映画紀行


洋画

モロッコへの旅-「カサブランカ」のイングリッド・バ-グマン・当時26歳 (1915.8.29-1982.8.29)
バ-グマンの美貌に魅了された映画-モロッコを舞台にした「カサブランカ」。ワ-ナ-・ブラザ-ス、1942年 

 

鈴木慶治-心に残る映画
「カサブランカ」<1942年封切映画>をBS放送(2020.3)で見た。「イングリッド・バ-グマン」-は心に残る魅力的な女優さんだ。
1960年代後半の10代の終わりに初めて見た時は、社会・歴史背景-フランス領モロッコと反ナチ活動-などがよく理解出来ず、バ-グマンの演じるイルザという女性の葛藤・心の揺らぎが正直よくわからなかった。その当時の自分より「大人の映画」だったのだ。単なる恋愛劇かとさえ思っていた。今、この映画の制作が、78年前・昭和17年-第2次大戦中の映画だったのが信じられない。反ナチ活動は映画の中だけの事ではなかった。最初の感想からバ-グマンの魅力は「清らかで美しい」という印象。大戦中という時代の中、2人の男性の間で心が切ないほどに揺れ動く、バ-グマンの泪・・・・単に美しいだけでない理知的なイルザ役のバ-グマンがいた。そしてリックを演じるハンフリ-・ボガ-ドが感じさせる、渋さ、哀愁感、孤独感-は魅力的だ。ボガ-ドの演技で、この映画のバ-グマンの魅力はより深まったと思う。鈴木
                                         
カセブランカ Casablanca ワ-ナ-・ブラザ-ズ 1942年 制作 ハル・B・ウォリス
監督 マイケル・カ-ティス 
出演 ハンフリ-・ボガ-ド イングリッド・バ-グマン ポ-ル・ヘンリ-ド クロ-ド・レインズ 他

スウェ-デンへの旅  

○「イングリッド・バ-グマン-時の過ぎゆくまま AS TIME GOES BY」 第1章から

イングリッド・バ-グマンはスウェーデンに生まれた。母、フリ-デル・アドラ-・バ-グマン(ドイツ人)と、それより13歳年上の父、ユスタス・サムエル・バ-グマン(スウェーデン人)の間に1915.8.29生まれた。母フリ-デルは3人娘の2番目。母性的な美しさを持った女性で、ユスタスが世事に疎く気まぐれであるのと対照的に、きっぱりと実際的で大地に足をつけていた。イングリッドが3歳の時、34歳で病死。父ユスタスは多芸多才な人で写真館を経営し成功、絵筆をにぎり画家を目指すこともあった。特に音楽好きで彼が入っていた合唱団は2度アメリカに演奏旅行をした。娘がいつかオペラ歌手になってくれないものかと考えたという。フリ-デルの一人目の子は生まれてすぐに死に、二番目の子は生後1週間目に死んだ。イングリッドは神からの授かりものであった。誕生以来、両親はこの子を溺愛した。2歳になるスウェ-デンの王女にちなんでイングリッドと名付けられた。ユスタスは家族の家長という柄ではなく、彼女のよき師であり、友だちであり、仲間であった。イングリッドは父の前で演技をして、その言葉や仕草で父の顔を輝かすのが大好きであった。イングリッドにとって、演技をすることは自分や周囲の人々の喜びと楽しみであり、毎日の生活の陳腐な習慣から抜け出す旅のようなものであった。独りでいるときも、彼女はすばらしい人物や物語の世界を創造しながら演技をした。・・・11歳の頃、父はイングリッドを芝居に連れて行った。最初の幕間に、彼女はこう宣言した。「パパ、パパ、これこそわたしがやりたいことよ」・・その父もまたイングリッドが12歳の頃にこの世を去った・・・。
最初の伴侶、ペッタ-・ア-ロン・リンドストロ-ムとの出会いは18歳の王立演劇学校時代のこと。26歳の若い歯科医-スウェーデンを通じて歯科医学の博士号を持つ唯一の医師であった。後年、アメリカにおける著名な神経外科医となり、ヨ-ロッパではスウェーデン政府の顧問、国際的な名声を持った開業医となる。1937.7.10 イングリッド21歳、ペッタ-29歳の結婚。妻のハリウッド進出後、様々な愛憎劇のトラブルに出会うことは当時知るよしもなかった。ペッタ-は生涯にわたってイングリッドの良き理解者であろうと努めたが・・・。

母フリ-デルとイングリッド

イングリッド・バ-グマンとスウェ-デン映画

ハリウッドにくる前、自国のスウェ-デン映画に出演した。
1934年封切の「修道士橋の伯爵」にはじまり、1939年封切の「一夜かぎり」まで。スウェ-デン映画の1作品「間奏曲」1936が関係者の目にとまり、ハリウッド進出のきっかけとなったのはよく知られている。スウェ-デン時代の作品は80年以上も前の映像であるから、画質が劣るのはやむをえないが、その時代の雰囲気といったものは十分に感じ取れる。-時代背景やストリ-展開に違和感もあるが「イングリツド・バ-グマン」という女優に視点をおいて見れば、それなりに興味深いものがある。バ-グマンのスウェ-デン映画は、86年~81年も前にもかかわらず、ネット検索すると、DVDまで出てくる。-鈴木慶治


アメリカ・ハリウッドへの旅

○「同上-時の過ぎゆくまま」からの引用  P.114-115
「イングリッドは1942年4月20日、ついに新しい映画の役がついたことを知った。彼女はこれ以上興奮できないほど興奮した。ベッドに入っても眠れなかった。彼女は三度も階下に降りて独りで居間にじっとすわっていなければならないほどだった。数日後には出発してハリウッドへ、自分の世界に帰って行く。彼女は新しい映画について「カサブランカ」という題名以外何も知らなかった

鈴木慶治-補足
題名以外何も知らなかったとは驚きである。ハリウッド進出後、「別離」「四人の息子」「天国の怒り」「ジキル博士とハイド氏」と出演映画の作品が続いたが、次の仕事までの休息期間が長かった。ハリウッドの大物プロデュ-サ-、セルズニックがバ-グマンと専属契約を結び、映画作品をほぼ独占的に管理、選択をしていて、仕事を自身で選べることは出来ずにいた。はやく次の仕事をしたいという強い願望があった。それが満たされる歓喜-興奮であった。バ-グマンにとって休息は仕事の中にあったのだ。

バ-グマンの美しさはどこからきているのだろう-。北欧の神秘性・ミステリアスな部分ドイツという硬質な部分が「血の遺伝子」になって、この女性の容貌と内面を形成したと思うしかない。いずれにしてもそれまでのアメリカ女性にない美しさがあった。-鈴木慶治

カサブランカのワンシ-ン。上、下

映画「カサブランカ」から2年後の「ガス燈」1944年。今から<76年前>の作品・イングリッド・バ-グマン 当時29歳頃 
アカデミ-主演女優賞-この作品でもバ-グマンはただただ美しい。

「男たちがイングリツドに恋する場合、彼らは彼女の美しさ、いかにも人恋しげな風情、その傷つきやすさに恋した」ローレンス・リ-マ P.227

アルフレッド・ヒッチコック監督 「汚名」1946年 31歳頃 共演はケ-リ-・グラント

美貌であるということは罪である」とはイングリッド・バ-グマンを見て思うことである。多くの男性とのロマンスがたえなかったのは、彼女ひとりのせいともいえず、この瞳で見つめられれば相手は精神のよりどころに窮してしまうのだろう・・・-鈴木


イングリッド・バ-グマンの本(評伝・自伝)が自分の手元にある。鈴木慶治 

○「イングリッド・バ-グマン」-時の過ぎゆくまま AS TIME GOES BY 1989.10.30 第1刷発行 朝日新聞発行 
著者 ロ-レンス・リ-マ- 訳者 大社淑子 総数501ペ-ジ 
訳者あとがき-
「ここに描かれているのは、美貌と才能に恵まれ、愛と家庭と名声を得て幸せな生活を送ったかに見えながら、実は孤独と倦怠に苦しんだ、無邪気で傷つきやすい外見の下に、女優という仕事のためには家庭と子供さえ犠牲にしかねないはげしい野心と意志を秘めた女性の壮烈な生涯である。」
バ-グマンの死とその後にも触れた「生涯を通した」伝記である。


「誰が為に鐘は鳴る」(1943年封切)は、イングリッドが強く希望、念願した作品であった。映画で有名になった髪型マリア・カット。当時27歳。
「カサブランカ」のイルザとは違った野性的なマリア役のイングリッド・バ-グマンに出会うことになる。

