人的なものと思っていた自分には意外であった。鈴木

最終章-から P.516
「千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ啄木・・は自分の知的かつ感情的生活の自伝として使った。・・・啄木の日記を読むことは、単なる暇つぶしとは違う。これらの作品が我々の前に描き出して見せるのは、ひとりの非凡な人物で、時には破廉恥であっても常に我々を夢中にさせ、ついには我々にとって忘れ難い人物となる。・・・」

石牟礼道子の作品  

世界文学全集「苦海浄土」石牟礼道子 月報 池澤夏樹
「多少の文才のある主婦が奇病という社会現象に出会い、憤然として走り回って書いたノンフィクション、などという軽薄な読み方をするのなら最初から読まない方がいい。まずもってこれは観察と、共感と、思索と、表現のすべての面に秀でた、それ以上に想像と夢見る力に溢れた、一個の天才による傑作である。読むたびにどうしてこんなものが書き得たのかと呆然とするような作品である。」
「かつて水俣が・・幸福な地であったことを知るには同じ作者による「椿の海の記」という本を読むのがい。幼年時代の「みっちん」のふくふくと幸せなようすが、豊穣な自然や巷の賑やかな話題とともに記されている。」

「椿の海の記」第一章 岬
春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽がそのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。大崎ケ鼻(ウサギガハナ)という岬の磯にむかってわたしは降りていた。やまももの木の根元や、高い歯朶シダの間から、よく肥えたわらびが伸びている。クサギ菜の芽や、タラの芽が光っている。ゆけどもゆけどもやわらかい紅色の、萌え出たばかりの楠の林の芳香が、朝のかげろうをつくり出す。晩春の鳥の声がきこえてくる。・・・・

「苦海浄土」第一章 椿の海  
 繋がぬ沖の捨小舟
生死の苦海果てもなし
山中九平少年
年に一度か二度、台風でもやつて来ぬかぎり、波立つこともない小さな入り江を囲んで、湯堂部落がある。湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中にどぼんと落ち込んでみたりして遊ぶのだった。夏は、そんな子どもたちのあげる声が、蜜柑畑や、夾竹桃や、ぐるぐるの瘤をもった大きな櫨ハゼの木や、石垣に間をのぼって、家々にきこえてくるのである。

「葭の渚」石牟礼道子自伝 第一部
1  水俣の栄町での日々
昭和二年三月 天草宮野河内に生まれる
もの心ついたのは水俣の栄町である。松太郎、すなわち母方の先祖は、天草上島の下辺、下浦である。祖母は隣の金焼、父亀太郎は天草下島の西海岸、下田温泉の山奥、「福連木フクレギの子守歌」のそばで生まれた。父の言によると、「馬も谷底にころがり落ちるようなけわしか山の奥」だそうで、そういうところから出郷して来た人生をお前などにわかるかというのが父の想いだったろう。

福永武彦の作品

丸谷才一
「初対面(昭和28年)の翌年の4月、「草の花」の署名本が送られてきた。この長編小説をわたしは寝ころんで読みはじめ、数ペ-ジで起き上がったことをいまだに忘れられない。それは隅々まで神経のゆきとどいた濃密な文章のつらなりによってわたしを打ったのである。戦後、新しい世代の長編小説で、その文章がわたしに感銘を与えたのは、ほかには大岡昇平の「野火」があるだけであった。そこにはまさしく、日本の風土に適用された西欧的長編小説の方法が見事に達成されてゐた。それは規模の小さなものではあったにしても、しかしじつに完成度の高い作品であるとわたしには感じられたのだ。・・・福永さんが亡くなられたと聞いてわたしがまづ「草の花」を読んだのは、かういふいきさつがあったせいである。そして20数年ぶりの「草の花」は、期待にたがはぬどころか、わたしが前に読んだよりももっとすぐれた長編小説だつた。最初のときもすっかり感心したのに、再読の印象は、いつたい昔のおれは何を読んでゐたのかと思ふくらゐだったのである。・・・世間では福永武彦と来ればフランス文学とか文人趣味とかさういふ枠のなかにはめこんで、それで判ったやうな顔をしてゐるし、実を言へばわたしもさふいふ理解のし方をしてゐたふしもある・・・。福永さんには文学それ自体について教はったことはもちろんだが、生活上でのあれこれでも、常に優しい先輩であった。」-丸谷才一全集10深夜の回想から
辻邦生
「福永武彦氏は私が実際に知っているごく少数の作家の一人である。「草の花」を完成した直後の時期から「忘却の河」を書く8,9年間、私は毎週のように氏と勤務先の大学で顔を合わせていた。・・・作家の実体に触れられるということは幸福な側面だと言えるかもしれない。・・初期詩編や短編・処女長編「風土」などから受ける感じとは異なった、もつと別の野性味さえ帯びた氏を発見して何度か驚かされたものであった。・・福永氏は終戦後の苦しい時期にながい闘病生活を経験しているし、私がはじめて会ったころも病気がちだったように記憶するが、その与える印象はいわゆる蒲柳の質というのにほど遠くむしろ強い精神力が弱々しい肉体をこえて図太く歩きまわっているという感じだつた。こうした精神の把握力の強さは福永文学の一つの重要な特色なのである。」 辻邦生エッセ-集 「海辺の墓地」 書架から 愛の孤独について

