生命への旅

2022.6・検査入院-手術-退院、再入院-手術-退院、化学療法、通院治療などで2年間が過ぎた。のべ100日以上の入院生活。生命・「いのち」とは何だろう。向きあう日々が続く。2022.6~・鈴木慶治

 父祖の咳の聞こえる日がある
 まだ生まれぬ未来の赤児の
 泣き声のする日がある
 母のそのまた母の繰り言
 わらべ歌をうたいながら
 川上の靄の中へ
 次第に遠ざかってゆくのは
 幼い日の兄や妹 大勢のいとこたちだ
       新川和江・「血管」
        

 六道輪廻の間には 
 ともなふ人もなかりけり
 独り生まれて独死す
 生死の道こそかなしけれ
       一遍上人
       
 けふのうちに
 とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
 みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
  (あめゆじゆとてちてけんじゃ)
 うすあかくいつそう陰惨な雲から
 みぞれはぴちょぴちょふってくる
  (あめゆじゆとてちてけんじゃ)
 青い蓴菜のもやうのついた
 これらふたつのかけた陶椀に
     中略
 みぞれはぴちょびちょ沈んでくる
 ああとし子
 死ぬといふいまごろになって
 わたくしをいつしやうあかるくするためにこんなさつぱりした雪のひとわんを
 おまえはわたくしにたのんだのだ
    後略
   -宮沢賢治 永訣の朝


更新日 2023.8.

岩手県陸前高田市  頬つたう なみだのごわず 一握の砂を 示しし人を わすれず  石川啄木・歌碑 2014.4.20
2011年3月11日・東日本大震災で2万人余の人々が亡くなった。「命のはかなさ、尊さ」を思いしらされた。この啄木の歌碑は震災前から千本松原にあった。頬を伝って流れる涙をぬぐわず、一握の砂を示した人が、震災時の人々の姿に重なった。鈴木慶治
いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと握れば 指のあひだより落つ  

「ミケランジェロの生涯」 ロマン・ロラン 岩波文庫 1963.2.16 第1刷  2018.6.25 第41刷

「苦悩は無限であり、さまざまの形をとる。時には逆らいようもない物事自体のむごさによっておこる。貧困、病気、不運、人間の悪意。時にはそれは存在すること自体の中にその源をもっている。そういう時も苦悩は同じように痛ましく同じように避けられない。なぜならば人間は存在することを自ら選んだのではなかった。生きることをねがったのでもなく今あるようにあろうとねがったのでもなかった。」
   ミケランジェロ・ピエタ

多田富雄(1934-2010)・「生命をめぐる対話」-11人との対談集/2012.9.10 第1刷 ちくま文庫
多田富雄
「免疫の働きで見ますと、若い時非常に高かった自然の抵抗性に関するNK細胞などというのは、40代でいったんがくんと下がって、そのあとしばらく持続します。そのへんが更年期に相当するものだと思うんですけれども、そこからまたしばらくいって、60歳から70歳ぐらいにもう一度減り、80歳になるとほとんどゼロになります。老人の抵抗性が低いのはそのためです」・多田富雄
多田
「人間の身体も常に生と死が入り混じっているわけですね。毎日何千万という細胞が死んで、また生まれているわけですね。だんだんと死の比重が高くなってきますけど。生きているというのは、そうやって身体の中に死を育てているわけですから、そういう点では、能舞台と同じだと思いますね」
白州正子
「私は小さい時からそうだったわ。死はいつも隣にいると思ってね。だから生死というのは、そう違うもんじゃない。今、生きることに一生懸命でしょう。いろんな本なんかでも、どうしたら生きられるかなんてばっかり書いているけど、もっと死ぬことを考えたほうがいいみたいな気がする」

多田富雄・中村桂子・養老孟司 「私はなぜ存在するか」能・免疫・ゲノム 2000.10.1初版 哲学書房

多田富雄 「寡黙なる巨人」 集英社文庫 2010.7.25 第1刷
-「あの日を境にしてすべてが変わってしまった。私の人生も、生きる目的も、喜びも、哀しみも、みんなその前とは違ってしまった。(あの日・2001.5.2 67歳) 沈黙の世界にじっと眼を見開いて生きている。昔より生きていることに実感を持って、確かな手ごたえをもって生きているのだ。(この書は)絶望の淵から這い上がった約1年間の記録である。-多田富雄-
○苦しみが教えてくれたこと
-病気などと無縁だと思っていた私が、脳梗塞で右半身不随になってから、まるで病気のデパ-トのようにいろいろな病気の巣になってしまった。それも回復不可能なものばかり。まるで「もぐらたたきゲ-ム」のように、次から次に現れる。2005年5月には前立腺癌が発見された。すでにリンパ節への転移もあり、切除は不可能な段階であった。・・睾丸を摘除する「去勢法」だけを受けた。・・腫瘍マ-カ-も激減したと思う間もなく、次の難題が待っていた。入院するたびに病気は重くなるらしい。退院するころになると、今度は尿路結石が発見され、そこにMRSA(多剤耐性菌)の院内感染という新手の敵が加わった。退院しても、発熱と排尿困難に苦しめられた。それが少しよくなったかと思うと、今度は喘息という強敵が加わった。休む間もなく呼吸困難に悩ませれている。半身不随は、体が動かないだけではない。一日中筋肉の緊張が高まって、休んでいても楽ではない。いつも力を入れているようなものだ。私の後遺症には重度の嚥下障害、構音障害が重なっている。物が自由に食えない。水や流動物は飲めない。食事は私にとって最も苦痛な、危険を伴う儀式である。脳梗塞の発作の後、今まで何気なくやっていたこと、たとえば歩くことも、声を出すことも、飲んだり食べたりすることも突然出来なくなった。自分に何が起こったのか理解出来なかった。声を失い、尋ねることも出来なかった。・・呻き声だけが私に出来る自己表現だった。・・・苦しみがすでに日常のものとなっているから、黙って付き合わざるを得ないのだ。時には「ああ、難儀なことよ」と落ち込むことがあるが、そんなことでくよくよしても何の役にも立たないことくらいわかっている。受苦ということは魂を成長させるが、気を許すと人格まで破壊される。私はそれを本能的に免れるためにがんばっているのである。病気という抵抗を持っているから、その抵抗に打ち勝ったときの幸福感には格別なものがある。私の毎日はそんな喜びと苦しみが混じり合って、充実したものになっている。・・私はいろいろな喜びを味わっている。私流「病狀六尺」である。病という抵抗のおかげで、何かを達成したときの喜びはたとえようのないものである。初めて一歩歩けたときは涙が止まらなかったし、初めて左手でワ-プロを一字一字打って、エッセイを一遍書き上げた時も喜びで体が震えた。今日は「パ」の発音が出来たといっては喜び、カツサンド一切れが支障なく食べられたといっては感激する。・・些細なことに泣き笑いしていると、昔健康なころ無意識に暮らしていたころと比べて、今のほうがもっと生きているという実感を持っていることに気づく。・・これからも新しい病気は次々に顔を出すだろう。一度は静かになった癌だけれど、いつかは再発するだろう。でもそのときはそのとき、どうせ一度は捨てた命ではないか。あの発作直後の地獄を経験したのだから、どんな苦しみが待っていようと耐えられぬはずがない。病を友にする毎日も、そう悪くないものである。-多田富雄

多田富雄 「独酌余滴」 2006.6.30 朝日文庫 第1刷
「なぜ日本人は老いの美と価値を発見し、それを最高の芸術にまで高めることができたのであろうか。・・時間というものをたんに過ぎ去ってゆく物理現象とだけとらえたのではなくて、時の流れによって積み重なっていく自然の記憶のようなものを発見したからではないだろうか。」

多田富雄・柳澤桂子 「露の身ながら 往復書簡 -いのちへの対話」 集英社文庫 2008.8.25 第1刷
・柳澤桂子 1938年- お茶の水女子大名誉博士、遺伝学者、サイエンスライタ-、三菱化成生命科学研究所主任研究員。 T遺伝子の研究をしていた69年、原因不明の難病を発症し研究生活を断念。激痛とたたかいながら生命化学の啓蒙書を通じ「いのちの大切さ」を訴え続ける。
「診断がつかず、1999年になって周期性嘔吐症候群という脳幹の病気であることがわかった。毎日パソコンに向かった。(出版のあてなく)書きためた原稿の山がなくなるまでには、10年の月日がかかった」
-私は先生のご闘病記の中の次のくだりが大好きです。直径175センチもあるかと思われる夕日が日本海に沈んで、一本の金の線となって海にかくれるところを先生が見ておいでになった時です。
「その時突然思いついたことがあった。それは、電撃のように私を襲った。なにかが私の中でぴくりと動いたようだった。・・・もし機能が回復するとしたら、単なる回復ではない。それは新たに獲得するものだ。新しい声は前の私の声ではあるまい。新たに一歩が踏み出されるなら、それは失われた私の脚を借りて何ものかが歩き始めるのだ。もし万が一、私の右手が動いて何ものかを掴んだならば、それは私ではない新しい人間が掴んだはずなのだ。・・・新しいものよ、早く目覚めてくれ、それはいまは弱々しく鈍重だが、無限の可能性を秘めて私のなかに胎動しているように思われた。私には彼が縛られ、痛め付けられた巨人のように思われた」-柳澤桂子
・多田富雄
-柳澤さんは、生命科学の研究者の間では誰一人知らぬ者のいない有名な方です。そのうえ伝え聞くところ美しい人であることもあいまって、なにか神秘的雰囲気を持っていました。・・大好きな実験から引き離され、病床での執筆と聞いて、同じ研究者として、さぞおつらいことだろうと思いました。それなのに、その後のご活躍をみると、サイエンスライタ-として見事に復帰され、すぐれたご著書を次々に発表されていることに、感銘を受けてきました。・・はるかに遠くからですがお仕事を眺めてきました。生物学の解説を超えて、現代の科学、人間の生死や文明についての深い哲学的洞察が見られ、私は以前から一度お会いしたいと思っていました。・・・-多田富雄

