本の部屋Ⅲ


このペ-ジで取り上げる人。吉川英治・佐藤忠良・舟越保武・ス-ザン・ソンタグ・大石芳野・大田洋子・市川和広・向田邦子・高峰秀子・緒形拳・司馬遼太郎・椎名誠・宮本輝・大西知子・後藤純男・上村一夫・バ-ビ-山口・横井久美子・・・敬称略                       

十代の頃に読んだ本で心に残る本-学校の期末試験が間近にせまった時、学校図書館で借りたのが吉川英治の「宮本武蔵」。勉強しなければいかんのに、息抜きと思ったのか、第1巻 地の巻・水の巻を借りた。勢いにまかせ気が付いたら6巻まで読んでいた。肝心の試験勉強はどうなったのか。今思い起こしても武蔵の記憶に比べて勉強した記憶は曖昧である。後年、図書館で借りた本と同じものが読みたくて神田の古書店で探し求めたのが以下の中央公論社発行本。 昭和37年10月20日・15版 この本との出会いが自分にとって、後に続く読書の根っこになったと思う。もうひとつの根っこといえば、同時期に読んだ、司馬遼太郎氏著「竜馬がゆく」単行本・全5冊である。後に文庫本で全8冊。


好きな場面をとりあげる。沢庵がたけぞうを千年杉の梢に縛り上げて諭す場面は-荒くれ者のたけぞうを人間に改心させる一歩となる。
以下沢庵の言葉-
「惜しむべし、憎むべし。おぬし、折角人生まれながら、猪、狼にひとしい野生のまま、一歩も、人間らしゅう至らぬ間に、紅顔、あたらここに終わろうとする。」「今までの振る舞いは無知から来ているいのち知らずの蛮勇だ。人間の勇気ではない。武士さむらいの強さとはそんなものじゃないのだ。怖いものの怖さを知っているのが勇気であり、生命は惜しみいたわって珠とも抱き、そして真の死に所を得ることが、真の人間というものじゃ。・・・おぬしには生まれながら腕力と剛気はあるが学問がない。武道の悪いところを学んで、知徳を磨こうとしなかった。・・」
挿絵 全6冊中、前半の1巻から3巻が矢野橋村氏が担当  後半4巻から6巻が石井鶴三氏

白鷺城の本丸-天守閣・開かずの間
 ここには、暦日というものがない。春も秋もない、また、あらゆる生活の物音も聞こえて来ない。ただ一穂の燈し灯とそれに照らされるたけぞうの青白く頬の削げた影とがあるだけであった。机のそばには、まだ山のように書物が積んであった。・・・彼のまわりは本で埋まっているといってもよい。沢庵は「書物はいくらでも見よ。古の名僧は、大蔵へ入って万巻を読み、そこを出るたびに、少しずつ心の眼をひらいたという。おぬしもこの暗黒の一室を、母の胎内と思い、生まれ出る支度をしておくがよい。・・ここを暗黒蔵として住むのも、光明蔵として暮らすのも、ただおぬしの心にある」と諭した。

花田橋のたもとのお茶やで、お通はただひたすら武蔵に再会できることを唯一の望みにして生きてきた。3年ぶりに再会したつかの間に、武蔵は橋の欄干に ゆるしてたもれ と書き残していずこともなく去って行く。




舟越保武 1912-2002 享年89歳

長崎二十六殉教者記念碑 1962年の制作
1976年の夏、初めて長崎に行った。何の予備知識もなく合掌する像の下に立った。その時に受けた深い感動を忘れることが出来ない。少年3人が含まれていることにも強いショツクと驚きを感じた。・・・その後長崎に行くと不思議とこの殉教像に会いにいきたくなる。鈴木慶治
遠藤周作-切支丹の里-一枚の踏み絵から
「-彼等は1597年、慶弔2年に京都の辻で左の耳を少し切り取られた後、後手にしばられ、荷車に乗せられて京都、伏見、大阪と引きまわされた。見物する沿道の人の涙を誘ったのは、なかに12.3歳の少年、3人がまじっていたことだった。12歳のルドビコ茨木、14歳のトマス小崎、13歳のアントニオ・・アントニオは父母から切支丹の教えを捨ててくれといわれたが、どうしても首を縦にふらなかつた。ルドビコ茨木も後に死刑執行役の寺沢から教えを捨てれば武士にしようと誘われたが、これを断った。・・・ 」                                      


舟越保武氏(1912-2002)の制作。以下「舟越保武 石と随想」年譜から「舟越氏はこの像制作にあたり、殉教者が歩いた行程を自ら歩き、資料を読み込み、二十六人のひとりひとりが最もその人らしいと納得できるまで何度も作り直し、完成までの4年間はアトリエで像と起居をともにする日々を送る。当初のテ-マは「処刑の情景」であったが、保武氏は二十六人の像を一列に並べ天を仰ぎ聖歌を合唱しながら昇天する姿に作り、丘を登ってきて記念像にはじめて接するとき、遠くから大きなブロンズの十字架に見えるように制作した。1958年~1962年・氏46歳から50歳にかけての制作。第5回高村光太郎賞を受賞。」
「2002年.2月5日多臓器不全・90歳にて死去。奇しくもこの日は二十六聖人殉教者の記念日であった。」
「舟越保武 石と随想」-夢の中の長崎から
「何故あんな夢を見るのだろうか。長崎は雨が多いせいかしっとりとした町なのだが、私の夢に出てくる長崎は、埃っぽく荒廃したような町になっている。「二十六聖人像」を探しまわって、どうしても見つからない夢を見る。この同じ夢を何べんも見た。「二十六聖人の記念像はどこでしょうか。私か作った彫刻なのですが」と人に訊ねても「さあ、知りません」といわれる。・・私は体が熱っぽなって、足の力がぬけてしまう。光の薄れた黄昏のような町を胸騒ぎを押さえながら右往左往する。私の作った二十六体の聖人像はどこに消えたのか。またあちこち探しまわって、くたびれ果てて眼がさめる。目が覚めるとぐっしょり汗をかいている。この制作に作家生命を賭けるつもりで、四年半をこれに没頭した。全力を尽くした。粘土の像が亡くなった父の顔に見えて、それが私に話しかけるように思われることもあった。少年の頃の私のがむしゃらな反抗が、どんなに父の心を傷つけたことだろうかと、断腸の思いでその像の前に立ちすくんだこともあった。貧苦に耐えて制作を続けた。・・私はあの夢を見るのが怖い。一度でいいから、夢の中でも二十六聖人像の現実のままを見たい。・昨年の秋、長崎に行って、今度こそはどうでも自分の眼に焼きつけておこうと、像のまん前にすわりこんで、ながい時間、眼がいたくなるまで二十六体の彫像をにらむように見据えてきた。」

