エピソ-ド
『砂の器』製作以前に、橋本忍脚本・野村芳太郎監督のコンビは、『張込み』『ゼロの焦点』の映画化で松本清張から高評価を得ていた。『砂の器』を連載するに当たって、清張は二人に映画化を依頼している。しかし、送られてくる新聞の切り抜きを読みながら、橋本は「まことに出来が悪い。つまらん」と映画化に困難を感じるようになり、半分ほどで読むのを止めてしまった。しかし清張自らの依頼を断るわけにもいかず、ともかくロケハンに亀嵩まで出かけて行った。そこで後述する山田洋次とのやりとりがあり、帰京した後、わずか三週間、宿に籠っただけで脚本を書き上げた。後に橋本は「父子の旅だけで一本作る。あとはどうでもいいと割り切っていたからね。手間のかからん楽な仕事だった」と述べている。しかし、野村芳太郎が旅のシーンを撮り始めた矢先、企画はいったんお蔵入りになってしまう。当時の松竹社長・城戸四郎の命令によるものだという(予算が膨大にかかることが予測された上、「大船調」を確立させた城戸が、殺伐とした刑事映画を好まなかったことなどが反対の理由だといわれる)
橋本忍の父親は亡くなる直前、橋本のシナリオ2作品を枕元に置いていた。(橋本の妻が父親にシナリオを送っていた)その作品とは「切腹」と、その時点では映画化が宙に浮いていた「砂の器」だったという。そして、「お前の書いたホンで読めるのはこの2冊だけだ。出来がいいのは『切腹』の方だが、好きなのは『砂の器』だ」と言い、「砂の器」が映画化されれば絶対当たると述べたという。これが橋本忍に映画化を決意させるきっかけになった
橋本忍は松竹に『砂の器』の映画化を断られた後、東宝、東映、大映に企画を持ち込むが、いずれも「集客が困難」という理由で断られている。業を煮やした橋本は、ついに製作のため、1973年に「橋本プロダクション」を設立した。野村芳太郎も「どうしてもこれを撮りたい」と希望したことで、当時東宝の製作の担当重役であった藤本真澄が橋本忍と話し合い、東宝での『砂の器』製作を内定、野村芳太郎も「松竹を離れてもやる」としていた。
本映画の脚本を橋本と担当した山田洋次は、シナリオの着想に関して、以下のように回想している。「最初にあの膨大な原作を橋本さんから「これちょっと研究してみろよ」と渡されて、ぼくはとっても無理だと思ったんです。それで橋本さんに「ぼく、とてもこれは映画になると思いません」と言ったんですよ。そうしたら「そうなんだよ。難しいんだよね。ただね、ここのところが何とかなんないかな」と言って、付箋の貼ってあるページを開けて、赤鉛筆で線が引いてあるんです。「この部分なんだ」と言うんです。「ここのところ、小説に書かれてない、親子にしかわからない場面がイメージをそそらないか」と橋本さんは言うんですよ。「親子の浮浪者が日本中をあちこち遍路する。そこをポイントに出来ないか。無理なエピソードは省いていいんだよ」ということで、それから構成を練って、書き出したのかな」
クライマックスの「父子の旅」の撮影は、橋本忍と橋本プロダクションのスタッフ総勢11名の少人数で行われた。これは松竹のスタッフを使う場合、俳優が出る場面には労働条件としてスタッフ全員が付くという決まりがあり、予算が高騰化する虞があったためである。そうした独立プロによる製作が、四季の長期撮影を本邦で初めて可能にした。しかしそうして撮影した膨大なフィルムを、橋本は自らの手でわずか十分にまとめ、脚本にも書かれ、実際には録音していた台詞も全てカットしてしまった。橋本はその理由を「映像を見る光の速さより、音の速さはかなり遅い。セリフが入ると観客はその意味内容の解釈に気を取られて、画に没入できなくなる」と説明している。
○40年来の友人・Aさんから最近届いたメ-ル文。(本人の許可を頂いた上で)以下にご紹介します。2021.1.16
「砂の器-忘れられないエキストラ体験」