共演はゲ-リ-・ク-パ- 原作はア-ネスト・ヘミングウェイ ロ-レンス・リ-マ著「イングリッド・バ-グマン」から P.132

「イングリッドはゲ-リ-・ク-パ-に会って、顔を赤らめた。「今日は、マリア」と彼が言ったので、彼女は再び赤くなった。山上のここまで来るとイングリツドはマリアで、ク-パ-はロバ-ト・ジョ-ダンであり、二人はこの場所の野性的な美しさのなかで自分たちの生活と愛を生き抜いているのだと、ほとんど信じたくなるのだ。・・イングリッドはク-パ-に恋した。あるいはマリアがジョ-ダンに恋したのだろうか」。

「白い恐怖」1945年 ヒッチコック監督 共演 グレゴリ-・ペック

「白い恐怖」の中でイングリッドが演じた役は精神分析医。記憶を喪失した医者J.Bに扮したのがグレゴリ-・ペック。
-イングリッド自身は自分の心について熟考するような人間ではなかった。それが精神分析医という難しい役に取り組んだ。-

 

○「イングリッド・バ-グマン-「マイストリ - 」筆者 イングリッド・バ-グマン、アラン・バ-ジェス 新潮社版
1982.1.20 第1刷発行-後述こちらは、1979年11月開催のバ-グマンの功績をたたえる記念の夕べまで記した伝記。
手紙、日記、報道資料からバ-グマン自身と共同筆者のアランが内容を構成。  
訳者 永井 淳 訳   総数610ペ-ジ

「マイ・ストリ-」はバ-グマン自身が題材を集め監修した生前の伝記
「1979年11月開催のバ-グマンの功績をたたえる記念の夕べで終わっている。バ-グマンの生涯についてかなり詳しく語ってはいるものの、本人が発表したいことだけを語り、隠しておきたいことについては述べていないという点では、全貌を明からにするものではない」。ロ-レンス・リ-マ

「本書を通読するとき、女優である前にまず人間であろうとするこの大スタ-の、強固な意志に貫かれた生き方に感銘をせざるをえない。」と訳者の永井淳さんは言う。
一方「イングリッド・バ-グマン」の訳者、大社淑子さんは「イングリッドの生き方は女優という仕事のためには家庭と子供さえ犠牲にしかねないという。イングリッドの生き方は、よき人間であろうとすることより女優を優先したように思う。少なくとも子ども達や夫にとっては、良き、母親・妻・女性というわけにはいかなかったようだ。- 鈴木慶治
冒頭・著者覚え書き-から
-息子のロベルトがひどく心配そうな表情をうかべてわたしに言った。「あなたの死後、たくさんの人々が・・・あなたの伝記を書こうとするだろうけどそうなってもぼくたち子供は、真相を知らないからお母さんを弁護しようがないんだよ。だからお母さん自身に書いてほしいな。」
わたしはその言葉を聞いて大いに考えさせられた。その結果として、愛する子供たち-ピア、ロベルト、イサベラ、そしてイングリッド-よ、ここにわたしの真実がある。

(ハリウッド進出・第1作映画 間奏曲・邦題「別離」1939年)-カラ-映画のスクリ-ンテストでメ-キャップなしで撮られた。
当惑して、はにかみ、おとなしい子鹿のような性質をにじみださせていた。半透明な肌が生命と情感とでばら色に輝き、顔は美の万華鏡のように見えた。セルズニツクの代理人ケイ・ブラウンはテスト写真を見て納得した。「テクニカラ-で撮影されたら最後、あの娘の自由はなくなってしまうわね・・・」-   ロ-レンス・リ-マ著「イングリッド・バ-グマン」 P.76 から 当時・24歳-スウェーデンからアメリカへ
鈴木-この後、ケイ・ブラウンが言った通りに事実は進んでいくことになる。個人的自由はなくなり仕事そのものに置き換えられることになる。

ハリウッド進出・記念すべき第1作 「別離」 1939年封切 共演者のレスリ-・ハワ-ドは「風と共に去りぬ」でアシュレ-役を演じた。

ハリウッド第1作品「別離」のバ-グマンは初々しい。右側


○イングリッド・バ-グマンは「カサブランカ」をどう考えていたか。-ロ-レンス・リ-マ著<時の過ぎゆくまま>-P.134 から引用。
「カサブランカ」は、イングリッドの考えでは単なる商業映画にすぎない、妥協の産物のような作品であった・・。イングリッドの女優歴につきまとう皮肉の一つは「カサブランカ」が不朽の名作となったことである。彼女がマリア役-「誰がために鐘は鳴る」の役-を失ったと思い、その悲しい代替物としか考えなかった映画「カサブランカ」こそが、イングリッド・バ-グマンの人気の素地を作った作品だった。
それは彼女の他の多くの映画が地下倉庫に移管されたあとも、いつまでも愛され、讃えられ、上映されることになった映画だった。
鈴木慶治-
自分たちの心に残る映画が、本人にとっては「妥協の産物」であり、単なる商業映画、次の作品への合間の映画であるとしたら
何か寂しくもある。バ-グマンの目指す映画が他にあったのを簡単に納得・理解したくない気持ちになる。より文芸的・芸術的なものをと考えていたのだろうが・・・・。映画「カサブランカ」に対する、イングリッドの評価は生涯変わることがなかった。人々が長くなぜ好意的にこの映画を歓迎してくれるのか理解することはなかった。ある晩、アメリカ映画協会による「カサブランカ」の特別映写会に出席した。全部再び見るのに耐えられなかった。イングリッドは「わたしが死んだら、あの映画はもう決して上映しないでほしいと思うわ」、と言ったという・・・。-P.423

スウェ-デンへの旅
 
○バ-グマンはどこに眠っているのか- 
沢木耕太郎氏の著作に「キャパへの追走」-文春文庫・2017.10.10。墓地に降る雪 P.276-
その中でイングリッド・バ-グマンのねむる墓にふれた文章がある。長くなるが詩情あふれる文章なので紹介する。

キャパとイングリッド-
「1944年6月6日の「ノルマンディ-上陸作戦」から1年後の1945年の6月6日、キャパと「世紀の大女優」との1年以上も続くロマンスが始まるのだ。・・・キャパがイングリッドに出した手紙が、バ-グマンの自伝「マイ・ストリ-」にある。
「-きみがつぎつぎ契約書にサインして、ますます人間らしさを失い、伝説と化していくことを憂えている。成功は失敗よりも危険で、人間を堕落させるから、充分注意しなくちゃならない。」
バ-グマンは、キャパの死から28年後の1982年、8月29日。ガンに冒されて死ぬ。・・・私がスウェ-デンのストックホルムを訪れたのは
12月に入ったばかりのときだった。中央駅の近くのホテルに泊まった私は、翌朝、フロントの女性に「北霊園」までの行き方を訊いた。
そこにイングリッド・バ-グマンが眠っているはずだったからだ。フロントで教えられたとおりバスを2度乗り継ぎ、市街地から
だいぶ離れた寂しい停車場で降りた。大きな通りの向かいにある墓地はすぐにわかった。しかし、中に入ったもののあまりにも広大すぎて
バ-グマンの墓をどのように捜していいかまったく見当もつかない。
やがて雪が舞いはじめてきた。-ようやくこれがバ-グマンの墓なのかと思えるような質素な造りの墓を発見することができた。
細かく小さな雪の降る広大な墓地は、墓参の客などひとりもいないのではないかと思えるほど静まり返っている。
空からは灰色の雲が重く垂れ下がっているため、午前と思えないほどあたりは暗い。私は中央にただ「イングリッド」とだけ記された墓の前に立って、しばし思いを巡らせた。キャパの死は不慮の死だったが、バ-グマンは病の中で自らの死について考える時間が充分にあっただろう。そのうえで、病と戦い、勇敢に仕事をつづけ、自覚的に死んでいった。彼女の最後の劇場用映画作品は「秋のソナタ」-監督はイングマ-ル・ベルイマンである。ベルイマンはBergmanと書き、バ-グマンのBergmanと同じである。スウェ-デンではバ-グマンでなくベリマンと発音するらしい。
「秋のソナタ」は、二人のベリマンによって作られた映画といえる・・・。
その彼女は、ハリウッドのスタ-時の名前である「バ-グマン」として死んだのか、再婚したロッセリ-ニの国で呼ばれていただろう「ベルグマン」として死んだのか、あるいはこの墓がある生まれ故郷のスウェ-デンの名である「ベリマン」として死んだのだろうか・・・・。
私は、本格的に降りはじめた雪の中を霊園の出口に向かって歩きながら、この寒さの中で少女時代を過ごした彼女にとっては、やはり「ベリマン」として生き、死んだと考えるほうが自然かもしれないな、などと思ったりしていた。」 以上 「キャパへの追走-墓地に降る雪」から

