「才気活発」・「頭の良い」人-で若い時から世間という物差しではかれない人のようでした。1943-2018.9.15 享年75。
「一切なりゆき」~樹木希林のことば~ 2018.12.20 第1刷発行・文春新書・印象に残る言葉です。
○人生なんて自分の思い描いた通りにならなくて当たり前。私自身は、人生を嘆いたり、幸せについておおげさに考えることもないんです。いつも「人生、上出来だわ」と思っていて、物事がうまくいかないときは「自分が未熟だったのよ」でおしまい。こんなはずでは・・・というのは、自分が目指していたもの、思い描いていた幸せと違うから生まれる感情ですよね。でも、その目標が、自分の本当に望んでいるものなのか。他の人の価値観だったり、誰かの人生と比べてただうらやんでいるだけではないか。一度自分を見つめ直してみるといいかもしれませんね。お金や地位や名声もなくて、傍からは地味でつまらない人生に見えたとしても、本人が本当に好きなことができていて「ああ、幸せだなあ」と思っていれば、その人の人生はキラキラ輝いていますよ。
○要するに価値観がちがうんですよね。普通の人が、地位だとか名誉だとか、こう見られたいって思うものが、私が見られたいって思うものと全然違うから。・・人が集中するところに私は興味がなかったりするものですから、人は私に対して見抜きにくいんですね。・・何考えてるかわかンないような感じがみなさんの価値観とちょっと違うだけの話なんでしょう。
○我ながら、自分は変わった人間だなあと思います。愛情深いタイプでないことは自覚していますが、冷徹であろうとしているわけではないんです。でもやっぱり、他人様からすると、情が無いと思われるのかもしれません。私は並外れて執着心が無い人間のようです。夫についても、娘についても、自分自身についても、まったく執着するところがありません。
なぜ自分はこんな人間になってしまったのだろう。そう考えるとき、思い当たるのは、自分の内にある「生きることへのしんどさ」。それは子どもの頃からずっと私の中にありました。しんどいと思いながら、ここまで生きてきたんです。幼いころの私は、あまり丈夫な子ではありませんでした。・・ほとんど口もきけなかったそうです。・・父親は薩摩琵琶の奏者で、時間があれば一日中、ニコニコして、琵琶を弾いていた。でも琵琶で生計を立てられるほどではなかったから、その分母親が一生懸命働いて、持ちこたえているような家でした。・・・
藤 圭子 1951-2013
「流星ひとつ」は、藤圭子と沢木耕太郎の対談本である。藤圭子なる女性が、いかに実像からはなれて芸能界に生きてきたか、生かされてきたかがよくわかる本。彼女は頭の回転がはやい。相手が何を聞きたいのか瞬時に理解したという。
「みだれ髪」や「雪国」などの歌がとてもうまい。ネット配信動画-のびのある高音まで聞かせるのには吃驚。盲目の母、浪曲師の父、まずしい少女時代・・、そして自死。
○藤 圭子について沢木耕太郎は、前記の著作「流星ひとつ」の後記にこんな内容のことを書いている。。「28歳のときの藤圭子がどのように考え、どのような決断をしたのか。もしこの流星ひとつを読むことがあったら、宇多田ヒカルは初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれない・・
」<藤圭子1951ー2013・ 享年62歳> ふたりの対談は1979年・藤圭子は28歳。沢木耕太郎は31歳の時である。当然、この時期に「流星ひとつ」は発行される筈であったが、沢木自身の意で公にされることはなかった。娘ヒカルはまだ誕生していない。対談の年に藤圭子は引退宣言(後復帰)渡米した年である。ニュ-ヨ-クで生まれ育った娘の宇多田ヒカルもまた絶頂期に引退宣言をした。人生の共通行動がこの親子にはある。藤圭子の決断とは引退決断のことである。藤圭子という歌い手が、我々とほぼ同世代を生き、そして流星のようにして消え去ってしまった。この事実が何故か強く心に残る。遺灰は海に散骨されたという。 2019.4.10 <鈴木慶治>