多田富雄 「生命へのまなざし」対談集 1995.12

多田富雄 「多田富雄の世界」 藤原書店 2011.4.30 

多田富雄 「落葉隻語」 ことばのかたみ 青土社 2010.5.10
「若い頃は新しい世界を夢見る楽しみが大きかった。しかし老年になると未知の時間を想像することは難しくなった。希望に満ちた未来はなかなか見えない・・・2001年5月2日の夜、脳梗塞の発作に襲われ3日ほど死地をさまよった。目覚めると、右半身は完全にまひし、嚥下障害で水さえのども通らない。叫ぶことも、訴えることもできなくなった・・・左の鎖骨をぽっきり折ってしまった。立ち上がる弾みに力を入れただけなのに、右麻痺で左手しか使えない私は、体を支えるのに左腕を酷使する。障害を抱えながらも執筆を続けてきた。今はそれさえ奪われようとしている。書くことができなくなったら、生ける屍である。何とかそれを避けて、書き続けたい。それが来る年への唯一の期待だ。しかし、それも難しくなった。10分タイプを打つと、痛くて30分くらい休まねばならない。もうダメかもしれないと思いながら、この原稿を書いている。」 ・多田富雄

・多田富雄
「花も間もなく散って、根っこの待つ土に帰る。自然の循環はめまぐるしい。愛別離苦、会者定離は世の習いである。人は花の下で別れ、また出会いを喜ぶ、桜には春の歓喜とともに、いくばくかの憂いがある。だから桜は感慨深いのだ」

多田富雄 「免疫の意味論」 青土社 1993.4.30

多田富雄 「生命の意味論」 新潮社 1997.2.25

多田富雄 「多田富雄のコスモロジ-」 藤原書店 2016.5.10

多田富雄・鶴見和子 「邂逅」 藤原書店 2003.6.15
-多田富雄
「私のスケジュ-ルは詰まっていました。・・・講演の約束や、対談の予定など、次々に浮かんできます。ことに鶴見和子さんとの対談は日にちまで決まっていました。この碩学と対談するのは願ってもないことでした。私は手で書いてきたので、ワ-プロなど使い方も知りません。時を移さずリハビリテーションが始まりました。金沢の友人がワ-プロを差し入れてくれました。10ヶ月の後に自宅に戻りました。いまだにしゃべること、水を飲むことは全くできません」
-鶴見和子
「1995年12月24日に脳出血で倒れました。幸いにして命をとりとめ、運動神経は壊滅状態で左方麻痺になったけれども、言語能力と認識能力は完全に残りました。・人間は倒れてのちにはじまりがある。決して倒れてそのまま熄むのではない。倒れたあとまだ歩けないときには、わたしは自分が死んだと思っていました。自分の中には、半分死んで、半分生きている、ひとつの新しい展開があったと思います」

「脳卒中で倒れてから」-よく生き よく死ぬために
 
鶴見和子 1918-2006 88歳 社会学者 婦人生活社 平成10年8月15日 初版発行
-鶴見和子
「目を覚ましたぞ」「ねえさん、ねえさん」
周りの声をうるさいと感じていました。せっかく気持ちよく目を覚ましたのに、そして、お腹の底から、わきあがるように、何かが喉元から出ようとしているのに。自分が、死の淵から、はい上がってきたなどとは、露知らない私は、その突き上げてくるものが、歌だとわかると、大きな声で、それを詠じました。水を打ったように静かになった枕元で、妹の章子の泣き声が低く続いていました。
1995年12月24日。 それはわたしの命日です。 その日わたしは一度死んだのです。
 -この日この刻 よく生きなむと 念ずなり いつとは知らず よく死なむため-
「老いて病に斃れることは、けっして絶望ではない、斃れてのちの日々こそ、最もよく生き納めたい。それはよく死ぬため希望の季節だからである 振り向けば八十年の生涯は 一筋の道 花吹雪して
 -生と死のあわいに棲みて いみじくも もののすがたの鋭き気配
「病気をしたことで得をしたと思うことがたくさんあります。まず、健康なときに見えなかったものが見えるようになってきたのです。実際に目で見ることは、今の方がぼんやりしているかもしれません。でも感じるということは今の方がずっと鋭いのです。・・・花が咲いたとか、鳥のさえずりとか、そういうものも見えてきました。それぞれの鳥が、それぞれ違う巣をつくっている、そういうことも見えてきたんです。それはうれしいおどろきでした。それも、わたしが、生と死のあわいに生きているからです」
「過去というものは、自分の中に想い出として残っているけれど、未練を持つものではありません。若山牧水に、こんな歌があります。
・見返るな恋の終りの尊さは 揺れず静かに 遠ざかりいく 
 恋の部分を過去と置き換えると、わたしの気持ちにぴったりです。
「わたしは、人間というものは不滅だと思っています。この肉体は、粉々になって塵泥になって、宇宙に浮遊していくものだと思うのです。そしてまた何かの新しいかたちを作って、また生まれてくる。そういうふうに循環しているものだと思います。
-我ら人と軒を並べて棲む鳥の おのがじしなる巣のたたずまい- 

「患者学のすすめ」 2016.1.30 初版第1刷発行 藤原書店
上田敏 2015.12
-社会学者・歌人の鶴見和子さんと、リハビリテーション医学を専門とする医師の上田とが京都府宇治の「京都ゆうゆうの里」で2日間、時間をたっぷりとって語り明かした記録である。・・・私は病気や障害のある場合の「リハビリテーション」とは、病気や障害ために"人間らしく生きる"ことが困難になつた人の"人間らしく生きる権利の回復"、つまり「全人間的復権」であるという考えに到達した。・・・障害当事者は中心プレイヤ-となったのである。鶴見さんはこの対談後、2006年7月31日、「ゆうゆうの里」で、大腸癌のために88歳の生涯を閉じられた。辞世の歌は7月24日の
-そよそよと宇治高原の/梅雨晴れの風邪に吹かれて/最後の日々を妹と過ごす-であったとのことである。鶴見さんは77歳で左片麻痺となられてからり10年余の間に、本書を含む計30点の著書を出版された。たぐいまれな、生産的な第2の人生を駆け抜けたのである。 

「回生」 2001.6.30 初版第1刷  藤原書店
佐佐木由幾
序-鶴見和子さんなら思いがけない内容のお頼りを頂いたのは、1996年2月の末のことであった。それには不意の御病気で、昨年より病院で生活なさっていること、急に歌が浮かび百首ちかくにもなり、それを1刷に纏めたいというようなことであった。
病と戦う心と体、意のままに事が運ばぬ苛立ち、それをなだめる自分、病院の生活を受け入れるようになってゆく過程と余裕、また諦念。そう言った諸々を感じさせる。更に、人の世に避ける事の出来ぬ喜び悲しみ、思い浮かぶ過去のこと、このこと。うつし世から隔離されているような病院にも押し寄せてくる「生きてゆくこと」の様々を感じさせる百首余りであった。  1996年3月

-病院のふきぬけの上の天空に冴え渡る月を見つ雛のの夜の幸-
-完復は不可能と医師にしらされて限界まで自力ためさんと決す-

「歌集 花道」 鶴見和子 2000.2.25 初版第1刷発行 藤原書店

-わたしは15歳のとき、佐佐木信綱門に入門し、先生の御指導をうけた。第1歌集「虹」の序文も佐佐木信綱先生に給わった。その後半世紀の「歌の別れ」の後に、脳内出血で倒れてから、わたしは歌によって回生した。第2歌集「回生」の序文は、佐佐木由幾さまにいただいた。そして「鶴見和子曼荼羅」第Ⅷの「歌の巻」解説は佐佐木幸綱さまが書いて下さった。こうして、佐佐木家三代の歌恩に恵まれたのである。
・死に支度もう始めたしと我が言えばまだちょっと無理と主治医は宣ノらす
・たまゆらの藍の生命イノチをいとおしみ露草の花玻璃壺に挿す
・ありったけの力ふりしぼり生きている我を元気と人はいえども
・夜毎夜毎痛みつのれる病む足に力もつきて消えたくなりぬ
・生命イノチ細くほそくなりゆく境涯にいよよ燃え立つ炎ひとすじ
・不愉快なことも半分生きているしるしと思い味わいつくす

「遺言」-斃れてのち元まる 鶴見和子 (1918-2006) 2007年1月30日 初版第1刷 藤原書店

-生命ほそくなりゆく境涯にいよいよ燃え立つ炎ひとすじ-
・新しき今日の一日を生かされむ窓より朝日差し入るを見る

2006.7月25日 姉・鶴見和子の病床日誌 内山章子
「仕事馬鹿。大馬鹿よ。忙しい、忙しいって仕事し過ぎてお医者にもいかない。血圧降下剤半年以上も飲まないで脳出血で倒れて、それでも懲りずに、また忙しい、忙しい、疲れた、疲れたといいながら仕事して、背骨の圧迫骨折。大馬鹿なの私」
「死ぬというのは面白い体験ね。こんなの初めてだワ。こんな経験するとは思わなかった。人生って面白いことが一杯あるのね。こんなに長く生きてもまだ知らないことがあるなんて面白い!!驚いた!!」というと、兄(鶴見俊輔)は「人生は驚きだ!!」と答え、姉は「驚いた!!面白い!!」といって、二人でゲラゲラ笑う。人が生きるか死ぬかという時に、こんなに明るく笑っていることが出来るものだろうか。