鈴木慶治-補足
キャパについて「ロバ-ト・キャパ」 1913-1954。キャパについて-他に沢木著「キャパの十字架」・R.ウィ-ラン著「キャパ」がある。
1913.10.22にハンガリーの首都ブタペスト生まれた。本名エンドレ・エルネ-・フリ-ドマン。
1946年-前年からあたためられていたイングリッド・バ-グマンとの友情は恋愛に変化していた・・・。
スペイン、中国、アフリカ、イタリ-、ノルマンディ、イスラエルなど、戦闘の最前線を駆けめぐり「戦争」を撮り続けた世界的に著名な報道写真家、フォトジャ-ナリス。バ-グマンより2歳年上。1954年5.25、40歳のとき、ヴェトナム・ハノイの南方で地雷に吹き飛ばされて即死。亡くなる直前まで日本に滞在していた。1954.4毎日新聞社の招きで日本を訪れている。
バ-グマンの墓が人目につかない場所にあり、しかも質素なつくりというところに胸をつかれる。人生の華やかな表舞台に比較すれば、何という落差だろうか。今や完全とまではいわなくとも「忘れられた」ようにひっそりとバ-グマンは眠っている。
あたりに人の声もなく、「ただ-あたりに白い雪が降っている-」。・・・「キャパへの追走」を読みながら、自分もまた、バ-グマンその人の人生に思いをめぐらしていた。

映画といえばこの人、この人といえば映画。-ナガハルさんこと「淀川長治」先生の著書の紹介。

淀川長治 氏-1909-1998 享年89歳
「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」 近代映画社 1988.12.25第一刷発行

淀川長治-イングリッド・バ-グマンについての記述

鈴木慶治-
淀川長治さんが、テレビ放送「ララミ-牧場」の解説を引き受けたのは、氏が51歳・昭和35(1960)年とのこと。
当時私は10歳前後。他に娯楽の少なかったこともあり、毎週、むちゅうでこの番組「ララミ-・・」を見ました。
最後に淀川さんが毎回「・・・。ハイ、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」という言葉は、鮮烈な記憶として今も残る。
淀川長治さんから見た、イングリッド・バ-グマン
淀川長治-
「スウェーデン生まれのガルボが一生涯、演技で苦労したように、バ-グマンも一生涯、演技で苦労した不幸な女性と思う。
ガルボもバ-グマンも、私には美人にはまちがいないが、いつまでも女優でなく素人というような気がつきまとったものである。
・・バ-グマンは2度アカデミ-主演女優賞と1度の助演女優賞をとっている。一つは「ガス燈」(1944)であり、もう一つは「追想」(1956)。
私は「追想」と「秋のソナタ」(1978)にバ-グマンの実力を見た。・・自分が映画界で生きるか死ぬかはこの「追想」の出来不出来にある、と見たバ-グマンの悲壮な決意があの名演をもたらし、彼女はアカデミ-賞をとったのである、と私は思った。」
鈴木慶治-補足
夫と子を捨ててロッセリ-ニ監督のイタリアに去った(1949-)ことで、バ-グマンはハリウッドから大きな批判、怒り、悪評をかう。

イタリアへの旅-1949-1957

ハリウッドでは絶対に前の映画以上の成功は望めないのよ。わたしはヨ-ロッパで芸術的な特別の映画を作らなきゃ。」「イングリッド・バ-グマン」
映画「ジャンヌ・ダルク」や「凱旋門」は興行的に大失敗作となる。監督ビクタ-・フレミングはこのために心臓発作で死去と噂される。イングリツド自身の受けた精神的な打撃も大きかった。深酒・憂鬱症に悩まされる。-イタリア行きの要因となったか。


イングリッド・バ-グマン評伝・「時の過ぎゆくままに」-から
1949年9月3日の-夫の妹アンナ宛-のイングリッドの手紙 p.274
「いつもペッタ-とピア(夫と娘)のことを考えています。でも同時に、引き返すのは不可能だと自分に言い聞かせています。ペッタ-は落ち着いたいい人です。それは本当によくわかっています。でもわたしはフリットフォ-ゲル(渡り鳥)です。わたしは小さい頃から、いつも何か新しい、新しいものを探してしました。大きな冒険にあこがれていました。わたしは多くのものを持ち、見、経験したのですが、決して十分ではありませんでした。わたしは毎日の悲しみを終わりにして、幸福と満足を見つけようとしました。でも何が幸福と平和を与えてくれるのかわからなかったのです。親愛なるアンナ=ブリッタ、これが本当の幸せだと、どうしてわかりましょう。わたしが大きな一歩を踏み出してしまったことは、よくわかります。でも、誰に終わりがわかるでしょう。・・」   
なんと罪深い渡り鳥かと思わざるをえない。-鈴木慶治

イタリアの監督フェデリコ・フェリ-ニのイングリットに対する回想-時の過ぎゆくままに-から P.295.6
「わたしは家にいる彼女をはじめて見ました。彼女はいつも映画で見るとおり女王で、晴れやで、おだやかて、聖女めいていました・。彼女はいつも理解しようと努力していました。(周囲の世界があまりよくわからない妖精の女王であった。)ときには、われわれがなぜ笑っているのかわかりませんでした。・・・われわれのうちロベルトをよく知っている人間にとっては、二人かいっしょにいるのを見るのは意表をつかれる思いで、いつも驚かされました。」
-これは、(当時)イングリッドがイタリアとイタリア文化のニュアンスや微妙な部分が把握できなかったからだ。

フェリ-ニ監督の妻で女優-映画「道」の宿無し役で世界的名声をえたジュリエット・マシ-ナから見たのイングリッドとロベルト P.310
「イングリッドは太陽みたいな人、光のように透明だったわ。彼女は直接的やり方に慣れてる人でしょ。でもロベルトは全然違うのよ。教育から気質やしきたりにいたるまで。この二つの生活様式を和合させるのは、ものすごく大変。わたしは友だちとしてはロベルトが大好きだけど、いっしょに暮らしたいとは思わないわ。彼を信じるなんて、不可能な話よ。彼はどっさりくれるけど、次の瞬間には、もうどこかへ消えているんですもの。ある意味じゃ不安定っていうのかしら。彼は話は上手いし、聞き上手だし、話し好きな男で、外交的なのね。でも孤独でいるように生まれついた人なのよ。」
-彼は直観的な天才で、ペテン師で、占い師で、魔法使い、うそつきだった。冒険家で、ごろつきで、詐欺師・・・自己中心的な人間で不安の悪臭を発していた。 著者ロ-レンス・リ-マ

「ロベルトはと組んだイングリッドの映画生活の悲劇は、彼らがいっしょに失敗作を作ったことではない。イングリッドがいまだにロベルトの作品を讃美している人々があることは知ってはいても、彼の最近の映画で彼らが讃美しているのはいったい何なのか、全然理解しなかったことである。彼女には夫の芸術的な情趣と挑戦-ロッセリ-ニの最上の持ち味-がわからなかったのだ。」 筆者ロ-レンス・リ-マ P.324

「ミス・バ-グマンとミスタ-・ロッセリ-ニは仕事の流儀を根本的に変えるか-隠退して威厳のある沈黙を守るか、どちらかを選ばねばならない。バ-グマンとロッセリ-ニが飛びこんだ奈落の深さは「恐怖」(ふたりの共同映画)によって計ることができる。これは「恐怖」が、彼らの他の近作よりいささか劣っているからではなく、(作品)の五、六回やって否定的な結果しか出せないのであれば、この夫婦は大衆や批評家に受け入られる作品は何ひとつ作りえないということを証明しているからである。かつては文句なしに世界随一のスタ-であり、グレタ・ガルボの後継者であったミス・バ-グマンは、最近の作品で見るかぎり、彼女自身の影にすぎない。」 批評家 アンジェロ・ソルミ P.329

フェリ-ニ監督の言葉
「はじめから、イングリッドとロベルトの結びつきは少し奇妙でした。・・それはピノキオと青い髪の妖精との関係と同じように見えました。イングリッドを通して、ロベルトはいい少年になる可能性もあったのです。もっとも、ひょつとしたら、女ピノキオになる危険をおかしたのは青い髪の妖精のほうだったかもしれません。しかし、ピノキオがいい少年になる前に妖精は去ったのです。奇蹟はついに起こりませんでした。」P.331

鈴木補足-イングリッド・バ-グマンはイタリアでロッセリ-ニ(1957離婚)との間に3人の子(1男1950生-2女=双子1952生)をなした。そして捨てたアメリカには、当時、前夫(1950離婚)と娘(1938生・12歳)がいた。離婚後子供達の親権をめぐり多くの問題を抱えることになる。子ども達から考えるとなんと<罪深い渡り鳥=母>かと思わざるをえない。鈴木慶治

淀川長治-「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」から
ロッセリ-ニとの逃避行で、アメリカ、ハリウッドからなかば追放処分になっていたバ-グマン。それが数年がたち、ハリウッドのバ-グマンへの怒りが冷めて、彼女を迎えてやろうとした作品が「追想」(1956)であった。

