ユ-ジン・スミス 1918-1978 59歳
ウィリアム・ユージン・スミスは、アメリカの写真家。1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。
Wikipedia から
経歴
カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母が、アメリカインディアンのポタワトミ族の血筋もひく。スミスの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺している。スミスはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けた。
第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月、沖縄戦で歩兵と同行中、日本軍の砲弾の爆風により全身を負傷し、約2年の療養生活を送り、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、スミス「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発あって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。 戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味の矛先を向け1947年から1954年まで、『ライフ』で「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んだ。
ユ-ジン・スミスは語る。
写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま-ほんのときたま-、一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことができる。
写真を見る人間によるところが大きいが、ときには写真が、思考への触媒となるのに充分な感情を呼び起こすことができる。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。・・
「村の学校」 デレイト-サ スペイン 1950年
フランシスコ・フランコは、1937年に自ら組織するファランヘ党の総統となった。1939年、内戦終結後は国家元首として、その独裁は彼の死1975年まで続いた。フランコ政権はその成立時からドイツ、イタリアのファシズム政権から支援を受け、ファランヘ党の一党独裁、軍隊と秘密警察による厳しい支配を行った。
1950年当時のスペイン-その歴史背景を知ることで一枚の写真がより深く理解出来るフランコ独裁政権の圧政のもとで、貧しくしかも自由にもの言えぬ生活が子ども達の表情を暗く、何かに怯えたものにしている。
鈴木慶治 2019.5記
著名な人物のことを書こうとすれば、どうしてもその人物を記した書物からの引用が多くなる。その人物に対する理解が進まないと自分の考えの入り込む余地がないからてある。ユ-ジン・スミスに限らない、人が人を語るなんて何という傲慢なことか。-たかだか数冊の本を読んだだけで何がわかろうというのか。-
鈴木慶治
日系アメリカ人・アイリ-ン・美緒子さんがユ-ジン・スミスと結婚したのは、21歳。花婿は52歳。
1971年。1970年に会って1週間後には、スミスはアイリ-ンに「一緒に住んでくれ」と言ったという。アイリ-ンさんが納得したのはなぜだろう写真で見ると、とても美人・・。伝説的人物、偉人の類いにはこうしたスキャンダル的な「異説」が少なくない本筋からはなれた話の方がおもしろいと思うのは、どうも自分に品性がないためか。
鈴木慶治
ユ-ジン・スミス年譜の記載から強く興味を覚える点。
1935年 17歳 2月、ニュ-ヨ-クを訪れ、3ヶ月以上滞在したYMCAでたまたま同宿していた日系人写真家と出会いそこで見せてもらった写真プリントに大きな刺激を受け、写真家を志すことになったというこの日系日本人写真家とは、一体誰なのか「私が写真家として今日あることも一人の日本人から受けた感動したことから出発していることを話したい。私に影響を与えた日本の写真に会ったのは17歳のころであったと思っている。記憶が薄れて、名前もまた顔も、細かいことを忘れたのは残念だが・・背が高い人で・作品を見せられてびっくりした。それは自分の写真と比較して驚くべき感動にみちたものであった。それ以来、写真にとりつか自分の心が決まったのである。・・わかることなら、その人に会いたいと思っている。・・」