下写真  2014.8.16  鈴木慶治

左 アントニオ 長崎生まれ、13歳  右 ルドビコ茨木 尾張生まれ 12歳

「二十六聖人」の歴史事績を記した遠藤周作氏の紀行文と吉村昭氏の小説

慶長元年(1596)年12月10日の朝、下関の家並の間を縫う道を、26人の異様な囚人の列が海岸にむかって歩いていた。道の傍の小さな流れの水面からは水蒸気が湧き、家々の裏手にひろがる畠は、一面に粉をふいたような霜におおわれている。低い家々の中からは好奇心にみちた顔がのぞき、列のあとをおびただしい大人や子供たちがついてゆく、かれらは、口々に囚人の群れに罵声を浴びせかけ、中には石を投げる者もいた。・・・囚人の姿は、時折眼にする引廻しの罪人よりもはるかに無残なものだった。後手に縛り上げられたかれらの首から首に縄がかけられ、衣服は襤褸のようにすりきれて、破れ目からは垢のこびりついた皮膚が露出している。むろんかれらは裸足で、やぶれた足指の皮膚から流れ出た血が土とまじり合って、足を大きい土塊のようにみせていた。さらに、かれらの左耳が一様にそぎ落とされていることも、かれらの容貌を一層陰惨なものにしていた。・・・人びとの眼は、囚人の中にまじった三人の少年の姿にそそがれた。その少年たちは12.3歳とも思える幼い者たちばかりで、他の囚人と同じように髷もとけて毛髪を顔にたたらし、血と土でよごれた小さな足をひきずって歩いていた。  吉村昭 「磔」はりつけ 1987年4月10日第1刷 文春文庫

天正15年(1587)に関白秀吉は突然、基督教にたいして厳しい態度をとり、宣教師たちの追放とこの宗教の迫害を開始した。そしてその最初の犠牲者になったのが26人の外人宣教師、日本人修道士、信徒たちだったのである。彼らは京都、大坂で捕えられて左の耳タブを切りとられた後、長崎につれていかれ、慶長二年(1597)の2月5日、この西坂の丘の上で十字架につけられた。・・当時、この処刑場は海に面した小高い岬であった。だが今は町の真ん中に近いところにある。立派な26聖人のリリ-フを見られたあと、その横にある記念館をおとずれるのがよかろう。・・・26聖人の殉教については内外ともさまざまな本が出されているが、それは彼等の栄光ある死が鎖国時代の日本では沈黙の灰の中に埋もれていたにかかわらず、外国ではその名は賞讃の声をもって語りつたえらていたからである。・・・彼等は京都の辻で左の耳を少し切りとられた後、後手に縛られ、荷車に乗せられて京都、伏見、大坂と引き回された。12歳のルドビコ茨木はバプチスタ神父の経営する京都の病院で働いていた子供である。14歳のトマス小崎は貧しい弓矢師の息子で、父と共に捕らえられた。そして13歳のアントニオは父は中国人、母は日本人でバプチスタ神父に引きとられ、勉強のため京都に来ていたのである。アントニオは父母から切支丹の教えを捨ててくれと言われたがどうしても首を縦にふらなかった。ルドビコ茨木も後に死刑執行役の寺沢から教えを捨てれば武士にしようと誘われたが、これを断った。   遠藤周作 日本紀行 切支丹の里 2006年2月15日 光文社




佐藤忠良 ボタン・大 1967-69
「ものには、見えるものと、見えないものがあります。人は、目に見えるものを書いたり作ったりしながら、実は、やさしさとか真実とかいった、目には見えないものを表そうとしました。-見えるものを通して、見えないものを表現したかったのです。」小学校図工科「子どもの美術6」現代美術社 1994年度用から
-忠良さんの娘さんは、年配の方でしたら多分ご存じかと思います。俳優の佐藤オリエさん。この像のモデルもそのオリエさん。

舟越保武 「巨岩と花びら」 忠さんのこと・佐藤忠良
「先に行くぞう」と声をかけて、佐藤忠良は朝早く学校に出かける。私たちが美校生の頃(1934-1939)のことだが、これが今でもまったく変わっていない。いそがしい男だ。50年経った今でも、彼はいつでも私の先を行っている。半世紀もの間、ほんとに彼はいそがしく、それと対照的なほど私はもたもたして来た。美術学校の彫刻科にいっしょに入り卒業もいっしょ・・・私の方が彼より先になったことは一度もない。美術展とかいろいろな賞でも、彼はいつでも先に貰うし、私はその後で思い出したように同じ賞を貰ったりしいる。おしやべりが時に毒舌となり、人の悪口を面とかって言うし、しようがない男だ。私のことも、メチャメチャにこきおろすのだが、あと一歩のところで止めるので怒れない。私と向かい合っていると悪口を言うのだが、私のいないところでは悪口は言わないでちょっと誉めることもあるそうだ。そこがいいところだ。高島屋でやった個展に彼は二度も見に来た。二度目に来たとき「どうだ、勉強になるだろう」と言うと、彼は「いや、おれはこの階にある天ぷらそばを食べに来たんだ」と言った。