2006.7月29日 叔母・鶴見和子のこと 内山友子
「病に倒れても決してくじけることなく、前向きに前向きに生きて来た姿勢が、どんな状況になっても貫かれていることに驚嘆する。自分の死、葬儀をはっきり意識しながらも、痛みや病に負けるどころか、ひるみもしない。大きな声で文句をいい、叱りつける。騒ぎの後は、ともにいた人間の目を見て、「ありがとう、お疲れさま」という・・・今日か明日かとハラハラしている者たちを腰抜かさんばかりに驚かせ、時には笑わせもする。あくまでユ-モラスで決してくじけない。これが病を得て身につけた強さなのだと思う。・・・たとえ肉体に終わりが来たとしても、彼女は死を乗り越えて自然に帰っていく・・・病気には悲壮感はみじんもない。叔母の中では「生と死」が両立しているようにすら感じられる」

内山章子
-「二人の娘達は、姉の死の看取りをさせてもらった事をきっと大切にして、生きていってくれるるのではなかろうか。姉の死の看取りは、私達家族への大きい贈り物である。
  
2006.7月31日・「-まわりにいる一人一人にありがとうといった。私の手を握り Thank you very muchi という。「しあわせでした。しあわせでした。ありがとう。」「いやなこと終わりました。」 そして午後12時23分、息をひきとった。

「老いの生きかた」 鶴見俊輔 編 ちくま文庫 1997.9.24 第1刷/2021.11.15 第11刷発行
森於菟(もり おと) 1890-1967 医学者 森鴎外の長男
耄碌寸前
-ただ人生を茫漠たる一場の夢と観じて死にたいのだ。人生を模糊たる霞の中にぼかし去るには耄碌状態が一番よい。というのはあまりにも意識化され、輪郭の明かすぎる人生は死を迎えるにふさわしくない。活動的な大脳が生み出す鮮烈な意識の中に突如として訪れる死はあまりにも唐突すぎ、悲惨である。そこには人を恐怖におとしいれる深淵と断絶とがある。人は完全なる暗闇に入る前に薄明の中に身むをおく必要があるのだ。そこでは現実と夢とがないまぜになり、現実はその特徴であるあくどさとなまぐささとを失い、一切の忘却である死をなつかしみ愛撫しはじめる。・・つらつらおもうに人生は形象と形象とが重なり合い、時には図案のような意味を偶然に作り出しては次の瞬間には水泡のように消えてゆく白中夢である。私は死を手なずけながら死に向かって一歩一歩近づいていこうと思う。若い時代には恐ろしい顔をして私をにらんでいた死も、次第に私になれ親しみはじめたようである。-森於菟

多田富雄 「能の見える風景」 藤原書店 2007.4.30
「死地を脱した後も、能は闘病中の私に大きな心の支えになった。どんなに苦しい、絶望の日でも、能の一節を思い浮かべて耐えた」
能に造詣が深く、舞台で小鼓を自ら打つ。新作能も手がける。「原爆忌」「長崎の聖母」は病を得てのちの作品。「お能の細部まで記憶していて、自分の脳の中にある能舞台で再演して楽しむという特技がある」

多田富雄・石牟礼道子 「言魂」  藤原書店 2008.6.30
・多田富雄
「私にとって、日常とは本能的な死との戦いです。終わりのないリハビリに汗を流すのも、物を食べるのも戦いです。苦しみが日常になっているから、もうそれに耐えることも日常です」
・石牟礼道子
「命が束になって吐血しているかのような21世紀の幕開けとなりました。「なふ、われは生き人か、死に人かむとはひとごとならぬ現実だと思います。まことに無念でございますけれども、万民たちがあとからしか意味づけられぬ予知能力を担ってしまった人として、多田先生はお生まれになったのではないか・私には現世が奈落だという感じはかなり幼い魂でとらえておりました」

多田富雄 「残夢整理-昭和の青春」 新潮社 2010.6.20
「この短編を書いている最後の段階で、私は癌の転移による病的鎖骨骨折で、唯一動かすことができた左手がついに仕えなくなった。鎖骨を折ったことは、筆を折ることだった。書くことはもうできない。まるで終止符を打つようにやってきた執筆停止命令に、もううろたえることもなかった。いまは静かに彼らの時間の訪れを待てばいい。昭和を思い出したことは、消えていく自分の時間を思い出すことでもあった。平成22年2月18日

河野博臣 「悩みをひとり占めするのはやめなさい」 毎日新聞社 1999.4.15

河野博臣 「死を迎えるとき」 終末期医療の現場から 朝日新聞社 1992.12.25
「ここに書くことができた亡くなった一人一人の患者は、それぞれの人生を家族とともに懸命に生きた人達である。私達はほんの少しのお手伝いをしたにすぎない。しかし、その人たちはいつまでも心の中に生き続けている。」 1992.10

関原健夫 「がん6回 人生全快」 毎日新聞社 2003.7.30

岸本葉子 1961- 「がんから始まる」 文藝春秋 2006.4.10 
・竹中文良・がん専門医の解説
 (-自身が専門領域の大腸がんに罹る体験を持つ) 
「がんという疾患の本質が解明され、その基本的な原因は「老化」であり、寿命が延びた期間に、累積された遺伝子の変異で発症することが明らかにされてきた。したがつて、がん患者は60歳前後から増え始め、60代から70代へと増加し続ける。その状況を具体的にいうと、80歳は40歳の倍の年齢だが、がんになる確率は16倍だとの統計もある。そして近年、がんは日本の社会に大きな問題を提起している。日本人の成人で2人に1人ががんに罹り、3人に1人ががんで亡くなる時代に突入したのだ。がんは自己の体内で細胞が謀反を起こすために生じる病気である。本書では、筆者が自らのがん闘病を可能なかぎり客観視し、・・・間延びしたと感じさせる程の安定感がある。「体の自由がきかなくなつても、心はこれまでと同じに、最期までのびのびと振る舞いたい」という、これは筆者の個性の表れであろう」 
・岸本葉子
「私は40歳でがんに出会った。2001年10月のことだ。・・・出会いは通常、別れと対にして語られるけれど、がんの場合は、それはなかなか難しい。いつになれば、別れたといえるのか。果たして別れが来るのかどうか。手術で取り除いた後も再発の可能性のある状態が続く。つきあいはまだ、はじまったばかりだ。・・・」
「退院を境に、流れる時間の質は、変わった。振り返ると、告知から退院までは、具体的な時間を生きていた。病院探しにはじまって、入院生活への適応、手術、回復と、そのつど短期的で、有形の目標があった。これからは、到達点のわからぬ、無形のテ-マと、長期にわたり、向きあうことになる。私は、どうなるのか。何をすれば、いいのか、と。がんとの関わりは、現実対応から、思索的な次元に移ったのだ。・・病院にいる間、私は常に、守られ、管理されていた。医師の言うとおり、看護師の言うとおりにしていれば、すべては快方へ向かうと信じることができた。これからは、ひとり。何も知らない、何も持たない。無力な者として、たったひとり、宇宙の中に放り出されたような。・・・がん患者として生きることは、人間としての主体性を、がんに譲り渡すまいとする、不断の格闘なのだ。「共生」という言葉では、私は語れない。人間としての自由を、主体性を奪おうとするこの病に対し、「闘う」という意識がまだ強い。・・死そのものを、ではなく、死に対し脅えることしかできないという状況を、克服したいのだ。何もできず、運命の託宣を待つほかないという無力感を、乗り越える。あくまでも、未来に主体的に関わる生き方を通す。」-岸本葉子

岸本葉子 「生と死をめぐる断層」 中公文庫 2020.10.25
・岸本葉子
「戦後の日本ではひと頃、死は見えにくくなったと言われた。家で看取ることが減り、死は病院の中のものになった。経済発展、効率を重視する社会では、死は意識から遠ざけられてきた。ゆえに芸術家はあえてメメント・モリと発信してきたのだと。そういう面はあるだろう。だが現代の日本人は、死を意識する時間はむしろ長くなっていると感じる。ひとつには高齢化の進行がある。老いは生物として考えれば、まぎれもなく死に近づくプロセスだ。そのプロセスをたどる時間が長くなった。二つめには病のあり方の変化がある。・・長きにわたり病と向きあう。医療の恩恵により、病を得てからの生存期間も延長された。・・ツ-ルの多様化により情報空間で、さまざまな人の死生観に接せられるようになった」

重兼芳子 1927-93 「たとえ病むとも」 岩波現代文庫 2000.10.16
-「1991年3月末、私は癌の告知を受けた。体に少しの症状も現れず不快感をどこにも感じない万全の体調だった。あとから思えば病気の徴候がまったくなかつたわけではない。あのときがそうだったのかと気づく程度がわかる徴候である。・・3月末私はふとしたきっかけで人間ドックに入った。ホスピスボランティアとして、たくさんの終末期の方がたとかかわってきた。ほとんどの方は痛みや苦しみもなく、平温で尊厳に充ちたお別れであった。・あの方たちは先達であり、私もそのあとをいつか辿るであろうと。ついに自分の番が廻ってきたと思ったのである。」

゜いのちと生きる」 中公文庫 1994.5.25印刷 1994.6.10発行

「生き方の深い人浅い人」 現代教養文庫 1997.4.20 初版第1刷発行

「さよならを言うまえに」-講演録  1994.10.20 第1刷
・重兼芳子
-世界の人たちはどのような死に方をしているか。いろんなところで癌による死に方を見てきたんです。癌の末期の方たち、終末を看取っているドクタ-、ナ-ス、その周辺を支援しているボランティアの人たち、そんないろんな人たち、一人ひとりと話してきたんです。それで私が驚いたのは、癌の末期の人で一人として痛がっている人かいなかったことです。私はドクタ-に聞いたんです。日本ではどの癌の患者さんでも、何時間おきかの痛み止めを待ちかねて、ほんとうに大部分の人たちが痛がって、苦しがっています・・今の先進医療諸国で、癌で痛むという国なんかどこにもありません。死というのはその人が死ぬだけではないんです。もしその人が平穏で、平安のうちに、ほんとうに満ち足りて亡くなるとしたら、周りの人にとっても、死の不安を和らげるものとなるでしょう。