ユ-ジン・スミスの最後?ともいっていい「仕事」が水俣との出会いである。
1971年 53歳 9月水俣に移り、アイリ-ンとともに水俣の水銀公害の撮影を開始。
1974年 56歳 帰国
1978年 59歳 10月 二度目の脳梗塞の発作 他界 享年59歳
アイリ-ンとともに水俣の水銀公害を記録した-単行本 鈴木慶治 2019.5.25
入江泰吉 東大寺戒壇院・四天王像 広目天立像
奈良に行くと必ず見に行く仏像。相対すると自分の弱い心を見透かされるようだ。今とちがい壇上にあがれた時は、同じ高さで余計その感じをうけた。
厳しい表情は、克己心の権化。こちらら側の「煩悩=悩み」に強い心でこたえてくれたように思う。
大相撲の豪栄道に似ているんですよ。鈴木慶治
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入江 泰吉(いりえ たいきち、1905年(明治38年)11月5日 - 1992年(平成4年)1月16日)
日本の写真家。主に大和路の風景、仏像、行事などの写真を撮り、高い評価を受けた。
少年時代
長兄の影響で画家を志し、日本画家・土田麦僊に弟子入りする手はずが整っていたが、東京美術学校の学生だった次兄に画家で成功するための厳しさを説かれて断念した。
1928年、23歳。知人の依頼で文楽人形のかしらを撮影したのを機に、その魅力に取り付かれる。4年間文楽座に通いつめ、黄金期の文楽を撮影する。人形遣い吉田文五郎とも親交を結んだ。
1940年には朝日新聞社主催の「世界移動写真展」に組写真「春の文楽」を出品し、最高賞を受賞した。太平洋戦争末期の1945年3月13日夜、大阪大空襲で家を焼失し、奈良に戻り夫婦で下宿暮らしをする。文楽の写真は奇跡的に残り、現存している。放心状態を埋めるように亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」を手に奈良の古寺を遍歴。
終戦を経て、同年11月下旬、たまたま東大寺法華堂の四天王像が疎開先から帰還するのを目撃した。その付き添いの人や堂守の人たちの話に、戦勝国であるアメリカ合衆国が賠償として日本の古美術を持ち帰るという噂を耳にする。愕然とした入江は奈良の仏像を写真で記録することを決意する。大阪の闇市で機材を揃え、戒壇院の四天王像から撮りはじめた。噂は単なるデマであったが、放心状態から脱することができた。このとき、入江は40歳であった。
<エピソ-ド>
終戦後、仏像を撮り始めた頃、秋篠寺の技芸天像を撮影に行くと、住職が、竹竿の先に蝋燭をさし、照明を手伝ってくれた。蝋燭のあかりが動くにつれ、技芸天の表情は、微笑を浮かべたり、憂い顔になったりと微妙に変化した。入江は信仰はなかったが、これによって仏像に畏敬の念を抱き、それ以来、仏像を撮影するときは技巧を凝らさず、
できるだけ忠実に再現することを心がけるようになったという。入江の風景写真には、雨、雪、霧、雲などが効果的に写し込まれることが多く、しっとりとした情感にあふれているので、親友・杉本健吉にミスター・ウエット・イリエと評された。それを裏付けるように、弟子の写真家・矢野建彦も入江が特に雨や雪の日を好んで撮影していたことを証言する。ふだんは来客を大切にする入江であったが、雪が降り出すと来客がいても撮影に飛び出すことがあった。また、有名な「二上山暮色」を撮影したときには夕方になると毎日同じ場所に通い詰めた。11日目、撮影を終えかけていたとき、黒い雲が沸き始めると急に撮影を再開し、その雲が二上山の上に来たときにシャッターを切った。
大津皇子の悲劇が念頭にあった入江にとって、ただの美しい夕焼けでは納得が行かなかったのだという。薬師寺管長だった高田好胤はこうした入江の表現を入江節と呼んだ
入江はなかなかシャッターを切らなかった。例えば仏像を撮る場合でも、四時間でも五時間でも納得の行くまで仏像と相対し、「よし」、と思ったとき、たった一度シャッターを押すだけで写真を撮り終わったという。
小林秀雄の紹介で、写真集「大和路」(東京創元社)の校正手伝いに白洲正子が来ていた。白洲は椿の花が散っている写真を見て何となく落ち着かなく、不自然なものを感じた。白洲は何も言わなかったが入江は「バレましたか」と一言いって白洲を驚かせた。それは入江がわざと散らせた椿だったという。入江は即座にその写真を差し替えた。