佐藤忠良 1912-2011 享年98歳 
ボタン(大) 1967-69  ブロンズ
「私の子供の頃、北海道の子供達はマントで冬を過ごしたものであったが、うちの娘がそれを着用しているのを見て、なつかしさと、彫刻にいいフォルムにひかれてこれにとりかかった。」  佐藤忠良展  生誕100年 彫刻家 佐藤忠良  2012年4月14日 第1刷

オリエ 1949 ブロンズ
「出征前、1歳の娘のオリエの顔を作った原型を鋳造所に預けて出たのだが、空襲でなくなってしまっていた。帰還して家に久しぶりに家族が揃ったとき、彼女は小学1年生になっていたので、2度目に作ったのが昭和24年の「オリエ」。」

水 1955年 ブロンズ 

佐藤忠良 帽子のチコ 1985

冬のオリエ 1966年 ブロンズ 

あぐら 1985年  ブロンズ

「舟越保武全随想集」2012年5月28日  求龍堂 


舟越保武 「石と随想」 求龍堂 2005年2月5日 初版発行


「隕石」 1940年 大理石

カトレア 1960年  大理石

「ANNA」 1964年 鉛筆 紙


舟越保武 原の城 1971年 ブロンズ  島原の乱の兵士
「原の城」の像の前に立つと、私には彫像の周辺にいつも同じ風景が見えてくる。ひとつは九州島原のあの海にそそり立つ淋しい草地の台地、原の城であり、もうひとつは私の故郷盛岡市の北上川の岸にある安部館の杉木立の深い暗がりである。・・原の城の暗い戦いの歴史と安部館の杉木立の下闇が私の中で重なってひとつになってしまっている。長崎と盛岡の風景がかわるがわるに私の中によみがえるのだ。」-舟越保武「石と随想」から

「原の城(頭部)」 1964年 ブロンズ

 

「聖ベロニカ」  
私の仕事に、この頃、聖女の像が多くなっている。ふっと1つのことに思い当たった。それは、私が意識の奥の方で、母の面影を求めているので、それが仕事に現れるのではないか、ということであった。私は幼いときに母を亡くしているので、母の顔を覚えていない。近頃になって、しきり と母の面影を求めていることに気がつきだした・・。   石と随想 から
  

聖ベロニカ 1977年 砂岩(諫早石)

「ANNA」 1982年 砂岩(諫早石)


「聖ベロニカ」 1987年 砂岩(諫早石) 75歳  本作品は脳梗塞で倒れる-1987年1月-直前に制作された作品。
1988年から左手による彫刻制作をはじめた。


舟越保武 ゴルゴダⅡ 1993年
1987年・75歳の時、脳梗塞で倒れ右半身不随になり。左手によるデッサンを描きはじめる。6年後の81歳。「ゴルゴダⅡ」は左手での作品。
端正な作品からの変容。圧倒的な存在感を感じる。

佐藤忠良 「つぶれた帽子」-佐藤忠良自伝 中公文庫 2011.8.25 戦後-減らず口
「脳血栓(脳梗塞の誤りか)で右手が利かなくなった舟越保武が左手で描いたすごくいいデッサン展をした。続いてかれの彫刻展で会ったとき、開口一番「ああいうところにはもっと偉くなってから書くもんだぞ」とやられてしまった。舟越とは美校以来、半世紀を越えるつき合いだが、彼はゆっくりの夜型で、私はせかせかの朝型。こうした減らず口のたたき合いも、私の方からが三倍ぐらい。でも彼に言わせると、私のはゴム弾だからちっとも痛くないという。彼の作品はだれにでも好かれそうな一種の理想美にさえ思えるが、もし、ちょつとでも気を許して緊張を失えば、おそらく甘い菓子にたっぷり砂糖をまぶしたようなものになるかもしれない。俗に堕すスレスレの崖っぷちを、落ちずに歩いている舟越の闘いを私はずっと見てきた。展覧会の帰り際その舟越に笑った目で「お前はますます俗になってきたなあ。ちゃんとしっかりまじめに勉強しろよ」とお説教されてしまった。本当のところ私の作品も小節のきき過ぎた演歌みたいなもので、ちょっと手をゆるめると鼻もちならないものになってしまうから怖い。」

舟越保武 「巨岩と花びら」 -大きな時計
「美人」と「美しい人」とは別なものだ。美人というのは、顔かたちが整っているだけで、その人のせいではない。両親が作ったものだ。美しい人というのは顔かたちではない。心の美しさが顔に現れる人のことだ。言葉の意味からは、美人と美しい人は同じことのように思われるが、実はまるで別のものだ。美人でも、ちっとも美しくない人もいるのだ。美人とは、ただ形の寸法がある条件の比例に近いというだけのことで、つまらないといえば、これほどつまらないことはない。・・・「美しい人」というのは、その人の心が源となって、心の美しさが、微妙に顔に現れるのだから、見る人の心を快くひきつけるのだ。心の動きが、調和を作り出す時、これこそ「美しい人」なのだ。美人は整形手術でも作れる。だが「美しい人」は、その人の心が作るのだ。



「他者の苦痛へのまなざし」。ス-ザン・ソンタグ 1933-2004 北條文緒訳 みすず書房
この本には戦争写真にかんする多面的な考察がなされている。戦争やテロなど残虐な行為の映像はテレビやコンピュ-タ-の画面を通して日常茶飯事となっていて、それらを見る人びとの現実認識はそうしたイメ-ジの連続によってよい方向へ、例えば、戦争反対の方向へと変化するだろうかという問題提示がある。 ス-ザン・ソンタグ アメリカの作家・批評家