「昨日と違う今日を生きる」 電子書籍は2013.8.15 角川学芸出版 角川文庫版は1988.1.10 初版 2001.8.20 14版 

「乳ガンなんかに敗けられない」文春文庫 1987.8.10 第1刷 1991.2.25 第9刷
解説-中島みち (ノンフィクション作家)
「・・・なんの苦しみもなく眠るように死んだ、安らかで静かな最期だった、と聞いて、おもわず合掌した。・・・この本から読者は彼女のようにたった一人、家族からも完全に独立して生きる新しいライフスタイルを拓いてきた女性が、がんという不測の事態に陥った時にどのように切り抜けていくのかを知り、普段あまり意識していない自分のライフスタイルを確認することに、大きな意味を見出すのではないだろうか。家族とは何か、友とは何か、・・・この手記は、我々に勇気を与えてくれるが、その反面で、千葉さんほどの強さもなくマメでもない我々は、普通の家庭生活、普通の人生のうるおいやありがたさ、しみじみ感じさせられたりもする・・・」 1987.7.10

「よく死ぬことは よく生きることだ」 千葉敦子・ジャ-ナリスト -1987 文春文庫 1990年2月10日 第1刷  
-解説 柏木哲夫
「千葉敦子さんがニュ-ヨ-クのスロ-ン・ケタリング記念病院で亡くなったのは、1987年7月9日であった。乳がんの手術を受けてから6年目、46歳であった。本書が世に出たのが1987年4月、3ヶ月後に帰らぬ人となった。自身のがん闘病のレポ-トを多く発表。様々な副作用を伴う治療に耐え3度にわたる再発にもかかわらず、積極的にがんと闘い、自身の体験を精力的に文字に表し、各地で講演・・・筆者らしい生を全うすることができた大きな理由の一つは、病名をはっきりと知っており、またその後の様々な治療についてもその効果や副作用についてすべて医師から十分な情報を得ていたということであろう」

「死への準備」日記 1991.5.10 文藝春秋
・千葉敦子
「がん治療の効果は、通常5段階に分類される。
(1.永久的レミッション・治癒 2.一時的レミッション・一時的に腫瘍のない状態 3.部分的レミッション・腫瘍の小さくなるか、がんが周囲に拡大したのを縮めた状態 5.がんが治療に反応しない・改善なし)
私は第2の段階にある。身体のどこにも、いまのところがんは見つからない。しかし、病気が治癒したことにはならない。現在の医療技術では見つからないけれども、1千万個以上のがん細胞が体内に存在しているかもしれないという。がん細胞というのは小さいものなのだ。1円玉より小さい直径18ミリの10セント硬貨「ダイム」の大きさの腫瘍には、なんと10億個のがん細胞が含まれているのだそうだ」
  

「いのちの手紙」 ちくま文庫 箙田鶴子 千葉敦子 1987.8.25 第1刷 1987.9.18第3刷
箙田鶴子 エビラタズコ
「私は満年齢8歳ぐらいで、一切の甘えから放り出されました。父の死と母の放任どころか邪魔者扱いだけの態度、姉とも互いに疎遠となった生活など、、その当時までまだ私は入浴時には母の乳房に甘え触れていたのですから、この突然の環境異変による「情緒不安」そのままで成人してしまったのです。・・無条件の信頼関係、現在までの30何年間、あえぎながらいかに私がそれを欲したか・・飢え、渇くほどの思いの以後の年月でした。ですから、私の中には全く無心な、子どものような「甘えの欲求」があります。加えて、心的には子どもが背伸びした状態のままで通って来た私は、辛酸をなめ尽くしたはずの一方で、愚かとしか申せない短絡思考があり、結婚したらその日から「絶対の愛と信頼」が成り立つと、本気で思い込んでいたのでした。人は成人する過程が異なり、それぞれの生育の歴史、性格形成も違うという簡明な現実を、詩や小説、いな友人知己にかいまみてさえ、私は孤独感の羨望で美化してみていたのです」
千葉敦子 チバアツコ
「箙田鶴子という作家を知ったのは、彼女の第1作「神への告発」(筑摩書房 1977年)との遭遇による。小説の形式をとった、脳性小児マヒの女性の自伝は衝撃的なものであった。主人公は、父親が亡くなるまでの幼児の8年間は、重い障害にもかかわらず幸福な日々を送っていたのだが、その後血のつながる家族からも冷たい仕打ちを受け、他人の家へ預けられたり、障害者の施設に入れられたりして育ち、成年となる。そして33歳の時にやっと施設から出て自立の生活を始める。両手足が利かず歩行不能で、手足ににけいれんを起こすという障害を持ちながら、足指でタイプを打ち、絵を描き、基本的家事の大半をこなしていく。私はこの本から得た感銘を直ちに記して筆者に送り、暫くして箙さんから返事を受け取った。それから4年たった1981年6月に、私は「乳がんなんかに敗けられない」(文藝春秋)を刊行した。その年の1月に乳がんの手術を受けたので、闘病記としてまとめたのだが、その本の中に、私の死生観に影響を与えた人々の名を挙げ、箙さんと彼女の著書にも言及した。私はこの著を箙さんに送り、彼女から謝礼の手紙をもらっている」

「ニュ-ヨ-クでがんと生きる」1990.11.10 文藝春秋 
「千葉さんは1983年末、再発がんの治療後、ニュ-ヨ-クに居を移し、実に精力的に果敢に仕事をした。彼女のライフスタイルからも、同情を拒む気持ちの強さからも、死に向かう病気を抱え最後まで一人で仕事を続けていくには、ニュ-ヨ-クを選ぶ以外に道はなかったろう・・なによりも彼女はハ-バ-ド大学の大学院に留学していたころからの夢を実現させたのである」 中島みち 
「がんにかかってから、死はいつも私のかたわらにあって、私の行動をチェツクしてきたように思う。「つまらぬ時間を使うな」「つまらぬものを買うな」「仕事はまじめにやれよ」・・・小さな後悔を繰り返すのは仕方ないが、大きな後悔をしなくてすむように、としょっちゅう気を引き締めている。もうすでに、がんにかかってから5年近くになるので、死をかたわらに生きることにも、大分慣れてきた。もう一度、闘いを挑まれたら、全力を挙げて闘うつもりだけど、もし力尽きて生を終える結果になっても、そんなに激しい後悔は残らないような気がしている。それほど大きな仕事ができる人間だと気負っているわけでもないし、1940年代に日本人女性として生まれるという制約の中で、私にできる範囲の挑戦は子どものときからずっとやってきたつもりだ。・・・千葉敦子 

中島みち 「誰も知らないあした -がん病棟の手記」 1986.7.25 第1刷 文春文庫
-文庫版のためのあとがき-
「乳がんの手術から、十余年たちます。ほんとうに思いがけなくも、私は今も、元気に生きております。当時、自分自身のがんと闘うためにも、欧米の医学論文等にも目を通し情報の最先端を取材していたことが役立ったかもしれません。この本は私の最初で最後の本になるはずのものでした。しかしその後、再発を疑わせるような状況も何回かありはしたものの、こうして生き残り、この病気を機縁に、主として医療と法律にかかわる分野で、患者の立場から考え世に訴えていく仕事をするようになりました」 ・中島みち 

中島みち 「がん病棟の隣人」から-
「一人前の顔してこの世に何十年も生きてきて、誰が今更死にたくないって泣ける?・・・平常心を持ち続けて死んでみせる、それしかないじゃないの。(みんなやたら立派に死ぬけれど)、遺された日記や文章、そして遺族の言葉で探っても、そんな立派にきまっているのよ。願望なのよ。がんと知ってからは、書くことによって語ることによって、つまり他者とのつながりによって自分を縛り、自分の萎えてくる心を励ましているのよ」

「朽ちていった命」 新潮文庫 2006.10.1発行 2012.6.10 19刷

柳澤桂子 「すべてのいのちが愛おしい」 PHP研究所 2002.5.29 第1版第1刷

柳澤桂子・「癒されて生きる」 女性生命科学者の心の旅路 岩波書店 2004.3.16 第1刷 2017.2.24 第6刷
「私たちは100年たらずの寿命を生きてかならず死ぬ。受精の瞬間から、死に向かって歩みつづけている。私たちのからだを構成している体細胞はこのようにして死ぬが、卵や精子という生殖細胞は、子孫となって生きつづける。・・・私は36億年の間書き継がれてきた遺伝子情報を生殖細胞に残して消滅する。この地球上のたくさんの生命体がうごめくなかで、私一人が生きようと死のうが、それはまったく取るにたりないことである。・・私たちが感じている死は、生物学的な死ではなく心理学的な死である。医学の発展により、生物学的な死をある程度操作することができるようになったために、いろいろな問題が生じている」
「人間は死を自分にしたがわせることによって完成するのではなく、死の苦しみ、死に至る苦しみを背負うことによってはじめてたかめられるのではないか。自分の行く手に大きな障害があってこそ、生の重みも増すのではないかと考えるようになった」 -柳澤桂子