入江は「お水取り」が有名な行事になる以前から毎年撮影に通いつめており、十二人目の練行衆の異名をとっていた。
1951年ごろ、当時産経新聞京都支局の記者だった司馬遼太郎がお水取りの取材に来ていたとき、アマチュアカメラマンたちが練行衆に向かって一斉にフラッシュを焚いた。
すると小型カメラを構えていた白髪痩身の男が急に振り向いて「あっちに行けっ!」と低く叫んだ。
アマチュアカメラマンたちは、その気迫に圧されてカメラをおろしてしまった。それが、司馬の入江との初対面だった。後に入江と親しくなった司馬は、その穏やかで恥ずかしがりな人柄と、あの夜の厳しい叱咤がどうにも結びつかなかったという。薬師寺の高田好胤もふだんの入江と、撮影に取り組む入江の違いを見て「あんたはジキルとハイドみたいなみたいな二重面相の男やなぁ」とひやかしたという。
下の写真は 鈴木慶治蔵 土門さんの本
「青春時代に、荒れくれた素手ではらわたを抉りとられるような衝撃を受け、その後の生き方にまで影響を受けた写真集が二冊ある。一冊は広島・長崎の原爆被災の惨状を特集した「アサヒグラフ」(1952年8月6日号)であり、もう一冊は、60年1月に刊行された土門拳の「筑豊のこどもたち」だ。・・私が虜になったのは、るみえちゃんだった。7、8歳くらいだろうか。安普請の傷だらけのやせた柱にもたれかかり、人差し指をくわえた口をわずかに力なく開いている。つぶらな目は何を見、何を思っているのか、空ろな物憂さがただよい、いまにも泣き出しそうだ。おかっぱの髪はバサバサ。着古しのセ-タ-にカ-ディガンを重ね着している。その顔、その目には、すでにして、この世に生きることの苛酷さと悲しみ、極貧の階層に生まれ出づる試練、といったものが深く彫りこまれている。・・急速に進む鉄道の電化や火力発電の石炭から重油への転換によって斜陽化の一途をたどり始めた石炭産業。その炭鉱労働者たちの住む炭鉱街のこどもたちの貧しさ。・・・すき間だらけの板張りの家の板の間にむしろを敷いた、その上に独り座って粗末な衣類のつくろいものをしている少女。ボタ山から捨てられた粗悪な廃炭を拾って帰り、炊事のための火おこしをする少女・・・
柳田邦男著 「ほくは9歳のときから死と向きあってきた」2011年8月30日 新潮社発行から
下の写真 「紙芝居」
土門拳さんの大好きな像 京都神護寺・薬師如来立像
土門拳さんのとなりは、植田正治さん。場所は鳥取砂丘。両人の作風・写風はとても違うのですが。砂丘での写真対決となれば植田さんに一日の長ありか。
鈴木慶治
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土門 拳 1909-1990
昭和に活躍した日本の写真家である。 リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界で屈指の名文家としても知られた。
1909年10月25日 - 山形県飽海郡酒田町鷹町(現・酒田市相生町)に父熊造、母とみえの長男として誕生。
1916年 - 一家で東京へ移住。
1917年 - 麻布区飯倉小学校に入学。
1918年 - 一家で横浜市磯子区へ移転、磯子小学校へ編入。
1921年 - 一家で同市の神奈川区へ移転、二ッ谷小学校へ編入。絵画を描きはじめる。
1926年 - 土門が描いた十五号の薔薇の油彩が横浜美術展覧会で入選。審査員は安井曾太郎。
1927年 - 考古学に興味を持ち、学校の周囲で土器や石器掘りに熱中する。
1928年 - 旧制神奈川県立第二中学校(現・神奈川県立横浜翠嵐高等学校)卒業。逓信省の倉庫用務員になる。
1929年 - 三味線に熱中し、常盤津の師匠に弟子入りする。
1932年 - 農民運動に参加し、検挙される。
1933年 - 遠縁にあたる宮内幸太郎の写真場に内弟子として住み込み、写真の基礎を学ぶ。
1935年 - 8月1日に電車内であくびをする幼い兄弟をダゴール付きアンゴー8×10.5cm(手札)判でスナップ撮影した「アーアー」が『アサヒカメラ』10月号で月例第一部
(初心者)二等に初入選した。またその号に出ていた名取洋之助主宰の第2次日本工房の求人広告に応募、名取のもとで報道写真を撮り始めた。
