映画紀行
「カサブランカ」<1942年封切映画>をBS放送(2020.3)で見た。「イングリッド・バ-グマン」-は心に残る魅力的な女優さんだ。
1960年代後半の10代の終わりに初めて見た時は、社会・歴史背景-フランス領モロッコと反ナチ活動-などがよく理解出来ず、バ-グマンの演じるイルザという女性の葛藤・心の揺らぎが正直よくわからなかった。その当時の自分より「大人の映画」だったのだ。単なる恋愛劇かとさえ思っていた。今、この映画の制作が、78年前・昭和17年-第2次大戦中の映画だったのが信じられない。反ナチ活動は映画の中だけの事ではなかった。最初の感想からバ-グマンの魅力は「清らかで美しい」という印象。大戦中という時代の中、2人の男性の間で心が切ないほどに揺れ動く、バ-グマンの泪・・・・単に美しいだけでない理知的なイルザ役のバ-グマンがいた。そしてリックを演じるハンフリ-・ボガ-ドが感じさせる、渋さ、哀愁感、孤独感-は魅力的だ。ボガ-ドの演技で、この映画のバ-グマンの魅力はより深まったと思う。鈴木
カセブランカ Casablanca ワ-ナ-・ブラザ-ズ 1942年 制作 ハル・B・ウォリス
監督 マイケル・カ-ティス
出演 ハンフリ-・ボガ-ド イングリッド・バ-グマン ポ-ル・ヘンリ-ド クロ-ド・レインズ 他
スウェ-デンへの旅
○「イングリッド・バ-グマン-時の過ぎゆくまま AS TIME GOES BY」 第1章から
イングリッド・バ-グマンはスウェーデンに生まれた。母、フリ-デル・アドラ-・バ-グマン(ドイツ人)と、それより13歳年上の父、ユスタス・サムエル・バ-グマン(スウェーデン人)の間に1915.8.29生まれた。母フリ-デルは3人娘の2番目。母性的な美しさを持った女性で、ユスタスが世事に疎く気まぐれであるのと対照的に、きっぱりと実際的で大地に足をつけていた。イングリッドが3歳の時、34歳で病死。父ユスタスは多芸多才な人で写真館を経営し成功、絵筆をにぎり画家を目指すこともあった。特に音楽好きで彼が入っていた合唱団は2度アメリカに演奏旅行をした。娘がいつかオペラ歌手になってくれないものかと考えたという。フリ-デルの一人目の子は生まれてすぐに死に、二番目の子は生後1週間目に死んだ。イングリッドは神からの授かりものであった。誕生以来、両親はこの子を溺愛した。2歳になるスウェ-デンの王女にちなんでイングリッドと名付けられた。ユスタスは家族の家長という柄ではなく、彼女のよき師であり、友だちであり、仲間であった。イングリッドは父の前で演技をして、その言葉や仕草で父の顔を輝かすのが大好きであった。イングリッドにとって、演技をすることは自分や周囲の人々の喜びと楽しみであり、毎日の生活の陳腐な習慣から抜け出す旅のようなものであった。独りでいるときも、彼女はすばらしい人物や物語の世界を創造しながら演技をした。・・・11歳の頃、父はイングリッドを芝居に連れて行った。最初の幕間に、彼女はこう宣言した。「パパ、パパ、これこそわたしがやりたいことよ」・・その父もまたイングリッドが12歳の頃にこの世を去った・・・。
最初の伴侶、ペッタ-・ア-ロン・リンドストロ-ムとの出会いは18歳の王立演劇学校時代のこと。26歳の若い歯科医-スウェーデンを通じて歯科医学の博士号を持つ唯一の医師であった。後年、アメリカにおける著名な神経外科医となり、ヨ-ロッパではスウェーデン政府の顧問、国際的な名声を持った開業医となる。1937.7.10 イングリッド21歳、ペッタ-29歳の結婚。妻のハリウッド進出後、様々な愛憎劇のトラブルに出会うことは当時知るよしもなかった。ペッタ-は生涯にわたってイングリッドの良き理解者であろうと努めたが・・・。
母フリ-デルとイングリッド
イングリッド・バ-グマンとスウェ-デン映画
ハリウッドにくる前、自国のスウェ-デン映画に出演した。