○< 「流星ひとつ」>と宇多田ヒカルとの距離
沢木耕太郎は藤圭子とのインタビュー後、原稿にまとめ単行本として刊行する予定であったという。1979年のこと。「時代の歌姫がなぜ歌を捨てるのか。その問いと答えをノンフィクションのまったく新しい書き方(ーいっさい「地」の文を加えずインタビューだけで描き切るー」)を意図していたという。しかしこの作品は沢木本人の作品内容に対する疑問、躊躇で公刊されることなく、34年後の2013年・藤圭子の死まで発表されなかった。娘・宇多田ヒカルは、母の肉声が語られたこの作品の存在を知っていたのだろうか。インタビュー後、ただ「1冊だけ」本にして、沢木は渡米した藤圭子におくったという。娘、宇多田ヒカルは言う。「幼い頃から母の病気が進行していくのを見ていました。」藤圭子の精神の輝きが-沢木とのインタビュ-の中では随所に見られる。「宇多田ヒカルが、流星ひとつを読むことがあったら初めての藤圭子に出会うことができるのかもしれなかった・・・」という言葉について考えてみた。2019.4.11 鈴木慶治
○宇多田ヒカルのコメント-母親・藤圭子の死について。
「8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。・・・彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。・・幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。病状の悪化とともに、家族に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧となり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。・・誤解されることの多い彼女でしたが・・とても恐がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子どものように衝動的で危うく、おっちょこいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです・・・
○沢木耕太郎の「流星ひとつ」が公刊されたのは対談から34年後、藤圭子の死後。-何とながい時間かかったのか。対談は1979年。宇多田ヒカルの生まれる4年前。「流星ひとつ」を娘、宇多田ヒカルが「読むことがあったら、初めての藤圭子に出会うことができたかも」と言った沢木さんの言葉の意味は深長である。どんな親子であれ、子は自身が生まれる前の親の姿を直接見て知ることは出来ない。沢木さんの言葉には、藤圭子への追悼の意とともに、藤圭子の生前に「流星ひとつ」を公刊していれば、娘に輝いていた若き日の母を知らせることが出来たという思いがあったのだろう。それにしても、娘、宇多田ヒカルの母親への言葉ー幼い頃から病状の進む母のそばにいても、的確な母親理解ー怖がりのくせに正義感にあふれ、鼻っ柱が強く、頭の回転がはやい。子どものように衝動的、おっちょこちょい。放っておけない。誰よりも可愛い人ー。というこのコメントは、沢木耕太郎が対談時に受けた藤圭子からの印象そのものではなかったか。対談後母だけに渡ったという、たった1冊の公刊前の"流星ひとつ"。これを娘が目にしたかどうかはわからない。しかし宇多田ヒカルは母の死後、「初めての藤圭子、すなわち若き日の輝かしい母」とは心の内で確実に向かい合っていたのに違いないと思う。
宇多田ヒカル 生年月日:1983年1月19日
大川小学校
津波の霊たち-英国人ジャ―ナリスが、「大川小学校」の関係者に取材した本。副題は-死と生の物語とある。なぜ子ども達は校庭に長時間51分も待機し、津波襲来と時刻を同じにして避難行動を起こしたのか、そのためになぜ全校児童の7-8割が死に至ったのか。今もその責任がどこにあるのか係争中です。(2019.10.10・最高裁で大川小の事前防災不備が確定しました。)74人の児童と10人の教職員が津波に呑み込まれました。 学校災害事故としては大震災中最多の死傷者でした。