1936年 - 日本工房発行の欧文雑誌『NIPPON』の記事作成のため、伊豆を取材。この時撮影した「伊豆の週末」や、「かんじっこ」などは、初期の土門の傑作に数えられる
1937年 - 早稲田大学の卒業アルバムの写真撮影を担当。これは実質的に土門の初めての作品集となる。なお同書は2009年に復刻された。
1938年 - 土門が撮影した、当時の外務大臣・宇垣一成のルポルタージュ、「日曜日の宇垣さん」が、「婦人画報」の9月号と、アメリカのグラフ誌「ライフ」9月5日号に掲 載される。
1939年 - 著作権の取り扱いをめぐって名取と対立し、日本工房を退社(→「名取洋之助との対立」の節を参照)。美術評論家、水澤澄夫の案内で初めて室生寺を撮影。
1941年 - 文楽の撮影を開始する。徴兵検査を受けるが不合格となり帰郷。
1943年 - 写真雑誌「写真文化」(石津良介編集長)に掲載した人物写真に対してアルス写真文化賞受賞。荻原守衛の彫刻作品を撮影する。
1946年 - 戦後はじめてとなる古寺の撮影を開始する。
1949年 - 写真雑誌「カメラ」の企画で桑原甲子雄編集長とともに大阪、中国地方の旅に出る。大阪でははじめて安井仲治のオリジナルプリントの作品にふれる。鳥取では
植田正治らと撮影会をおこなう。
1950年 - 木村伊兵衛とともに「カメラ 」誌の月例写真審査員になり、リアリズム写真を提唱。また木村とともに三木淳の結成した「集団フォト」の顧問になる。土門拳が
撮影した十一代目 市川團十郎「海老さま」(1951年)
1953年 - 江東区の子どもたちを撮りはじめる。写真集『風貌』(アルス社)刊行。このころからカラーフィルムを使いはじめる。
1954年 - 写真集『室生寺』(美術出版社)刊行。
1957年 - 広島を取材。
1958年 - 写真集『ヒロシマ』(研光社)刊行。同社のカメラ誌「フォトアート」月例審査員を1963年まで断続的に務める。
1959年 - 筑豊炭鉱労働者を取材する。
1960年 - 写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店)を100円で刊行。続編『るみえちゃんはお父さんが死んだ』(研光社)を完成直後、脳出血を発症。回復後、
ライフワークとなる大型カメラによる『古寺巡礼』の撮影を開始。古美術商の近藤金吾の知己を得、骨董に興味を持つ。
1961年 - 「芸術新潮」に『私の美学』を連載。
1962年 - 装幀家の菅野梅三郎との交流がきっかけとなり古陶磁の撮影を始める。
1963年 - 写真集『古寺巡礼』第一集(美術出版社)を刊行。7月に創刊された平凡社の雑誌「太陽」の連載記事「日本のあけぼの」の写真を手がける。後年『日本人の原像』 として単行本化。
1964年 - 京都の東寺(教王護国寺)を撮影する。
1966年 - 草柳大蔵とのコンビで、平凡社「太陽」に『日本名匠伝』を連載。土門が撮影を担当した勅使河原蒼風の作品集「私の花」(講談社)刊行考古学研究書
『日本人の原像』(平凡社)刊行。芹沢長介と坪井清足がテキストを執筆、福沢一郎が挿画、土門が写真を担当した。同年、日本リアリズム写真集団の顧問に就任。
1967年 - 1月秋田県木地山のこけし職人小椋久太郎を撮影する。『太陽』の依頼で2月と6月の二回にわたり屋久島を訪れ、藪椿や石楠花を撮影。同じく3月に東大寺二月堂
のお水取りを撮影。11月には羽田闘争を撮影(最後の報道写真)する。
1968年 - 前年に取材した東大寺のお水取りの模様が平凡社「太陽」1月号に特集記事として掲載される。10年ぶりに再び広島を取材。写真展「失意と憎悪の日々-ヒロシマ はつづいている」を開催。写真集『古寺巡礼』第三集(美術出版社)刊行。6月、雑誌「太陽」の取材で滞在していた山口県萩市で二度目の脳出血を発症。
九州大 付属病院に緊急入院。右半身不随となるが、左手で水彩画を描いたりしてリハビリテーションに励む。撮影は助手として同行していた弟の牧直視が引き継ぎ 同誌の9月号に特集記事として掲載される。なお、写真のクレジットは牧直視名義となっており、土門の作品が使用されているかは不明。
1969年 - 6月、長野県鹿教湯温泉にある東京大学療養所に転院。リハビリテーションを続ける。
1970年 - 車椅子にて撮影を再開。風景写真を数多く撮る。
1971年 - 写真集『古寺巡礼』第四集(美術出版社)、『薬師寺』(毎日新聞社)、『荻原守衛』(筑摩書房)刊行。『古寺巡礼』の業績に対し第19回菊池寛賞受賞。