-「砂の器」は、私にとっても忘れられない映画🎥です。大学時代、寮にバイト放送が入り、それが砂の器のエキストラのバイトでした。当時、映画にはまっていたのですぐに飛びつき友人と応募しました。加藤剛がピアニストとして成功し、コンサートをするシーンの聴衆役のエキストラです。浦和の埼玉会館で映画ロケがあり150人ちょっといたでしょうか。助監督の指示で拍手の仕方を教わり一部のエキストラはスタンディンクオベーション。コンサート会場を満員(千人以上)の聴衆に見せるためエキストラの人達は、指示に従って会場の前の方に座ったり2階席に座ったり会場を右に左に前に後ろに移動して拍手し、満員の聴衆に見せるのです。私も撮影前半に前列前から5列目辺りの中央付近に座り拍手しました。完成した映画を見ましたが、薄暗いのとピントが加藤剛に合わせてあるので聴衆の顔は良く分からずでした。でも、とても貴重な体験をしました。ピアノを弾くシーンは、手元を写す時はプロのピアニストが弾き、上半身を写す時に加藤剛に切り替わるのです。加藤剛がさも上手く弾いているように出来て監督のOKが出た時は、コンサート会場の他のプロ演奏家達が楽器を持っているせいでしょうか
全員が足を踏み鳴らして拍手がわりに讃えるパフォーマンスが、新鮮で私達エキストラの皆も思わずつられて👏拍手喝采でした。砂の器は、清張の傑作の中でも映画と共に歴史に残る作品だと思います。僅かですがその作品に参加出来たことは、私の数少ない自慢のひとつです。懐かしく思い出しました。
鈴木慶治-Aさんは、自分とほぼ同世代です。ある時期に映画にはまっていたのが、ふたりの共通事項?でしょうか。ある時期、同一の職場で仕事もしました。当時も今も加藤剛に似ていて、好男子です。別のペ-ジにもAさんの「映画の思い出」を掲載してあります。<映画紀行Ⅲ>
○Tさん(2017年5月21日-26日・偶然に北海道の旅でご一緒になり、以来3年にわたり交友を続けさせて頂いてます)-からの「砂の器」に対するメ-ル文は以下の通りです。映画紀行ⅢにもTさんからのメ-ルを掲載してあります。Tさんも偶然同世代で同業でした。
-情報有難うございます。前にも書きましたが「砂の器」は私の中の邦画No.1の作品です。橋下忍さんのお父さんがいなかったらこの映画はもしかしたらもっと違った作品になっていたかもしれないのですね。それと松本清張の発想に驚くばかりです。以前読んだ本で題名が出てこないのですが最初の何気なくすれ違った人が事件に深く関わってくるというのを読んだ記憶があります。これもうろ覚えですが。「砂の器」もテレビで何回かドラマ化されましたがやはりこの映画が最高です。ハンセン病という設定が今の時代では扱えないのでしょうかね。あの親子が放浪するから意味があり引き離されるから意味がありそれを隠そうとするから意味がある。千代吉を病院へ訪ねていったシーンはすごく怖かったのを覚えています。話は変わりますが島田陽子が流産をするシーンは確か私の勤務先のすぐ側の踏切で撮影されたと思います。
私は1月の連休・土日はビデオに撮ってあった「充電させてもらえませんか」を見ていて旅の気分を味わっていました。早く本物の美しい景色が見たいですね。
脚本家・山田太一の言葉。(昭和33年から40年まで松竹大船撮影所で助監督時代をおくる。-木下恵介監督につく)
-映像作品が独自の力を持つのは、テ-マや物語や台詞を乗り越えて、何かを掴んだ時のはずである。・・・私たちの認識が、言語化出来る領域にとどまらず、「いわくいいがたい」曖昧で複雑で多層な現実を「いわくいいがたい」まま言語化せずに、まるごと意識化出来る可能性を持つのが映像の世界である。しかし、映像をそのようなものとして遇する作品は、まことに少ない。 「昭和を生きて来た-残像のファルム」
