大江健三郎 「ヒロシマ・ノ-ト」 
Ⅰ 広島への最初の旅 から
「1963年夏、僕は広島に到着する。夜があけたばかりだ。荒涼たる無人地帯の幻影がひらめく、市民たちはまだ鋪道にあらわれていない。そこかしこにたたずんでいるのは旅行者たちだけだ。1945年の夏の広島の、この日の朝もかずかずの旅行者がここに到着した。かれらのうち、18年前の今日あるいは明日、広島を出発したものは生きのびたが、明後日まで、広島を発つことのなかった旅行者たちは、20世紀における、もっとも苛酷な人間の運命を体験しなければならなかつた。かれらのあるものは一瞬、蒸発してしまったし、あるものはいまなお、白血球の数におびえながらその苛酷な運命を生き続けている。・・・・」・大江健三郎

長田 新 「原爆の子」 1951年10月の発売  -序文 から
中国山脈から流れ出る太田川が6つに分かれて瀬戸内海に注ぐ。そのデルタの上に跨がった広島市が世界最初に投下された原子爆弾によって一瞬の間に焦土と化し、全人口43万のうち実にその過半数の24万7千人の尊い生命が消し飛ばされてから6年、当時黒焦げの屍で埋まった川には、今は澄み切った水が静かに流れ、川辺に青々とした茂った樹々の影を映しており、街にもようやく商店が立ち並んで復興への息吹きが感じられる。とはいえ、表通りを離れて一歩足を裏町に踏み入れてみると、そこにはまだ倒れたままの墓石や赤錆びた鉄片や煉瓦のかけらなどの散乱した焼け跡が残っていて、雑草の生い茂った空き地が続いており、昔はあかあかと街燈が並んでいた町々も夜になると、暗闇の中に沈んでしまう。

大田洋子 「屍の街」 2010年8月30日 初版第2刷
鬼哭啾々の秋 から
「混沌と悪夢にとじこめられているような日々が、明けては暮れる。よく晴れて澄みとおった秋の真昼にさえ、深い黄昏の底に沈んでいるような、混迷のもの憂さから、のがれることはできない。同じ身の上の人々が、毎日まわりで死ぬのだ。西の家でも東の家でも、葬式の準備をしている。きのうは、3.4日まえ医者の家で見かけた人が、黒々とした血を吐き始めたとき、今日は、2.3日まえ道で出会ったきれいな娘が、髪がぬけ落ちてしまい、紫紺いろの斑点にまみれて、死をまっているときかされる。・・意識ばかりははっきりしていて、どんなに残酷な症状があらわれても、痛みもしびれもないという、原子爆弾症の白痴のような傷害の異状さは、罹災者にとって、新しい地獄の発見である。・・・」

 

撮影   2015/01/11


「原爆慰霊碑」と「原爆ド-ム」

 
撮影   2015/08/6

「原爆供養塔」・下の写真
「七万人もの遺骨が納められた原爆供養塔は、いわば広島の墓標だ。1986年以降、原爆供養塔の地下室に続く扉は固く閉じられている。・・遺骨となった死者たちにまつわる苦しみに満ちた記憶は遠ざけられてしまった。・・平和都市を自任するこの町に過去の傷跡にふれようと訪れる人は、まず失望するだろう。どんなに目をこらしても、ここに他の地方都市と異なる風景を見つけるのは難しい。当時の痕跡をかろうじて残していた被爆建物は次々に解体され、今や見る影もない。・・・広島の戦後から、死者たちの姿がどんどん消えていく・・・70数年前、無念のまま町のあちこちで燃やし尽くされた死者たちの声は耳を澄ましても聞こえてこない。・・・」 堀川惠子 「原爆供養塔」から

2015.1.11

慈仙寺の被爆墓
墓のある場所の地面が、平和公園前の中島町の土地(高さ)を示しているという。

下 
原爆の投下目標となった「相生橋」-実際は島病院の上空で破裂

相生橋の欄干

原爆ド-ム側から相生橋を見る

相生橋から見た本川の流れ。多くの被爆者がこの川にはいり亡くなった。左側が平和公園。

2015.8.6  被爆して70年という歳月が流れたが・・この建物の時はとまったままだ・・・。

原爆ド-ムと手前、原民喜の詩碑
2015.1.11

原 民喜・詩碑  遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻

下の写真は 広島城

原子爆弾投下により消滅した広島城

「いしぶみ」-広島二中一年生全滅の記録より
 -まっすぐ、自分たちの方に向かって落ちてくるのが爆弾と気づいて、とっさにだれかが「退避、逃げろ」とさけびました。「ふせろ」という声を聞いた生徒もいます。一瞬、直径が百メ-トル、表面の温度が九千度もある太陽のような火の球ができ、そこからオレンジ色の閃光と熱線、その後を強い爆風が追いかけました。わずか五百メ-トルの間近にいた広島二中の一年生は、閃光に目を焼かれ、服は燃えだし、そして小さな体は地面にたたきつけられ、十メ-トルも吹き飛ばされたのでした。-  
撮影日   2015/01/11