1978年 - 3月、初めて雪景の室生寺を撮影。またこの時初めてストロボを使用する。写真集『女人高野室生寺』(美術出版社)、『日本の美』(伊藤ハム栄養食品
非売品) 『生きているヒロシマ』(築地書館)刊行。カメラ誌の月例審査をまとめた『写真批評』(ダヴィッド社)刊行。
1979年 - 写真集『現代彫刻』(サンケイ新聞社)、随筆集『写真随筆』(ダヴィッド社)刊行。7月に生前最期の撮影地となった福井県丹生郡にて越前甕墓や越前海岸などを 撮影。これらの写真は「カメラ毎日」1979年11月号などに掲載された。9月に脳血栓を発症、昏睡状態となる。
1980年 - 勲四等旭日小綬章受章。
1990年 - 9月15日、11年間の昏睡状態を経て、入院先の東京都港区虎の門病院で心不全のため死去。
米『古寺巡礼』の撮影を始めた時には半身不随となり、2度目の脳出血では車椅子生活を送りながらも、弟子に指示しながら精力的に撮影した。
京都 神護寺 薬師如来立像 光をあててみました。
20世紀初頭に生まれた写真家
木村伊兵衛 1901-1974
マ-ガレット・バ-ク-ホワイト 1904-1971
入江泰吉 1905-1992
アンリ・カルテイエ=ブレッソン 1908-2004
土門拳 1909-1990
ゲルダ・タロ- 1910-1937
ロバ-ト・キャパ 1913-1954
ユ-ジン・スミス 1918-1978
林 忠彦 1918-1990
写真家とモチ-フ・テ-マ 順不同 鈴木慶治蔵書
土門拳 古寺巡礼 女人高野 筑豊 ヒロシマ 江東の子ども
入江泰吉 大和の風景 古寺と仏像 人形浄瑠璃
植田正治 日本海 鳥取砂丘 演出写真
緑川洋一 瀬戸内の風景 時計 歯科医
白籏史郎 山岳写真 尾瀬
白井義員 世界の山々 南極 聖書 機上撮影
星野道夫 アラスカ自然 動物
木下陽一 長崎の教会
濱谷 浩 日本海側の風土
木村伊兵衛 秋田 女 パリ 早撮り
前田真三 風景巡礼 美瑛
東松照明 焼物 沖縄 南方 長崎 広島
菊嶌郁俊 山岳写真
竹内敏信 風景写真 天地シリ-ズ 車椅子
三好和義 楽園 古寺
ハ-ビ-山口 HOPE311
大石芳野 ベトナム カンボジア アウシュビッツ ヒロシマ
林忠彦 東海道 カストリ時代 文士の時代 長崎 小説のふるさと
長倉洋海 シルクロードの子どもたち アフガニスタン 人間交路
土門拳 写真随筆 1979.1.15 初版発行 株式会社ダヴィット社発行
土門拳 土門拳の古寺巡礼 第五巻 室生寺 1990.2.20 初版第1刷発行 小学館
三好和義 室生寺 2015.2.10 第1刷発行 株式会社クレヴィス発行
鈴木慶治蔵
ご両人の室生寺対決?-そんな期待感を持たせてくれます。
三好和義 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1958年 徳島市に生まれる。
1973年 吉野川堤防で撮影した写真が徳島新聞に掲載され、初めて原稿料をもらう。
1974年 ダイビングのライセンスを取得。初めての個展「南島・先島」を、徳島県郷土文化会館で開催。
1975年沖縄で撮影した「牛」で二科展に最年少入選。
1976年 17歳のときにニコンサロンで個展を開く。17歳は当時最年少。
1978年 ポナペ、フィジー、ニューカレドニア、グアムなどの太平洋の島を43日間航海する。
個展「南の島、南の風」を銀座ニコンサロンで開催。
1979年 APA(日本広告写真家協会)で特選。
1981年 大学卒業直前、株式会社「楽園」を設立。
1985年 初の写真集「RAKUEN」を出版。
1986年 写真集「RAKUEN」などにより、第11回木村伊兵衛賞受賞。(当時の最年少記録)
「楽園」をテーマに世界各国の写真を撮る。タヒチ、モルディブ、ハワイなどの写真集を数多く出版。
1996年 「富士山」を出版。
1998年 日本ユネスコの依頼で撮影した「日本の世界遺産」。この写真は国際交流基金の手により世界巡回。
2000年「屋久島」を出版。
2004年 藤本四八写真文化賞を受賞。
2009年 「京都の御所と離宮」を出版。
2015年 アサヒカメラ(2016年1月号より)にて「楽園写真術」の連載開始。
2016年 Amazonプライムビデオにて「RAKUEN三好和義と巡る楽園の旅」配信開始。
ニューヨークのジョージ・イーストマン・ハウス写真博物館で永久保存。
鈴木慶治
