ヒロシマ

島病院( 本病院の上空、約600Mで 原爆が炸裂 )・相生橋 (当初の原爆投下目標地点)     2015.8.6撮

私たちは-1945年の8月の原爆投下-という歴史的な大惨劇-から何を学んだのだろう。歴史教科書に表記された、そのことでわかった気になってはいないだろうか。広島に行くと「慰霊碑」の数の多さにびっくりする。そこで「何があったか」を真剣に考えざるをえない。学徒動員、建物疎開などで被爆死した多くの子ども達、大人達の「声なき声」が、今もいたるところから聞こえてきそう思うのは、決して思いすぎではない。

「広島・ヒロシマ」に関する・書籍  鈴木慶治-個人蔵 

「ヒロシマはどう記録されたか」上・下 2014年7月30日 第1刷 朝日新聞出版 
「人類の頭上の上に史上初めて投下された原子爆弾は、昭和20年8月6日午前8時15分、広島市上空600メ-トルで目もくらむ閃光を放って炸裂、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作った。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、爆心地周辺の地表面の温度は3000~4000度にも達した。爆発の瞬間、通常の爆弾では起こらない大量の放射線と強烈な熱線とが四方に放射されるとともに、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、まわりの空気が急激に膨張して衝撃波が発生し、その後を追って強烈な爆風が襲った。爆風がおさまると、中心部の空気が希薄になり、周辺部から爆発点に向かって激しい吹き戻しが起こった・・・」  <はじめに>-から

原爆関係書籍については、以下のペ-ジにも記載しました。

2015.1.11・
広島に行く前の準備メモ。建物疎開作業に関しての記録。 担当地区と学校名をメモ。

事前に歩くコ-ス(広島駅からの道程)を、地図にしてあらわす。

広島二中の場合321人が動員され、ほぼ全員が被爆死した。

平和公園-原爆慰霊碑・夕景

2015.8.6 原爆ド-ム・産業奨励館の建物

御幸橋 写真パネル。松重義人さん撮影の写真 8月6日に撮影された。実際の場所・御幸橋たもとにモニュメントとして建てられている。 

戦後まで生き抜いて名前のわかる人は、ほとんどいないという。右端の女学生は奇跡的に生存していた。

2015年・8月6日 NHK総合で放送 DVD作品 原爆投下後の3時間後、爆心地から2キロの「御幸橋」で起きたことを再現。
写真を最新技術で映像処理。多くの事実が浮かび上がった。

2015・8/6 元安川 ド-ム前 18:00~21:30 とうろう流し

2015.8.6 広島市立高女(現 舟入高校)慰霊祭

友垣に まもられながら やすらかに ねむれみたまよ このくさやまに

原爆の爆風から我が子を必死に守ろうとする母の姿。原爆資料館近くにある。

原爆の子の像・折り鶴の少女・佐々木禎子さんをモデルにしている。

国民学校教師と子どもの碑 国民学校(小学校)の教職員と1.2年生の子ども達の多くが被爆の犠牲となった

広島の子どもたちが綴った文集「原爆の子」をヒントに新藤兼人が脚色・監督した1952年の作品がある。

2015.1.11 原爆ド-ムは耐久工事

原爆慰霊碑

広島二中慰霊碑 321名の1年生全員が亡くなる。「いしぶみ」-広島二中一年生全滅の記録-がある。
    ポプラ社 1970.6 改訂新版 2005.7 ポプラポケット文庫
 なぐさめの言葉しらねば ただ泣かむ 汝がおもかげと いさおしのびて