1934年封切の「修道士橋の伯爵」にはじまり、1939年封切の「一夜かぎり」まで。スウェ-デン映画の1作品「間奏曲」1936が関係者の目にとまり、ハリウッド進出のきっかけとなったのはよく知られている。スウェ-デン時代の作品は80年以上も前の映像であるから、画質が劣るのはやむをえないが、その時代の雰囲気といったものは十分に感じ取れる。-時代背景やストリ-展開に違和感もあるが「イングリツド・バ-グマン」という女優に視点をおいて見れば、それなりに興味深いものがある。バ-グマンのスウェ-デン映画は、86年~81年も前にもかかわらず、ネット検索すると、DVDまで出てくる。-鈴木慶治
アメリカ・ハリウッドへの旅
○「同上-時の過ぎゆくまま」からの引用 P.114-115
「イングリッドは1942年4月20日、ついに新しい映画の役がついたことを知った。彼女はこれ以上興奮できないほど興奮した。ベッドに入っても眠れなかった。彼女は三度も階下に降りて独りで居間にじっとすわっていなければならないほどだった。数日後には出発してハリウッドへ、自分の世界に帰って行く。彼女は新しい映画について「カサブランカ」という題名以外何も知らなかった。
鈴木慶治-補足
題名以外何も知らなかったとは驚きである。ハリウッド進出後、「別離」「四人の息子」「天国の怒り」「ジキル博士とハイド氏」と出演映画の作品が続いたが、次の仕事までの休息期間が長かった。ハリウッドの大物プロデュ-サ-、セルズニックがバ-グマンと専属契約を結び、映画作品をほぼ独占的に管理、選択をしていて、仕事を自身で選べることは出来ずにいた。はやく次の仕事をしたいという強い願望があった。それが満たされる歓喜-興奮であった。バ-グマンにとって休息は仕事の中にあったのだ。
バ-グマンの美しさはどこからきているのだろう-。北欧の神秘性・ミステリアスな部分とドイツという硬質な部分が「血の遺伝子」になって、この女性の容貌と内面を形成したと思うしかない。いずれにしてもそれまでのアメリカ女性にない美しさがあった。-鈴木慶治
○イングリッド・バ-グマンは「カサブランカ」をどう考えていたか。-ロ-レンス・リ-マ著<時の過ぎゆくまま>-P.134
から引用。
「カサブランカ」は、イングリッドの考えでは単なる商業映画にすぎない、妥協の産物のような作品であった・・。イングリッドの女優歴につきまとう皮肉の一つは「カサブランカ」が不朽の名作となったことである。彼女がマリア役-「誰がために鐘は鳴る」の役-を失ったと思い、その悲しい代替物としか考えなかった映画「カサブランカ」こそが、イングリッド・バ-グマンの人気の素地を作った作品だった。
それは彼女の他の多くの映画が地下倉庫に移管されたあとも、いつまでも愛され、讃えられ、上映されることになった映画だった。
鈴木慶治-
自分たちの心に残る映画が、本人にとっては「妥協の産物」であり、単なる商業映画、次の作品への合間の映画であるとしたら
何か寂しくもある。バ-グマンの目指す映画が他にあったのを簡単に納得・理解したくない気持ちになる。より文芸的・芸術的なものをと考えていたのだろうが・・・・。映画「カサブランカ」に対する、イングリッドの評価は生涯変わることがなかった。人々が長くなぜ好意的にこの映画を歓迎してくれるのか理解することはなかった。ある晩、アメリカ映画協会による「カサブランカ」の特別映写会に出席した。全部再び見るのに耐えられなかった。イングリッドは「わたしが死んだら、あの映画はもう決して上映しないでほしいと思うわ」、と言ったという・・・。-P.423
スウェ-デンへの旅
○バ-グマンはどこに眠っているのか-
沢木耕太郎氏の著作に「キャパへの追走」-文春文庫・2017.10.10。墓地に降る雪 P.276-
その中でイングリッド・バ-グマンのねむる墓にふれた文章がある。長くなるが詩情あふれる文章なので紹介する。
キャパとイングリッド-
「1944年6月6日の「ノルマンディ-上陸作戦」から1年後の1945年の6月6日、キャパと「世紀の大女優」との1年以上も続くロマンスが始まるのだ。・・・キャパがイングリッドに出した手紙が、バ-グマンの自伝「マイ・ストリ-」にある。
「-きみがつぎつぎ契約書にサインして、ますます人間らしさを失い、伝説と化していくことを憂えている。成功は失敗よりも危険で、人間を堕落させるから、充分注意しなくちゃならない。」