柳澤桂子 「いのちの日記」 2005.10.1 初版第1刷

柳澤桂子・「いのちのことば」 集英社 2006.12.20 第1刷
「どんなに強がりを意ってみたところで、やはり病気はみじめであり、苦しみであり、悲しみです。私自身、何のためによりよく生きようとあがいているのか、わからなくなってしまいました。でも、よく生きようと努力すること、そのこと自体が私を支えてくれるのだということにも気づきました」
「苦しみをいっしょにわけもとうと 手をさしのべてくれるひとがいるということは、人間のもつもっとも大きな喜びの一つではなかろうか。温かい気持ちにまもられて、たいせつに思われている毎日は、肉体的に苦しくとも心は満たされている。心は癒やされ、慰められ、安らいでいる」

河野裕子 歌人 1946-2010 享年64
第14歌集「葦舟」-あとがき 河野裕子
去年(2008.7)、8年前に(2000.10)手術した乳癌の再発が見つかり化学療法を受けているが、抗癌剤の副作用はやはりそうとうに辛いものである。ひとつの転移箇所を押さえ込んでも、これからも癌細胞はモグラ叩きのように次々と転移を続けていくのであろう。・・・あと何年持ちこたえられるか、免疫力と体力と気力だけが頼りだ。・・・50年ほど歌を作ってきてほんとうに良かったと、この頃しみじみと思う。歌がなければ、たぶんわたしは病気に負けてしまって呆然と日々を暮らすしかなかった。

「葦舟」 第14歌集 2009.12.24 角川書店刊
第14歌集 あとがき 平成21年10月30日  河野裕子
  癌は副作用との闘いであるといわれるが、それはわたしの身体がいちばんよく知っている。あと何年持ちこたえられるか。免疫力と体力と気力だけが頼りだ。
残された時間を哀惜しつつ歌う。-人の気があがっている所に、できる限り出て行こう、講演は引き受けられるかぎりは引き受け、歌会にも体力が許すかぎりは出ていこうと思っている。食欲は全くなくなり、何を食べてもおいしくないが最低限の家事はこなしている。歩けて話すことができる今が一番いい時なのだろう。

・3時間かけて受けゐる点滴と60兆の細胞、白兵戦を戦ふ
・まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言えり
・慰めも励ましも要らぬもう少し一寸チョットはましな歌人になるか
・採血されまだ生きてゐるわれの血が検査室へとすぐ送られる
・乗り継ぎの電車待つ間の時間ほどのこの時間にゆき会ひし君
・生きてゆくとことんまで生き抜いてそれから先は君に任せる
・こんなにも生きてゆくのが苦しいと祖母言はざりき父母言はざりき 

「蝉声」センセイ 2011.6.12 青磁社刊 河野裕子・最終歌集。
永田和宏
2010年8月12日、亡くなる当日まで歌を作り続けた。一首でも書き残せるうちは残したいという強い思いに支えられての作歌だっただろう。
これ以降の歌集はもう決して出ることはないのだということに、あらためて無念の思いが強い。・・・亡くなる当日まで歌を作りつづけた。一首でも書き残せるうちは遺したいという強い思いに支えられての作歌だっただろう。400字詰めA4の原稿用紙をいつも使っていたが、それに直接書くなくなると、入院中は手帳に書き残していた。さらに病狀が進み、鉛筆を持つ力がなくなると、彼女の口から出る言葉を、身近にいるものが書きとめるという形で数十首の歌が残された。
河野裕子
・死より深き沈黙は無し今の今なま身のことば掴んでおかねば
・生きよう この部屋のドア開けしとき部屋が言ふようにわたしも言へり
・やつれゆくコスモスの庭 咲き残りをりしをたぐり寄せ支柱に結はふ
・生きて死ぬ短い一生ヒトヨは何でせう掌の綿虫ふっと一息に吹く
・ありがたふと日に幾たびも言ひながら看護されゐるすべてを委ね
・もう一度のこの世は思はずきっぱりと書いてゆくのみ追伸不要
・この世の願ひをほとけに請わず 千年を佇ちつづけ来し足首太し
・半眼のままに内陣に佇ちつづけ金堂の外光を知らぬほとけ  室生寺にて

・八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る
・さみしくてあたたかかりきこの世にて会い得しことを幸せと思ふ
・手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

「わたしはここよ」 白水社 2011.12.10発行
河野裕子
人間を含めたすべての生物が宿命的に逃れられないものが三つある。生まれ合わせた時代から逃れられない。自分の身体の外に出ることができない。必ずいつか死ななければならない。・・・いつも意識せざるをえないのは身体である。自分の身体のことが自分でまるでわからない。この違和と不安。自己のものでありながらどうにも制御不能なままならぬもの。私たちは自分の身体の内に閉ざされたまま、この外へ一歩も出ることができない。
2000.9.22、乳癌の告知を受けた。・・すぐに事態が呑み込めなかった。診察を終えて、病院の横の路上を歩いていると向こうから永田(永田和宏)がやってきた。彼とは30年以上暮らしてきたが私を見るあんな表情は初めて見た。痛ましいものを見る人の目。この世を隔たった者を見る目だつた。
-何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋じゃない-
鴨川ぞいの道を車を運転して帰ったが、涙があふれてしかたがなかった。私の人生の残り時間はあとどのくらい残っているのだろう。それまでに出来る仕事のことを考えずにはいられなかった。きらきら光る鴨川の水面が美しい・・・この世はこんなに明るく美しい所だったのか。何故このことに気がつかなかったのだだろう。かなしかった。かなしい以上に生きたいと思った。

「あなた」 岩波書店 2016.8.4 第1刷発行 永田和宏・永田淳・永田紅編
永田和宏
2010年8月12日、河野裕子は64歳という短い生涯を閉じた。作歌を始めてからほぼ50年のあいだに河野が作った歌は歌集に残っているだけで6585首である。きわめて多作の作者であったから実際には発表する歌の数倍の歌を作っていた。生涯に作った歌の数は、数万首になると思われる。
一首一首読み解きながら私自身は次第に敬虔な思いになっていくのをどうしょうもなかった。・・・己の最後の瞬間まで迷うことなく歌を作り続けることに賭けた一つの命があった。
河野裕子
・さみしくてあたたかりきこの世にて会い得しことを幸せと思ふ
・手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が  (最後の歌)

河野裕子の本
「家族の歌・河野裕子の死を見つめて」産経新聞社 永田和宏・永田淳・永田紅/「たとえば君-40年の恋歌」文藝春秋社 永田和宏・河野裕子/「たったこれだけの家族」・「桜花の記憶」・「どこでもないところで」中央公論社/「母系」河野裕子/「あの胸が岬のように遠かった」永田和宏/「評伝 河野裕子」 永田 淳/

文藝春秋70周年記念出版 「生と死の現在」 1992.11.1. 第1刷
解説-柳田邦男 死の受容への道程としての自分史への旅-
「人は誰しも、自分の歩んできた人生への納得なしには、心安らかな死を迎えることはできないだろう。人は病に臥した時、気がつくととりとめもなく来し方を思い浮かべている。幼き日のこと、青春時代のこと、恋愛と結婚、仕事のこと-長くもあり短くもあった人生の日々への心の旅でもあり回帰でもある。そうした過ぎし日々を、書き記すことによってしっかりと自分の手に再獲得したとき、人は自分がおだやかになっていることに気づく。 
「人間とは勝手なものだ。元気な時には死について振り返りもしなかった。それが今の私は「死」に関する本をむさぼり読んでいる。そして講演までしている。なんとも皮肉なことだ」  西川喜作  

文藝春秋70周年記念出版 「病いを超えて」  1992.12.25 第1刷

文藝春秋70周年記念出版 「障害とともに」 1993.3.1. 第1刷

「生きる者の記録」 佐藤健(1942-2002) 2003.3.15 毎日新聞社
・柳田邦男
-「佐藤記者は闘病する一人称の視点で、自らの内面をさらけ出して、最後まで生きぬいた証を記録した。いのちの精神性を問い続けた佐藤記者に深甚なる敬意を捧げたい・」 
「病室の窓の向こうで太陽が落ちた。窓枠の上にある小瓶には、健さんが卒業した埼玉県立熊谷高校のグランドの土が入っている。中学時代、健さんは走り幅跳びで全国3位の健脚だつた。」・生きる者の記録から

「がんはどこまでわかったか」 講談社 1981.4.20 第1刷 1991.4.20 第7刷

「がんはどこまでわかったか Part2」 講談社 1991.4.10第刷 
・畑中正一
「正常な細胞ががん細胞へと変化するにはいくつかのステップがある。がん遺伝子の変異とがん抑制遺伝子の欠損の組み合わせとみてよい。がん細胞を遺伝子の欠陥細胞と考えれば欠陥の積み重なりが悪性につながる。欠陥車にたとえるとアクセルの故障はがん遺伝子の変異、ブレ-キの故障はがん抑制遺伝子の欠損である・・・・がんを引き起こす遺伝子と知りながらこの遺伝子とともにいきなければならない。ヒトはがんと共存しながらいきなければならない運命にある。21世紀になつてもこの関係が変わることはない・・」

「がん治療-新時代の指針」 2020.3.16 玄文社 初版第1刷発行

「精神と物質」-分子生物学はどこまで生命の謎が解けるか 文春文庫 1993.10.9 第1刷 2022.6.15 
文藝春秋に1988.8-1990.1連載 単行本1990.7

「ips細胞ができた」 ひろがる人類の夢 集英社文庫 2013.5.25 第1刷 2008.5に集英社から刊行 文庫化

「人間の事実Ⅰ」生きがいを求めて 文春文庫 2001.9.10 第1刷
・柳田邦男
「何かが変わりつつある。いや、何かという単一のものではない。人生観や生き方が変わりつつある。老後の生き方が変わりつつある。生と死のかたちも変わりつつある。若者の生き方も変わりつつある・・・」