以下-鈴木慶治
確かに日常的にに残酷な映像シ-ンを目にしている結果、我々が現実と虚構の世界の境界線が曖昧になっているのは事実である。
世界同時多発テロ9.11の時、旅客機2機が「貿易センターに激突」する映像を見て人びとの発した言葉-まるで映画のようだ-。ハリウッドの映像がオ-バ-ラップして、目の前で起きていることへの現実感が感じられない。虚構のハリウッド映像世界の中では死者は出ない・・・。しかし現実の世界多数の死者が目の前で出ている。にもかかわらず、映画・夢を見ているのではという。この地についていないような現実に対する浮遊感覚・空虚感。何が起きているか認知出来ない。残酷さや残虐な場面は「お茶の間」やゲ-ムで日常的に見慣れていたりして経験ずみ??。自身が極限状態に置かれて初めて「知る」・「体現」するということが少ないか全く無い。知識・想像力だけでは、戦争の悲惨さ残虐さを理解することは不可能か。私たちの現実認識の立ち位置は、映画館の観覧席にいて眺めていることと変わりがないのか。 鈴木慶治  2019.9.18


                                

以下は-アウシュビッツ関係の本

アウシュビッツ関係の写真は、見ていてもとてもつらいものがあります。しかし目を背けるわけにはいかない。

収容所の跡地

死の門-文字通り、くぐつたら後戻りは出来ません。そして生きてこの門を出ることは不可能でした。

毒ガス室-

始点にて終点、地上のすべての街道、人びとのすべての呼び声が幽魂の去来するこの土地に行きつく。この地はほかのいかなる場所とも似てはいない。ここには夜の王国があり、そこでは神もおのれの顔を覆いかくし、そこでは炎の燃え立つ空が呑み込まれた一人類全体にとっての呪われた墓地に変貌している。  エリ・ヴィ-ゼル 「夜の国への巡礼」
夜と霧はワ-グナ-のオペラ「ニ-ベルングの輪」からとられ、ヒットラ-が気に入りこの大量虐殺の作戦に命名したというといわれる。私たちは、今の世界と未来を担っていく子ども達のために、背筋を伸ばして、戦争が残した人びとの痛みと人間の尊厳を考えていきたい。同時代を生きる者として、知らぬ顔して通り過ぎてしまってはならない。   大石芳野 「夜と霧は今」

ヒロシマの惨劇を伝える本は数多い。
「ヒロシマを伝える」の本には、「屍の街」を書いた大田洋子についてこんな記述がある。214頁 -以下引用-大田は、地獄という言葉を使うだけでは原爆のなんたるかは表現できないことを誰よりもよくわかっていた。だから原爆というテ-マにこだわり続けたのだった。しかし世間はそれを正当に評価しなかった。これは文学ではない、あくまでも素材にすぎない、いつまで原爆を売り物にするのか。もっと別のテ-マはないのか。広島を知らないひとだけでなく、広島を体験したひとからも、心ない言葉が投げつけられた。大田は戦前から名の知れた第一線の作家だったが、原爆をテ-マに小説を書き始めてから、文壇からは「原爆文学者」という枠組みのなかで、特別視されるようになった。晩年の大田は悩み多き日々を送っていたという。「原爆文学はもう必要ない」という声が、大田を傷つけていたという。「私は広島の記憶を捨てたい。作品の主題にそれを使うことから逃れたい・・・」1956.8 1963年12月10日、福島県猪苗代町で入浴中に死亡。61歳。死因に原爆の後遺症がとりざたされたという。
 現在 広島市中央公園内に、大田自身のペンの字を拡大した「大田洋子文学碑」がある。「屍の街」の原稿の一節。-少女たちは、天に焼かれる 天に焼かれる と歌のように 叫びながら 歩いて行った -

市川和広氏 1957- 福岡生まれ 「浦上物語」 
 被爆から60年が経ち、浦上の街並みは、今では何事もなかったように日々の時を刻んでいる。あの時、はるしゃ菊の咲く浦上の丘で誓い合った少女たちがいた。それぞれに長い苦悶の歳月があった。そして、今もなお、たくましく、たおやかに生き抜いておられる4人の女性に、この物語を捧げる。家族を原爆で失い、生き残った姉と妹が、戦後の長崎浦上の地で懸命に生きていく。貧困・被爆差別・苦痛妹は自身の被爆体験と思いを寄せる相手との葛藤で鉄道自殺をしてしまう。静かに深く考えさせらられる物語である。    鈴木慶治  

宮本輝さんは1947年生まれ。年代の離れた吉本ばななとの対談本が「人生の道しるべ」。吉本が輝先生とよんでいる箇所が何度も出てくる。宮本は宮本で吉本の父「吉本隆明」氏を意識した言葉-どんな父親だったの-とか聞く場面がある。両者の関係が何となくわかる本である。「お茶をどうぞ」は1981年に飛行機事故で急逝した向田邦子さんの対談本。特に黒柳徹子さん・森繁久弥氏・との対談は、軽妙洒脱、秀逸。日頃からの親しい関係がよくわかる。黒柳さんは自身の本「トットひとり」で、38歳頃の向田さんが住んでいた霞町のアパートに毎日のように転がり込んでいたという、そんな思い出を懐かしく語っている。向田邦子 1924-1981 享年51才 向田さんは飛行機嫌いであったという。鈴木慶治

似たような著作名-亡くなった立松さんは1947年生まれ。昭和22年の生まれ。対して五木さんは1932年生まれ。今年87歳になるもお元気でおられれる。巡礼の中身は当然のことながら異質である。

だれもその素顔を知らないといえば、緒方さんも原節子さんも共通している。とくに原さんは映画界から
突然、縁を切るようにして去ってしまった。
 原節子 1920-2015 享年95才 緒形拳 1937-2008 享年71才

我が家の本棚では、高峰秀子さんの本を挟むようにして、司馬遼太郎氏の著作をならべてある。高峰さんは司馬さんのことを「司馬先生」と敬意をこめてよんでいた。高峰秀子 1924-2010 享年86才
子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で5才で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどの天才子役ぶりで名を馳せた。名文家でもある。「わたしの渡世日記」-こんな本を書いた俳優さんは高峰秀子さんの前にも後にもいない。