写真を撮るために生まれてきたとも思える-逸材、才能の持ち主。最年少記録が目を引く。土門拳は三好さんが敬愛する写真家。
土門さんが終生通った「室生寺」に、自らも足を運び素晴らしい写真集を残してくれた。土門さんの「室生の世界」とはことなる三好ワ-ルドの
世界がここにはあるように思う 鈴木慶治。
三好さんは言う。
「ずっと追い続けている”楽園”がここ室生寺にあると思う」と。
十一面観音像の写真は、土門さんの写真でもない、ナイ-ブで繊細。今まで感じたこともない写真です。
看護婦。
土門拳さんの撮った写真の中には、こんな可憐な写真もあるのです。戦前の作品。-東京麻布の日本赤十字社に
通いつめ、昭和13年に写真週報・NIPPONに掲載された。3年間の寄宿舎生活後に中国大陸から南太平洋諸島
まで派遣されたという。その後の人生に幸あれと祈るばかりです。 鈴木慶治 2019.5.20記
土門拳-関連本 鈴木慶治 蔵
「木村伊兵衛-昭和の女たち-」著者 木村伊兵衛 編 田沼武能 文 長部日出雄 1991年5月10日初版第1刷発行 筑摩書房
「-人物の肖像写真において、土門拳は対象が年配の女性でも、写真館で使うような大型カメラのレンズをF16かF32まで、絞り込み、可能なかぎり焦点を鋭くして、ぎりぎりの極限まで画像を鮮明にしようとする。それに対して、木村伊兵衛が小型カメラのライカで撮る女性の肖像写真は、しばしば全体にふんわりとした暈かしがかけられ、いかにも優雅で洗練された雰囲気を漂わせていて、皺など1本も映っていない。その夢のような暈けの上品な味わいは、タンバ-ルという軟焦点のレンズによって生み出されたものであることも、写真雑誌で教えられた。土門拳が、重量感と迫力に溢れているとすれば、木村伊兵衛は、軽妙で洒脱で、飄々としていて、どうもいまひとつとらえどころがない。けれども言葉ではうまく説明できないけれど、やはり、とてもいいのである。時代が経つにつれて、木村伊兵衛という稀代の写真家の眼と感性の素晴らしさが、ますます明瞭に浮かび上がってきているようだ。-長部日出雄
表紙の写真 秋田県大曲市大曲西根 1963年 昭和38年
前田 真三は、上高地、奥三河、富良野などにおいて風景写真・山岳写真を撮影した。
1922年-1998年(76歳) 北海道・美瑛は前田さんの写真によって一大観光地となったと言っても過言ではない。鈴木慶治
写真家のマナ-も最悪になりましたが・・。
鈴木慶治 蔵
大石芳野写真集 鈴木慶治 蔵
大石芳野さんは「本の部屋」でも記述。
長倉洋海 1952年、北海道釧路市生まれ。京都での大学生時代は探検部に所属し、
手製筏による日本海漂流やアフガン遊牧民接触などの探検行をする。
1980年、勤めていた通信社を辞め、フリーの写真家となる。以降、世界の紛争地を精力的に取材する。
ホ-ムペジより
与 勇輝(あたえ ゆうき、1937年9月17日 - )は日本の人形作家。神奈川県川崎市出身。
両親は奄美群島に属する与路島の出身。 作風[編集]. 人形創作を始めた当初より、
着物や洋服の襞にこだわり、木綿の古布を主に使用している。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
多田 富雄(ただ とみお、1934年3月31日 - 2010年4月21日)は、日本の免疫学者、文筆家である。東京大学名誉教授。
野口英世記念医学賞、朝日賞(1981年)、文化功労者(1984年)
『免疫の意味論』(青土社、1993年)で大佛次郎賞『独酌余滴』(朝日新聞社、1999年)で日本エッセイスト・クラブ賞
『寡黙なる巨人』(集英社、2007年)で小林秀雄賞
能の作者としても知られ、自ら小鼓を打つこともあった。謡曲作品に脳死の人を主題にした『無明の井』、
朝鮮半島から強制連行された人を主題とした『望恨歌』、アインシュタインの相対性理論を主題とした『一石仙人』
広島の被爆を主題とした『原爆忌』がある。
2001年5月2日、滞在先の金沢にて脳梗塞を起こし、一命は取り留めたが声を失い、右半身不随となる。
だが執筆意欲は衰えず、著作活動を続けた。
以下の作品は発病後に出した本である。養老孟司さんは「寡黙なる巨人」の解説で述べている。
「多田富雄さんは、東京大学医学部で私の同僚であった。・・・多田さんが定年で大学を辞めた1年後に私もやめた。
定年前だったが、もう大学にいる気がしなかった。近くに話し相手がなくなったからである。わざわざ話さなくたって