バ-グマンは、キャパの死から28年後の1982年、8月29日。ガンに冒されて死ぬ。・・・私がスウェ-デンのストックホルムを訪れたのは
12月に入ったばかりのときだった。中央駅の近くのホテルに泊まった私は、翌朝、フロントの女性に「北霊園」までの行き方を訊いた。
そこにイングリッド・バ-グマンが眠っているはずだったからだ。フロントで教えられたとおりバスを2度乗り継ぎ、市街地から
だいぶ離れた寂しい停車場で降りた。大きな通りの向かいにある墓地はすぐにわかった。しかし、中に入ったもののあまりにも広大すぎて
バ-グマンの墓をどのように捜していいかまったく見当もつかない。
やがて雪が舞いはじめてきた。-ようやくこれがバ-グマンの墓なのかと思えるような質素な造りの墓を発見することができた。
細かく小さな雪の降る広大な墓地は、墓参の客などひとりもいないのではないかと思えるほど静まり返っている。
空からは灰色の雲が重く垂れ下がっているため、午前と思えないほどあたりは暗い。私は中央にただ「イングリッド」とだけ記された墓の前に立って、しばし思いを巡らせた。キャパの死は不慮の死だったが、バ-グマンは病の中で自らの死について考える時間が充分にあっただろう。そのうえで、病と戦い、勇敢に仕事をつづけ、自覚的に死んでいった。彼女の最後の劇場用映画作品は「秋のソナタ」-監督はイングマ-ル・ベルイマンである。ベルイマンはBergmanと書き、バ-グマンのBergmanと同じである。スウェ-デンではバ-グマンでなくベリマンと発音するらしい。
「秋のソナタ」は、二人のベリマンによって作られた映画といえる・・・。
その彼女は、ハリウッドのスタ-時の名前である「バ-グマン」として死んだのか、再婚したロッセリ-ニの国で呼ばれていただろう「ベルグマン」として死んだのか、あるいはこの墓がある生まれ故郷のスウェ-デンの名である「ベリマン」として死んだのだろうか・・・・。
私は、本格的に降りはじめた雪の中を霊園の出口に向かって歩きながら、この寒さの中で少女時代を過ごした彼女にとっては、やはり「ベリマン」として生き、死んだと考えるほうが自然かもしれないな、などと思ったりしていた。」 以上 「キャパへの追走-墓地に降る雪」から
鈴木慶治-補足
キャパについて-「ロバ-ト・キャパ」 1913-1954。キャパについて-他に沢木著「キャパの十字架」・R.ウィ-ラン著「キャパ」がある。
1913.10.22にハンガリーの首都ブタペスト生まれた。本名エンドレ・エルネ-・フリ-ドマン。
1946年-前年からあたためられていたイングリッド・バ-グマンとの友情は恋愛に変化していた・・・。
スペイン、中国、アフリカ、イタリ-、ノルマンディ、イスラエルなど、戦闘の最前線を駆けめぐり「戦争」を撮り続けた世界的に著名な報道写真家、フォトジャ-ナリス。バ-グマンより2歳年上。1954年5.25、40歳のとき、ヴェトナム・ハノイの南方で地雷に吹き飛ばされて即死。亡くなる直前まで日本に滞在していた。1954.4毎日新聞社の招きで日本を訪れている。
バ-グマンの墓が人目につかない場所にあり、しかも質素なつくりというところに胸をつかれる。人生の華やかな表舞台に比較すれば、何という落差だろうか。今や完全とまではいわなくとも「忘れられた」ようにひっそりとバ-グマンは眠っている。
あたりに人の声もなく、「ただ-あたりに白い雪が降っている-」。・・・「キャパへの追走」を読みながら、自分もまた、バ-グマンその人の人生に思いをめぐらしていた。
映画といえばこの人、この人といえば映画。-ナガハルさんこと「淀川長治」先生の著書の紹介。
淀川長治 氏-1909-1998 享年89歳
「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」 近代映画社 1988.12.25第一刷発行
淀川長治-イングリッド・バ-グマンについての記述
鈴木慶治-
淀川長治さんが、テレビ放送「ララミ-牧場」の解説を引き受けたのは、氏が51歳・昭和35(1960)年とのこと。
