島原天草

1974年、初めて天草を旅した。沖永良部島の宿で顔見知りとなった男性、(当時、熊本大の助手をなされていた)が、天草下島の牛深に用事があるとのことで-やや強引に氏の車に同乗させていただいた。若い時にはこの種の向こう見ずなことが出来るのが不思議なくらいだ。今では思い出すたびにその折りの自分の厚かましさに恥ずかしさを感じる。しかしこの時見た天草の自然風景はほんとうに美しかった。心に深く残るものであった。翌年1975年には島原を知人と2人で訪れるが、この時は、熊本から船で直接、島原にわたり天草には行くことはなかった。心残りが何十年も続いたがようやく2015年4月-40年ぶりに再訪することが出来た。 鈴木慶治

天草のマップ

天草の写真家 小林健浩さん(1843- ) 「天草潮風紀行」2005年10月15日第1刷発行 弦書房

あなたの天草は、どんな風ですか こころいつくしむ潮風、ですか 荒たちさわぐ南風の風、ですか
ひとり佇んでみませんか
あなたの天草は、どこにありますか こころおもむくままに さがしにまいりましょうか
潮風に吹かれて・・・        小林健浩

島原半島マップ

島原・雲仙地獄
写真 2017.4.25  鈴木慶治
人類はその歴史上、屡々蛮行を繰り返してきた。以下の事実もまた、人間が人間に対して行った「歴史的恥辱」の例である。いかにすれば、かくまでに人間は人間以下になりうるのかと強く思わざるをえない。    鈴木慶治

雲仙は、大宝元年(701年)に行基によって開かれたとされるが、現在の温泉保養地として成立するのは寛文12年(1672年)。島原藩主の松平忠房が加藤善左衛門を湯守役に任じてからとされる。しかし温泉と共に有名なのは、雲仙地獄でのキリシタン殉教である。雲仙でキリシタン弾圧の拷問が始まったのは寛永4年(1627年)であり、その年に殉教した者は26名とされる。時の島原藩主は松倉重政であり、幕府への過剰な忠誠を示すために苛政をおこなっていた。キリシタン弾圧もそのような状況で繰り広げられた。
最初の殉教者で最も有名な人物はパウロ内堀作右衛門である。一緒に捕らえられた3人の息子(一番年下の子は5歳とされる)は、両手の3本ずつの指を切り落とされる拷問の末に海に沈められて殉教。作右衛門も同じだけ指を切り落とされ、さらに額に“切支丹”の3文字の焼き印を受ける。しかしそれでもなお棄教しないため、他の15名と共に雲仙地獄に送り込まれた。そして作右衛門らは両足に縄を掛けて逆さ吊りにされると、湯壺に浸けては引き出すことを数回続け
殉教したのである。

(日本伝承大鑑より)


撮影日   2015/04/14
原城周辺・(画面左手)から有明海・湯島(談合島)をのぞむ

口之津港から鬼池まで 早崎瀬戸の海をわたる
島原半島にキリスト教布教の拠点を置くことが決定された口之津。 450年前、南蛮船来航による南蛮貿易とキリスト教布教の時代、
後の日本におけるキリスト教の歴史が左右される決定がなされた場所でもある。 

早崎瀬戸の沖合には300頭近くのイルカが生息しているため、その群れの姿を見ることができる。

天草・鬼池(おんのいけ)
「鬼池の波止場から、いま船で横切ってきた早崎瀬戸を眺めてみると、もし故郷を自由にえらべるとすれば自分は天草をえらぶだろう」。 
司馬遼太郎 街道をゆく17 島原・天草の諸道 170ペ-ジ