そういう人がいるだけでなんとなく安心。そういうことって、あるでしょうが。・・「寡黙なる巨人」のなかで、私の
胸をうつ記述がある。病気の前に自分は生きていなかったが、病を得てからは、毎日生を感じているという意味のこと
である。これだけは現代人の心になんとしても届いて欲しいと、私が思うことである。
多田さんは動く指ただ1本で、これだけの作品を書いた。あんたら、なにを寝ぼけてるんや。五体満足でなにをブツブツ
いうんか。ふざけんじゃない。現代人は生きることを失って久しい。・・・多田さんが最後に真の意味で「生きた」こと
だけは間違いない。・・」
土門さんは、日本一の写真家になることをとこころざし「打倒・木村伊兵衛」を目指したことは、よく知られた話で
ある。土門さんと同じ東北出身で友人でもある、版画家の棟方志功は「わてばゴッホになる」と言った。
土門拳より8歳年長の木村伊兵衛は晩年、自身が病気になった時、「土門くんはどうしている」と聞いたそうである。その後で
「車椅子になっても創作意欲の衰えない」土門の仕事ぶりを聞き、嘆息したということである。
良き好敵手・ライバルを持つたことの「運命的な幸せ」を両者が感じたかどうかは別として、お互いの仕事に深い尊敬の念がないと
こうはいかない。自分の残り少ない「命の時間」を感じ取り、なおも相手の仕事ぶりを気にしないではいられない「業のようなもの」
を二人に感じた。 鈴木慶治 2019.6.21 記
戦時中の記録写真は、どれも胸打つものが多い。
ここに残る1枚の写真は長崎で撮られたものである。タイトルは「焼き場に立つ少年」
以下は写真を撮ったジョ-・オダネルの言葉である。
「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしであった。少年の背中には2歳
にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようにで見たところ体のどこにも火傷の跡は見
あたらない。少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、
足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ち尽くす
少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。・・少年は気をつけの姿勢で
じっと前を見つづけた。1度も焼かれる弟に目を落とすこともない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ・・」
戦後社会に生きてきた私たちには、直立不動の姿勢・軍人顔負け・動じない・少年に違和感を感じるだろう。そして意地の悪い
言い方をすれば、「軍国主義教育がここまで徹底していたのか」と嘆ずるかもしれない。
しかしながら、あえて言おう。この少年のような「覚悟を持った生き方」を、平和な世に生きる、我々大人はしているだろうか。
その答えは恥ずかしながら、否である。
鈴木慶治 2019/06/21
霊性という言葉は鈴木大拙が「精神」という言葉を避けて「霊性」という言葉を使ったことに由来するようだ。
精神という言葉が戦時中に国家主義によって汚されたから-と大拙はいう。日本の精神から日本の霊性へ。
この本の中で特に心ひかれた章は、上杉謙信・小林古径・親鸞・日蓮の各章である。
以下、個人的な思い出だが、2004年9月に初版発行されたこの本は、翌年の2005年秋-梅原猛の「小林古径についての講演会」が新潟の高田で開かれた
おりに「梅友会」を介して、その会場で手に入れた本である。自分は(梅原猛、友の会)会員ではなく、先輩が関わっていたので2度ほど参加した。
ご本人を囲む宴席が(直江津の某ホテル)であった。先輩の「紹介してやるから・・」の一言で梅原さんのおそばに近寄らせて頂く機会があった。直接に
言葉を交わしたわけでなく、間近に尊顔を拝したということだけである。その後氏の著作を何冊か読んで、あの折りの自身の無言?が悔やまれてならない。
亡くなられてからは、その思いはますます強くなる一方である。 鈴木慶治 2019.6.21 記
1974年に第1刷が発行され、以来45年。仏像に関心を持ち始めた頃に出会った本が
「仏像に想う」である。当時は梅原さんのペ-ジより岡部伊都子さんに時間をさいて読んだ記憶がある。