司馬遼太郎氏と高峰秀子氏の著書-
「おいしい人間」-人間たらし・から
私たち夫婦にとっての司馬遼太郎先生は、大げさではなく「生き甲斐」ともいえる御方だと思う。人間は誰でも、ただ、その人と同時代に生まれたこと、その人と同じ空の下で同じ空気を吸っているのだ、と思うだけで心の支えになる、というアラヒトガミを心に持っていると思う。・・・私たち夫婦の日常会話の中でなにかにつけて、「司馬先生なら、きっと・・・・」とか、「みどり夫人だったら・・・・」などと、いと親しげにお名前を口にするだけで、ああ、とっても倖せ。・・・「惚れたが悪いか!」と、ひらき直っている心境である。昭和53年の春、・・・司馬遼太郎先生ご夫婦の一行が中国を訪問されることになり、なぜか私ども夫婦もその末席に連なり・・・2週間余りの日々はあっという間に終わり香港で解散した。別れは淋しい。ことに司馬先生御夫婦とはこれきりお目にかかる機会はないにちがいない・・・・。けれど、そういう私たちの心を見ぬくかのように、司馬先生が例のやわらかい口調でこうのたもうたのである。「旅には終わりがありますなァ。でも、あなたがたとは、これが旅のはじまりだっていう気がするんだ」 どうやら私たち夫婦はこの瞬間に、カチカチ山の狸になってしまったようである。あぁ、この見事な、すさまじいほどの殺し文句。もしかしたら、司馬先生は「人間たらし」の達人なのかもしれない。
高峰さんの司馬先生への思い-「にんげん蚤の市」・文藝春秋 菜の花から
先生が逝かれてから、十日余りが経っている。もう大丈夫(なにが大丈夫かわからないが)と思ったとたんに、鼻の奥がツ-ンと痛くなり、眼の中が熱くなって涙が溢れだした。メソメソはビショビショになり、ワアワアとなってとめどのない号泣となった。
「ところで、司馬先生はいま、どこにいられるのですか? 菜の花は、来年も、さ来年も咲きます。来年の菜の花は、どちらへお届けしたらいいのでしょう」 補足 高峰さんより1歳年上の司馬遼太郎は菜の花が大好きであった。

ヒロシマについて、自分なりにまとめたのが以下の写真集です。鈴木慶治  2015.1-8

最近の出来事から 2019.10.15 <友人Aさんにあてたメ-ルです>
-教員に対する教員のいじめ- 鈴木慶治
猛烈なとか史上最悪という言葉が増え、精神的にもバランスがとれないことが多い昨今です。気候の危機というそうです。何かが違うと意識する人が増えました。自然現象だけではありません。教員の教員による「いじめ」。我が耳を疑う事件でした。本来子供たち同士のいじめを根絶?することに精魂込めるはずの教員であるはず。教育に対する信頼感は益々低下しました。マスコミの取り上げて方も異常と言えるのですが。ネットを通しての拡散の中にはとんでもない声もあります。暴力的犯罪行為が世間一般にも日常化している感じです。

-宮城県石巻市立大川小学校の訴訟-鈴木慶治

震災から3年後、検証委員会が最終報告書を発表。10人からなる有識者グループ。市から5700万円の費用が委員会に割り当てられたという。高額である。委員会の結論は「どの学校でも起こり得る事故」とした。過失の言葉や責任という文言はなかった。委員会の報告書から1か月後、23人の児童の遺族が市と県を相手に民事訴訟を仙台地方裁判所に提起。市と県の過失、被害者ひとりにつき1億円の損害賠償を求めた。以上ーが訴訟に至る簡単なあらましです。
なぜ74人の遺族からの提訴でなく23人だったのか。難しい問題です。村社会の保守性が一因をなしているかも知れません。以下大川小学校のある釜谷地元の人の話し。「多くを話しすぎたり、何か物議を醸すようなことをすればお役所に助けてもらえなくなるのが一般的な考えです。家族、自宅、財産を失ってしまった人達は不平不満を口にしたりお役所批判をしたりはしません。」黙っていたほうが安心だ、という意識が働いたのも否定出来ない?と思います。東北地方の住民が我慢強く、寒さ、貧困、不安定な収穫に耐えてきた歴史、時には娘たちを身売りし息子たちを帝国軍の捨て駒として送り出す。そんな抑圧された悲しい歴史をその背景に挙げる識者もいます。自分たちが立ち上がって議論を始めたら、他人にどう思われるだろう?。対立が不道徳と見なされ、不調和さえ暴力の一種だと考えられる、長い間に根付いた意識があったと考えるのも大きな間違いではないように思うのです。裁判に訴えることへの潜在的な疾しさ。直訴感覚。お上に盾突く。いろいろな思いが錯綜したと考えます

-大川小学校の訴訟と水俣訴訟-鈴木慶治

水俣病訴訟を思い出しました。水俣市民と訴訟当事者たちとの間で深い軋轢があったことをです。ひどい差別が訴訟者=発症者に向けられました。水俣市を公害という、ダークなイメージに貶めた、という心ない言葉。村八分ならぬ市八分状態があったそうです。伝染するから傍に来るなという言葉。そんなに賠償金がほしいのかとも。福島の原発問題でも全く同じことがありました。訴訟申し立ては当然の権利の筈。それが、この国では煙たがられる傾向にあるのはなぜでしょう。本当に民主主義がこの国では育っているのかと思わせます。いじめも閉鎖的な小集団の保身から起きていることだと思います。平気で痛みを理解しようともせず、他を排斥する極めて狭い了見です。
訴訟に対しても周囲の冷ややかな視線があるのは否定出来ないでしょう。訴訟に何らかの理由で係われなかったか、自分の意志から?関わりを持たなかった人たちからの声は、聞こえてきませんね。よく頑張った?とかの声はなさそうです。利害関係?が生じて大事なかけがえのない子どもを失ったという強くて深い共通点が、両者の間から薄れてしまった感があります。遺族の間には微妙でいて深い溝が震災直後からあったようです。学校への迎えで津波被害を免れた人達とー命をおとしてしまった人達の間で生じた心の何というか不協和音?。さらに子どもさんを亡くされた親御さんの間にも、早くに発見されたか、時間がかかったとか、さらにはまだ行方が不明であるかによっても、大きな心の隔たりが生まれたといいます。
今回の訴訟勝訴にもーなんであの人達だけーという嫉妬に似た感情が生まれているかも知れません。お金が絡むと、いやな想像が膨らみがちです。人の世って卑しいところありますよね。綺麗事でないドロドロした感情。案外と先を見通してーこうしたことが嫌でー訴訟に加わらなかった人もいたのかも知れませんね。
今後に賠償金額がいくら支払われても、失われた幼い命は帰ってこない!のだけは間違いないのですが。空しい感情が訴訟の有無如何を問わず両者に残る気がしてなりません。