当時私は10歳前後。他に娯楽の少なかったこともあり、毎週、むちゅうでこの番組「ララミ-・・」を見ました。
最後に淀川さんが毎回「・・・。ハイ、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」という言葉は、鮮烈な記憶として今も残る。
○淀川長治さんから見た、イングリッド・バ-グマン
淀川長治-
「スウェーデン生まれのガルボが一生涯、演技で苦労したように、バ-グマンも一生涯、演技で苦労した不幸な女性と思う。
ガルボもバ-グマンも、私には美人にはまちがいないが、いつまでも女優でなく素人というような気がつきまとったものである。
・・バ-グマンは2度のアカデミ-主演女優賞と1度の助演女優賞をとっている。一つは「ガス燈」(1944)であり、もう一つは「追想」(1956)。
私は「追想」と「秋のソナタ」(1978)にバ-グマンの実力を見た。・・自分が映画界で生きるか死ぬかはこの「追想」の出来不出来にある、と見たバ-グマンの悲壮な決意があの名演をもたらし、彼女はアカデミ-賞をとったのである、と私は思った。」
鈴木慶治-補足
夫と子を捨ててロッセリ-ニ監督のイタリアに去った(1949-)ことで、バ-グマンはハリウッドから大きな批判、怒り、悪評をかう。
イタリアへの旅-1949-1957
「ハリウッドでは絶対に前の映画以上の成功は望めないのよ。わたしはヨ-ロッパで芸術的な特別の映画を作らなきゃ。」「イングリッド・バ-グマン」
映画「ジャンヌ・ダルク」や「凱旋門」は興行的に大失敗作となる。監督ビクタ-・フレミングはこのために心臓発作で死去と噂される。イングリツド自身の受けた精神的な打撃も大きかった。深酒・憂鬱症に悩まされる。-イタリア行きの要因となったか。
イングリッド・バ-グマン評伝・「時の過ぎゆくままに」-から
1949年9月3日の-夫の妹アンナ宛-のイングリッドの手紙 p.274
「いつもペッタ-とピア(夫と娘)のことを考えています。でも同時に、引き返すのは不可能だと自分に言い聞かせています。ペッタ-は落ち着いたいい人です。それは本当によくわかっています。でもわたしはフリットフォ-ゲル(渡り鳥)です。わたしは小さい頃から、いつも何か新しい、新しいものを探してしました。大きな冒険にあこがれていました。わたしは多くのものを持ち、見、経験したのですが、決して十分ではありませんでした。わたしは毎日の悲しみを終わりにして、幸福と満足を見つけようとしました。でも何が幸福と平和を与えてくれるのかわからなかったのです。親愛なるアンナ=ブリッタ、これが本当の幸せだと、どうしてわかりましょう。わたしが大きな一歩を踏み出してしまったことは、よくわかります。でも、誰に終わりがわかるでしょう。・・」
なんと罪深い渡り鳥かと思わざるをえない。-鈴木慶治
イタリアの監督フェデリコ・フェリ-ニのイングリットに対する回想-時の過ぎゆくままに-から P.295.6
「わたしは家にいる彼女をはじめて見ました。彼女はいつも映画で見るとおり女王で、晴れやで、おだやかて、聖女めいていました・。彼女はいつも理解しようと努力していました。(周囲の世界があまりよくわからない妖精の女王であった。)ときには、われわれがなぜ笑っているのかわかりませんでした。・・・われわれのうちロベルトをよく知っている人間にとっては、二人かいっしょにいるのを見るのは意表をつかれる思いで、いつも驚かされました。」
-これは、(当時)イングリッドがイタリアとイタリア文化のニュアンスや微妙な部分が把握できなかったからだ。
フェリ-ニ監督の妻で女優-映画「道」の宿無し役で世界的名声をえたジュリエット・マシ-ナから見たのイングリッドとロベルト P.310
「イングリッドは太陽みたいな人、光のように透明だったわ。彼女は直接的やり方に慣れてる人でしょ。でもロベルトは全然違うのよ。教育から気質やしきたりにいたるまで。この二つの生活様式を和合させるのは、ものすごく大変。わたしは友だちとしてはロベルトが大好きだけど、いっしょに暮らしたいとは思わないわ。彼を信じるなんて、不可能な話よ。彼はどっさりくれるけど、次の瞬間には、もうどこかへ消えているんですもの。ある意味じゃ不安定っていうのかしら。彼は話は上手いし、聞き上手だし、話し好きな男で、外交的なのね。でも孤独でいるように生まれついた人なのよ。」