「言葉の力、生きる力」 新潮文庫 2005.7.1 
・柳田邦男
「言葉は事実を表すための単なる記号ではない。そこには必ず魂が込められている。いのちを失った言葉は壊れ、そこに暴力が生まれる・・・」
 人は死が避けられなくなつた時、自分が他の誰でもない自分として生きたかどうか、その証を必死になって求める。その個性化の完成を自己実現 とよんだ。個性化の道を完成させるのは死である。・・死は人生の目標である。

「人生の答」の出し方 新潮社 2005.11.1
・柳田邦男
 アルフォンス・デ-ケン先生にとって「人生での最初の一番深い体験」は、妹パウラの死であったという。8人兄弟の3番目だったアルフォンス少年は、8歳の時、4歳だったパウラが白血病で死にゆくのを家族とともに看取っている。・・・パウラはわずか4歳だったにもかかわらず、自分の死期を悟り、「また、天国で会いましょう」といって息を引き取った。敬虔なカトリックの信仰に生きる家族だった。私(柳田邦男)は、かねて、幼い子どもでも、親がしっかりと向きあって語りかければ、その年なりに死を受けとめると考えてきただけに、このエピソ-ドには強く心を動かされた。

「元気が出る患者学」 新潮新書 2003.6

「死ぬための教養」 嵐山光三郎 新潮社 2003.4.10発行 2003.5.10 4刷
-人間は死にます。天才的養生家であろうが、不老長寿の薬を手に入れようが、悟達した高僧であれ、肉体を鍛え抜いた仙人であれ、だれも「死」からは逃れることはできません。人類はこの普遍的恐怖と闘い、さまざまな処方箋を考えてきました。その最大なるものは宗教です。・・・宗教に帰依しない人は、自己の死をどう受け入れていけばいいのでしょうか。私自身は、来世はない、と考えています。死ねばそれっきり。死は人間の終わりで、死んだ時点ですべてが完結し、あとは無です。この世は生者のためだけに存在するのです。生きているだけが人間なのです。生理学的に考察すると、人は死ぬ時、最後の最後に自分の死を受け入れることへの抵抗を試みようとします。「このままでは死ねない」ともがき「なぜ自分だけ死ぬのだ」という葛藤に苦しみます。自分の死を納得するためには、一定の教養が必要となります。一定の教養とは「死の意味」を知る作業に他なりません。「自己の死」を受け入れる力は教養であります。死に対する教養のみが自己の死を受け入れる処方箋となるのです。平穏に死を受け入れるためには、どのような知恵ををつければいいのか。この本は読者にむけての処方箋であると同時に、私自身へむけての覚悟でもあるのです。

「死の壁」 新潮社 2004.4.15 
・養老孟司
「多くの人が、死を考たくないと思っているようです。もちろんそんなことを考えても考えなくても、さして人生に変わりはないはずです。結論はわかっているからです。でもたまにそういうことを考えておくと、あんがい安心して生きられるかも知れません。ともかく私は安心して生きていますからね」

2004.7.22 初版第1刷発行 清流出版

2015.12.10 「死はこわくない」 立花 隆 第1刷 文藝春秋
-死後の世界が存在するかどうかは個々人の情念の世界の問題であって、論理的考えて正しい答えを出そうとするかどうかの世界ではない。
哲学科で学んだことの中で、いちばん大きな影響をうけたのがヴィトゲンシュタインの哲学、「論理哲学論考」。
「語り得ぬものについては沈黙せねばならぬ」
死後の世界はまさに語り得ぬものです。語りたい対象であるのはたしかですが、沈黙しなければなりません。・・・私は今年(2015年)、75歳です。足腰は衰え、昔のように走ることも、階段を駆け上がることもできなくなりました。食事中に歯の一部が欠けてしまい、老いの進行を強く感じました。同級生たちは次々と死んでいますし、自分より若い人も亡くなっている。自分もいずれ、それほど遠くない時期に死を迎えるにちがいないということが実感として理解できるようになりました。その結果として、生に対する執着が弱くなりつつあります。「死はこわくない」という心境に私が到達したのは、臨死体験に関する新たな知識を得たからという理由以上に、年を取ることによって死が近しいものになってきたという事実があります。-立花隆

「エ-ゲ 永遠回帰の海」 立花隆 須田慎太郎 ちくま文庫 2020.1.10 第1刷発行
-遺跡を楽しむのに知識はいらない。黙ってそこにしばらく坐っているだけでよい。大切なのは、「黙って」と「しばらく」である。できれば、二時間くらい黙って坐っているとよい。そのうち、二千年、あるいは三千年、四千年という気が遠くなるような時間が、目の前にころがっているのが見えてくる。抽象的な時間ではなく、具体的な時間としてそれが見えてくる。・・・死すべき肉体を持つ人間は、誰であろうといつか死ななければならない。死んでからどうなるのか。魂の不死を説く宗教に対して、ニ-チェは「魂の不死などというものはない。肉体の死とともに魂も死ぬ。それによって、人間の生命は無に帰す。しかし、やがて、すべてが永遠に回帰するのだ」と説いた。
一切は行き、一切は帰る。/一切は死滅し、一切は再び花開く。/一切は破れ、一切は新たにつぎあわされる。/一切は別れ、一切は再び相まみえる。/存在の円環は永遠にみずからに忠実である。/すべての刹那に存在ははじまる。/万物は永遠に回帰し、われわれ自身もそれとともに回帰する。これが、「ツァラトゥストラかく語りき」の中でニ-チェが到達した永遠回帰の思想である。時間は一つの方向に不可避的に流れるものではない。円環をなしているものだという。時が円環であるならば、はじめもなければ終わりもない。過去は同時に未来であり、未来は同時に過去である。人はまさにこの現在の一瞬において、過ぎ去りてゆく時を生きているのではなく、永遠を生きている。「見よ、これが永遠なのだ」とニ-チェはいう。頭で考えている限り、わかったようなわからない思想と思われるかもしれない。しかし、人気のない海岸にある遺跡で、黙ってしばらく海を眺めていると、これが永遠なのだということが疑問の余地なく見えてくるような気がすることがある。-   立花隆

2022.12 文藝春秋100周年 「世界最高のがん治療」  

「ひと、死に出あう」 2000.1.25  朝日新聞編
落合惠子 1945-  作家
「そんなに遠くない将来、わたしもまた、わたしの死を迎える。その時、わたしはもはや、わたしの死に対して「待って」とは言えない。死は待ってはくれないのだから。誰かの死に対して「待って」といったわたしが「待って」と言えなくなるその時まで、わたしの死がわたしを訪れるその瞬間まで、とにもかくにも生きていく」
長田 弘 1939-2015  詩人 翻訳家 文芸評論家
「私が「私」の死を私有しようとしても「私」が「私」自身の死を経験することはできない。・・・誰も自分の死を見ることはないし、誰も他人の死を死ぬことはできない」
樋口惠子 1935- 評論家
「生まれるとき安産と難産があるように、死にも安死と難死がある。難死の側に入った時、私はどんな態度をとり得るか、そう思うと老いてからの人生は、死に向かっての修業である。取り乱すことがあったら、どうかご容赦下さい」 <89歳・乳がんの手術>
大石 静 1951- 脚本家
「私は二十代でがんの手術を二回受けているが、その時リアルタイムに迫ってこなかった自らの死が、父を看取って以来、実に身近な現実となった。人はその意志に関わりなく生まれ、その意思に反して死ななければならない不条理な存在である。そのことが不思議と素直に受け入れられるようになったのである。それから私はいつも思っている。誰にでも来るその日をっ実感したら、きっぱり諦めて逝きたいと。そういう死のイメ-ジを常に念頭において今日を生きていたい」
俵 萌子 1930- 評論家
「親しい人の死には、数多く出会う。肉親では、好きだった父の死を経験している。けれど、その場合の"死"と"自分自身の死"とはずいぶん違うものなんだということに気づいた。わずか、2年半前のことである。その時、私は乳がんを告知された。手術を受けた。医者ぎらい、病院ぎらいだから、異変を感じても長らく放置していた。最悪、死を覚悟しなくてはならなかった。自分自身の死について本気で考えたのは、じつはこの時がはじめてである。・・私は死が怖いのだった。1年近く考えた末、ひとつの結論に辿りつく。生物はもともと生きんと欲するようにつくられている。本能的に死を怖れ回避するようにつくられている。だから無理して死を怖れまいとするより、生をどう生きるかを考えるほうが、人間に適している。そう考えると少しは気が楽になった。・・ブナの森では、死は決して無ではなく、身を挺して次なる命を育てている、人間も本来こういう死を持っていた」

辺見じゅん(1938--2011.9) 編 「昭和の遺書」-南の戦場から 2002.8.10 第1刷
「辺見さんがここに収録した戦死者82人の遺書や日記を持つ家族を訪ね歩いて、遺された言葉をめぐる人間模様と物語を聞き出し記録した意義は大きい」-家族内でひつそり横たわっていた死者たちの言葉が、生き生きとした形でたちあがってくる。-柳田邦男解説 死者の言葉のリァリティ 

柳田邦男 「言葉の立ち上がる時」 平凡社 2013.6.19 第1刷
工藤直子さんの詩 「小さい詩集-あいたくて」
「だれかにあいたくて/なにかにあいたくて/生まれてきた/それがだれなのかなになのか/あえるのはいつなのか--/

淀川長治 「生死半半」 1998年12月25日 初版発行 幻冬舎
「ルキノ・ヴィスコンティ監督の゜ベニスに死す」という私の大好きな映画の中にこんな科白がありました。