最近この本の存在を思い出して、書棚を探しやっとのことで見つけ再読している。-下-もあった筈だがこちらは
見つけられないでいる。奈良・東大寺戒壇院・広目天に寄せた-岡部さんの文章。
「真に男らしい男は、外観はいかつくとも、その内部の精神に、一応の女よりもずっと繊細で、やさしい思いやりを蔵して
いるものだ。そのやさしくてたまらない魂、やさしくてしかたのない魂だからこそ、許せぬものは許せぬ。どこまでも
きびしく眼力を行き届かせ、悪と闘い、人びとを真理に近づける努力をせずにはいられなない男の美しさが好きだ。・・」
現実的には、ちょっといそうもない人間・・だからこそ、岡部さんは、広目天像にその理想の思いを重ね見たのだろう。
広目天像は このペ-ジ入江泰吉の項を参照のこと。 鈴木慶治 2019.6.21
我が家には、仏像関連の本が何冊かある。その中でも最も厚く、収録された仏像写真の数も多いのが
この本である。写真の質が高く、事典として繙くは無論のこと、一つひとつの仏像を鑑賞するのにも最適である。
小川光三という高名な写真家が撮っているので、感動レペル?が高い。 鈴木慶治
表紙写真 (中宮寺 菩薩思惟像 寺伝では如意輪観音) 聖徳太子ゆかりの尼寺
法隆寺・百済観音像 飛鳥時代(6世紀末から7世紀初め)の樟を使った一木彫刻。
流れるような自由さ、こだわりなさ、無心さにおいて比類がない。
素朴さと柔軟さと清純さとの見事な融合がここにある。 山本健吉
法隆寺に行って、この仏と出会えることは、昔も今も自分にとって無上の喜びである。鈴木慶治
新薬師寺・伐折羅大将像 バサラタイショウ
薬師寺 東院堂 聖観世音菩薩立像 奈良時代 銅像 像高 188.9CM
自分の大好きな仏像です。最初に見たのは半世紀前のことか。薬師寺に行くと、必ず見に行く仏様。光背も素晴らしい。
天草の美しい自然がたくさん載っていて、今すぐにも行ってみたくなる写真本です。
小林健浩さんは1943年生まれ・天草・本渡市のご出身です。天草フォトクラブの会長さん(2005年当時)。2019.7.記載
旅と自分を考えた時に真っ先にうかぶのは、2人の-漂白・流浪-歌人です。
種田山頭火 1882-1940 58歳
尾崎放哉 1885-1926 41歳
分け入っても 分け入っても 青い山
咳をするのも ひとり
今、2019.8現在 石牟礼道子さんの本
1927-2018 享年90歳
土門拳氏と入江泰吉氏のそれぞれの「仏像」に寄せる思いはどんなであったのだろうか。対比的に書いてくれる本を以前から
探していたが、こんな期待に応えてくれる本に出会えた。左 碧海寿広 1981- 「仏像と日本人」-宗教と美の近現代-
中公新書 2018.7.25 初版
碧海寿広 「仏像と日本人」から
土門拳(1909-90)と入江泰吉(1905-92)。いずれも、没後から四半世紀以上が過ぎた現在に至るまでファンの多い、著名な写真家である。日本の古寺や仏像を好む人間であれば、この二人の写真家には、どこかで必ず出逢うことになる。・・写真家としての生き方や作風は、ほぼ対照的といってよいほどに異なっていた。
自分の好きなものを求めて全国の古寺を巡った土門に対して、入江のほうは、自らの郷土である奈良の古寺や仏像に、ひたすらこだわった。奈良に存在する同じ対象を、何十年もかけて、何度もとり続けたのである。土門が、自己と撮影対象との個別の関係性を重視したのに対し、入江は、奈良という土地の固有性に焦点を合わせたというわけだ。入江が創作した写真の大半は、奈良の古寺や仏像や道や空や草木や花や、あるいは年中行事を活写したものであった。・・奈良の自然も文化も、あるいは仏像も、そこに先祖や古代人の心が宿っているからこそ、美しい。入江はそう考える。入江の仏像写真は、土門の作品とは対極的に、作家の視線の個性をあまり感じさせない。その代わり、そこには奈良の歴史をつくってきた人びとの心がかもす美しさが、鮮やかに映し出されていた。
被写体となる仏像との、視覚的かつ心的な交流を突き詰めた土門拳は撮影の際、対象をひたすら眺め、撮影時間の三分の二は、対象を一心不乱に凝視することに費やしたという。対して被写体となる仏像に、先人たちとの心の痕跡を読み取ろうとした入江泰吉。いずれも、美術鑑賞とは明らかに異質な態度で仏像に対峙していたのは、疑いない。
石牟礼道子さんの本
海と空のあいだに 2019.10.30発行 弦書房 石牟礼道子対談集 2000.12.25初版発行