-彼は直観的な天才で、ペテン師で、占い師で、魔法使い、うそつきだった。冒険家で、ごろつきで、詐欺師・・・自己中心的な人間で不安の悪臭を発していた。 著者ロ-レンス・リ-マ
「ロベルトはと組んだイングリッドの映画生活の悲劇は、彼らがいっしょに失敗作を作ったことではない。イングリッドがいまだにロベルトの作品を讃美している人々があることは知ってはいても、彼の最近の映画で彼らが讃美しているのはいったい何なのか、全然理解しなかったことである。彼女には夫の芸術的な情趣と挑戦-ロッセリ-ニの最上の持ち味-がわからなかったのだ。」 筆者ロ-レンス・リ-マ P.324
「ミス・バ-グマンとミスタ-・ロッセリ-ニは仕事の流儀を根本的に変えるか-隠退して威厳のある沈黙を守るか、どちらかを選ばねばならない。バ-グマンとロッセリ-ニが飛びこんだ奈落の深さは「恐怖」(ふたりの共同映画)によって計ることができる。これは「恐怖」が、彼らの他の近作よりいささか劣っているからではなく、(作品)の五、六回やって否定的な結果しか出せないのであれば、この夫婦は大衆や批評家に受け入られる作品は何ひとつ作りえないということを証明しているからである。かつては文句なしに世界随一のスタ-であり、グレタ・ガルボの後継者であったミス・バ-グマンは、最近の作品で見るかぎり、彼女自身の影にすぎない。」 批評家 アンジェロ・ソルミ P.329
フェリ-ニ監督の言葉
「はじめから、イングリッドとロベルトの結びつきは少し奇妙でした。・・それはピノキオと青い髪の妖精との関係と同じように見えました。イングリッドを通して、ロベルトはいい少年になる可能性もあったのです。もっとも、ひょつとしたら、女ピノキオになる危険をおかしたのは青い髪の妖精のほうだったかもしれません。しかし、ピノキオがいい少年になる前に妖精は去ったのです。奇蹟はついに起こりませんでした。」P.331
鈴木補足-イングリッド・バ-グマンはイタリアでロッセリ-ニ(1957離婚)との間に3人の子(1男1950生-2女=双子1952生)をなした。そして捨てたアメリカには、当時、前夫(1950離婚)と娘(1938生・12歳)がいた。離婚後子供達の親権をめぐり多くの問題を抱えることになる。子ども達から考えるとなんと<罪深い渡り鳥=母>かと思わざるをえない。鈴木慶治
淀川長治-「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」から
ロッセリ-ニとの逃避行で、アメリカ、ハリウッドからなかば追放処分になっていたバ-グマン。それが数年がたち、ハリウッドのバ-グマンへの怒りが冷めて、彼女を迎えてやろうとした作品が「追想」(1956)であった。
再び・ハリウッドへの旅
1957.1.19 イングリッド・バ-グマンのアメリカへの帰国-ロ-レンス・リ-マ著「イングリッド・バ-グマン」 P.355
写真家やカメラマンが潮のように(空港へ)殺到した。記者の質問「新聞雑誌があなたの人生の問題(イタリアへの逃避行、結婚、出産)を扱ったときのやり方(悪意ある醜聞報道)に批判をお持ちですか。」イングリッド「ええ、もちろん、批判は持っていましたわ」と半ば微笑しているような口元で言った。「個人は私生活を持つべきだと思います。でも女優の道を選んだのだったら、その両面を受け入れなければならないことも知っています。そういうことですわ」イングリッドは、話しているとき、世慣れたヨ-ロッパ人の女性であると同時にどことなく悲しげな子どものように見えた。別な記者の質問「振り返ってみて、過去数年間(イタリア1949-1957)の行動について何らかの後悔をしておられますか。ミス・バ-グマン?」