再び・ハリウッドへの旅

1957.1.19 イングリッド・バ-グマンのアメリカへの帰国-ロ-レンス・リ-マ著「イングリッド・バ-グマン」 P.355
写真家やカメラマンが潮のように(空港へ)殺到した。記者の質問「新聞雑誌があなたの人生の問題(イタリアへの逃避行、結婚、出産)を扱ったときのやり方(悪意ある醜聞報道)に批判をお持ちですか。」イングリッド「ええ、もちろん、批判は持っていましたわ」と半ば微笑しているような口元で言った。「個人は私生活を持つべきだと思います。でも女優の道を選んだのだったら、その両面を受け入れなければならないことも知っています。そういうことですわ」イングリッドは、話しているとき、世慣れたヨ-ロッパ人の女性であると同時にどことなく悲しげな子どものように見えた。別な記者の質問「振り返ってみて、過去数年間(イタリア1949-1957)の行動について何らかの後悔をしておられますか。ミス・バ-グマン?」
イングリッド「いいえ、全然後悔はしておりません」彼女は突然まじめになって言った。「わたしが後悔しているのは、しなかったことに対してであつて、したことではありません」イングリッドは頭を後ろにのけぞらせて笑った。希望とひそやかな思いに満ちた笑いだった。「いいえ、すばらしい人生だったと思っています」と彼女は、自分の過去について話すときしばしば見せるはげしさをこめて続けた。「わたしは、したいと思うことをしてきました。勇気と冒険心を与えられていますので、それが励みになっていたのです。それから、ユ-モアの感覚とほんの少しの常識もありました。とてもゆたかな人生でした」
  
-鈴木慶治 記者とのやりとりの言葉からイングリッドの女優としての矜恃、強さ、厳しさを感じるともに反面で人間としての孤独、悲しさ、弱さも同時に感じとれる。「自分はユ-モア感覚と少しの常識もある」という言葉は、自身に対する矜恃と、集まった記者達に向けた皮肉ではなかったか。

淀川長治「「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」から
「バ-グマンにはイタリアに去る前に「誰がために鐘は鳴る」(1943)があり、そのもうひとつ前に「カサブランカ」(1942)がある。どちらもオスカ-は受けていない。このころのバ-グマンはただもう美しいの一語に尽きた。・・いままでのアメリカ映画でこれほど清らかで、しかも美しい女優がいたであろうかと見とれるばかりであった。・・「カサブランカ」という舞台劇の映画化にバ-グマンをイルザの役に。バ-グマンの映画女優のまさに歴史はここにはじめてスタ-トしたというほどのこれは大成功であった。バ-グマンはやっぱり清らかで美しく、しかも恋に酔うと言うよりも恋に泣くといった可憐な女性の役が向くのであった。・・・私はバ-グマンを不幸だった女性と思う。美しいばかりに女優の世界に入りこんだそのことが彼女を生涯苦しめたと私は思う。「追想」から22年後-「秋のソナタ」(1978)で本格女優時代がきたと思った矢先にバ-グマンは死亡した。1982.8.29 享年67歳。

ロ-レンス・リ-マ著「イングリッド・バ-グマン」の最終章は、果てしない海と題されている。P.500
この伝記の最後-イングリッドの死後-は、次の印象的な文章で終わる・・・。

「ラルフとイゾッタは、スウェーデンの牧師といっしよに小さな船に乗って海へ乗り出した。彼らはイングリッドの骨灰を水のなかに撒き、岸に残った人々は花の籠を波間に投げた。海は凪いでいて、籠はゆっくりと漂っていった。そして、やがてウミザリガニの壺の手入れをしていた漁師のところへ流れ着いた。漁師はどうして海面が花でいっぱいなのかわからなかったが、籠には手を触れなかった。それで、花はさらに遠く外海に漂っていき、果てしない海へと消えた。
鈴木-補足
ラルフ-スウェーデン人。1958.12に結婚した夫ラルフ・シュミツト。イゾッタ-元夫のロベルト・ロッシ-ニとの間にできた娘。ここでいう海とは、イングリッド・バ-グマンの生まれ故郷、スウェーデンの南西海岸の海である。ダンホルメン島はイングリッドが、生前から大好きだったという島である。
イングリッドは人前でスピ-チをするのが好きだった。
青春は人生の一時期ではなく・・精神の状態です。あなた方の心が、大地や人間や無限から、美、歓喜、勇気、光輝、そして力のメッセージを受け取っている間、あなた方は若いのです。興奮がみんな静まって、あなた方の心がペシミズムの雪でおおわれるとき、あなた方は老いていくのです」    P.492

バ-グマンのキャリア ・出演映画本数/ 約50本 ・出演舞台本数/ 約10 ・キャリア/ 1934-1979年 約45年 

鈴木慶治-
バ-グマンにはロッセリ-ニの間に3人の子どもがあり、そのひとり、イサベラ・ロッセリ-ニ(1952.6.18-)はケビン・コスナー主演の「ワイアット・ア-プ」(1994)に出演。生涯ア-プに連れ添う重要なケイト(ア-プ夫人)を演じた。その美貌と存在感に吃驚したが、ロッセリ-ニの名でバ-グマンの娘と知った。残念ながら他の作品はいまだ見る機会がない。-鈴木慶治 2020.4.18 記 
下の写真がイサベラ・ロッセリ-ニ



イングリッド・バ-グマン・DVD 10巻 封切年 共演者
カサブランカ1942・ハンフリ-・ボガ-ド/誰が為に鐘は鳴る1943ゲ-リ-・ク-パ-/ガス燈1944シャルル・ボワイエ/ジャンヌ・ダ-ク1948ホセ・ファラ-/
凱旋門1948シャルル・ボワイエ/汚名1946ケ-リ-・グラント/ジキル博士とハイド氏1941スペンサ-・トレイシ-/聖メリ-の鐘1945ビング・クロスビ-/白い恐怖1945グレゴリ-・ペック/山羊座のもとに1949ジョセフ・コットン/

バ-グマン・ドキュメンタリー映像 DVD

アカデミ-主演女優賞・「追想」Anastasia- 二十世紀フォツクス社 1956年。41歳 共演者/ユル・ブリンナ-、ヘレン・ヘイズ
バ-グマンの10年ぶりの国際的ヒット作。映画評・ニュ-ヨ-ク・タイムズ「まつたくすばらしい-アカデミ-賞にふさわしい、美しく彫琢された演技」と絶讃した。年末のニュ-ヨ-ク批評家賞。翌年1957年・3月27日、アカデミ-最優秀女優賞を受賞。
スウェーデンからアメリカにきて、第1作の「別離」から17年、「カサブランカ」から14年、最初のオスカ-受賞作品「ガス燈」から12年がすぎようとしていた。アナスタシアという名前は「復活」という意味のギリシア語に由来しているという。バ-グマンについても復活を意味した。おびえた餓死寸前の亡命者から、美しさに輝く王女へと変身して復活をとげるバ-グマンと、ヘレン・ヘイズ扮する皇太后との対決シ-ンはこのドラマの最大の見せ場である。果たしてアナスタシアは本物の皇女であったのか、単に精神不安定で記憶をなくしただけの女、アンであったのか。観客にこの映画は問う、「あなたはどちらと思いますか」と。皇太后の最後の台詞-「さあ劇はもうおわり・・」は、映画そのもののTHE・ENDを意味する洒落た台詞だった。 
ユル・ブリンナ-は皇女に仕立て上げる将軍役で、知的で、厳格だが、表に表さない強い優しさを持つ-見事なはまり役だった。鈴木慶治

 


大スタ-は自分自身の私生活もドラマかえてしまうものか。

鈴木慶治-
イングリッド・バ-グマンの次に紹介する俳優さんは、バ-グマンより2歳年上の女優-。

タラへの旅  南北戦争がドラマの時代背景。
スカ-レット・オハラを演じる女優を捜すためにディヴィッド・O・セルズニックは5万ドルの費用と2年半の月日を費やした。
「風と共に去りぬ」の撮影は1938年のよく晴れた、冷たい12月のゆうべ、7台のテクニカラ-・カメラが待機している彼の撮影所で、
主演女優がきまらないまま開始された。・・・マ-ガレット・ミッチェルの世界的に名の知られたヒロイン-スカ-レット・オハラ・・・。
ジョ-ジア州の3つの部でもっとも細い、17インチ(43センチ)のウェストの彼女は発見できないのではないかと思われた。・・・

鈴木慶治-
1967.7.8 ロンドンのアパ-トで誰からもみとられることなく、たったひとりで亡くなった女優がいた。
彼女の代表作は「風と共に去りぬ」1939・「哀愁」1940・「欲望という名の電車」1940 など・・。

ヴィヴィアン・リ-Vivien Leigh 。-亡くなった時は54歳という若さであった。
ヴィヴィアン・リ-(1913.11.5-1967.7.8)
イングリッド・バ-グマンは(1915.8.29-1982.8.29)。