鈴木-過酷な「親子放浪」の場面には、親子の台詞がほとんどない。そのため「映像だけで語る」良質な部分を、私たちは共有できたと言っていい。音楽の効果的な使い方も見逃せないだろう。ハンセン病の扱い方は確かに難しいと思う。伝染するという誤った病認識が差別・隔離を生んだことは間違いの無い事実である。テレビドラマ化にあたって、親子の放浪がその病以外の要因にあったということになれば、本浦千代吉-秀夫親子の漂白、流浪・乞食生活は全く別な趣を呈することになる。そして三木巡査殺害の動機は、「親子の宿命を断ち切る」とは言えなくなるがどうだろうか。テレビドラマから受ける感動が、俳優さんたちの熱演にもかかわらず、映画に比べて薄く感じられるのは、親子の放浪の必然性が甘く、リアルな事実からはなれたドラマになったからだと思うが・・・。
「複眼の映像」-私と黒澤明 2006.6.25 文藝春秋発行
橋本忍にとっての野村芳太郎・黒澤明-「複眼の映像」から
「私が書いた単独脚本の監督としては、野村さんがズバ抜けて数の多い最多のの7本になる。私の知る限りの映画の世界、交際の範囲では、この野村さんほど頭脳明晰で先見性の鋭い人はいない。・・・私はこの野村さんのことで松竹の本社に呼び出され、城戸社長に愚痴られ、さんざ非難されたことがある。・・・<ぼくはここ、1.2年のうちに、野村を撮影所から引き上げ、本社の制作本部長に据えるつもりだったんだ・・・僕の後釜には彼・・松竹の屋台骨を背負うものは、彼しかほかにいないと思っていた・・・ところが君が、彼に独立プロ形式の「砂の器」を撮らせ、彼から管理者の気持ちを失わせ、生涯監督の一人にしてしまった。・・・おかげで、松竹は将来の大黒柱をなくしてしまった>・・・野村さんにとって、私・・・この私はいったいなんだったんだろう?・・・」橋本
「黒澤明には「持ち唄」(その人特有の語り口とか、話の抑揚みたいなもの)がある。背筋を伸ばし畳の上にキチンと正座し、遠くを見る目付きで無意識の軽い手拍子で歌い続ける。歌詞は土着性の強い秋田訛りで一言も分からないが、声には艶と張りがあり、歯切れがよく、ダイナミックで、陽気で、調子がよく、そのくせどこかに雪国の仄かな哀感がある-その「持ち唄」は「秋田民謡」である。・・・・彼の歌う「秋田民謡」は、彼にしか歌えない彼特有の黒澤節なのである。」橋本
(野村芳太郎の言葉)
「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです。・・・そんな男に会い「羅生門」なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めて賞など取ったりしたから・・・映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになってしまったんです・・・彼の映像感覚は世界的なレベルを超えており、その上、自己の作品をさらに飛躍させる、際限もなく強いエネルギツシュなものに溢れている。だから純粋に映画の面白さのみ追求していけば、ビリ-・ワイルダ-にウィリアム・ワイラ-を足し、二で割ったような監督になったはずです。ビリ-・ワイルダ-よりも巧く、大作にはワイラ-よりも足腰が強靱で絵が鋭く切れる。世界中の映画ファンや、我々をゾクゾクさせたりワクワクさせたり、心の底から楽しませる(世界的な監督に)・・・橋本さんはそうは思いませんか?」 野村
「私は目の前がクラクラした。野村さんの言っていることにも一理あるが、どこか衒学的であり、肝心な点が間違っている。なにか言おうとした。だが言葉が出なかった。それは-極寒の本州北端の八甲田山系で、吹雪を3年間追った「八甲田山」が完成、東宝の映画館系列で公開し、記録的な大当たりを取った年-昭和52年(1977年)の年の暮が迫った日のことである。」橋本