子供達の避難ル-トと津波の押し寄せる方向が正面で衝突している。この災害の痛ましさがはっきりとわかる。津波に向かって子供達は進んでいったのです。 鈴木慶治
大川小学校正面-校庭、地震発生直後、ここに避難、点呼をとっていた。
写真 石川 梵氏 「THE DAYS AFTER」
51分後に校庭から避難しようとした「三角地帯」-適切な避難場所とは到底考えにくいところにあった。
全児童の8割が津波で流された-悲劇の学校。学校は廃校。教師も一人しか生き残れなかった。
校舎は震災遺構として保存されることになった。
司馬遼太郎の作品
司馬遼太郎について
1996.2.12日逝去。あれから2019年の現在・23年が経ちました。
自宅と隣接地に建てられた「司馬遼太郎記念館」。近鉄奈良線の八戸ノ里駅から徒歩で約8分。地下1階から地上2階まで吹き抜け。資料本・自筆本、その数2万余冊。
10年近く前、奈良からの帰り大阪に出る途中で八戸ノ里(ヤエノサト)で降りた。書斎部屋を庭から見た。記念館は自宅のすぐ隣。館内に奥様の福田みどりさんがいた記憶がある。記念館に入ると本の数の多さに吃驚。人が死ぬまでに読める本の数ではない。
1日1冊の計算。年365冊。10年で3650冊。30年で約1万冊。2万冊となれば60年かかることになる。記念館以外の自宅にも数万冊あるという。司馬さんは速読で有名。ペ-ジをカメラの眼でとらえていたと言う。司馬さん以外にも多読?の人をあげると、井上ひさし氏・立花 隆氏などの名前がうかぶ。
司馬さんは作品書くとき、厖大な資料を読んだ。ある時、神田の古書店ら関係する本が消えたという有名な伝説がある。
筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」。全集本は評論、随筆等をふくめ(全68巻)という数の多さ。
司馬作品には長編ものが多い。・坂の上の雲・翔ぶが如く・竜馬がゆく、世に棲む日日 ・国盗り物語・胡蝶の夢等々
短編小説もいい。 司馬遼太郎短篇全集(文藝春秋)の 7巻と8巻は内容が幕末物である。司馬さんの幕末ものはいい。
7から ・虎徹 ・土佐の夜雨 ・上総の剣客 ・千葉周作
8から ・逃げの小五郎 ・沖田総司の恋 ・最後の攘夷志士 ・桜田門外の変 ・菊一文字 <鈴木慶治>
星野道夫 1952-96年
石川直樹 1977-
星野は自分たちとほぼ同世代で、石川は自分の子どもの生年と同じ。
二人は親子ほどに年齢が違う。二人に直接の出会いはない。星野道夫がロシア・カムチャツカ半島でヒグマに襲われて死去するのは1996年、この年石川直樹は大学1年。夏にカナダとアラスカにまたがるユ-コン川下りをカヌ-を使って実現させる。その後押しとなった雑誌が「星野道夫の追悼特集号」である。
「雑誌のペ-ジをめくっていくうちにずどんと重たいものが身体の中に落ちてきた。・
頭の中にはアラスカの原野に吹く風やユ-コンの大いなる流れが渦巻きはじめた・・」
「星野さんの著作を読んでいくと自分の進むべき道が・・ユ-コン川下りをなんとしてもやり遂げようと心に誓った」 (石川直樹・極北へ
から)
<・石川直樹のプロフィ-ル> 植村直己に続く若き「冒険家」である。
東京生まれ/高校時代17歳。インド、ネパ-ルを一人旅。以来世界中を旅する。
2000年 地球縦断プロジェクト参加。23歳。 北極点から南極点を人力踏破
2001年 チョモランマに登頂。24歳。当時の世界七大陸最高峰最年少記録。
2011年 チョモランマに再登頂
写真集 CORONA 第30回 土門 拳賞受賞
輝かしい経歴を若年で残している。このあと何をするのか大いに気になる。
<・星野道夫のプロフィ-ル>
千葉県棲まれ/16歳、ブラジルへ向かう移民船で横浜港を出発
1968年 16歳。アメリカ大陸を3ヶ月かけてヒッチハイク。
(大学1年時に神田の古本街で1冊のアラスカの写真集と出会い感動。)
1972年 19歳。アラスカ州シシュマレフ村長宛てに手紙。半年後に返事がくる。