以上記したことがらは何もわかっていない、所詮、門外漢、部外者の言葉に過ぎないのかも知れない。-  鈴木慶治

椎名 誠氏の作品 -北への旅-から
 旅の多い人生だ。外国を含めていろんなところにいく。遠いところが多い。「いいですね。」と言うヒトが多い。そうかなあ、と思う。そんなに羨ましがられるほど、本人は楽しくない。「どうしてかなあ」と考えたら答えは簡単だった。今のぼくの旅のほとんどが「仕事」だからなのだ。・・だから、そんなに「いいですねえ」と言われるほど、旅する当人の気持ちは浮き立ってはいない。第一、ここんところの旅では「旅情」というのをめったに感じたことがない。むかし、本当の「旅」をいくつもしたことがある。それはしばしば写真を撮りにいく旅だった。誰に頼まれたわけでもなく、ひとりできままに行った旅である。

宮本 輝氏の作品 「田園発港行き自転車」から
-私は自分のふるさとが好きだ。ふるさとは私の誇りだ。何の取り柄もない二十歳の私が自慢できることといえば、あんなに美しいふるさとで生まれ育ったということだけなのだ。・・黒部川扇状地は、かつては農民を苦しめる痩せた土地だった。険難な黑部峡谷と、そこを源とする黒部川が、
海までの短い距離のあいだにある平野部につねに襲いかかって田畑を水びたしにし、さらに一帯を砂でうめつづけた。・・だが、治水事業が成功して豊かな土壌を得た黒部川扇状地では、かつての災禍が恵みと変じた。それは清らかな湧き水の出現だ。

1940年代生まれの作家
椎名 誠 1944- 池澤夏樹 1945-  沢木耕太郎 1947-  宮本 輝 1947-  立松和平 1947-2010 北方謙三 1947-
村上春樹 1949-
  

1945.8.6の広島の惨状を記録した写真はたったの5枚しかないといいます。その1枚が表紙になった本が「なみだのファインダ-」という本です。現在は絶版で手に入りにくい本です。監修者の柏原知子(現大西知子)さんに偶然「原爆資料記念館」でお会いできました。<2015.1.11のことです> 大西さんからはその後ご自身著作の「命かがやいて-被爆セ-ラ-服のなみだ」という本を送っていただきました。

新藤兼人監督の序文から-
1945年、8月6日8時15分がきた。
原子爆弾が炸裂。太陽よりも熱い熱線と凄まじい爆風で広島の街はコッパミジン。人びとは五体が千切れ、首が飛び手足がもがれ、熱線に焼かれた皮膚をボロ布のように引きずった。原爆投下に成功したエノラ・ゲイ機からは無電で報告。固唾を呑んで報告を待っていた科学者と軍人は、成功に歓喜して祝杯をあげ、グラスを足下に叩きつけた。広島では、そのとき、頭を砕かれて死んだ子を抱え、助けて、と叫びまわる狂乱の母親、熱い、熱い、と悲鳴をあげて川に飛び込み溺死する女、水をくれ、のどが焼ける、とのたうちまわる瀕死の人。放射能がしずかに地を這い、人びとの骨まで忍び込み、死の谷へと引きずっていく。ああ、あっ、と叫ぶひまもなく、何がどうなったか知らないうちに死んだ人たちの骨が、いまも広島の街の地下にある。あるいは川の底にある。-これを拾いましょう。    新藤兼人
-セ-ラ-服の当時13歳であった少女が、8/6朝、自宅を出て、被爆しその後命懸けで避難した、その経路地図がこの本には添えられている。自分もいつかこの「命の道」を歩きたいと思う。 鈴木慶治 2019.11.18 記
      

被災者が避難した「御幸橋」 上の地図で4.3の場所。-現在、記念モニュメント写真に立ち止まって見入る人はほとんどいない。 写真は2015.1.12 に撮る 鈴木慶治

「なみだのファインダ-」の表紙写真と同じ場所・角度から撮ってみました。

1945.8.6に「御幸橋」でおきた出来事が詳細に語られている書籍と、ドキュメント動画です。鈴木慶治 蔵

下のDVDの凄さは、御幸橋の写真-なみだのファインダ-表紙-がコンピュ-タ処理によって動画に忠実に表現されている点です。そのリアルさに驚くしかありませんでした。

「アウシュビッツの図書係」-からディタはそれらの本を見つめ、優しく撫でた。縁がこすれ、ひっかき傷があり、読み古されてくたびれ、赤っぽい湿気によるシミがあり、ペ-ジが欠けているものもあるが、何ものにも代えがたい宝物であった。困難を乗り越えたお年寄りたちのように大切にしなければ。本がなければ、何世紀にもわたる人類の知恵が失われてしまう。本はとても貴重なものなのだ。私たちに世界がどんなものかを教えてくれる地理学。読む者の人生を何十倍にも広げてくれる文学。数学に見る科学の進歩。私たちがどこから来たのか、そしておそらくどこに向かって行くべきなのかを教えてくれる歴史学。人間同士のコミュニケーションの糸をときほぐしてくれる文法・・・。その日ディタは、図書係というだけでなく、傷んだ本の世話係にもなった。 <P40>アゥシュビッツの夜が更ける。暗闇の中、列車が到着し続け、途方に暮れて木の葉のように震える罪のない人々を置き去りにしていく。そして煙突の赤みがかった強い光が、休むことなく炉が燃え続けていることを物語る。家族収容所に入れられている者たちはシラミだらけのわら布団に横になり、恐怖と戦いながら眠ろうとする。ひと晩ひと晩を生き抜くことが小さな勝利だ。<P236>文学は、真夜中、荒野の真っただ中で擦るマッチと同じだ。マッチ1本ではとうてい明るくならないが、1本のマッチは、周りにどれだけの闇があるのかを私たちに気づかせてくれる。 -ウィリアム・フォ-クナ-