ヴィヴイアンの出生と幼い頃-インド・修道院の生活

アン・エドワ-ズ著・「ヴィヴィアン・リ-」第一章から
「1913年11月5日の夜-カンチェンジェンガとエヴェレストの雪に覆われた頂に太陽が沈み、インド、ダ-ジリンの街に灯りがつき始めたとき、英国人の医師が二階から降りてきて、この世にめったにいないほどの美しい女の子の父親になったことを告げた。・・・インド人の女中も母親に言った。カンチェンジェンガを見た直後に生まれた子は、完璧な美貌を保証される」 P.15
-些か脚色めいた出生話であるが、他に比べようもないほどの美しさであったようだ。-鈴木慶治

ヴィヴィアン・メェリ-・ハ-トリ-は、フランス人とスコットランド人の先祖の血をもった母、ガ-トル-ド・ロビンスン・ヤクジュと、アイルランド生まれで演劇に関心が高く、野心家で、冒険好きの父、ア-ネスト・リチャ-ド・ハ-トリ-を両親にしてインドで生まれた。英国の統治時代、多くの青年が冒険を求めてインドに集ったという。  P.15

幼いころの7年間をインドですごしたことと、異国的な匂いのする美貌とがむすびついて、彼女くらいの年齢の少女にはめったにない神秘性をヴィヴィアンに与えていた。母親はカトリック教徒に育てるべく、1920年、ボンベイから英国の汽船にのる。・・7歳に満たないヴィヴィアンはロンドンのロ-ハンプトン聖心修道院の寄宿学校に入る・・。(インドに帰る)母との別れの時、ヴィヴィアンは涙を流し、ことばをつくして(彼女はどっちも多量に持ち合わせていた)、母の決心をひるがえそうとしたが、ガ-トル-ドは心を動かされず、修道院長のたくましい手を握って中庭に立っているヴィヴィアンを残して立ち去った。・・・髪はいつもきれいにととのえて、制服はききちんとしていて、話を始めるとたちまち聴き手を魅了したという。 P.17

○淀川さんから見たヴィヴィアン・リ-
淀川-
「ヴィヴィアン・リ-の美しさは、あたかも冬の夜の三日月を思わせた。
 ヴィヴィアン・リ-の美しさは、5月の風にそよぐ白いカ-テンの影に見え隠れする、リンデンの黄色い花を思わせた。
 ヴィヴィアン・リ-の美しさは、エメラルドよりもダイアモンドよりもパ-ルを思わせた。」
鈴木-
ナガハルさん(淀川長治)は、ヴイビアン・リ-を上のように形容した。その美しさに対する最大限の賛辞だ。
イギリス映画最高の名優ロ-レンス・オリビエにヴィヴィアンは夢中になり、オリビエを追ってハリウッドへ。(25歳)
オリビエの案内したセルズニックのスタジオからビビアンの-歴史的歯車が回転しだした。主役のスカ-レット・オハラが決まらぬまま「風と共に去りぬ」のアトランタの火災シ-ン。これをオリビエはヴィヴィアンに見せた。その彼女をセルズニックが、ひと目で惚れ込んでスカ-レット・オハラ役を彼女に・・。


○ヴィヴィアン・リ-とスカ-レット・オハラとの出会い。ウィキペディアからの引用-
オハラ役の女優はなかなか見つからない。1936.7から2年4ヶ月の間に面接した候補者は1400人。スクリ-ンテストを受けた者は90人・・ベティ・デイブィス、キャサリン・ヘプバ-ン、ラナ・タ-ナ-、ス-ザン・ヘイワ-ド・・
セルズニックのイメ-ジに合う女優はいなかった主演女優未定のまま撮影に入り、いきなり映画の中盤の見せ場であったアトランタ市街の炎上シ-ンから撮影を始めたが、その時にたまたま見学にきた英国の舞台女優ヴィヴィアン・リ-がアトランタ炎上の撮影場面を見つめていた。
その姿を見てセルズニックが叫んだ。「スカ-レット・オハラがここにいる」と。1回のカメラテストで即主演女優に決まった。

映画「哀愁」のワンシ-ン 「風と共に去りぬ」の翌年 1940年の公開 アメリカ映画  27歳頃のヴィヴァン・リ-

『哀愁』(あいしゅう、原題:Waterloo Bridge)は、1940年公開のアメリカ映画である。監督はマーヴィン・ルロイ。主演のヴィヴィアン・リーは、前年製作の『風と共に去りぬ』では乱世を生き抜く強い女性を演じたが、本作ではその反対のか弱い踊り子を演じている。
<あらすじ>1939年9月3日、英独開戦の日。開戦により慌ただしくなるロンドンの街で、ロイ・クローニン大佐は予定を変更してウォータールー橋にたたずんでいた。回想にふける彼の手にあるのは、ビリケン人形、幸運のお守りだった。舞台は、第一次世界大戦中に遡る。イギリス軍将校のロイ・クローニン大尉(ロバート・テイラー)とバレエの踊り子マイラ・レスター(ヴィヴィアン・リー)はウォータールー橋でめぐり会う。・・・・最後は、ウォータールー橋で軍用トラックに身を投げてマイラは自ら命を絶ってしまう。事故現場にはあのビリケン人形が落ちていた。
鈴木-補足 <途中、二人の間にどんなドラマがあったかは、映画をみてください。再び1939年、「愛していたのはあなただけよ」マイラの真実の言葉を胸に、ロイはウォータールー橋を立ち去っていく。


鈴木慶治-補足

鈴木慶治-
「風と共に去りぬ」は、テアトル東京・東劇・・と複数回見た。10代の後半のこと。衝撃は大きかった。上映時間222分。4時間近い。
前後半、間に「休憩」が入る。2019.12.NHKBSプレミアム放送で見て、すぐ録画した。ビデオもあるのだが・・。
この映画が現時点で約80年の時を経過していても、全く色褪せないで映像・内容が見れることに、脅威すら覚える。自分だけではないだろう。
アトランタの火災シ-ンは劇中でも最大のクライマックスシ-ン。ここにヴィヴィアンが見物人としていて、-オハラ役を掴むことになるなんて
事実は想像以上とはよく言ったものである。(事実は小説よりも奇なり)
個人的にはスカ-レット・オハラ-の役柄としての気性の激しさより、オリヴィア・デ・ハヴィランドメラニ-役の抑えた演技の方に前半から中盤にかけ大いに好感が持てた。(賢く・やさしい理想的女性像)。しかしドラマの進行に合わせて、ヴィヴィアンのスカ-レットが、どんどん魅力的になっていく。そしてバトラ-役のクラ-ク・ゲ-ブル。原作者のマ-ガレットはゲ-ブルを思い浮かべながらバドラ-を書いたとのこと。<レッド・バドラ-はクラ-ク・ゲ-ブルそのものであり、ゲ-ブル以外の俳優は考えられなかった>という。「ゲ-ブルがオスカ-をこの作品でとれなかったは、不思議でいまもってふに落ちない。」と淀川さんは言っている。
この作品で忘れてはならない俳優さんがまだいる。スカ-レットのメイド役マミ-をしたハティ・マグダニエル(1893-1952)である。
彼女はこの作品で黒人として、史上初めてアカデミ-助演女優賞をうけた。今から80年前のことで、人種隔離政策のあった当時としてはもの凄いことです。演技も心に強く残る。

鈴木慶治-余談 2020.6.12 米国の動画配信サ-ビス会社が「風と共に去りぬ」の配信を停止したというニュ-スで思うこと。
米ミネアポリスでおきた黒人男性が白人警官から首を圧迫され死亡した事件をうけ米国で人種問題への関心が高まる、このことをうけての配信停止というが、会社の話題作りとの見方も否定できないであろう。確かに映画の中で黒人が白人に対して従順に描かれている場面がないこともない。だが戦場の中での人種をこえた相互扶助の場面も描かれている。何よりも黒人として初のアカデミ-賞授与という称賛すべき出来事がこの映画にはあった。そして映画「風と共に去りぬ」の傑作という評価は些かも揺るぎのないものである。映画の配信を停止することが大事なのではなく、差別体質が南北戦争から変わることなく今日まで続いてきている、この根深い「差別意識」に対して考えることが大事なのだと思う。過去に何度も人種差別・死亡事件は起きているのになぜ繰り返されるのだろうか。80年も前に公開された映画を見せなくすることが、直接、今回の種差別を抑制すること効果あるとはとても思えない。-映画ファンの自分にはまだ理解出来ないでいる。

余談だがメラニ-役のハヴィランドは1916.7.1日本の東京生まれ。妹はジョ-ン・フォンティンも1917年・東京生まれの米国女優。
ハヴィランドは、1946年「遙かなる我が子」・1949年「女相続人」でアカデミ-主演女優賞。妹のフォンティンも1941年ヒッチコック監督作品・「断崖」どアカデミ-主演女優賞をとっている。
実はフォンティンは「風と共に・・」のスカ-レット・オハラ役の多数の候補者のひとりにあがっていた。もし実現していれば姉妹でこの大作に出演していたかもしれない。メラニ-とスカ-レットの役回りが姉と妹のようであったことを考えると実生活の姉妹がしたことになるが、ヴィヴィアンのスカ-レツトなしではこれほどまで大ヒットしたとは考えにくい。・・映画的な興味は尽きない。    鈴木慶治 2020.4.19 記