「沈黙」-まえがき  遠藤周作
-ロ-マ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたフェレイラ・クリストヴァン教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである。この教父は日本にいること33年、管区長という最高の重職にあり、司祭と信徒を統率してきた長老である。稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも上方地方に潜伏しながら宣教を続けてきた教父の手紙には、いつも不屈の信念が溢れていた。その人がいかなる事情にせよ教会を裏切るなどとは信じられないことである。教会やイエズス会でも、この報告は異教徒のオランダ人や日本人の作ったものか、誤報であろうと考える者が多かった。-   昭和41年3月30日 新潮社発行

吉本隆明の作品
学生時代に友人に唆されて吉本作品を手元においたが、ともかく難解で、文字通り手も足も出なかった。家族のこととか身近な内容の著作にふれたことで、ようやく親近感をおぼえたものである。吉本ばななさんのお父さんである。画面の左に「吉本隆明全著作集」もあるのだが、遠慮してかすかに写してある。

土門 拳の作品

土門拳・(1909-1990)はいうまでもなく、戦前から戦後にかけての日本を代表する写真家である。そしてまた多くの著作を後世に書きのこしてくれた文章家でもあります。ひとことでいえば土門拳という熱血漢が書いた、読む者の心にその思いがストレ-トにとどく本です。-鈴木慶治
「死ぬことと生きること」-まえがき 1973年 11月
○「ぼくの数十年間書きためた原稿の一部が今度本になって諸君の目にとまることになった。古い原稿がどれほどの価値をもつか、ぼくは知らない。古い原稿に対して諸君がどれほど興味をもつか、ぼくは知らない。しかし、諸君の目に止まることになった現在、なるべく故郷を忘れないと云うことと同じ様に、深い興味をもたれることをぼくは心から期待している。古い原稿でもあたたかい血の通ったように新鮮な興味をもつことを望んでいる。
昔を思えば実にさまざまなことがあった。ぼくは若かった。その若さにまかせて自分の若さを前面に押し出すように自己顕示欲が非常に強かった。それは今から考えると馬鹿馬鹿しいほどであった。その強さが前面に押し出すようないやらしさが、その時分の意見なり仕事なりに露骨であった。しかし、それはそれでいいとしなければならないだろう。自己顕示欲はぼくの年と共に後方に押しやられた。昔は「鬼の土門」と云われたが、今は皆が「仏の土門」と云うようになった。・・・それは単に老いて若さがなくなったからと云うわけではない。ものに対して吟味する力が強くなったからである。ものに対して思考力が出てきたと云うことである。しかしガムシャラに自分の考えを表面に押し出して考える考え方、年をとった現在では考えられないほどの良さがある。若い者には若い者だけの考えの強さがある。・・・」
○-ぼくの名前
「ぼくの名前はドモンケンと読むのである。郵便局や銀行で、よくツチカドさんと呼ばれたりするが、ドモンが本当である。ペンネ-ムだろうと思っている人もいるらしいが、正真正銘の本名である。ぼくはまた、インドネシヤか沖縄県人かと間違われたこともあるが、山形県生まれの正真正銘の東北人である。ぼくは御飯、つまり、米の飯が大好きである。困ってしまうくらい好きなのである。豆腐の味噌汁が一番好きである。パンは閉口゛ある。・・・日本人としてのぼくは、どこの国よりも、日本が大好きである。そして日本的な現実に即して、日本的な写真を撮りたいと思っている。」
○-略歴
「明治42年10月25日、土門熊造の長男として、山形県酒田町(現酒田市)に生まれた。父は会社員、母は看護婦であった。父母が北海道などへ出稼ぎに行っている間、祖父母の許で育てられた。祖父母の家も貧しく、孤独な淋しい幼時であった。6才か7才の時に、借金取りに責められている祖母の涙声を障子のかげの炬燵の中で聞きながら"貧乏だからだ、貧乏だからだ"と蒲団をかんで口惜し泣きに泣いた記憶がある。しかし、外に出れば、町の人を閉口させる餓鬼大将であった。伯父の話によれば、ぼくが町の角に立って"集まれ"と叫ぶと、同じ年頃のこどもから、もう小学校へ行っている年上の子どもまでゾロゾロと集まってきたそうである。そのチャンバラごっこのために家の物干竿を持ち出しては何本もなくしたものである。夕方家に帰って、祖母に物干竿をさがしてこないと御飯をたべさせないぞと叱られ、もう暗くなった町へさがしに出たものの、物干竿はきまってなかったという記憶がある。小学校へ上る春、東京にいる父母の許へ引き取られた。・・・東京は谷中の万年町という有名な細民街にあった。谷中から麻布の飯倉に・・飯倉から横浜へ引っ越した。すべて父の勤務先の関係で・・・小学校も中学校も横浜で卒えた。・・ぼくは小学校時代から画家志望であった。中学を出たが、家が貧しく、すぐ働かなければならず、逓信省の日雇になり・・・常磐津三味線引きの内弟子になったり、弁護士事務所の事務員になったりした。日大専門部法科の夜学にはいったが、学校へはろくに行かず、二年ばかりでやめた。結局、二十四才の時、母の遠縁に当たる、上野池之端の宮内幸太郎先生の写場の内弟子になったのが、ぼくが写真をやることになった端緒である。それれまでにカメラを持ったことは一度もなかった。」