鬼池港は、イルカウォッチング船の発着所でもある。早崎瀬戸の沖合には300頭近くのイルカが生息しているため、
鬼池港からその群れの姿を見られることもある。

天草 サンセットロ-ドから天草灘の海を見る

大江教会

崎津教会

崎津天主堂にふれた文章がある-
○「天草は下島の南部にある崎津町の天主堂で見たひとつの光景が、強く浮かびあがってきて消え去らない。・・・暮れやすい秋の日が、西の山の稜線に近かった印象の残っているところからすれば、時刻は午後の三時頃であったろうか。人が家の中に閉じこもってしまう時間ではないのに、天主堂のあたりには、おとなはもちろん子どもの遊ぶ姿さえなく、崎津の町は死に絶えてでもしまったかのように静かだった。天主堂のうしろはすぐに海で、外海から深く湾入しているためかまるで鏡のような水面に、十字架をいただく尖塔が影を映していた。美しい、あまりにも美しいこの風景に、単なる観光客としてやってきたのであるのならば、わたしはどれほど感激し、どれほど心をのびのびとさせたかもしれないと思う。しかし、遠い海外に流浪してわれとわが身を売らなければならなかった天草の同性たち・・・その彼女らの真の姿と声をこの手につかもうとしてはるばると訪ねて来たわたしには、この美しくてしかも静かなながめは、なぜか言いようもなく悲しく感じられたのであった。・・・わたしが天草への第一回めの旅に出たのは昭和43年の8月上旬・・・昭和41年に天草五橋が架けられてからは、天草に行くには、熊本から宇土半島をつらぬくドライブウェ-によって南下するのがもっとも便利なのだが、その道を通ろうとしなかった。「離島の苦しみをなめつづけてきた天草への旅なら、坦々とした陸路を行くのでなく、せめて、海から入って行くべき・・・それに、海からのほうが風景も美しいのだし・・・・」  山崎朋子「サンダカン八番娼館」文春文庫 2008年

○「-天草へゆけば、ぜひ崎津に立ち寄ったほうがいい。と、出発の前、わたしに教えてくれたひとがある。私とは、だいぶ年齢の差がある。その人が昭和3年に大学を出、九州一周の遊覧を試みて崎津の宿にとまったとき、「朝、目がさめると、紙障子に舟の影がうつっていました」 夢のような情景だったという。そういう地形の上にできた古い町だ、ということであろう。・・・天草の下島を地図でみると、頭のとがつた男の横顔に見えなくはない。顔は、西にむいている。鼻腔が高浜の入江であり、その下に、おそろしいばかりに裂けた口が、西方の湖を飲んだり吐いたりしている。この裂けた口が、羊角湾と名付けられたのは、むろん明治後かとおもわれる。・・・湾の奥にしか砂浜がなく、崎津のあたりは、いきなり山(岬)が海から生えている。水深はよほど深いかと思われる。湾入が複雑なために、船はひとたびこの羊角湾に入ると、四方八方の風から守られる。・・戦国、切支丹の全盛期、海外で、単に、「天草」とよばれたのはこのあたりであろうという説がある。南蛮船のひとびとは、船をこの湾の奥へ入れて、やがて投錨したとき、「アマクサへ来た」と思ったはずである。・・・崎津は、小さな町である。羊角湾のなかほどにあり、背後からせり出してくる山が、家並みを海へ押しおとしてしまいそうになるほどに平地がすくない。町のにおいは、熊本県下の町より長崎の町にどこか似ている。というより長崎を圧縮して、暮らしのにおいでよごしたような町で、その狭く深い水面が、濃すぎるほどの青さをもって、町の色彩を浄化しているといっていい。・・海に対して石垣を組みあげ、建造物を載せるだけの地面を造成している。・・・切支丹史からいうと崎津天主堂というのはよほどの歴史的存在らしい。協会の説明板にも「崎津教会はアルメイダ神父により1569年(永禄12年)2月3日に建てられ此処を中心にしてキリスト教は天草に栄えた」と、ある。・・・」 司馬遼太郎 「街道をゆく 17 島原・天草の諸道」 1987年 朝日文庫 

本渡の瀬戸

島原外港から熊本へ-フェリ-で島原湾をわたる 
2014.8.16 鈴木慶治