イングリッド「いいえ、全然後悔はしておりません」彼女は突然まじめになって言った。「わたしが後悔しているのは、しなかったことに対してであつて、したことではありません」イングリッドは頭を後ろにのけぞらせて笑った。希望とひそやかな思いに満ちた笑いだった。「いいえ、すばらしい人生だったと思っています」と彼女は、自分の過去について話すときしばしば見せるはげしさをこめて続けた。「わたしは、したいと思うことをしてきました。勇気と冒険心を与えられていますので、それが励みになっていたのです。それから、ユ-モアの感覚とほんの少しの常識もありました。とてもゆたかな人生でした」
-鈴木慶治 記者とのやりとりの言葉からイングリッドの女優としての矜恃、強さ、厳しさを感じるともに反面で人間としての孤独、悲しさ、弱さも同時に感じとれる。「自分はユ-モア感覚と少しの常識もある」という言葉は、自身に対する矜恃と、集まった記者達に向けた皮肉ではなかったか。
淀川長治「「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」から
「バ-グマンにはイタリアに去る前に「誰がために鐘は鳴る」(1943)があり、そのもうひとつ前に「カサブランカ」(1942)がある。どちらもオスカ-は受けていない。このころのバ-グマンはただもう美しいの一語に尽きた。・・いままでのアメリカ映画でこれほど清らかで、しかも美しい女優がいたであろうかと見とれるばかりであった。・・「カサブランカ」という舞台劇の映画化にバ-グマンをイルザの役に。バ-グマンの映画女優のまさに歴史はここにはじめてスタ-トしたというほどのこれは大成功であった。バ-グマンはやっぱり清らかで美しく、しかも恋に酔うと言うよりも恋に泣くといった可憐な女性の役が向くのであった。・・・私はバ-グマンを不幸だった女性と思う。美しいばかりに女優の世界に入りこんだそのことが彼女を生涯苦しめたと私は思う。「追想」から22年後-「秋のソナタ」(1978)で本格女優時代がきたと思った矢先にバ-グマンは死亡した。1982.8.29 享年67歳。
ロ-レンス・リ-マ著「イングリッド・バ-グマン」の最終章は、果てしない海と題されている。P.500
この伝記の最後-イングリッドの死後-は、次の印象的な文章で終わる・・・。
「ラルフとイゾッタは、スウェーデンの牧師といっしよに小さな船に乗って海へ乗り出した。彼らはイングリッドの骨灰を水のなかに撒き、岸に残った人々は花の籠を波間に投げた。海は凪いでいて、籠はゆっくりと漂っていった。そして、やがてウミザリガニの壺の手入れをしていた漁師のところへ流れ着いた。漁師はどうして海面が花でいっぱいなのかわからなかったが、籠には手を触れなかった。それで、花はさらに遠く外海に漂っていき、果てしない海へと消えた。」
鈴木-補足
ラルフ-スウェーデン人。1958.12に結婚した夫ラルフ・シュミツト。イゾッタ-元夫のロベルト・ロッシ-ニとの間にできた娘。ここでいう海とは、イングリッド・バ-グマンの生まれ故郷、スウェーデンの南西海岸の海である。ダンホルメン島はイングリッドが、生前から大好きだったという島である。
イングリッドは人前でスピ-チをするのが好きだった。
「青春は人生の一時期ではなく・・精神の状態です。あなた方の心が、大地や人間や無限から、美、歓喜、勇気、光輝、そして力のメッセージを受け取っている間、あなた方は若いのです。興奮がみんな静まって、あなた方の心がペシミズムの雪でおおわれるとき、あなた方は老いていくのです」 P.492
バ-グマンのキャリア ・出演映画本数/ 約50本 ・出演舞台本数/ 約10 ・キャリア/ 1934-1979年 約45年
鈴木慶治-
バ-グマンにはロッセリ-ニの間に3人の子どもがあり、そのひとり、イサベラ・ロッセリ-ニ(1952.6.18-)はケビン・コスナー主演の「ワイアット・ア-プ」(1994)に出演。生涯ア-プに連れ添う重要なケイト(ア-プ夫人)を演じた。その美貌と存在感に吃驚したが、ロッセリ-ニの名でバ-グマンの娘と知った。残念ながら他の作品はいまだ見る機会がない。-鈴木慶治 2020.4.18 記
下の写真がイサベラ・ロッセリ-ニ