1973年 20歳 アラスカ州シシュマレフ村に出発。3ヶ月エスキモ-家族と生活を共にする。
(大学卒業後、動物写真家の助手を2年間)
1978年 25歳 アラスカ大学野生動物管理学部に入学
16歳で移民船にのってアメリカに行き、3ヶ月かけ大陸横断。何という行動力。凄い・・。
<・共通点>
ふたりともとも16、17歳という年齢で海外への一人旅をはじめた。星野はアメリカへ。石川はインドへ。
ふたりとも「写真雑誌」に大きな影響を受けている。自らも写真を撮り多くの「写真集」を出している。
<心に残る言葉>
「人を寄せ付けないありのままの自然に身をさらしていると、えもいわれぬ喜びが湧き上がってくるのはなぜだろう。何ごとも自分の目で見て、実際に身体でその土地の空気を取り込みたい。旅の空の下で流れる風を感じていたい。」 (石川直樹・この地球を受け継ぐ者へ)
昔、電車から夕暮れの町をぼんやり眺めている時、開けはなたれた家の窓から、ふっと家族の団欒が目に入ることがあった。そんなとき、窓の明かりが過ぎ去っていくまで見つめたものだった。そして胸が締め付けられるような思いがこみ上げてくるのである。あれはいったい何だったのだろう。見知らぬ人々が、ぼくの知らない人生を送っている不思議さだったのかもしれない。同じ時代を生きながら、その人々と決して出会えない悲しさだったのかもしれない。・・ぼくはどうしても、出会いたいと思ったのである。 (星野道夫 ぼくの出会ったアラスカ)
星野道夫-「悠久の時を旅する」から
きっと人間には、二つの大切な自然がある。日々の暮らしの中でかかわる身近な自然、それは何でもない川や小さな森であったり、風がなでてゆく路傍の草の輝きかもしれない。そしてもう一つは、訪れることのない遠い自然である。ただそこに在るという意識を持てるだけで、私たちに想像力という豊かさを与えてくれる。そんな遠い自然の大切さがきっとあるように思う。私はいつからか、自分の生命と自然とを切り離して考えることができなくなっていた。二十代の初め、山で友人を失くしたことがひとつの引き金になったのかもしれない。そのことで、私はもっと自然が好きになり、近づきたいと思ったのだろう。
私は、厳しい自然条件の中でひたむきに生きようとする、アラスカの生命の様が好きである。それは、強さと脆さを秘めた、緊張感のある自然なのだ。
1945-
星野道夫が不慮の事故で43歳の命をとじた時、池澤はこう文章に書いた。
「彼(星野道夫)と一緒のアラスカはもうない。 ぼくは、ぼくたちは、彼を失うと同時に、彼が全力で表現していたあの壮大で美しい緊張と陶酔のアラスカの全体を失ったのである、」
1997年の5月(星野の死の翌年)には、一緒にブルックス山脈を小さな飛行機で越える約束をしていたという。
「残された者は、彼の言葉を伝え、写真を伝え、彼の生き方を伝えなければならない。星野道夫という人物の仕事を、アラスカから最も大事なメッセ-ジを運んだ使者の仕事を残された者が継がなければならない。」-と書いた。
沢木耕太郎の作品
「旅の窓」から
どこか遠くを見ている。たとえそれが老人であれ子供であれ、ここではないどこか遠くに視線を投げかけている人の姿を見ると胸が締めつけられたような思いをするときがある。
ヴェトナムはホ-チミンのフェリ-で、乗客にガムを売っていた少年が、不意に商売道具をかたわらに置きどこか遠くを眺めはじめたことがあった。何を見ているのだろう。彼に何があったのだろう。・・その少年の姿から眼を離せなくなってしまった。彼の寂しげな姿には、やはりどこか遠くを眺めていたことがあったはずの幼い私の、遠い昔の寂しい姿を呼び起こす何かがあったのだ。
沢木耕太郎 -琴線に触れる-
左 池澤夏樹著 うつくしい列島 表紙 岩手県・北山崎
沢木耕太郎
1947年・東京生まれ
79年 大宅壮一ノンフイクション賞 32歳 テロルの決算
82年 新田次郎文学賞 35歳 一瞬の夏
85年 講談社エッセイ賞 38歳 バ-ボン・ストリ-ト
2005年 菊池寛賞 58
2006年 講談社ノンフィクション賞 59歳 凍