「ヴィヴィアン・リ-」1980.5.10 第1刷 筆者 アン・エドワ-ズ 訳 清水俊二
序-
テネシ-・ウィリアムズ-ヴィヴィアンについての言葉-
「気が狂うのがどんなことか知っていたので、彼女は死に近づくのがどんなことかを知っていた」。
しばしば死に近づいたので、と私はつけ加えておきたいのだが、彼女はそのために、恐れを知らず、大胆で、人生に対して傲慢でさえあるようになり、生きているということに信じられないほどの愛情を抱いていた。彼女は映画史上もっとも輝かしい二つの役(スカ-レット・オハラとブランチ)で二つのオスカ-を手にした映画スタ-である以上の存在であったし、ジュリエット、アンチゴ-ヌ、クレオパトラで絶讃を博した舞台女優である以上の存在であった。ヴィヴィアン・リ-の偉大さは、極端から極端に及んでいた。彼女のろうそくは明らかに両端で燃えていて、しかも、いまだに消されることを拒んでいる。・・・アン・エドワ-ズ 序の言葉
鈴木慶治-補足
ヴィヴィアンは、自分が映画スタ-と呼ばれるより舞台女優であることに誇りを持っていた。
「私は映画スタ-ではありません。女優です。・・・ただ映画スタ-だけであるだけではうわべだけの偽りの人生です。偽りの価値と宣伝のためだけに生きているだけです。女優だったらいつまでも永続きして、つねにすばらしい役を演じる機会があります」アン・エドワ-ズ P.154

ヴィヴィアン・リ-のキャリア 出演演劇・32 /映画・19本 キャリア年数/1935-1966 約31年

-清水俊二 あとがきより
 栄光があまりにも輝かしく、華やかであったため、私たちはもう一人のヴィヴィアン・リ-がいたことに気がつかなかった。それはヴィヴィアンにもう一つのオスカ-をとらせた「欲望とい名の電車」のブランチ・デュボアに象徴されている、スカ-レットとは裏返しの女性であった。

鈴木慶治-補足
「欲望という名の電車」・テネシ-・ウイリアムズの舞台劇(1951)映画化。最後は発狂し、精神病院に連れ去られるブランチという役を演じ、2度目のアカデミ-主演女優賞をとった。しかし後年、ヴィヴィアン・リ-自身もまた精神に変調をきたしていくことになる。

鈴木慶治-補足
1990年頃、淀川長治さんは東宮御所に招かれた。そのおりの話です。皇太子殿下(現陛下)の好きな映画についてお聞きした。「ルキノ・ヴィスコンティで英国の学校に行っている頃みんな見た。その中でも「ベニスに死す」が一番好きとお答えになられたとのこと。ついで明仁天皇(現上皇)に同じ質問。なんと答えたと思いますか。さらに美智子皇后にも・・・・。 そのお答えは上皇さまは「ロ-マの休日」で、美智子様は「哀愁」と言われたそうです。以上のことがらは沢木耕太郎の対談本<「達人、かく語りき」岩波書店刊 2020.3.10第1刷 私の・愛した・映画> P.84に記載されてます。特に現陛下のヴィスコンティ好きというおこたえには、淀川さんも、「なかなかの映画通」と語っています。

KAWADE夢ムック 文藝別冊 サヨナラ特集 淀川長治 河出書房新社 1999年3月25日発行
「私は映画を見ていると、どのような映画にもけっきょくは愛がしみこんでいる。人間を知ろうとしている。幸せを探している。これほどの文化がこの世にあろうかと痛感する。芝居も小説も音楽もバレエも、その美からこそあふれる人間への讃歌があるわけだが、映画はもとは馬鹿にされて育ってきた。・・・映画は活動写真、俗っぽさの代表だった。しかし、世界中が同時にひとっのものを見るこの活動写真の文化使命はただごとではない。大衆という名を馬鹿にする人を私は不幸と思う。世の中は大衆で成り立っている。その大衆を一番抱きしめる・・・その映画がなかりせば。各国の人間観はどうであろうか」 ・淀川長治自伝

「映画と共に歩んだわが半世紀」 平成20年12月10日 第1刷発行 筆者 淀川長治 近代映画社発行

「生きる」という贅沢 1998.4.10 第1刷 筆者 淀川長治
淀川長治さん-
「明治42年(1909)、4月10日生まれ。届けには4月1日生まれとなっている。家中が生まれたての私をのぞいて、「ええ子や。男前やなァ」とほめそやしたらしい。母も父も私を自慢した。父が56歳のときに生まれた私は、この日から過保護に染まった。4月1日生まれは、早生まれとしてあつかわれる。父は私を1年早く学校へ入学させた。戸籍届けにウソを書かれたことは幼年知るよしもないが、うすうす同級生より体も元気も勇敢さもおくれていることだけは身にしみた。・・・
私の運命というものは実はここから始まっていた。・・・我が家は家ぢゅう活動写真ファンだった。日ごと夜ごと、芝居に、活動写真にとにかく見るものすべてを見回っていた。明治42年(1909)、4月9日の夜も活動写真見物に出かけたが「お父さん生まれそう」との妻のうったえで父はびっくり。人力車のアト押しマエ曳き3人曳きの特急で母は家に帰った。それなのに父はまだ残って活動見物をしていた。けれどやっぱり20分おくれて家に駆けかえったそうだ。
4月10日午前10時半、オギャ-ととびだたのが、私だ。男。家ぢゅうが沸きかえった。オトコハンヤデェ。・・・・」
「・・・家ぢゅう活動写真ファンだったおかげで、幼児の私も、神戸の新開地にある活動写真館に出入りした。3歳あたりでは何を見たのかの記憶はなく、ただもう、活動写真館の暗がりで画面を見ているだけが好きだったのである。・・・・」

下はロ-レンス・オリヴィエの自伝 「一俳優の告白」1986年5.25 第1刷 文藝春秋発行


「ヴィヴィアン・リ-」-第十九章から
「冬の海は灰色で、冷たい風がデッキの隅々にまで吹きこんだ。しかし、数日後には船は南の海に入るはずで、オリヴィエはヴィヴィアンが抑鬱症状を抜け出て、活気にみちたいつもの彼女にもどり、彼女らしい魅力と機知と知性をふりまくであろうと考えていた。知り合ったころ、ヴィヴィアンは決して複雑な女に見えなかった。オリヴィエは彼女がヴェネチアへの旅で子供のように喜んだこと、マリブの海岸でくつろいだ日々、戦争前のフランスのドライブ旅行、ダ-ラム・コテイジの最初のころの仲間だけのパ-ティを思い出していた。彼女のスカ-レット・オハラとしての名声はカ-ペットの下にしまいこむことはできなかった。彼女は映画史上最も有名な女性の役を演じて、その職業の頂上をきわめた。しかし彼女は満足していなかった。いまの彼に重要なことは、オリヴィエの領域で彼と競って、彼と同等になることであった。彼女の才能、職業意識、演技力については誰も否定しないが、稀代の美貌とかんだかい声とがシェイクスピア女優として最高の地位をきわめる障害になっていた・・・」

補足-1942年の2月14-、豪州での舞台公演のためオリヴィエ夫婦はリヴァプール港を出港した。その船旅の冬の海をさす。鈴木

淀川長治-「ぼくにしか書けない独断流スタ-論」から
「ヴィヴィアンは、アメリカ南部のスカ-レット・オハラで花ひらき、アメリカ南部の崩れゆく女ブランシュをもって彼女生涯の名演を残してこの世を去った。胸をわずらっていたという病魔と闘い、映画とその演技と闘い、ヴィヴィアンは五十四歳の生涯を閉じたのだ。その葬儀にはオリビエも最初の夫ホ-ルマンも姿を見せたという。私は、女そのものを生きぬいた、それゆえに悲しい死であったと思う。彼女の死体を百合の花いっぱいで埋めたのであろうか。あるいは水仙1000本で埋めたのであろうか。ヴィヴィアンはあまりにも美しすぎた。女にはそれが不幸を招くことがある」

「一俳優の告白」1986.5.25 第1刷 筆者 ロ-レンス・オリビエ 1907.5.23- 訳 小田島雄志

ヴィヴィアンを初めて目にした時のことを、オリビエは「自伝」で次のように書いている。「一俳優の告白」P.96
「私がこの想像を絶するほどの驚くべき美の所有者をはじめて目にしたのは、アンバサダ-ズ劇場の舞台であった。・・「美徳の仮面」(1935.5)に出演しており、すでにかなりの注目を集めていた。(ヴィヴィアンは22歳)-そのときはまだ主として彼女の女優としての将来性のためにではなかったけれども。魔法のようなその容貌は別にしても、彼女は美しい姿態をもっていた。その首はほとんど頭を支えきれないのではないかと思われるほどか弱く見え、それをのせているのは驚きの感覚をもって、すばらしい技巧をほとんど偶然のように見せかけることのできる天才手品師の誇りのようなもってであった。彼女はほかにもまだなにかをもっていた。私がかつて出会ったこともないほどの人の心をかき乱すような魅力を。彼女の熱烈な讃美者たちの軍団を奴隷と化さしめたのも、その不思議な感動的な威厳の火花のせいだったかもしれない。・・・」