イングリッド・バ-グマン・DVD 10巻 封切年 共演者
カサブランカ1942・ハンフリ-・ボガ-ド/誰が為に鐘は鳴る1943ゲ-リ-・ク-パ-/ガス燈1944シャルル・ボワイエ/ジャンヌ・ダ-ク1948ホセ・ファラ-/
凱旋門1948シャルル・ボワイエ/汚名1946ケ-リ-・グラント/ジキル博士とハイド氏1941スペンサ-・トレイシ-/聖メリ-の鐘1945ビング・クロスビ-/白い恐怖1945グレゴリ-・ペック/山羊座のもとに1949ジョセフ・コットン/
バ-グマン・ドキュメンタリー映像 DVD
アカデミ-主演女優賞・「追想」Anastasia- 二十世紀フォツクス社 1956年。41歳 共演者/ユル・ブリンナ-、ヘレン・ヘイズ
バ-グマンの10年ぶりの国際的ヒット作。映画評・ニュ-ヨ-ク・タイムズ「まつたくすばらしい-アカデミ-賞にふさわしい、美しく彫琢された演技」と絶讃した。年末のニュ-ヨ-ク批評家賞。翌年1957年・3月27日、アカデミ-最優秀女優賞を受賞。
スウェーデンからアメリカにきて、第1作の「別離」から17年、「カサブランカ」から14年、最初のオスカ-受賞作品「ガス燈」から12年がすぎようとしていた。アナスタシアという名前は「復活」という意味のギリシア語に由来しているという。バ-グマンについても復活を意味した。おびえた餓死寸前の亡命者から、美しさに輝く王女へと変身して復活をとげるバ-グマンと、ヘレン・ヘイズ扮する皇太后との対決シ-ンはこのドラマの最大の見せ場である。果たしてアナスタシアは本物の皇女であったのか、単に精神不安定で記憶をなくしただけの女、アンであったのか。観客にこの映画は問う、「あなたはどちらと思いますか」と。皇太后の最後の台詞-「さあ劇はもうおわり・・」は、映画そのもののTHE・ENDを意味する洒落た台詞だった。
ユル・ブリンナ-は皇女に仕立て上げる将軍役で、知的で、厳格だが、表に表さない強い優しさを持つ-見事なはまり役だった。鈴木慶治
大スタ-は自分自身の私生活もドラマにかえてしまうものか。
鈴木慶治-
○イングリッド・バ-グマンの次に紹介する俳優さんは、バ-グマンより2歳年上の女優-。
タラへの旅 南北戦争がドラマの時代背景。
スカ-レット・オハラを演じる女優を捜すためにディヴィッド・O・セルズニックは5万ドルの費用と2年半の月日を費やした。
「風と共に去りぬ」の撮影は1938年のよく晴れた、冷たい12月のゆうべ、7台のテクニカラ-・カメラが待機している彼の撮影所で、
主演女優がきまらないまま開始された。・・・マ-ガレット・ミッチェルの世界的に名の知られたヒロイン-スカ-レット・オハラ・・・。
ジョ-ジア州の3つの部でもっとも細い、17インチ(43センチ)のウェストの彼女は発見できないのではないかと思われた。・・・
鈴木慶治-
1967.7.8 ロンドンのアパ-トで誰からもみとられることなく、たったひとりで亡くなった女優がいた。
彼女の代表作は「風と共に去りぬ」1939・「哀愁」1940・「欲望という名の電車」1940 など・・。
ヴィヴィアン・リ-Vivien Leigh 。-亡くなった時は54歳という若さであった。
ヴィヴィアン・リ-(1913.11.5-1967.7.8)
イングリッド・バ-グマンは(1915.8.29-1982.8.29)。
ヴィヴイアンの出生と幼い頃-インド・修道院の生活
アン・エドワ-ズ著・「ヴィヴィアン・リ-」第一章から
「1913年11月5日の夜-カンチェンジェンガとエヴェレストの雪に覆われた頂に太陽が沈み、インド、ダ-ジリンの街に灯りがつき始めたとき、英国人の医師が二階から降りてきて、この世にめったにいないほどの美しい女の子の父親になったことを告げた。・・・インド人の女中も母親に言った。カンチェンジェンガを見た直後に生まれた子は、完璧な美貌を保証される」 P.15
-些か脚色めいた出生話であるが、他に比べようもないほどの美しさであったようだ。-鈴木慶治