「いしぶみ」 広島テレビ放送編 ポプラ社発行 2009年7月 第1刷
-昭和20年8月6日の朝、子どもたちがどんなようすで家を出かけ、原子爆弾が落ちたときのようす、そのあとどのようにして亡くなっていったのかを、放送では女優の杉村春子さんがひとり、亡くなった1年生たちの写真の中で語りかけました。テレビ放送「碑」の草稿をもとにして書いたのが、この本の「いしぶみ」です。321人の一年生でうち、どんなようすで亡くなっていったのか、遺族の方たちから聞いてわかっているのは、226人で、この本ではわかっただけの一年生の話をみな書きました・・・・。」  あとがきから


なぐさめの 言葉志らねば ただ泣かむ 汝がおもかげと いさをしのびて 
広島二中慰霊碑

原爆資料館のところから平和公園の南側に出て、平和大通りを渡り、元安川に架かる東平和大橋の方向に歩くと、その歩道の右側に
「広島市高等女学校原爆慰霊碑」があります。

あの日、広島市立高等女学校の1、2年生( 12・13歳)がこのあたりで建物疎開作業に従事中、生徒541人、教職員7人全員が亡くなり、その他の動員先を含めて676人が被爆死しました。学校関係の被爆死者数としては最多。

友垣に まもられながら 安らかに ねむれみたまよ このくさやまに 


廣島第一懸女 (現・広島県立皆実高等学校) 追憶の碑

義勇隊の碑
旧広島県安佐郡川内村温井地区(現広島市安佐南区)から国民義勇隊として建物疎開作業中に被爆死した180人の碑。
川内村には六つの義勇隊が組織されていたが、あの日動員されていたのは温井地区だけだった。
自宅にたどりついて亡くなったのは、わずか7人。いまだに100人以上の遺骨が見つからない。
当時、人口約千人の温井地区は一瞬のうちに働き盛りの男手を失い、お年寄りと女性、子どもだけが取り残された。

御幸橋-松重美人氏による撮影 被爆した6日に写された数少ない写真の一枚。モニュメント。

下の写真 現在の「御幸橋」  2015.1.11  
生死を分けた橋-爆心地から避難する人びとと救援に向かう人びとがこの橋で「人生の交差」をした。

下の写真「御幸橋」から北・広島駅方面を見る 2015.1.11

「御幸橋」から南・宇品方面を見る 下の川は京橋川

鶴見橋 建物疎開に従事していた多くの子ども達-学徒動員の名のもと-が命を落とした。戦前は多くの子ども達がこの
川で水遊びをしたという。

師団司令部地下壕-原爆投下の第一報が、ここで従事していた比治山高等女学校生により発信連絡された。
広島市による保存が決定したのは1990年代に入ってからという。実に約半世紀の時を要した。