ロバ-ト・キャパ 

以下、ロバ-ト・キャパ(1913.10.22-1954.5.25 享年40歳)のことである。
エンドレ・エルネ-・フリ-ドマン(キャパの本名)は、ハンガリ-、ブタペストに生まれた。丸々と太り、元気がよく、健康そうで、顔の色は浅黒く、黒い眉と大きな瞳を持つ、一見ジプシ-の子のような赤ん坊であったという。ユリアはエンドを溺愛し、この子がどれほど可愛らしく利発であるかをしょっちゅう友人に話していたという。-「キャパその青春」
イングリッド・バ-グマンとの世紀の恋物語(1945-1946)は、うたかたの夢泡の如く消えてしまったが、キャパの残した数々の戦場写真は歴史に残った。その伝記も多く、破天荒で常識外れたところもあるが、気取りのない人間だったようだ。付き合った女性は美女ばかり、それもとびっきりの美人であった。女性になぜかとても好かれた。-鈴木
リチャ-ド・ウィ-ラン著、「キャパその青春」沢木耕太郎訳 P.11-15
「父親のデジェ-・ダ-ヴィド・フリ-ドマンは貧しいユダヤ商人の息子として1880年、西トランシルヴァニアの小さな村で生まれた。母親ユリアンナ・ヘンリエッタ・ベルコヴィッチは1888年の生まれである。両親は極端に異なる個性の持ち主で、母ユリアは頑健さと強固な意志と勤勉さを持つ-やり手の女性で、自分の家族には不自由のない暮らしをさせるのだ、という固い決意を抱いていた。成功したファッション・サロンの女主人として、彼女は有能で魅力があり賢く、顧客からは愛され、使用人からは信頼されるという、非常に優れた女性経営者だった。父デジェ-はサロンの共同経営者で、きゃしゃで小粋のある男だつたが、責任感のあまりない楽天家で、カ-ド遊びのため仕事場から早く抜け出し、遅くまで外にいる口実を見つけ出すのが得意だった。ユリアは物を手に入れるためには働かなければならないという信念を持っていたが、デジェ-は魅力や機知や縁故や調子のよさの方が一生懸命働くよりはるかに重要だと信じていた。・・・これらの資質は、キャパの人生において、彼の内部で激しくせめぎあうことになる。ユリアの父ヘルマン・ベルコヴィッチは写真によるとハンサムで知的な容貌の靴屋あった。また父親のデジェ-もユリアが知り合った若い頃はハンサムで魅力的であったという。」
キャパのハンサムな容貌は母方の祖父、実父譲りか。そして世の中をうまく渡っていくという能力、話をことさら面白くするという能力も父から受け継いだといえそうだ。そうすると母マリアからの資産は何だったのだろう。キャパへの深い愛とこたえるしかない。-鈴木慶治