2013年 司馬遼太郎賞 66歳 キャパの十字架
案外と知られていない話。沢木さんは大きなショルダ―バックひとつで旅をしている。
そのバックは誰あろう、高倉健さんからいただいたものとのこと。
-深い海の底に-(新潮社刊「銀河を渡る」)健さんとの交流があったかい筆致で書かれている。 2019.4.12
「旅の窓」は写真家でもある-本人は否定するだろうが-沢木耕太郎の作品。写真とその時の思いが見開きの左右で読むことが出来る。読者も筆者とともに旅している思いになる。
池澤夏樹
1945年北海道生まれ
うつくしい列島
「まずはしばらく黙ってこの美しい風景を見よう。・・見ていてとても心地よい。日本人の美のセンスにぴたりと会った、何も考えず見惚けるだけでいいと思わせる風景。」
三陸海岸入り組んだ海岸線の美しさ-のはじめの言葉。この本の表紙にも使われた、北山崎は断崖絶壁で近寄りがたい感がある。自分はこの場所を船上から2度ほど見た。写真を見ただけで買ってしまった。
石牟礼道子(1927年3月11日 - 2018年2月10日)
他人の痛み苦しみを我が事として引き受けること、こうした精神戦の激しさに立ち向かう活力をこの本「苦海浄土」は与えてくれる。人の存在意義と目的について考える人へ。(アマゾンの書評)
水俣の不知火海に排出された汚染物質により自然や人間が破壊し尽くされてゆく悲劇を卓越した文学作品に結晶させ、人間とは何かを深く問う、戦後日本文学を代表する。三部作。 同上
池澤夏樹は世界文学全集(個人選集)の1冊に「苦海浄土」を選んだ。日本人ではただこの1冊。
加害と受難の関係を包む大きな輪を描いてその中で人間とは何かを深く誠実に問いた。と語る
自身の存在を超え、生死の境をも超え、人の根源的な存在がなにに支えられているのか照らし出した。
単行本: 780ページ 何というぺ-ジ数か。
出版社: 河出書房新社 (2011/1/8)
苦海浄土は患者とその家族たちが陥ちこんだ奈落-人間の声が聞き取れず、この世とのつながりが切れてしまった無間地獄を描きだしている- 石牟礼道子の世界 渡辺京二
2019.4.18
永井隆・「この子を残して」。
永井誠一・「長崎の鐘はほほえむ」-残された兄妹の記録
「この子を残して-この世をやがて私はさらねばならぬのか!」
母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?。」 永井隆
「カヤノ、お母んが帰ってきたぞ、はやく来い。お母さんが待っとるぞ、いそげ、いそげ!-と、大きな声でカヤノを呼びに行くことはできませんでした。お母さんは変わりはてて、カンの中に詰まっいる。あたたかさもない、無言の骨なのです。・・カヤチャンノオカアサンハドコニオットヤロウカネといって、待ちわびている幼いカヤノに、どうしてこんなに悲しい発見を知らせ、対面させることができるでしょうか・・」永井誠一
<兄のまこと10歳 妹のかやの4歳の夏>
永井隆 1908-1951 43歳
永井緑 1907-1945 38歳
永井誠一 1935-2001 66歳
筒井茅乃 1941-2008 66歳
「この子を残して」他 永井隆氏の著作-は青空文庫で読めます。
大石芳野
写真家である。骨太で重厚な作品。テーマがとても深くて重い。
女性である。どの本にも生年が書かれていない。2019.4.放送・日曜美術館でご本人の素顔と肉声に初めてふれた。撮影した写真の重さとはことなる印象。穏やかな物言いをする方。75歳とご本人が言っていた。2019-75・・。終戦時は1~2歳であられたのかな。
大石さんの本が、手元に10冊ある。刊行順 鈴木慶治個人蔵
・「夜と霧は今」 1988.12.15 発行
・「HIROSHIMA 半世紀の肖像」 1995.3.03 初版
・「夜と霧をこえて」
-ポ-ランド・強制収容所の生還者たち1998.9.20 第1刷
・「アフガニスタン 戦禍を生きぬく」2003.10.30 初版
・「子ども 戦世のなかで」 2005.10.20 初版
・「大石芳野 鶴見和子 魂の出会い」2007.12.30 初版