ヴィヴィアンの当時の夫、ハ-バ-ト・リ-・ホルマンについて。「一俳優の告白」P.97
「ヴィヴィアンの夫は、鈍感で、ドライで、頭でっかちで、情熱の火花もない男、と私は思っていた。だがそれはとんでもない間違いだった。彼はその立場のものに当然要求される苦しみをはるかに越えるほど苦しんだ。彼はひじょうに知的で賢明だったが、興奮しやすいロマンティストではなかった。のちに愛の具体的条件が選り分けられ、離婚が成立し、結婚(1940.8.21)が決まり、体面が希望通り保たれ、スキャンダラスな二人が戦争のために故国に帰ってから、私たちはみな友だちになった。私たちはおたがいの家によく泊まりに行ったりして、私はリ-・ホルマンが大好きになつた・・・」

-アン・エドワ-ズ著「ヴィヴィアン・リ-」P.36 39
ハ-バ-ド・リ-・ホルマンとヴィヴィアンの結婚は1932年12月20日のこと。ヴィヴィアン19歳、ホルマンが31歳。高校はハロウ、大学はケンブリッジに学び、おちつきのある沈んだ瞳と波うつ金髪のハンサム-彼女が好きだった俳優レスリ-・ハワ-ド似-でロンドンに事務所を持つ法廷弁護士であった。

映画「風と共に去りぬ」-アトランタ炎上シ-ンの撮影現場のことについて-「一俳優の告白」P105
「私はヴィヴィアンをマイァロン・セルズニツク(ディヴィッド・セルズニツクの兄)のところに連れて行った。彼は彼女をつぶさに見つめ、視線を彼女から私へ、また彼女へと移しながら次第に興味を高めていった。・・・彼の弟ディヴツトは「GWTW・風と共に去りぬ」の制作に船出しながらスカ-レットの配役で早くも難航していたのである。彼はレッド・バトラ-の配役をアメリカの一般大衆に直接ゆだねていた。一般大衆も数百万の投票によってそれに答えていた。そのほとんどすべてはクラ-ク・ゲ-ブルの名を記したもの。レスリ-・ハワ-ドがアシュレ-・ウィルクス役、オリヴィア・ハヴィランドのメラニ-役、スカ-レットだけが残った。ディヴィッドは煮つめて最終的に三人にしぼっていた。ペティ・ディヴィス、ポ-レツト・ゴダ-ド、ジ-ン・ア-サ-。・・・マイァロンはその夜私たちを車に乗せ、一路真南に進んでカルヴァ-・シティに着いた。そこでディヴィドはアトランタの火事のシ-ンのために40エ-カ-の古い外観をもつセツトを燃やしていた。私たちは三度、軽装馬車が燃える納屋のア-チを走り抜けるのを見た。三度ともゲ-ブル、スカ--レットの代役で・・・。私はふり返ってヴィヴィアンを見た、その髪は完璧にスカ-レットの印象を与え、その頬は愛らしく紅潮し、その唇はほれぼれするほど開かれ、そのグリ-ンの目は炎のあかりにあって興奮に踊り輝いていた。・・マイァロンはヴィヴィアンをさして言った。「ディヴィッド、スカ-レット・オハラに会ってくれ」・・・ディヴィッドはひじょうに熱心にヴィヴィアンを見つめた。群衆からやや離れたところまでヴィヴィアンを連れて行き、即座に彼女のテストにとりかかっていた・・・」

ヴィヴィアンの死について 「一俳優の告白」P.270
「ジャック・メリヴェ-ルが病院にいる私に電話をかけてきて、夜ヴィヴィアンが死んだことを告げた。(1967.7.7) イ-トン・スクエヤ-のアパ-トの前には新聞記者が一人、二人うろついているかもしれないと思って、私は地下に入る秘密の横の入り口から入った。ジャックが正面入口を入ったところで待っていた。私の気持ちを推しはかってか、彼は寝室のドアを開けると、私が人生をともにしたものと私だけにして、静かにドアを閉ざした。その人生は狂気のようなノンストップで空の高さまであがりまた一気に急降下する急行エレベ-タ-になによりもよく似ていた。私は立ったまま二人のあいだに起こった悪いことすべてに許しを祈った。・・・」

-本来俳優というものは、・・孤立してはありえない芸術家である。それぞれ個性の強い男優や女優たち、演出家や裏方たち興行主やスポンサ-たち、さらには批評家や観客たちと、愛憎こもごもの火花を散らしながら一つの舞台、一本の映画を作っていかなければならない。それ自体がドラマである。  「一俳優の告白」訳者・小田島雄志-あとがきより

アン・エドワ-ズ著「ヴィヴィアン・リ-」 P.411
「ハリウッドではヴィヴィアンの思い出はいっそうあざやかで、輝かしいものだった。ハリウッドにいる友人にとつては、彼女はいつまでもスカ-レット・オハラだったろう。1968年3月17日、南カリフォルニア大学図書館友の会が女優として最初の栄誉をヴィヴィアン・リ-に与えた。アカデミ-賞授賞式にも、これほど多くのスタ-にいろどられた観衆が集まったことはなかった。大学の大ホ-ルには三枚の大きなヴィヴィアンの写真が飾られた。二枚が燃えるようなスカ-レット・オハラで、一枚は最後の映画「愚か者の船」の彼女だった。どこを見ても、ヴィヴィアンがあの緑の瞳を輝かせ、彼女だけのものであるあの魅惑的なチェシャ-・キャツト・スマイルを見せていた。よき劇場の感覚がみちみちた夜で・・アナウンスがあった。「ヴィヴィアンが風と共に去りぬのために撮った最初のスクリ-ン・テストを-」
場内が暗くなった。雑音がひびき、"ミス・ヴィヴィアン・リ-、テスト、スカ-レット・オハラ"とチョ-クで記した板がうつった。ライトは暗く色彩はぼやけていた。彼女はそこで、マミ-にコルセットを締められて呼吸をとめながら、彼女の未来のすべてを見せていた。頭をうしろにそらせ、両眼に火が燃えて、動きの一つ一つに電流が走っているようだった。なぜ彼女が選ばれてスカ-レット・オハラを演じたかを疑うものはいなかった。ヴィヴィアンはただ一人しかいなかった。彼女は生命をつかみとり、それを彼女自身のうちにたたえて、それが彼女を負けることを知らないように見せたのだつた。
明かりがついた。観衆は立ち上がって、いつまでも喝采をつづけていたが、やがて、大きなポスタ-から彼らを眩惑しているヴィヴィアンを見上げながら、ホ-ルを出ていつた。」

ロ-マへの旅
「ロ-マの休日」-1953年のヒロインに決まった・ 初々しいオ-ドリ-・ヘプバ-ン 24歳頃か。

「ロ-マの休日」 グレゴリ-・ペック

オ-ドリ-・ヘプバ-ン (1929.5.4-1993.1.20) 享年63歳 ベルギ-で生まれ スイスの自宅で亡くなる。
「ロ-マの休日」出演での最大の宝物は、ウィリアム・ワイラ-(監督)とグレゴリ-・ペックとの終生の友情である。」と
オ-ドリ-は語っている。
淀川さんは、
「いつまでたっても"お嬢さん"という可愛さがつきまとい、それに品があって、百合の白い花みたいでアメリカの誇りとなった」という。
鈴木慶治-
映画「ロ-マの休日」のオ-ドリ-に対する印象が強烈であったため、他の作品には・・。
余談
各俳優さんの身長は以下の通り

イングリッド・バ-グマン 175 cm    
ヴィヴィアン・リ-    160cm  
オ-ドリ-・ヘプバ-ン  170cm
グレゴリ-・ペック    190cm 
エリザベス・テ-ラ-   162cm  
ジェ-ムス・ディ-ン   170cm
クリント・イ-ストウッド 193cm

補足-ヴィヴィアン・リ-やエリザベス・テ-ラ-は、日本人女性と変わりありません。

イングリッド・バ-グマン 67歳 
ヴィヴィアン・リ-    54歳  
オ-ドリ-・ヘプバ-ン  63歳 
エリザベス・テ-ラ-   79歳
ゲ-リ-・ク-パ-    60歳
クラ-ク・ゲ-ブル    59歳
小津安二郎監督      60歳    (亡くなった年齢です。)