-砂時計のガラスの中の砂は、初めは少しずつ落ちるので気にもせぬが、やがて残りが僅かになると、砂は慌ただしく落ちて、止めることはできない-。「貧しい時代なら、人は「死」についてなんか考えません。とにかく食べるにも困っているわけですから、「今日一日、どうやって生きようかという」ということを考えることはあっても死んだらどこに行くのか」なんて考える余裕はなかったのです。・・・若いうちは「死」について考える必要はありません。人間はどうして死ぬのかって? 生きているから死ぬんです。死んだらどこへ行くのか? それは死ねばわかります。・・もっと楽しく豊かに生きることを考えてください。・・・20代、30代の若いころならいざ知らず、これぐらいの歳になると、死はもうすぐそこまで近づいています。だから、いつ死んでもビックリしないように覚悟を決めておかないといけません。漠然と「いつか自分も死ぬだろう」と思っているだけで、死を正面から受け止めることにはならないでしょう。・・・人間の「生」と「死」は裏表。「死」があるから「生」があるといってもいいでしょう。「生」にこだわれば生きられず、「死」を覚悟すれば精一杯に生きられる。ゴ-ルを見据えなければ、全力では走れません。
親交ののあった黒澤監督が他界して二ヶ月後に淀川さんは病院で亡くなってしまった。1998年11月11日午後8字11分。病名、腹部大動脈破裂だった。
-物事には始まりがあれば、終わりがあるものです。どんなに楽しいこともどんなに苦しいことも、いつか終わりが訪れます。私の大好きな映画も同じこと。どんなに素晴らしい映画もやがてラストシーンがやってきてスタッフロ-ルが流れ始めます。永遠に終わらない映画なんてありません。
人生は一度だけ。You only live once という言葉を頭の片隅に置いております-

「生命」と向かい合う本-個人蔵
・「遺す言葉」 作家たちのがん闘病 文藝春秋/・「昭和の遺書」 魂の記録 週刊文春/・「生きているを見つめる医療」 中村桂子 山岸敦
・「癌患者になつた5人の医師たち」 黒木登志夫/・「飛鳥へ・そしてまだ見ぬ子へ」 井村和清/・「家族の歌 河野裕子の死を見つめて/
・「自分を生きる-日本のがん治療 中川恵一 養老孟司/・「がん回廊の朝」上下 柳田邦男/・「がん回廊の炎」上下 柳田邦男/
・「こどもホスピスの奇跡」 石井光太/・「いつか必ず死ぬのに君はなぜ生きる」 立花隆/・「がんから生きる生き方」 養老孟司 中川恵一
・「死を受けいれること 小堀陽一郎 養老孟司/・「死を見つめる心」 岸本英夫/・「がん病棟の九十九日」 児玉隆也/
・「がん 生と死の謎に挑む」 立花隆/・「脳卒中で倒れてから」 鶴見和子/・「死について考えること」 遠藤周作/
・「死にざま生きざま」 紀野一義/・「科学と宗教と死」 加賀乙彦/・「生きがいについて」 神谷美恵子/・「がんと闘った科学者の記録」
  立花隆、戸塚洋二/・「患者学のすすめ」 柳田邦男/・「犠牲 わが息子 脳死の・・・」 柳田邦男/・「友を偲ぶ」 遠藤周作編/
・「昭和の遺書」 南の戦場から 辺見じゅん/・「人の心に贈り物を残していくむ 柳田邦男/・「生の科学、死の哲学」 養老孟司対談集

井村和清 1947-1979  「飛鳥へ そしてまだ見ぬ子へ」 祥伝社 1980年  
「サン=テグジュベリが書いている。大切なのは、いつだって目に見えない。人はとかく目に見えるものだけで判断しようとするけれど、目に見えているものは、いずれ消えてなくなる。いつまでも残るものは、目に見えないものなのだよ。人間は死ねばそれで全てが無に帰する訳ではない。目には見えないが、私はいつまでも生きている。おまえたちと一緒に生きている。だから、私に逢いたくなる日がきたら手を合わせなさい。そして心で私を見つめてごらん」

○2022.6.24   鈴木慶治
日常生活が一転して、健康の重さを強く認識しなくてはならなくなった。自分とは何か、自身の肉体とは、精神とは。様々な思いが答えがでないまま頭をよぎる。人生の終焉ということも考えてしまう。腎臓癌でなくなったある医師の言葉を目にした。
「私の"命"はもうすぐ終焉を迎える。しかし私の"いのち"、すなわち私かが大切に思っていること、私の価値観はこれから永遠に生き続ける」
命といのちには違いがあるという。限りある命に対して、限りなきいのち・・・。死とは「生の終わり」と認識するが、果たしてそうであろうか。死の向こうを見て語った人がいない。であれば、あの向こう、即ち死がわかる筈がない。生まれてくる生前の世界を「無窮、永遠の世界」と考えると、死後の世界もまた「無窮の世界」ではないだろうか。無窮とは何もない世界ではない。宇宙の果て限りない世界と解したい。そこに私達は立ち戻るということではないだろうか。
○2022.8.20
心が折れそうになる。「生きがい」となるものはないか。命がけで取り組んだものが自分にあったのかといえば、何とも心もとない。自分という存在を考えた場合、地球人口60億から考えれば、とてつもなくちっぽけな存在である。「60億分の1」という極めて微少な存在であり、自分以上の悩みや苦しさの中で生きている人々が、地球上には無数に存在する。そう思えば自分の存在などはとるに足りない。
子どもの頃読んだ本に「路傍の石」がある。作者、山本有三。この本の中に「お前は世界中でたった一人の人間」なんだ、という言葉があった。それから小さな勇気を貰ったことを思い出す。
オリンピックのマラソンランナーが、走り終えた後のインタビューで答えた、「自分を誉めてやりたい」という言葉、これも「路傍の石」の「たった一人の自分」を大事にする言葉に近いと思う。60億分の1の捉え方が、その時、置かれた状況の時々で変わるように思った。生きることに退嬰的な時、自分なんか大したことないと思う。そして、生きることに前向きである時は、自分を大事にしようと思う。「60億分の1」という言葉からは、その時の自分の心の有り様が関わっている。どうでもいいと思う自分と、そうではない自分が拮抗している。「生きる」ということを考えた時、「世界でたった1人の人間」という自覚は必要だが、「死への覚悟」には、また別の何かがが必要だと思う。
○2022.9.3
「死ぬ」ということの答えなんかない。出そうと思うのが、そもそも不遜で傲慢なことなのかもしれない。「我未だ生を知らず、いずくんぞ死をや」。まだ生きることの何かもしらないのに、死ぬというなどわかることなど出来っこない。」生きることを真剣に考え、自分の生活を豊かにしていく先に、覚悟ある死の準備が見えてくるのかなと思う。自分たちは何処からきて何処へいくのか。「無窮の世界から来て、また無窮に帰っていく」という言葉がある。「死」とは果てしのない時空を超え、宇宙の塵と一体になるということか・・・。与えられた命を生かすための「生の充実」ということが、自分に求められているのかと思う。

「野の花ホスピスだより」 徳永 進
あとがきより
・徳永 進
-医師免許証を与えられたのは昭和49(1974)年5月。医師登録番号は221104。119104に似ていた。ナチスの強制収容所で過ごし、体験記録の「夜と霧」を書いた精神科医V・E・フランクルの手首に記された囚人番号である。フランクルは、囚人の中でいい人は早く死んだと書き、生き残った人を見ると、共通しているのはつぎの三つだったと書く。窓の外の雪や景色を「きれい」と思った人、何の根拠もなく「自分は死なない」と思った人、配られたパンやジャガイモを半分にして、他人と分け合った人、とある。・・・臨床で働き続けていて気が付くことがある。人々は悲しみの波に出会っても必ずしも波に呑み込まれたり、波に打ち上げられて消滅してしまう、とは限らないこと。波と共に浮遊し景色を眺める人、波の上に立ち波に乗る人、波の下で貝拾いする人、波を飛び越え空へ飛んで行く人、いろんな人たちがある。人の隠し持つ力の一つ一つに頷き、驚き、敬意を覚えた。

「心のくすり箱」 2005.1.18 第1刷 岩波書店
 徳永 進 1948- 鳥取赤十字病院内科医などを経て、野の花診所医師
-現代人の忘れ物はたくさんある。ひとつは、自分の体を尊敬することだろうか。ぼくらは体を尊敬することを忘れている。やみくもに薬を服用するのではなく、体の持っている対応に敬意を持って見守ること、それを忘れているのではないだろうか。人間の考えや判断よりも、体が何億年もの間に蓄積した判断の方がはるかに信頼できる、ということはしばしば起こる。自分の体の中の自然治癒力、それへの感謝を忘れている気がする。もう一つの自然治癒力、大自然が持っている治癒の力、そのことが在るということも忘れている。星や風、海や光、それらはかけかけえのない薬でもある- 

「野の花あったか話」 徳永 進 岩波書店 2015.6.17 第1刷
まえがきから
-どこからかいのちがやってきて、いのちがはじまる。雨の日、風の日、晴れ渡る日、雪の日、雷が轟く日、虹がかかる日、いのちは生き続ける。日の出前も日の出後、午前もお昼も午後も、夕陽が沈むころ、月や星が輝くころ、光一つない真暗の深夜も、いのちは息づく。
 いつの日か、転倒する。事故にも巻き込まれる。気が付くと幾重にも齢ヨワイを重ねている。気が付くと歯がボロボロになっている。体重が減って病院に行くと、根治不能の病気で全身に転移していると知らされる。いのちはびっくりして、嘆き、悲しむ。痛みが出る。熱も出る。咳も、しゃっくりも、冷や汗も血便もでる。息苦しい、食べられない、飲めない。体の全部がだるい。いのちはくたびれる。
 人の一生、人さまざま。その時々を拾ってみると、辛く、悲しく、冷たいことで満ちている。病み、老い、死に直面すると、冷たさがひしひしと身にしみる。臨床で働いていると、そのことに直面する。でも、にもかかわらず、まさにその時、あったかいものを感じるし、感じてきた。悲しみの真中に辛さや冷たさの真中に、あったかいものが存在する。そのことを感じてきた。
 いのちは、まるで遺伝子の二重らせん構造のように、あったかいものと、冷たいものとの二重らせん構造でできているのではないか、とも思えた。辛く、悲しいことに満ちる、臨床の日々で見つけたあったかいことを掬い、綴ってみよう、と思った。いのちを見つけるために。2015.5 徳永 進