鈴木-作品を生み出した制作側の監督・ライタ-もまた作品以上に「業の世界」に生きている。砂の器-八甲田山-橋本忍-黒澤明-野村芳太郎と繋がる人物の糸は、これもある意味で、映画人としての「宿命の糸」と言ってよいか。
テレビドラマ-「砂の器」・映画公開から37年後-2011年9月10日/11日 テレビ朝日系列で放送
鈴木-
魅力的な実力のある俳優さん達が揃った、見応えのあるドラマであるが、惜しむらくは、37年前に「映画・砂の器」が公開されていたということである。比較して見てしまうのは辛い。親子が放浪するシ-ンも、映画版を意識しすぎなのか、ドラマ独自の感動も今ひとつ伝わってこない。女性記者の登場は映画にはないこと。その記者が吉村巡査の恋人役という設定。そして必要以上に事件捜査に加わるという不自然さ。映画版「純粋・熱血漢巡査」の森田健作演じる吉村巡査とちがい、捜査に向かう以外にふたりの恋への行方?が気になるのは自分だけか。焦点が定まらない。
-以上、勝手な個人的な思いである。
監督「黒澤明」脚本「橋本忍」・「羅生門」1950年・
監督「黒澤明」脚本家「橋本忍」による「七人の侍」1954年 ・志村喬
橋本忍はこう語る-「複眼の映像」から
-私は黒澤さんの映画で、なにが一番面白かったかと訊かれると、何の躊いもなく「七人の侍」と答える。もし一番好きな作品はと訊かれると、
「夢」と答え、それに付け加える。「映画監督の遺書としてはは、これ以上はない最高の作品です。
「七人の侍」が封切られた時は、その年1954年のベストテンの一位ではなかった。だが二十世紀が終わり、過去百年間の映画百選となると、封切られた年の順位などはケシ飛び、一位は「七人の侍」である。-
鈴木補足- 1954年のベスト10は、1位「二十四の瞳」2位「女の園」3位が「七人の侍」である・・・・キネマ旬報ベストテン調べから。
「羅生門」は1950年の第5位。「生きる」は1952年の第1位である。
1999年のキネマ旬報「オ-ルタイムベスト100」・映画評論家、映画スタッフ対象のアンケ-ト調査結果。
1位 七人の侍 2位 浮き雲 3位 飢餓海峡 4位 東京物語 5位 幕末太陽伝 6位 羅生門 7位 赤い殺意 8位 仁義なき戦い 二十四の瞳 10位 雨月物語 11位 生きる 西鶴一代女 13位 切腹 ・・・・26位 砂の器
自分がこれぞと思った映画に本来ランク付けなど意味などないのかも知れない。 -いいものはいいのだから・・・。
木下恵介監督・高峰秀子主演の「二十四の瞳」と「七人の侍」は奇しくも1954年と同年の公開
・鈴木 (どちらが上かどうかなど何の意味もないと思うが・・・)。個人としてはどちらもベスト1である。
「複眼の映像」橋本忍 著 -第二章 黒沢明という男-から
「黒澤さんは人物を彫り込んだ大学ノ-トのペ-ジを黙々とめくる。勘兵衛(志村喬)が中心だけにノ-トの半分近くを占めるが、さらに平八、久蔵、勝四郎、五郎兵衛・・・おそらく七人の侍の像で部厚いノ-トが一杯だ。(勘兵衛の人物像が書き込んである。背の高さが五尺四、五寸、中肉中背から始まり、微に入り細をうがち、草履の履き方、歩き方、他人との応答の仕方、背後から声をかけられた時の振り返り方、ありとあらゆるシチュエ-ションに対応する立ち居振る舞いが、ところどころに数多い絵を交え、大学ノ-トに延々と続いている。私はいきなり頭をガ-ンと棍棒で殴られた感じだった)。今度の作品の成否は、七人の侍の一人一人を、どのような性格に色づけするかにあることを予測し、手を抜いてはいけないものには、頑として手を抜かず、自己の力量の限界一杯までの努力といえばそれまでだが。この人物の彫りに対する貪欲、執拗さはなんだろう。(・・・いつの日にかさほど遠くない日に、ライタ-としての黒澤明は、自分が追い抜く。それは単なる時間の問題だ)。今は黒澤明をマ-クし、ぶら下がっているが、やがては彼を追い抜き、シナリオライタ-としては自分のほうが先を走る。疑いすらしなかったものが、まるで仮面でも剥ぐように・・・現実的な大学ノ-トで剥き出しにされ、独善的なその一人よがりのようなものを、粉微塵に打ち砕いてしまったのだ。(これじゃ追い抜くどころじゃないよ)