グレゴリ-・ペック 1916.4.15-2003.6.12 ハリウッドを代表する正統派2枚目スタ-

鈴木慶治-

男優さんのことを書こう。オ-ドリ-・ヘプバ-ンと「ロ-マの休日」(1953)で共演し、その後「終生の友」とオ-ドリ-に言わしめた
グレゴリ-・ペックのことを。
淀川長治さんはペックを形容して
男らしさと正義感にあふれたリンカ-ン大統領のような俳優さん-事実ペックはリンカ-ン尊敬し、その蔵書は1000冊という-
・はなばなしく映画界にデビューした清らかでハンサムな新人
・どの作品でも男らしいたくましさを見せるアメリカ映画界の名優
・ハリウッド入りする前から舞台の俳優としても一流の演技者
グレゴリ-・ペック 1916年4月5日 カリフォルニア生まれ。父はイギリス人、母はアイルランド人。父は薬剤師。
両親はペック4歳の時離婚。父の願いの医者になるべくサンディエゴの州立カレッジの医学部に入学運動好き、医師に向かぬこと
家が貧しいことで2年で退学。トラックの運転手、掃除夫-ニュ-ヨ-クで演劇の勉強。ハリウッド入り(28歳)以前に舞台でも一流の
演技者であった。      「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」 淀川長治
鈴木慶治-補足
プライベート写真に写るペック夫人は、オ-ドリ-・ヘプバ-ンによく似ているのでびっくりした。(1955年結婚)
オ-ドリ-と共演して、2人のあいだにはプライベ-トにロマンスの噂があったという。
自分がグレゴリ-・ペックの映画を初めてみたのは「白鯨」(1956)。執念で鯨を追い続け、最後はモリをつきたてたまま
白い鯨もろとも海中に沈んでいくシ-ンには度肝を抜かされた。

『アラバマ物語』(アラバマものがたり、原題: To Kill a Mockingbird)は、1962年製作のアメリカ映画。
グレゴリー・ペック主演。人種差別が根強く残る1930年代のアメリカ南部で、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチの物語。当時の出来事を、後に成長した娘のスカウトが回想するという形式をとっている。物語. 世界恐慌の波が襲った1932年、アメリカ南部のアラバマ州。妻を亡くした弁護士、 アティカス・フィンチ(G・ペック)は、幼い息子ジェムと娘のスカウトと共に、静かだが幸福な日々を送っていた。グレゴリ-・ペックはこの作品でアカデミー主演男優賞を受賞 。

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『ニュー・シネマ・パラダイス』(伊: Nuovo Cinema Paradiso)は、1988年公開のイタリア映画。監督はジュゼッペ・トルナトーレ。 中年を迎えた映画監督が、映画に魅せられた少年時代の出来事と青年時代の恋愛を回想する物語。感傷と郷愁、映画への愛情が描かれた作品である。後述の劇場公開版が国外において好評を博し、しばらく停滞期に入っていたイタリア映画の復活を、内外一般に印象付ける作品となった。映画の内容と相まってエンニオ・モリコーネの音楽がよく知られている。シチリアの小さな村で青春時代を過ごし、現在はローマで暮らす映画監督のサルヴァトーレはある日の深夜、地元にあった映画館「パラダイス座」の元映写技師アルフレードの訃報を聞きます。思わずサルヴァトーレは過去の思い出を回想する…。

『道』(みち、伊: La Strada; ラ・ストラーダ)は、1954年製作・公開のイタリア映画。
フェデリコ・フェリーニ監督作品で、第29回アカデミー賞「外国語映画賞」を受賞した。自他共に認めるフェリーニの代表作の一つ。フェリーニの作品の中では最後のネオリアリズム映画といわれる。チネチッタ撮影映画。ストーリーは道化師たちの悲哀が展開し、破天荒な監督フェリーニの人生が反映されている。

『自転車泥棒』(じてんしゃどろぼう、原題: Ladri di Biciclette, 英題: The Bicycle Thief)は、1948年公開のイタリア映画である。監督はヴィットリオ・デ・シーカ。モノクロ、スタンダード、93分。
第二次世界大戦後のイタリアで作られたネオレアリズモ映画の1本で、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』、ルキノ・ヴィスコンティの『揺れる大地』と並ぶネオレアリズモ映画の代表作である。役所の広告貼りの仕事を得た失業労働者が、仕事に必要な自転車を盗まれてしまい、息子とローマの街を歩き回って自転車を探す物語。職業俳優を使わず素人を起用しており、父親役のランベルト・マジョラーニは失業した電気工、子役のエンツォ・スタヨーラは監督が街で見つけ出した子供である。また、ほぼ全編でロケーション撮影を行い、ドキュメンタリー的撮影手法を用いて戦後の貧困にあえぐイタリア社会をリアルに映し出している。第22回アカデミー賞で名誉賞を受賞。


エリザベス・テ-ラ-(1932-2011) 陽のあたる場所1951 リズ19歳にしてこの美貌

『陽のあたる場所』(ひのあたるばしょ、A Place in the Sun)は、1949年に製作が開始され、1951年に公開されたアメリカ合衆国の映画である1931年にジョセフ・フォン・スタンバーグ監督によって映画化されたセオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』の再映画化であり、ジョージ・スティーヴンスが監督、モンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラー、シェリー・ウィンタースが主演した。

下は「ぼくにしか書けない 独断流スタ-論」 淀川長治

エリザベス・テイラー(Dame Elizabeth Rosemond Taylor, DBE、
1932年2月27日 - 2011年3月23日は、イギリス出身の女優。少女時代からメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) で子役として映画出演しており、成人後には「ハリウッド黄金時代」(en:Hollywood's Golden Age) を代表する大女優の一人となった。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そして珍しいスミレ色の瞳で知られていた。

『緑園の天使』(1944年)が最初に成功したテイラーの映画出演作品となった。その後、『花嫁の父』(1950年)、『陽のあたる場所』(1951年)、『ジャイアンツ』(1956年)、『熱いトタン屋根の猫』(1958年)、『去年の夏 突然に』(1959年)などに出演している。1960年の『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞を受賞し、『クレオパトラ』(1963年)では、この作品で共演したリチャード・バートンと結婚した。バートンとの共演作は『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)など11本におよび、テイラーはこの『バージニア・ウルフなんかこわくない』で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。1970年代半ばからテイラーの映画出演は減っていき、ときおりテレビや舞台に出演するようになった。

テイラーの私生活は、8度の結婚と生命に関わる闘病生活で知られている。また、社会活動家でもあり1980年代半ばからエイズ撲滅運動を支持し、1985年に米国エイズ研究財団 (en:amfAR, The Foundation for AIDS Research) の創設メンバーの一人となり、1993年にはエリザベス・テイラー・エイズ基金を創設した。大統領メダル (en:Presidential Citizens Medal)、レジオンドヌール勲章、ジーン・ハーショルト友愛賞、AFI生涯功労賞 (en:AFI Life Achievement Award) を受賞し、AFIが選定した映画スターベスト100の女優部門では第7位にランクされている。
補足-1位・キャサリン・ヘプバーン 2位・ペティ・デ-ビス 3位・オ-ドリ-・ヘプバ-ン 4位・イングリッド・バ-グマン 
   5位・グレタ・ガルボ 6位・マリリン・モンロー 16位・ヴイヴアン・リ-

テイラーは長い闘病生活の末、2011年3月に鬱血性心不全のために79歳で死去した。
                     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から

スザンヌ・プレシェット(Suzanne Pleshette, 1937年1月31日 - 2008年1月20日)


1937年ユダヤ系の両親のもとニューヨーク市ブルックリンに誕生した。父親はブルックリンのパラマウント・シアター(英語版)の舞台主任であり母親はジェラルディン・リバーという芸名のダンサーであった。シラキュース大学で短期間学んだ後、フィンチ・カレッジでも学んだ。

1950年代後半に舞台女優としてデビューし、1958年のヘレン・ケラーの人生を扱った『奇跡の人』アン・サリバンを演じて注目を集める。当時の評論家は「彼女の漆黒の髪と灰がかった青色の美しい眼は冷笑的な気品を持ち、低い声質は情熱的な響きを持っている」と絶賛した。

映画界にデビュー当時、エリザベス・テイラーを彷彿とさせる美貌に恵まれ、舞台女優としても成功していたために将来を嘱望されたが、現実にはそれほど振るわずに終わった。 映画界にデビューした後、1962年に『恋愛専科』でトロイ・ドナヒューと共演。1964年には結婚し、当時話題をさらったが数か月後に離婚する。

1963年にヒッチコック監督の『鳥』で死亡する設定の女教師役を演じ、後にはテレビ映画やテレビドラマリーズにも進出。

1960年代後半からは主役級の仕事からは遠ざかり、脇役や端役を演じることが増えるが、それでも死の直前まで映画界において性格俳優・助演俳優として出演を続けた。2000年には日本映画『千と千尋の神隠し』の英語版で湯婆婆/銭婆役の声優を務めた。

2006年8月から肺がんを患い、化学療法を行っていたが2008年1月に呼吸器不全で死去した。71歳