原爆ド-ム前で見た夕景

現在(撮影時2016.1)の「地下通信室」の跡。

高度9600Mから投下された原爆は、投下目標地点の相生橋をそれ、島病院(下の写真)の上空600Mで炸裂
地表面温度は3-4000度に達したという。

2015.8.6 現在の島病院(島外科・内科病院)。郊外学習活動と思われる子ども達に出会った。

大正屋呉服店-燃料会館-現在も建物は修復され平和公園入り口にある。
この建物の地下にいて奇跡的に生存した人がいたという。

2015.1.11 燃料会館の現在の建物-レフトハウス。案内所

日本銀行広島支店の現在

2015.1.11 帝国銀行広島支店の現在

下の写真 2015.1.11
現平和公園の被爆前。建物でびっしりと埋め尽くされている。広島随一の繁華街であった。推定で6500人近い人々が住まいしていたという。原爆はまさにこの繁華街を壊滅状態(あとに何も残さない)にしたのである。


比治山
比治山山頂には原爆傷害調査委員会(ABCC)のカマボコ型の特徴的な施設が作られた。元々は比治山陸軍墓地があった場所である。傷害の調査が目的の機関で、被爆者の治療には一切あたらなかった。健康診断を受けた被爆者が、「自分たちは原爆の効果を調べるための研究材料にされた」と証言した。
1952年に占領が終わるまで検査結果も本人に開示されなかったという。ABCCは被爆者をモルモット扱いしているとの声もあったそうです。

被爆者の意識     放射線影響研究所

写真 右手が比治山

広島市の南約4キロメ-トル沖に似島ニノシマという名前の島がある。
宇品港(正式には広島港)からフェリ-で20分ほど、人口1000人あまりの小さな島だ。似島のすぐ南には、海軍兵学校で知られる江田島。広島湾に南北に連なる二つの島は、日清戦争から半世紀にわたり、旧日本軍の基地として存在した。特に似島の地形は安芸小富士と呼ばれる山そのもので、平地は入江のまわりにわずかしかない。その平地という平地には今でも、軍の検疫所や捕虜収容所、燃料貯蔵庫、そして特攻訓練基地などの遺構が残る。

似島から、生きて広島港(宇治港)には帰れなかった人がほとんどであったという。写真は2015.1.11の広島港

その姿形から、安芸小富士とよばれる「似島」。多くの被爆者(約1万人)がこの島にはこばれた。

<似島救護所ヲ開設セヨ。最大限ノ準備ヲセヨ> 午前10時過ぎ、被爆者を満載した第1便が、似島の揚陸用桟橋に到着した。似島検疫所附属病院の軍曹で衛生兵として働いていた小原さんは手記に次のように綴っている。 
「愕然として私は声も出なかった。これまで中支(中国大陸の中部地方)や南太平洋の戦場で幾多の負傷兵を扱ってきたが、この時ほど残酷で悲惨な姿を見たことはない。全身をやけどして全裸に近い姿は男か女かの区別もつかず、老人か若者の区別もつかない。いたいけな幼児の姿もあつたのだが、年齢や性別の区別もつかないほどに変貌してしまった負傷者の集団は、さながら<地獄絵>そのものであった-」。・小原好隆「小さな島の大きな悲劇」から。・・・ 
「港に下ろされたものの歩けぬ者も多く、桟橋から臨時救護所までの150メ-トルの道のりには、点々と屍の列ができた。被服倉庫に保管していた5000人分の毛布は一晩で尽きた。特に重傷の者から優先的に似島に運ばれており、その数は約一万人と推定されている。多くが治療を受けることなく亡くなった。・・・」 堀川惠子「原爆供養塔」-残された遺骨 2004年夏、似島 から

戦後似島では、4度の「遺体発掘作業」が行われた。1回目が昭和22年・・推定2000体が発掘。2度目は昭和46年、617体。3度目が平成2年でスコップ300杯分の骨片、骨灰が掘り出され、学生服のボタン、ベルト、弁当箱、財布、印鑑といった、さまざまな遺品も発掘された。4度目は2004年で新たに85体が見つかった。それでもなお、多くの遺骨が残されていると島民はいう。新たな遺骨は再び瀬戸内海をわたり、広島の町へ・・・原爆供養塔へと運ばれた・・・-「原爆供養塔」から