・「戦争は終わっても終わらない」 2015.7.30 初版
・「大石芳野 永六輔 レンズとマイク」 2016.4.10 初版
・「戦禍の記憶」 2.19.4.03 第1刷
・「長崎の痕」 2019.4.10初版第1刷
戦争や内乱、急速な社会の変容によって傷つけられ苦悩しながらも逞しく生きる人々の姿をカメラとペンで追っている-紹介文より
ヒロシマ-爆心地から半径500メ-トル圏内。そこに生存者がいたという事実は驚きであり、その方々の写真をとり被爆証言を掲載した大石さんの写真集「HIROSHIMA 半世紀の肖像」の仕事は敬服に値する。2万1000人がいて、78人の生存が1969年時に確認されたという。この事実をこの本を目にするまで知らなかった。
爆心地から半径500メ-トルというのは、殆ど即死状態であると認識してきた。地表面温度が4千度近い中で生き延びることは常識的にも無理な生存条件である。驚きの事実である。
「夜と霧の今」は、アウシュビッツからの生還者にインタビュ-した本である。これだけでも凄いことなのに、その人々の写真まで掲載している。大石芳野の写真は、生還者に寄り添ってなんてあまい言葉では語れない、緊迫した状況で撮られている。二度と戦争の悲劇を起こしてはならない、自分たちの責務を強く感じる。
大石芳野さんの対談相手は、なんと永六輔さん。40年来の友人だそうです。若かりし日の小沢昭一、野坂昭如、中山千夏 の面々が武道館で歌っている写真もあります。2019.5.4は大石さんの写真展を見に恵比寿・東京都写真美術館に行く。
大石芳野 写真集 「子ども 戦世のなかで 」
1980年から2003年にかけて各地で撮影。ベトナム・カンボジア・ラオス
アプガニスタン・チェルノブイリ。
大石芳野さんの言葉を抜粋してみよう。-
「戦禍に巻き込まれながらも、子どもたちは小さな体で必死に家族を気遣う。・・飢えや困窮、病気、寒さや暑さ、さまざまな虐待、弾丸の雨・・想像しただけでも震えがくる過酷な状況がかれらを襲う。・・
心の闇の深さは想像を絶するものであろう。時に深く憂いつつ、時に涙声になりながらも、そして崖縁に立たされたような表情をしながらも、子どもたちは語りはじめる。・・悲しみや苦しみ、絶望などを押し殺しながら笑みを浮かべて、懸命に生きようとする。そのなかで垣間見せる異様に大人びた表情とその奥に潜むやり場のない必死の視線・・。」その真剣で鋭い力を前にして、わたしはシャッタ-を押すたびに狼狽えてしまう。
2019.5.3
鶴見和子の評 「アフガニスタン 戦禍を生きぬく」より抜粋
女のカメラマンで戦場の写真を撮っている人は少ない。大石芳野さんはその数少ない女の写真家の一人である。
大石さんの写真は
1.戦争による女と子どもの運命に焦点をあてていること。
2.レンズを通して、自分の眼と、相手の女や子どもの眼とを、きっちり向かい合わせて、眼を通して、相手の心のあり方を深く探りあてていること。
3.おなじ場所に何回も立ち戻って、戦争による女や子どもらへの影響を個人史をとおして通時的にたどっていること。
ベトナムの子らの瞳凜と撮したる大石芳野の瞳は凜凜と
美しき女道端に坐りこみもの乞いすとうカンダハルの冬
2019.5.5
ベトナム レ-・ティ-・ハイさん80歳。解放軍兵士の夫と3人の息子、2人の孫を失った。1982年
コソボの紛争
父親を眼の前で銃殺され家も破壊された。ヴァドゥリンくん(9歳)の眼から涙が溢れ出る。2000年
大石さんの写真集・「戦禍の記憶」の中でも特に心打つ1枚である。
コソボ紛争・セルビア人側についたロマ人のギゼルさん(9歳)一家はアルバニア系に家をもやされた。
「何にも悪いことしていないのに」。1999年 マケドニア難民キャンプ 大石芳野撮影
国外の紛争状態について無知である自分がいた。インドシナ半島でどんな内紛、戦争があったのか、大石さんの写真にふれて自分の無知を痛感した。日本では、戦争がなかった平成がおわり、令和の時代もその継続を多くの人々は願っているという。しかし20世紀は戦争の時代であった。そして21世紀もまた戦争の時代が継続している事実を見落としてはいけない。自国の平和だけでなく他国にも眼を向けた平和観が強く求められている。 鈴木慶治