被災した袋町小学校-救護所にあてられた。

峠三吉 年譜

佐々木禎子さんの母校 のぼり町小学校

京橋川 石垣は戦前からのものか。もの言わぬその目で多くの被災者を目撃したか。

泉邸 縮景園 今も水と供花が絶えない。

市のいたるところで、こうした歴史写真モニュメントを見ることが出来る。

現在の様子

原爆投下前、現在の平和公園にあった住居-どんな方がお住まいになっていたかわかる貴重な復元地図。

原爆に関する書籍<鈴木慶治が購入・所蔵する本> 2021・8/29現在
「平和のバトン」広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶・弓狩匡純・協力、平和記念資料館2019.6/「原爆句抄」・松尾あつゆき2015.3.20/「命かがやいて」・大西知子2011.2.1/「なみだのファインダ-」・柏原知子監修2003.8/ 「HIROSHIMA-半世紀の肖像・大石芳野1995.3.3/「死の同心円」・秋月辰一郎2011.6.30/「広島爆心地中島」・広島遺跡保存運動懇談会編2006.8/「ヒロシマを壊滅させた男 オッペンファイマ-」・ピ-タ-・グッド・チャイルド・池澤夏樹訳1995.6.15/「ヒロシマ戦後史」・宇吹 暁2014.7.9/「ヒロシマ」・ジョン・ハ-シ- 谷本清、他訳1949.4.25 /「サダコ 原爆の子の像の物語」・NHK広島「核・平和」プロジェクト2000.7.30/「私はヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した」・チャ-ルズ・W・スウィニ- 黒田剛訳2000.7.31/「カウントダウンヒロシマ」・スティブン・ウォ-カ- 横山啓明訳2005.7.10広島を復興させた人びと「原爆」・石井光太2018.7.10/「原爆と戦った特攻兵」・豊田正義2015.7.31/「原爆供養塔」-忘れられた遺骨の70年-・堀川惠子2015.5.25/「遠きヒロシマ」-記憶の物語-・青木幸子2014.11.10/「空が赤く焼けて」-原爆で死にゆく子たちの8日間・奥田貞子2015.6.30/「少女十四歳の原爆体験記」・橋爪 文2001.7.20/「ヒロシマ絶後の記録」・小倉豊文2010.12.10/「星は見ている」-全滅した広島一中一年生父母の手記集・秋田正之編2010.12.10/「ヒロシマ日記」・蜂谷道彦/「花の命は短くて」-原爆乙女の手記・小島 順/「屍の街」・大田洋子2010.7.25/「長崎原爆記-被爆医師の証言」・秋月辰一郎/「この子を残して」・永井 隆2010.7.25/「ロザリオの鐘」・永井 隆2014.6.25/「長崎の鐘」・永井 隆2010.7.25/「原爆詩集」・峠 三吉2010.7.25/「廣島-戦争と都市-」・岩波写真文庫/「長崎の鐘はほほえむ」-残された兄妹の記録-・永井誠一1995.5.20/「ぼくは満員電車の中で原爆を浴びた」-11歳の少年が生きぬいたヒロシマ・由井りょう子 文2013.7.16米澤鐵志 絵/「原爆の子」上・長田 新編/「原爆の子」下・長田 新編/「原爆の子」その後-原爆の子執筆者の半世記・原爆の子きょう竹会編/「ぼくの家はここにあった」-爆心地~ヒロシマの記録-付録DVD復元中島町・田邊雅章2008.7.30/よみがえった都市-復興の軌跡「原爆市長」復刻版浜井信三/「原爆が消した廣島」・田邊雅章/「娘よここが長崎です」-永井 隆の遺児茅乃の平和への祈り・筒井茅乃2007.7.26/「永井 隆」・永井誠一2005.5.1/「ヒロシマはどう記録されたか」上・小河原正己2014.7.30/「ヒロシマはどう記録されたか」下・小河原正己2014.7.30/「焼き場に立つ少年」は何処へ・ジョ-・オダネル・吉岡栄二郎/「ガイドブックヒロシマ」-被爆の跡を歩く-・原爆遺跡保存運動懇談会編1996.8.6/「いしぶみ」-広島二中一年生全滅の記録・広島テレビ放送編2009.7/「ヒロシマをさがそう」-原爆を見た建物・山下和也、井手三千男、叶 真幹/「原爆が落とされた日」・半藤一利、湯川 豊1994.8.15/「チンチン電車と女学生」・堀川惠子、小笠原信之2015.6.12/「牧師の涙」・川上郁子/「HIROSHIMA1958」・エマニュエル・リブァ写真/「長崎旧浦上天主堂」1945-1958 失われた被爆遺産・高橋 至、写真、横手一彦、文/「ヒロシマから問う」平和記念資料館の「対話ノ-ト」編集委員会編「被爆の遺言」・被災カメラマン写真集/「昭和二十年代~三十年代 百二十八枚の広島」・明田弘司写真/「生きていた広島 広島1945」南々社/立ち上がる広島・1952 岩波書店編集部編/「写真記録 ヒロシマ25年」佐々木雄一郎/「決定版 長崎原爆写真集」小松健一、新藤健一編/「広島・長崎 原子爆弾の記録」・平和のアトリエ/集英社 戦争と文学 第19巻 「ヒロシマ ナガサキ」-閃-/「ヒロシマを伝える-詩画人 四國五郎と原爆の表現者たち」・永田浩三2016.7.13/「広島第二県女二年西組」・関千枝子1988.6.28/「原爆死真実」-きのこ雲の下で起きていたこと・NHKスペシャル取材班 DVD/「原 民喜全集 全二巻」-夏の花・原 民喜/「ヒロシマ 消えたかぞく」-このえがおがずっとつづくとおもっていた-・指田 和、写真 鈴木六郎/「おこりじぞう」・絵 四國五郎 文 山口勇子/「トランクの中の日本」・ジョ-・オダネル/「黒い雨」・井伏鱒二/「死の島」上・福永武彦/「死の島」下・福永武彦/「浦上物語」・市川和広/「ヒロシマ」土門拳全集10・小学館/「長崎の痕」・大石芳野写真集2019.4.10/大石芳野写真集「戦争は終わっても終わらない」/広島平和記念資料館臓・撮影、土田ヒロミ「ヒロシマ・コレクション」/「ヒロシマを暴いた男-米国人ジャ-ナリスト、国家権力への挑戦 レスリ-・M・M・ブル-ム 集英社/「空白の天気図」柳田邦男 文春文庫/「ヒロシマ爆心地」-生と死の40年 1986年7月20日 第1刷 日本放送出版協会発行/

下の写真 平和大橋  2015.1.11


下の写真    平和大橋東詰 白神社前 2015.1.12

現在の広島には近代的な高いビルが建ち並び、慰霊碑以外の「被爆痕跡」を探し出すことは簡単なことではない。そして原爆投下という歴史的惨禍の事実に対しても「記憶の風化」が格段に進みつつあるように感じ取れた。 鈴木慶治


下「元安川」 原爆ド-ムが奥に見える  2015.1.11

広テレ!動画   広島テレビオンデマンド/被爆から75年 原爆資料館 ヒロシマを遺す 24分45秒 2019年5月25日放送

<原爆を題材にした物語・文学> リンクしてます。 背景の写真 2015.8.6 鈴木慶治

物語・文学     大田洋子  峠三吉  原爆文学研究  峠三吉日記

  原民喜   林京子   永井隆