「故郷を追われたハンセン病者たち」 徳永 進 岩波書店 2019.2.15 第1刷
「自分の生まれた日を誰も忘れない。らいを病んだ人たちは、生まれた日のほかにもうひとつ、忘れることのできない日を持っている。・・らい者の持っているもうひとつの日は、自分自身の体験の中で、深く記憶にとどめられたものである。生まれた日が人間として社会的に認められた日とするなら、もうひとつの日は、人間として社会に認められなくなった日と言えるのかもしれない。らい者は深い悲しみと怒りと恨みの心をもつて、その日をみつめている。それは故郷から、らい療養所へと隔離された日々である」  徳永 進

「苦海浄土」 石牟礼道子 
-わたしはもう、助からん娘じゃろうと思うようになっとりましたです。人間のあなた、肉と骨のあいだは、深うございますとですよ。もう大方動けんごとなりましてから、桜の散りはじめまして、きよ子が這うて出て、縁側から、こう、そろりそろり、すへり下りるとでございます。もう口はきけんごとなっとりました。水俣病の痙攣な、知っとられますか。顔から先にゆきますとですよ。猫どもも、鼻の先からちょろりとむけて逆立ちして舞いよりましたけれども、人間の体は重うございます。いくら骨ばっかりになりましても、猫より骨の重うございます。それで逆立ちはしきりしませんでしたけれども、自分の体は、地面にそうやって、打ちつけますとですよ。顔から先に。痙攣の起きると。・・・きよ子が怪我がすくなかように、わたしはいつも、地面の尖っているところば、ハンマ-持って、たたいてされきよりましたです。それでも、あの子は転びまして、泥まみれになりました。花の中で。庭に下りるなと言うてきかせても、もう聞きわけのできん人間になってるもんですけん。そのような痙攣がおきると、ほろほろほろほろ、涙は流しまして、地面にゆらりゆらりして片膝立てて坐りよりました。花びらば、かなわぬ手で、拾いますとでございます。いつまででも坐って。・・・

「人間を見つめて」 神谷美恵子 みすず書房 2004.11.8 印刷
-考えてみれば死後のことばかり思って生前、すなわち人間が生まれてくる前のことを思わないのはおかしい。私たちは生まれる前も大自然の中に諸元素として散らばっていたのだろう。それがたまたま諸条件の微妙な組み合わせによって一つの生命、一つの個体、一つの自我となってこの世に生まれてきたのだ。いわば「永遠」または「無時間」の次元からしばらくの間、歴史的時間の中に組み込まれたわけである。縁あって時と所を同じうして生まれあわせた者は、共に生き、共に苦しみ、共に何らかの歴史を形づくった後、再び永遠の次元にかえって行くのだ。人生は「永遠」と「時間」の交差点であり、人間が歴史に参与できるのは、この点にも似た短い期間にすぎない。与えられたこの短い生をどのように生かすか、生かせるか。故人たちが無に帰したとは到底思われない。・・皆もとの元素になって大自然の中にかえって行ったにちがいない。死者の生きた足跡は歴史を通して無形のうちに私たちの生に働きかけているのだと思う。-神谷美恵子

「夜と霧」 ヴィクト-ル・E・フランクル 池田香代子訳 2002.11.5 第1刷 みすず書房
-強制収容所で亡くなった若い女性・・この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。
「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」 彼女はこのとおりのことをわたしに言った。「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうなんて、まじめに考えたことがありませんでした。」 その彼女が、最後の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。板敷きの病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、花房をふたつつけた緑の枝が見えた。「あの木とよくおしゃべりをするんです」「木はこういうんです。わたしはここにいるよ。わたしは、ここに、いるよ。私は命、永遠の命だって・・」
-最後の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、最後の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。・・強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会の皆無の生にも、意味はあるのだ。・・被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに閉め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることにそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。・・
-わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ-
-ヴィクト-ル・E・フランクル
119104はフランクルの囚人番号。星はユダヤ民族のシンボル「ダビデの星」

「エリカ 奇蹟のいのち」 ル-ス・バンダ-・ジ-/文  ロベルト・インノチェンティ/絵 柳田邦男/訳 2004.7.15第1刷・2018.1.10第19刷 講談社  出あい 著者のことば
この本に書いた物語は、エリカが私に話してくれたものなのです。
-わたしが1944年に生まれたことはたしかです。でも誕生日がいつであるのかはわかりません。生まれたときにつけられた名まえもわかりません。生まれたのが、どこの町なのか村なのかもわかりません。きょうだいがいるのかどうかもわかりません。知っていることといえば、強制収容所に入れられる直前にたすけられてとき、わたしはやっと2~3ヶ月の赤ちゃんだったということだけなのです。・・・お母さまは、自分は「死」にむかいながら、わたしを「生」にむかってなげたのです。・・・」 

柳田邦男
-強制収容所に送りこまれれば、その人がこの世に生きていたことも名前さえも残らないような形で抹殺されてしまうのだが、この絵本の主人公のエリカは奇跡的に生きのびたのだ。エリカは当時生まれてまもない赤ちゃんだった。強制収容所にたくさんのユダヤ人を送りこむすし詰めの貨物列車の中で、エリカは母親に抱かれていた。貨車が強制収容所の門を通過すれば、二度とこちら側に戻ることはできない。・・避けられない死への道を歩んでいることを知った母親が、せめてこの子だけでも生きのびてほしいと願って、貨車の小さな換気用窓から、赤ちゃんを投げ捨てたのだ。誰か心ある人が拾って育ててくれることを祈っての決心だったろう・・・

フランクルの言葉
「被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的だった。とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュビッツからバイエルン地方に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルグの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うつとりしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だつたのに-あるいはだからこそ-何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。」
「人間存在のはかなさは、ある単純な理由で、人生を無意味にはしない。というのも、過去において失われるものは何もなく、むしろすべては失われることなく護られているからだ。過去にあるものは、したがって、人生のはかなさから護られているし、救われている。私たちがかっておこなったこと、私たちがかつて体験したことを、私たちは過去の中へと救い出す。何ごとにも、誰にも邪魔されずに、それはそこにとっておかれるのだ。確実にそこに刻まれ、永遠にとっておかれる。
「人の人生はその意味の最後の一瞬に至るまで保持している。人間が息をしている限り、また彼か意識を持っている限り、人間は価値に対して、少なくとも態度価値に対して、責任を担っている。人間は意識存在である限り、責任存在でもあるのである。価値を実現化するという彼の義務は人間をその存在の最後の瞬間まで離さないのである」

「死の海を泳いで」ス-ザン・ソンタグ最期の日々  岩波書店 2009.3.24第1刷発行
                 ディヴィツド・リ-フ  上岡伸雄 訳
「私たちは生きるために、自分自身に物語りを語り聞かせる」。これはジョ-ン・ディデイオンの称賛にに値する文章だ。母の闘病生活を振り返りながら、私の心にはしはしばこの文章が浮かんでくる。70年代の乳癌、90年代の子宮肉腫、そしてもちろん、死の原因となつたMDS、年月が経過するにつれ、母は次第に自分の生存を一種の奇跡と捉えるのではなく-というのも、母の思考様式の中に奇跡というものは存在していなかったから-あるいは、運命や遺伝の偶然としても、考えなくなってきた。
 転移性乳癌から思いがけず完全に回復して以来、母は癌についてさまざまに考えるようになった。そして、母にとって癌と闘うことは正しい情報を得られるかどうか、正しい医師に会えるかどうか、正しい事後処理をするかどうかの問題となった。・・・母を支えたのは、知識を実際に活用することだった。母自身が、医学的な処置は多ければ多いほどよいと強固に主張する伝道師となったのだ。

「生まれてから58年間、私はついに絵描きでしかなかった。軍隊にあっても、シベリヤの収容所にあっても、私は兵隊になりきり捕虜になりきることができなかった。・・・私はいつも生きのびてやろうと思っていた。兵隊のときは死ぬこともあろうかという覚悟はあった。しかし、よし死ぬことがあろうとも最後には銃を握っては死なず、絵筆を握って死ぬつもりであった。軍人としては死にたくはないと思った。・・・一人の絵描きとして、いつも私は普通の兵隊とは別の空間に住んでいた。生命そのものが危機にさらされている瞬間にすら、美しいものを発見し、絵になるものを発見せずにはいられなかった。・・・シベリヤを描きながら、私はもう一度シベリヤ体験をしていいる。私にとってシベリヤとは一体何であったのか。私に襲いかかり、私を呑み込み、私を押し流していったシベリヤを今度は私が画布の中にとりこみ、ねじふせることによってそれをとらえようとする。」  「シベリヤ鎮魂歌-香月泰男の世界」から

柳原和子・がん患者学 晶文社 2000.7.10 初版
手術・抗癌剤など現代医学による治療のための入院は8ヶ月に及んだ。がん患者にならなければ経験しなかったであろう、繊細で温かい思い出が一つ一つ、今、積み重なりつつある。だが一方で次々に亡くなり、再発してゆく同病の仲間を見守った体験は、周囲の想像以上に私の心に深い傷を、そして現代がん医療への当惑と混乱、悲しいまでの疑問を残した。