後藤純男展-追想-  埼玉県松伏町にて開催。2020.1.28現在  

後藤純男展。追想 場所は松伏市民会館ーエローラで2020.2月16まで。
10時から20時まで。月曜日と2月12日ー休館日。ご存知でしたら申し訳ないです。未見でしたらぜひ足を運んで見てください。大作です。「新雪嵐山」1985年。絵の見方を一変させます。見る自分が主体ではなく、絵に小さい自分という存在が取り込まれてしまうー主客の逆転ーを感じる絵です。変な表現ですが、それほど圧倒的です。画面の大きさも半端でないです。1.8×3.7メートル。何度も行って見たくなります。西洋絵画とは一線を画する日本画の世界に魅了されました。絵の前に立ち尽くすというより、絵の中に知らずに参入?している感じでした。雪の銀閣寺、大和の寺、那智、秋よりも冬の絵に強く惹かれます。やや装飾性、心象風景の要素が強いかなとも思います。平山郁夫さん、東山魁夷さんとも違います。   
      鈴木慶治 2020.1.28

昭和の絵師-美人画の名手 上村一夫 学生時代-昭和40年代-に熱烈な上村一夫ファンがいて、アパ-トの天井に大きな美人画が張ってあった。こんなに妖艶な顔で見つめられていたら、かえって眠れないのではないかなと思った。もう50年も前のことである。彼は新潟で元気にやっているかな。上村さんとその友人が重なって思い出された。作詞家の阿久悠さんと深い親交のあったことを最近放映のTV番組で知った。あの当時 林静一も人気が高かったことを思い出した。 鈴木慶治 2020.1.29

ハ-ビ-・山口さん
1950年東京都出身 自分とほぼ同世代。生後2ヶ月で腰椎カリエスを発症。-孤独と絶望の日々。中学2年で写真をはじめる。-
人の心が清くなるような写真を撮りたい。人が人を好きになるような写真を撮りたい。どのペ-ジにも氏の素敵な優しい文章、写真がつまっている。世界が決してなくしてはいけないものを撮り残しておきたい-と本の帯にある。なくしてはいけないもの-それは人が人に寄せる優しさだろう。
このことをしっかりと考えたい。今の世の中、自己主義やその権利の間違った正当化が多く見られます。他者の痛みの感じ取れない、精神の荒廃した社会にならないようにと思います。-鈴木慶治 2020.2.20

20世紀最大・最強の長編小説-原著で全7巻、翻訳では原稿用紙にして1万枚、文庫本にして10冊以上。本好きにとっては、若い時からいつか読みたいと念願していた本。縮約版でわかるのかと疑問?に感じながらも手にした。鈴木慶治
全体で522ペ-ジ。 角田光代さん-小説家。1967年神奈川県生まれ。荒川泰久さん-フランス文学者。1951年埼玉県生まれ。角田さんの学生時代-早稲田大学-のフランス語の先生が荒川さんである。いわば師弟関係にあるお二人による共編、共訳。2020.3.05

池上正樹さん 1962年生まれ 東日本大震災・石巻市の人たちの50日間 2011.6.6 第一刷発行 ポプラ社本書は2011年3月23日から4月28日まで、東日本大震災の被災地・石巻市および女川町などを現地取材し書き下ろしたものです。-あとがきから-

記者は何を見たのか-3.11東日本大震災 2011年11月10日 初版発行 読売新聞社 中央公論社発行 この本は、東日本大震災の取材にあたった記者78人が現地で何を見て、いかに感じ、何を考えたかの体験記てある。-まえがきより-