ロバ-ト・キャパの写真 戦争の生んだ深い悲劇がここにもある。
ドイツ協力のフランス人女性-シャルトル・フランス 1944.8.18 ドイツ軍兵士とのあいだに子どもをもうけた若い女性頭をそられて嘲笑をあびながら帰宅させられる。この女性はドイツという国家に協力したわけではない。個人的にドイツの青年に恋して子をなしたと思いたい。国家間の「正義と悪」は個人の生活にはあてはまらない。その是非を問うことも出来ないと思うが・・・。-鈴木
女性が抱えた子どもは三ヶ月の女の子であったという。-沢木耕太郎著「キャパへの追走」P.248には「女性は家に戻ったあとで収容所に入れられ、シャルトルを十年間離れることになる。十年後にまた戻ったが、町の人に相手にされないまま四十代の半ばで死ぬ。その後、娘に成長した子はパリに去ったが、いまでも「そのこと」についてはひとことも語ろうとしない」。 

うずくまる女 1938.6-9 漢口、中国

激しい戦闘のあとのマドリ-ドの町で遊ぶ子ども マドリ-ド スペイン 

部隊が養子にした戦災孤児と一緒にすごすアメリカ軍兵士 イギリス、ロンドン 1943.1-2

キャパの撮った写真には、むごい戦場場面だけではなく、日常の子ども達を写した写真も少なくない。

1949年 インディアナ州 アメリカ 野外の劇場でショ-を楽しむ子どもたち。

1954年4月 日本の新聞社の招きで日本を訪れたキャパは、滞在した三週間で日本各地を訪れ多くの作品を残した。
同年5月、日本を発ってインドシナに向かったキャパは、5月25日-ヴェトナム、ナムディンで地雷を踏んで命をおとす。40歳だった。
「最愛の母さん。東京で誕生日のお祝いの手紙を書きました。・・・いまようやくその手紙とプレゼントを船便で送ったところです。
-東洋は実に美しいところです。-・・・インドシナにいるのはほんの2.3週間程度で、月末には東京に戻ります。・・・母さんの予定を教えてください。体に気をつけて。愛をこめて -あなたの息子  キャパ
キャパが東京に戻ることはなかった。そしてこれが母にあてた、最後の手紙となりました。
「日本に来たキャパは、どこでも大歓迎された。彼は満足して語った「日本はカメラマンの天国だ」と。京都、奈良、大阪、神戸、尼崎に足を伸ばし、行った先々で子どもたちにレンズを向けたという。  キャパの研究者- リチャ-ド・ウェラン
 下の写真  焼津 静岡「働く母親と子ども」 

四天王寺 大阪 1954.5

1958 モスクワ ホリショイ・バレエ学校 <コ-ネル・キャパ>

コ-ネル・キャパ-戦後50年展で兄を語った言葉  「キャパ兄弟 子ども達の世界」から
「兄のロバ-ト・キャパは自分の人生を精一杯生き、精一杯に愛しました。生まれた時も、亡くなった時も、無一文でした。唯一残したのは、ユニ-クな旅の物語と、人間はどんな困難にも打ち勝つとが出来るのだという証言です。」

椎名誠   

このフォトアルバムはぼくの写真関係の本の30冊めぐらいになるもので、それらの多くはシベリアとかパタゴニアとかメコン川とかアマゾンとか、まあ基本的にはそれぞれ目的を持ってけっこう期間、旅したときの写真が中心になっている。このなふうに横断的、いや縦断的にか、「時」「場所」も関係なく、自分の人生写真日記のように構成してあるのははじめての本です。




須賀敦子 1929-1998 翻訳家(日本文学のイタリア語翻訳・紹介)、書評家、エッセイスト、詩人、大学教授・・・

「遠い朝の本たち」-まがり角の本たち-少女時代の本とのかかわりを回想して-須賀敦子の言葉
「何冊かの本が、ひとりの女の子の、すこし大げさにいえば人生の選択を左右することがある。女の子は、しかし、そんなことに気づかないで、ただ吸い込まれるように本を読んでいる。自分をとりかこむ現実に自身がない分だけ、彼女は本にのめりこむ。その子のなかには、本の世界が夏空の雲のように幾層にも重なって湧きあがり、その子自身がほとんど本になってしまう。