彼を越えるには、彼以上に人物の彫りを入念にしなければいけない。・・問題は絵だ。彼には絵が描けるが、自分には絵が描けない。このハンディを埋めるものは何か。これが埋まらぬ限り、彼を追い抜くことなど到底不可能である。」
「シナリオライタ-二人が巨大な獲物に鋭い牙を突き立てたのだ。・・言葉の端々からは設定するテ-マとスト-リ-が窺える。百姓が侍を七人雇い、襲ってくる山賊と戦い勝利する話・・・・テ-マとスト-リ-が短い完結形で、しかもそれが完全に一致する素材など、百に一つあるかなしかの稀有の企画である。この作品は途方もなく面白くなるものを含んでいるのだ。」 橋本忍
野武士の集団を見たという急報で、村人が広場へ集まっている・・・よい考えなどあろうはずがない。
村の代表四人(万造、茂助、利吉、与平)が侍探しにでかける。
しかし・・・旅の兵法者に口をかけたら・・ブン殴られたり、逃げ出されたり、
同宿の人足からは冷笑され揶揄される・・・当節そんな物好きはいねぇ・・・
木賃宿の裏で与平が土鍋で米を炊いている。薄暗い木賃宿の中では・・・
勘兵衛が腕を組み、傍らに勝四郎、向かい合って利吉、万造、茂助の三人だが、三人とも肩を落とし、しょんぼりしている。
利吉が思い詰めた表情でいう。「では、どうしても・・・・」勘兵衛が答える。「出来ぬ相談だな」・・・・
「いやいや、これはたとえ話、仕事を引き受けた訳じゃない。第一、頼むに足る侍を七人集めるのは容易じゃない。
しかも、ただ飯を食わせるだけではな。それに戦にはもう飽いた。年だでな」
沈黙がくる。利吉の悲しい鳴き声が混じり始める。人足がくさくさして、あ-あ百姓に生まれなくてよかったぜ、全く。
犬のほうがましだよ、死んじまえ、死んじまえ、早いとこ首でも括って、そのほうが楽だぜ。
勝四郎が聞き咎める。「下郎、口を慎め!」人足、怒る。
「なにいってやがんだ、本当のことをいっただけじゃねぇか」・・・
人足の一人が、裏から入ってきた与平の捧げ持つ飯椀を取り上げ、勘兵衛の目の前につきつけ、
「これを見ろ、お前さんがたの食い分だ。しかし、この抜作どもはなに食ってると思う。ヒエだよ、ヒエ食ってるんだ。
手めぇたちはヒエを食い、お前さんがたには白い飯食わしているんだぞ!」
飯椀をじっと見つめている勘兵衛-静かにいう。・・・
飯椀を受け取り、軽く押し頂き、「この白い飯、おろそかには食わぬぞ」勘兵衛がこうして百姓達の願いを聞き入れる。
勘兵衛役の志村喬は最高に適役であった。指揮官として沈着冷静・・・揺るぎのない演技に痺れた。
同じ黒澤監督の「生きる」・渡辺勘治役とは全く異なる役であったが。
見る側に与えた感動はどちらも強烈で、志村喬という役者の幅の広い演技に吃驚した。-鈴木
志村喬 1905-1982 75歳 生涯に出演した本数は443本という。祖父は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆に昇り-鳥羽伏見の戦いでは隊長として出陣・・・。黒澤明監督作品では全30作品中、19作品に出演。三船敏郎とのダブル主演も多い。作家の澤地久枝は個人的親交がある。澤地久枝の著書・「男ありて-志村喬の世界」文藝春秋発行で1994.2.15に第1刷が出ている。著書の中の志村喬 映画・テレビ出演リストは貴重な資料だ。昭和9年(1934年)から昭和56年(1981年)まで、45ペ-ジにわたってびっしりと書き込まれている。初期のト-キ-出演作品は「フィルムの保存に関心を持たなかった日本文化の貧しさのなかで、消え失せてしまっている」という。-鈴木