以下、カンボジアについて大石さんの言葉を引用する。
鶴見和子さんとの対談 「魂との出会い」から
大石芳野-
「カンボジアにも行っていましたが、凄まじい死の世界というか、殺害の世界というものを突きつけられて人間とは何なのかと悩みました。カンボジアのポル・ポト政権の大虐殺の傷が生々しいなかで、人間の顔から笑みというものが消え失せるとどういう表情になるかということを、見せつけられたという気がします。」
「1980.7初めてのカンボジア-国内で頭蓋骨が臭いを発している、殺されて埋められた人の遺体がまだ異臭を放っていた-ポル・ポト政権の4年間-その前のアメリカ群によるカンボジア戦争-人間の持っている魔性というか、そういうものを深く考えさせられました。・・そんな残虐なことを次から次へとやりのけられる人間と、私とはまったく違う人間なのだろうか・・思ったことは、私の中にもあるのではないのかと。それは人間だれの中にもある魔性みたいなものではないかというようなことを80年に感じたんです。」
-カンボジアのポル・ポト時代に餓死と殺害によって亡くなった人は200万人と言われる。
以下Wikipediaから引用する-
カンボジア内戦(カンボジアないせん)は、東南アジアのカンボジアで、1970年にカンボジア王国が倒れてから、1993年にカンボジア国民議会選挙で民主政権が誕生するまでの内戦状態をいう。カンボジア紛争ともいう
クメール・ルージュの指導者であるポル・ポトは、「都市住民の糧は都市住民自身に耕作させる」という視点から、都市居住者、資本家、技術者、学者・知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。彼らは農民として農業に従事させられ、多くが「反乱を起こす可能性がある」という理由で処刑された。
1991年10月23日、フランスのパリで「カンボジア和平パリ国際会議」を開催し、国内四派による最終合意文章の調印に達し、ここに20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。
ポル・ポトは、裏切り者やスパイの政権内への潜伏を疑ってパラノイアを強め、医師や教師を含む知識階級を殺害するなど、国民に対する虐殺が横行した。やがて虐殺の対象は民主カンプチア建国前から農村に従事していた層にまで広がり、カンボジアは事実上国土全域が強制収容所化した。このような大規模な知識階級への虐殺、あるいは成人年齢層への虐殺に加え、ポルポト側が「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で無垢な子供を重用するようになったため、国内には子供の医師までもが現れて人材は払底を極めた
1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死去した。しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もある。遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後、そのままその場所に埋められた。火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が立ち会った。後妻と娘は「世間が何と言おうと、私達にとっては優しい夫であり、父でした」と語った。埋葬直後には墓は立てられなかったが、のちに墓所が建てられた。墓碑などはなく、粗末な覆屋の看板に「ポル・ポトはここで火葬された」とのみ記されている。
大石芳野さんから2人の女性戦場カメラマンが思いうかんだ。「ライフ創刊号表紙」を飾った伝説的なカメラマン、マ-ガレット・パ-ク-ホワイト。ロバ-ト・キャパとともに戦場で写真を撮り、26歳という若さで戦死したゲルダ・タロ-。
