八戸えんぶり16.17
二月の八戸市に雪が降ることは決して多くはないのだが、毎年「えんぶり」の時期には雪が舞うという。大きな烏帽子を前後左右に大きく振る太夫の動きが特徴的だ。太夫たちが舞い踊るとき、農業の神が烏帽子に降臨するという。「えんぶり」とは田にとっての一番の大敵である寒さの中で行われる豊作への祈りである。かつて東北地方一円で行われていた「えんぶり」は今、この地にしか残っていない。江戸時代には「南部」と呼ばれたこの地は、たび重なる冷害飢饉に襲われ、稲作に苦しみ抜いた。稲作に適していないこの地で豊作への祈りが切実なものだったからこそ「えんぶり」が子孫に伝承されてきたのである。・・・1993年、戦後最大といわれる凶作がこの地を襲ったことは記憶に新しい。近世におけるこの地の人々のくらしはもつと過酷だつた。八戸地方では、ほぼ3年に1度は冷害のため凶作と飢饉にあってきたという。この地方を襲った悲劇を今に伝えるものとして、餓死供養塔がある。飢饉によつて亡くなった人たちの霊を供養するために建てられた石塔である。八戸市だけでも十数基残っている。餓死供養塔が近隣の町村よりも八戸市に残っているのは、城下町だったためだという。他の地域に比べてまだしも裕福だったので、供養塔を建てることができた。近隣の地域では、ひとたび飢饉に見舞われるや、供養塔を建てるどころか、そもそも人が全滅した所もあったらしい。八戸で亡くなった人の多くはそうした近郊から、せめて城下に出ればという思いで這うようにやってきて、行き倒れになったという。供養塔の下には数百人の餓死者の霊が眠っている所もあるという。-NHKスペシャル 司馬遼太郎の風景1-時空の旅人・街道が語る日本の道筋 豊作への祈り・八戸えんぶり
私がこの地を訪れたのは2016年と翌年の2月で-確かどちらも雪が降っていなかった。「えんぶり」会場になった神社、広場、街中、根城にも、雪が舞う場面はなかった。
鈴木慶治
更上閣 お庭えんぶり 2016.2.13
長者山新羅神社 奉納えんぶり 2017.2.17
祭り広場 2017.2
八戸市公会堂 えんぶり公演 2017.2
八戸市根城 2017.2.17
奉納えんぶり 2017.2.17
みろく横町 2017.2
更上閣 お庭えんぶり 2017.2
更上閣 お庭えんぶり 2016.2.13
えんぶり祭り (青森・八戸)
えんぶりとは、初春の神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われる予祝芸能の一種である。2月17日早朝に30組を越える「えんぶり組」が八戸市長者山の長者山新羅神社に詣でた後に同市の商店街で一斉摺りを行い、その後更に近郊農村部を門付けして巡り、20日までの4日間に亘って同市内の各所で演じられる。
現在では観光的要素の大きい行事となっているが、元々は儀礼性の濃い田楽(田植踊)の一種であるとされる。先端に鳴子板や金輪をつけた「ジャンギ」と呼ばれる棒を持って踊られるが、このジャンギが田植え前に田を均すのに用いる柄振・朳(えぶり)という農具に起源も持つものであるために「えんぶり」と呼ばれるようになったと伝えられる。
農作業に活躍した馬の首を象り鶴や亀等の瑞獣を描いた長大な烏帽子を被った3人から5人の「太夫(たゆう)」という踊り手が、笛と太鼓、手平鉦による囃子と祝言風に田作りの情景を唱う歌に合わせて、首を傾け傾けしつつジャンギを地面に突き立てたり地面を摺るようにして勇壮に踊り、編成は太夫を始め囃子方、唄い手など総勢20~30人から成る。
「摺り始め」「中の摺り」「摺り納め」から構成され、各合間に「松の舞」、「恵比須舞(えびすまい)」、「大黒舞(だいこくまい)」等の祝舞(しゅくまい)や、田植えの様を滑稽に演じる「田植万才」、曲芸風の「金輪切」、厚化粧を施された児童(稚児)による「エンコエンコ」等の余興舞が挿入される。
また、踊りは動きがゆっくりとした「ながえんぶり」と拍子の速い「どうさいえんぶり」に二分されるが、途中で「ごいわい唄」が入り、「神酒いただき」のある「ながえんぶり」が古い型であるという。また、どうさいえんぶりの烏帽子には、「前髪」というテープ状の房がついている。ながえんぶりの烏帽子には前髪は無く、リーダー「藤九郎(とうくろう)」のものにだけ、ボタンまたはウツギの花がついている。
八戸えんぶりは、八戸地方に春を呼ぶ郷土芸能。国の重要無形民俗文化財に指定されており、みちのく五大雪まつりに数えられています。 えんぶりは、その年の豊作を祈願するための祭りで、太夫と呼ばれる舞手が馬の頭を象った華やかな烏帽子を被り、頭を大きく振る独特の舞が大きな特徴です。その舞は、稲作の一連の動作である種まきや田植えなどの動作を表現したものです。また、えんぶり摺りの合間に行われる子供たちの可愛らしい祝福芸も、見る者を楽しませてくれる。