東日本大震災から9年目-をむかえる。おりしも今、新型肺炎ウィルスが日本はおろか全世界で拡散危機に陥っている。この時期であるからこそ、もう一度震災の意味を問い直し、生きることの大切さを見直したいと思う。2020.3.11 鈴木慶治
<コロナウィ-ルス感染について> 友人にあてたメ-ル文から。   鈴木慶治 ○2020.2.29  閉塞感が漂っていますね。マスクにとどまらずトイレットペーパーまで店頭から姿を消しました。店主に詮無いことですが、苦情を言いました。マスクのほとんどを中国産に依存、入荷がないとのこと。ペーパーは27日頃に突然客が押しかけ店頭から姿を消したとのこと。店側も何がなんだか?といった感じ。後でデマ拡散の結果ということが判明。見えないところで予想もしないことが起きているようです。東北の震災直後も風評被害やデマ拡散がありました。 学校の「一斉休校」には驚きました。なによりも首相の「要請事項」2.27が日を置かずして実施項目ー2.28となりました。仕事の遅い役所としては前代未聞ともいうべき出来事です。学校現場の戸惑いは言うに及ばす、社会全般に与える影響は計り知れません。感染拡大を抑制する効果はあるとのことですが・・・。3.2から春休みまで臨時休業ー。孫が学校から帰宅、発した言葉が「夏休みだー」には返す言葉を失いました。2.29朝日新聞の一面「首相独断休校見切り発車」の見出しには、閉塞感を一気に吹き飛ばず大きな危機感を感じました。文部科学省は「春休みの前倒し」で、状況に応じて本来の春休みに授業や部活を再開もできる、が念頭にあったというのですが・・・。○2020.3.29 直近のイタリアの感染拡大には脅威を感じてます。もちろんイタリアに限っての話ではありませんが。伊1国の感染死者数が4032人ー3.22の朝刊ー、47201人の感染者。致死率が8.6%という高さ。1日あたり627人の感染者増も驚きです。日々刻々この数字は変化してます。回復された方が5129人というのが僅かな救い?でしょうか。1日も速い治療ワクチンの開発、普及を待つしかないのでしょうか。五輪の開催についても色々取り沙汰されてます。昔、歴史の教科書で末法、終末の世ということを言葉としては習いましたが、それが頭に浮かびました。感染することで、次は自分自身が他の人に感染させる加害の側になってしまう。その連鎖。何とか打開策、希望はないものでしょうか。○2020.4.3 日々、大きな社会的な危機ー、うねりの中で生きている思いです。ほんの少し前まで、そのうち何とかなる、と思っていました・・。今、暗いトンネルの中で物事をネガティブに考えている自分を意識します。出口の明かりが見えたら、少しは元気も出るものと思うのですが。ただ希望的なことがあるとすれば、世界中の多くの人々が、ウィルス感染の脅威に対して、負けない!克服という共通理解・認識を持った!ということでしょうか。世界の一部の国が「自国第一、保護主義」を標榜することへの警鐘を鳴らすことになるように思うのですが。力を合わせて、共通の課題に取り組むことで、あらたな国際社会の関係が築かれていくことになりはしないかと考えます。「地球規模ひとつになった対策・対応」。 経済優先で物の豊かさを幸せの基準にして進んできた社会と真逆な生き方をした同世代の若者がいました。星野道夫1952-1996。アラスカの広大な大地で、生涯の20年ー半分以上を過ごしました。彼が求めた幸せは、物が過剰にあふれた社会にはないものでした。大自然の中、過酷な動物たちの生き方を見つめ写真に記録し、日常的な生死と共に自分が在る!という緊張感、充実感を日々の自分に課したように思います。これが星野さんの幸せの一要素、いやひょっとすると全要素だったかもーしれない。簡単には理解出来ないことではありますが、私たちの生き方に何らかの指針を示すものになるかもしれません。星野道夫はアラスカの大地とともに生き、そして44歳の若さで生涯を閉じました。24年前のことです。2020.4星野道夫氏については、このサイトの「本の旅」にも記しました。


横井久美子 1944-2021  享年76歳
-記憶に残っている最初の光景は、ふとんの中で弾いた卓上ピアノ。寒い朝、目が覚めると、前夜枕元に置いた卓上ピアノをふとんの中に引き入れ、いつまでも弾いていた。幼いころから私は美空ひばりの歌を真似し、近所でも声のいい子で知られていた。保育園でも小学校でも全校生徒の前で独唱した。「朝の童謡」というラジオ番組にも出たこともあった。・・・20代でギタ-を持ってのソロ活動を開始した。世はフォ-クソングの時代の入り口に立っていた。初めて歌ったところは函館だった。たった一人ギタ-を持ち、青函連絡船に乗り、津軽海峡を渡って飛びこんでいったのは「函館ドック」構内だった。昼休みの会議室に100人近い作業服を着た男たちが私を待っていた。東京からやってきた髪の長いジ-ンズをはいた音大出の「ドナドナ」を歌う歌手に、最初は無愛想で何も反応しなかった。ライトのあるステ-ジやテレビのスタジオでしか歌ったことのない私は心細くて無我夢中で歌い続けた。そんな私に手を伸ばせばとどくような距離にいる彼らからだんだん無言の言葉が返ってきた。「おめぇ、がんばれよ」「おうえんしてるぞ」。・・・今まで知らなかった世界がそこにあった。飾らなくても、誠実に音楽を伝えていけばわかってもらえる世界が。そして音楽はステ-ジやテレビの中だけのものではなく、働き、生活し、生産している場にもあること。そして音楽は専門家や愛好者だけのものでもなく、誰もが必要としていること、商品としてでもなく、教養としてでもなく音楽が存在できることを教えられたのである。・・・自分の存在が初めて社会とつながり、社会が必要とする人間になれる道を見つけたと思った。そして生きること歌うことが一つになれる道も。1969年3月、私は24歳だった。20年が過ぎた。あれ以来、日本国内はもとより、世界を駆けめぐり歌ってきた。100人に満たない聴衆の時も何万人もの聴衆の戸もあった。1973年私はまだ戦争中のベトナムへ行った。首都ハノイの市民劇場をはじめ、野戦場の高射砲部隊の若い兵士の前や、道路修理班の人びとの前でも歌った。・・・ベトナムは初めての海外公演だつた。その後・・ドイツの音楽祭、アメリカでのミニコンサ-ト、スリランカ、中米ニカラグア、フィリピン・ネグロス島へ・・・私にとってステ-ジとは一方的に歌うことではなく、エネルギ-を交換する場であり、「愛」を引き出し合う場であった。そして歌うことはいつも「愛」に包まれていて、何にも替えがたい喜びであった。    「ただの私に戻る旅」1995年10月5日第1刷 労働旬報社 

横井久美子さんのミニコンサ-トが、隣接する市でギャラリ-であった。2018年の夏のこと。そのギャラリ-のオ-ナ-が、自分の知人ということもあり、お会いすることが出来た。横井さんの著書「ただの私に戻る旅」にサインをお願いする時、「あ、懐かしい本。よく見つけられましたね」と言葉をかけていただいたのが印象に残る。失礼ながらその当時は横井久美子という歌い手をあまり存じ上げないでいた(不思議なことに本だけは持っていた)ので、こちらから特にお聞きすることもなかった。「歌って愛して・・・たたかいたい」の特にたたかう?、の意味するところが、後で著書にふれることで何となくわかるような気がしている。-鈴木慶治