二人の勇敢な?女性カメラマンとなぜか大石芳野さんが重なって見えた。むろん作風はかなり異質である。 鈴木慶治
マ-ガレット・パ-ク-ホワイト 1904-1971 享年67
ゲルダ・タロ- 1910-1937 享年26
マ-ガレット・バ-ク-ホワイト、雑誌「ライフ」とともに生きた女性写真家。彼女の前に-歴史に名を残した女の写真家はいないと言える存在である。彼女の前に彼女なし。日本の写真家にも彼女の名前は非常によく知られていた。鈴木慶治
「写真随筆」に書かれている土門拳の言葉-。
「世界の女性写真家のNo1。現在(昭和23年時)アメリカ人で彼女の名前を知らない人はない位に権威的存在になっている。ヒュ-マニズムに立つ政治的な報道写真に先人未踏の境地を開拓した。作品だけを見たのでは撮影者が女性であるとはとても考えられない程堂々たる迫力のある、みじんも甘さのない仕事である。世界を股にかけ民衆の生活とそれを決定する政治の在り方にカメラを向けている。・・彼女が1週間も出帳してくると「ライフ」の編集部の机の上に三千枚位の密着写真をドカッと投げ出すそうである。カメラを以つてしては最も困難な政治的テ-マを見事に消化している点、彼女の感覚や技術はもとよりながら、何よりもその知性の高さに敬服すべきであろう。」
ゲルダ・タロ- 1910-1937
ゲルダは近年まで多くを知られることのなかった女性である。ロバ-ト・キャパの恋人としてのゲルダであり、写真家としての知名度はほとんど無いに等しかった。そこにイルメ・シャ-バ-(1956-)の「ゲルダ」1994年刊が現れた。ゲルダの死後、実に57年の歳月がながれた後、世に出た最初の評伝である。日本語訳はさらに21年をへた2015.11.10 初版第1刷が祥伝社から発行された。実に82年の歳月が流れた。 鈴木慶治
序章-ゲルダを探して-から
「ゲルダ・タロ-は20世紀戦争写真の黎明期に位置する写真家である。戦争取材中に殉職した最初の写真家として世界中の注目を集め、また女性写真家という新領域を開いたのもタロ-だった。・・ゲルダ・タロ-は、時代の核心を映像にとらえた写真家だった。ヨ-ロッパ最初の爆撃戦のはざまで。ナチス・ドイツからの亡命者ゲルダは、個人的体験と社会状況の緊張関係の中で近代フォトジャーナリズムのプロトタイプへと変貌を遂げた。・」1910年夏、ドイツ・シュトゥットガルトのユダヤ人家庭に生まれた。ユダヤ人という出自は、彼女の一生を考えるうえで外すことができない。それは重荷であり、エネルギ-でもあった。
1937年7月24日・暴走する戦車に轢かれ、翌25日に死亡。27歳の誕生日1週間前のことであった。小柄でたいへんな美人であったという。ゲルダの一家は、ホロ-コ-ストの犠牲となったという。 鈴木慶治
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ゲルダ・タロ-の死を悼んで捧げられた詩がある
詩 ルイス・ペレス・インファンテ
ゲルダよ/たとえ君が死んだとしても/
永遠の若者として/ぼくらの中に生き続けることだろう/
君はずっと/五月の朝に咲きほこる/満開のバラのままだ/
のちに遠く離れたバラの茂みで/踏みにじられた姿を見つけようとも/
赤みがかかった金髪/風に立ち向かう微笑みは美しい花のよう/
弾丸に抗って/戦闘シ-ンをカメラに収めた/
ゲルダよ/ぼくらに勇気をくれる君はもうこの世にいないけれど/
ぼくらの心に生き続けるだろう/・・/花のように美しい君は/
何よりも強かった/ぼくらはそう信じている
ロバ-ト・キャパ (1913-1954)40歳 本名は エンドレ・エルネ-・フリ-ドマン。ハンガリ-のブタペスト生まれ。
・伝説的な戦場カメラマン ・数々の傑作を世に残した戦場写真家 ・ゲルダ・タロ-を生涯愛した男
・イングリット・バ-グマンを恋人に持った男 ・ヘミングェイをパパとよんだ男
・ベトナムの地で地雷をふんで死んだ写真家 ・酒と博打と女が大好きだった男・・
鈴木慶治 連絡先 kegi3goodboos0820@docomo.ne.jp