ヴィヴィアン・メェリ-・ハ-トリ-は、フランス人とスコットランド人の先祖の血をもった母、ガ-トル-ド・ロビンスン・ヤクジュと、アイルランド生まれで演劇に関心が高く、野心家で、冒険好きの父、ア-ネスト・リチャ-ド・ハ-トリ-を両親にしてインドで生まれた。英国の統治時代、多くの青年が冒険を求めてインドに集ったという。 P.15
幼いころの7年間をインドですごしたことと、異国的な匂いのする美貌とがむすびついて、彼女くらいの年齢の少女にはめったにない神秘性をヴィヴィアンに与えていた。母親はカトリック教徒に育てるべく、1920年、ボンベイから英国の汽船にのる。・・7歳に満たないヴィヴィアンはロンドンのロ-ハンプトン聖心修道院の寄宿学校に入る・・。(インドに帰る)母との別れの時、ヴィヴィアンは涙を流し、ことばをつくして(彼女はどっちも多量に持ち合わせていた)、母の決心をひるがえそうとしたが、ガ-トル-ドは心を動かされず、修道院長のたくましい手を握って中庭に立っているヴィヴィアンを残して立ち去った。・・・髪はいつもきれいにととのえて、制服はききちんとしていて、話を始めるとたちまち聴き手を魅了したという。
P.17
○淀川さんから見たヴィヴィアン・リ-
淀川-
「ヴィヴィアン・リ-の美しさは、あたかも冬の夜の三日月を思わせた。
ヴィヴィアン・リ-の美しさは、5月の風にそよぐ白いカ-テンの影に見え隠れする、リンデンの黄色い花を思わせた。
ヴィヴィアン・リ-の美しさは、エメラルドよりもダイアモンドよりもパ-ルを思わせた。」
鈴木-
ナガハルさん(淀川長治)は、ヴイビアン・リ-を上のように形容した。その美しさに対する最大限の賛辞だ。
イギリス映画最高の名優ロ-レンス・オリビエにヴィヴィアンは夢中になり、オリビエを追ってハリウッドへ。(25歳)
オリビエの案内したセルズニックのスタジオからビビアンの-歴史的歯車が回転しだした。主役のスカ-レット・オハラが決まらぬまま「風と共に去りぬ」のアトランタの火災シ-ン。これをオリビエはヴィヴィアンに見せた。その彼女をセルズニックが、ひと目で惚れ込んでスカ-レット・オハラ役を彼女に・・。
○ヴィヴィアン・リ-とスカ-レット・オハラとの出会い。ウィキペディアからの引用-
オハラ役の女優はなかなか見つからない。1936.7から2年4ヶ月の間に面接した候補者は1400人。スクリ-ンテストを受けた者は90人・・ベティ・デイブィス、キャサリン・ヘプバ-ン、ラナ・タ-ナ-、ス-ザン・ヘイワ-ド・・
セルズニックのイメ-ジに合う女優はいなかった。主演女優未定のまま撮影に入り、いきなり映画の中盤の見せ場であったアトランタ市街の炎上シ-ンから撮影を始めたが、その時にたまたま見学にきた英国の舞台女優ヴィヴィアン・リ-がアトランタ炎上の撮影場面を見つめていた。
その姿を見てセルズニックが叫んだ。「スカ-レット・オハラがここにいる」と。1回のカメラテストで即主演女優に決まった。
映画「哀愁」のワンシ-ン 「風と共に去りぬ」の翌年 1940年の公開 アメリカ映画 27歳頃のヴィヴァン・リ-
『哀愁』(あいしゅう、原題:Waterloo Bridge)は、1940年公開のアメリカ映画である。監督はマーヴィン・ルロイ。主演のヴィヴィアン・リーは、前年製作の『風と共に去りぬ』では乱世を生き抜く強い女性を演じたが、本作ではその反対のか弱い踊り子を演じている。
<あらすじ>1939年9月3日、英独開戦の日。開戦により慌ただしくなるロンドンの街で、ロイ・クローニン大佐は予定を変更してウォータールー橋にたたずんでいた。回想にふける彼の手にあるのは、ビリケン人形、幸運のお守りだった。舞台は、第一次世界大戦中に遡る。イギリス軍将校のロイ・クローニン大尉(ロバート・テイラー)とバレエの踊り子マイラ・レスター(ヴィヴィアン・リー)はウォータールー橋でめぐり会う。・・・・最後は、ウォータールー橋で軍用トラックに身を投げてマイラは自ら命を絶ってしまう。事故現場にはあのビリケン人形が落ちていた。
鈴木-補足 <途中、二人の間にどんなドラマがあったかは、映画をみてください。再び1939年、「愛していたのはあなただけよ」マイラの真実の言葉を胸に、ロイはウォータールー橋を立ち去っていく。