このほんの数行だけで、須賀敦子が書いた他の文章が読みたくなってしまうのはなぜだろうか。-鈴木慶治

「須賀敦子の旅路・大竹昭子/文春文庫・はじめにから
最初の著作(ミラノ霧の風景)が世に出たのが1990年で、須賀敦子61歳。69歳の時にはすでにこの世を去っていた。作家活動はなんと10年にも満たない。生前に出た本も5冊。にもかかわらず没後には・・全集9巻が刊行された。前代未聞の出来事と言えるが、それは作品の中にこの人はいったいどういう人だろうと想像させるものが潜んでいるからであり、人物への関心なくしては考えられないだろう。・・・どうやら、須賀敦子という人は、人々の心にある一言で言い尽くしがたい部分を腑分けして、引き出してしまうところがあるようだ。単に文章がすばらしいだけではこうはならないだろう。作品のなかにたしかな声をもった人々がいて、彼らの声が読む人を励まし、刺激し、生きることの深遠さについて考えさせる。それは、回想記でありながら自分のことを声高に語らず、むしろ自身を後退させて人間ぜんたいのことを綴ろうとする意志のこもった慈しみから来ているように思われる。もしかしたらこれは、60を過ぎるまで「私」を押し出すことがなかったゆえに獲得できた視点かもしれない。世間のしがらみから一歩引いて物事を見つめる彼女の眼差しには、自分のことに奔走したり、やるせない出来事にに汲々としたりしている私たちの呼吸を深くしてくれる不思議な作用が感じられる。

須賀敦子・「国語通信」-「父の手紙」から-
「本に読まれる」といって、私はよく母に叱られた。また本に読まれている。はやく勉強しなさい。本は読むものでしょう。おまえみたいに年がら年中、本に読まれていてどうするの。そういうふうに、このことばは使われた。何年もたってから、母が若いとき、そういって祖母に叱られたのだと聞いて、笑ってしまった。われを忘れて読書に没頭する、という意味だったのだろうけれど、母は、なにか主体性のないこととして、批判的なニュアンスでこの表現を用いたので、私は「本に読まれる」のははずかしいことだという意識をもった。」

「戦禍の記憶」 2019年4月3日 第1刷  株式会社クレヴィス発行
「大石芳野さんの写真を見ていると、いつもその人物、風景の背後にあるその人の人生、風景の歴史を実感する。ときに一枚の写真から眼を離せなくなる。この人はなぜこのような傷を負っているか、この風景が今に至るまでにどのような歴史が刻まれているのか、と考え込む。むろん簡単に結論はでない。しかしある事実だけは理解できる。それはこういうことだ。<これは全て人間の所業である>。天災ではなく人災なのである。そのことに気づいた時、私たちは写真に収められている人物は、私たち自身であり、風景は私たちの見る風景そのものであると確信することになる。そして私は、記憶、記録を父母として、教訓という子どもを産まなければならないとの考えに辿り着く。・・・想像力は一枚の写真から無限に広がって行くのだが、その広がりを拒否したき、あるいは想像力そのものを持たない社会に進んでいく時に、再び戦争の時代が始まるということになるのだろう。戦争体験や戦時の兵士の体験を聞いていて、私は次第に私自身が彼ら悲惨な、あるいは非人間的な行為の苦しみを共有することになった。加害、被害にかかわらず、戦禍の記憶や記録を次代に伝えようとすることは、つまりその役を引き受けた瞬間に彼らと共に懊悩も侮恨も、そして自省も引き受けるとの覚悟が必要とされることに気づいた。・・・」  歴史の記憶を共有する想像力  保阪正康

「長崎の痕」 2019年4月10日 第1刷 藤原書店発行
「ここに写っている人たちはほとんどお年寄りだ。けれど単に歳をとった人たちを集めたのではない。この人たちはあの日、まだ子どもだった。赤ちゃんだったり、若者だったり、さらにお腹の中にいたり・・・・。そうした一人ひとりに、70年以上の歳月が経った。そしてみなお年寄りになった。あの日あの瞬間がなければ、子どもは元気よく走り回ったろうし、赤ちゃんは母の胸に抱かれたろうし、若者は青春を謳歌しただろう。恐怖をその身に植え付けられた彼らは、家族や親しい人たちが次々にに亡くなる様を眼ニし、苦しみや嘆きも幼い耳で聞いた。怪我も無く火傷もしなくて喜んでいた人も、見る見るうちに様態が悪化して、遠いところに逝ってしまった。365日×70余年、毎日、毎日、次は自分かもしれないという不安にさいなまれててきた。なぜ自分ではなくあの人が先に旅立ったのかとも思う。たぶん生かされているのだろう。見た目は元気そうで、心も体も闇のように暗くてぼろぼろになった。もはや老年に至った彼ら一人ひとりと向かい合い、あなた自身やあなたの大切な人と重ねて見てほしい。」
  あの日、子どもだった。  大石芳野