本の旅Ⅴ

高倉健 -映画と本

2020.11、記
健さんと映画
-1960年代後半から今に至るまで最も印象に残る俳優さんといえば、「高倉健」・健さん<1931-2014>である。この時期(60-70年代)、健さんは数多くの作品に出た。当時最高に多忙な俳優さんだったと思う。月1本以上の封切り。年間で12本~。多い時は18本。「残侠伝」シリ-ズ(昭和残侠伝)が9作、「侠客伝」シリ-ズ(日本侠客伝)11作、「網走番外地」18作。この3シリ-ズだけでも1964-1972・の8年間で合計38作品。(因みに「男はつらいよ」は1969-1995・27年間で48作品・渥美清死後の特別編をのぞく)。高倉健の主役なくしては成り立たない映画ではあった。年齢的にも33歳~41歳で最も精力的でエネルギッシュだった。昭和残侠伝シリ-ズは唐獅子と牡丹を背中(刺青)にして、池辺良さんと敵地(死出)に赴くシ-ンが強く印象的である。日本侠客伝の中で印象に残るのは「花と龍」1969。相手役は東映の女優さんでなく星由里子(1943-2018)。若大将シリ-ズでは絶対に見ることの出来ない役、沖仲仕、健さんの女房・マンを演じた。1972年の「望郷子守歌」でも共演。こちらはきっぷと度胸の良い姉御の芸者役であった。他に1971年「新網走番外地」シリ-ズ7作目・吹雪の大脱走、1972年「昭和残侠伝」シリ-ズ第9作目、最終作・破れ傘でも共演。健さんはこの時期、内田吐夢監督、中村錦之助主演・「宮本武蔵」全5部作の3作目の二刀流開眼(1963)から、佐々木小次郎役でも出演している。自分自身、全ての作品を見たといいたいところだが、半数以上は確実に見ていたかと思う。
健さんの東映時代(1956-1976)の20年間の映画出演本数は170本。フリ-後の作品を含めると生涯の出演作品は205本である。東映作品が約8割をしめる。フリ-後に出演(殆どが主演)した映画作品は、数こそ少ない(年に1~2本)が話題作ばかりだ。「君よ憤怒の河を渡れ」1976・「八甲田山」1977・「幸せの黄色いハンカチ」1977・「冬の華」1978・「野生の証明」1978・「動乱」1980・「遙かなる山の呼び声」1980・「駅」STATION1981「海峡」1982・「南極物語」1983・「居酒屋兆治」1983・「夜叉」1985「海へsee you」1988「ブラック・レイン」1989・「あ・うん」1989・「ミスタ-ベ-スボ-ル」1993「四十七人の刺客」1994・「鉄道員」1999・「ホタル」2001・「単騎、千里を走る」2006・「あなたへ」2012などである。テレビドラマの作品は映画に比べて数は少ない。「ぼんぼん頑張る」1956・「あにき」1977・「チロルの挽歌」1992・「これから海辺の旅人たち」1993・「刑事 蛇に横切られる」1995・。書き残した作品も幾つかある。-鈴木慶治


「高倉健の背中」 大下英治著 令和2年11月20日 初版第1刷 祥伝社発行
はじめに・から
-高倉健の7周忌が巡ってきた。そうか、高倉が平成26年(2014年)11月10日になくなってから、もう6年が経つのか。高倉の最後の映画「あなたへ」の公開が平成年24年8月25日だから、彼がスクリ-ンから消えて8年にもなる。しかし、スタ-高倉健の存在感は、いっそう強さを増していく。・・・倉本聰が高倉健について語った言葉が思い出される。
「失われたものが、理想型みたいにして、現存しちゃったんですね。ぼくは、あの人こそ、無形文化財だと思う。変な言い方ですけど、日本がどんどん変わっていく中で、変わらない象徴みたいだし、特に男っぽさというか、日本の男子でしょうね」令和になり、昭和ははるかに遠くなり、平成も去り、日本はどんどん変わりゆく。日本の男子・高倉健の背中が、いっそう愛おしく感じられる。
遺作となった「あなたへ」の次回作はタイトルが「風に吹かれて」-熊本で増殖いすぎた獣を撃って暮らしている元警察官のハンタ-が主人公で、脚本も平成26年3月に完成。阿蘇や熊本周辺へのロケハンも3回していた。平成27年の春スタ-トの阿蘇山ロケから撮影を始める予定であったという。監督・降旗康男、キャメラマンは木村大作。監督の降旗康男は2019.5.20に逝去。享年84歳

 

久世光彦 「大遺言書」語り森繁久弥 文久世光彦 2003.5.25 新潮社発行
「1960年代の後半のことだった。私はそのころ、東映の<任侠映画>に凝っていて、土曜日の深夜から朝まで、新宿や池袋の映画館で<唐獅子牡丹大会>とか<日本侠客伝大会>とかいう5本立て興行を毎週見ていた。どれも、役者の顔ぶれも筋立てもおなじようなものだつたが。健さんや鶴田さんの後ろ姿に漂う孤独の影と色気に痺れて、通いつめたものだつた。ちょうど60年安保と70年安保の狭間で、客席は学生たちでいっぱいだつた。半分の学生は眠っていたが、半分はかけ声入りの熱狂ぶりで、いよいよ殴り込みのシ-ンになって健さんの<義理と人情を計りに>という主題歌が場内に流れてと「よし行けッ」とか「許すッ」といった裂帛のかけ声が飛び交った。彼らは健さんの虚無的な無表情に自分の姿を重ね合わせて見ていたのだろう。
川本三郎 「映画の戦後」七つ森書館刊
「高倉健のやくざ映画を熱狂的に支えたのは全共闘運動に加わった学生たちだ、とよく言われる。確かにそういう面はある。・・しかし、高倉健にひそかに拍手を送ったのは学生だけではなかったと思う。やくざ映画をもうひとつのプロレタリア文学ととらえると見えてくることだが、高倉健の汚れてしまった悲しみをもっとも身近に受け止めたのは、当時の未組織労働者ではなかったか」。
横尾忠則-NHK-BS「ザ・プレミアム 拝啓高倉健様
「最初は水商売の人とか職業不明の人が多かった。それがいつからかサラリ-マン、学生が多かった。その学生が画面に向かって妙なシュプレヒコ-ルを上げるようになった」

鈴木-自分にも同一時期、同一場所での体験がある。久世さんは30代半ばか。場所は池袋・「文芸座地下」。ねている側にはいなかつた筈だが、かけ声をかける側でもなかった。プロレタリア文学との関わりなど考えたこともなかったし、まして健さんに汚れた悲しみなど考えたことはなかった。・・・早朝、映画館を出るときは、まだ心の高ぶりがおさまらず、かといつて体の方はだるく、なぜかやるせなかった。自分が10代最後の夏のことである。

自伝的な作品-少年時代の健さんを知る最適かつ貴重な本。

父のこと-カメラ好き、小田家の先祖のこと。

母のこと-躾に厳しい。学校の教師

優しい兄のこと

子どもの頃のこと-病弱、陸上部、ボクシング部、海外にあこがれたこと、夜汽車に乗って故郷の福岡を離れた・・・ことなど。

「南極のペンギン」は高倉健自身の朗読が付録のCDで聞ける。

「あなたに褒められたくて」-第13回日本文芸大賞エツセイ賞受賞
-高倉健の言葉
「母が逝ったとき、自分は告別式に行けなかった・。「あうん」の大事なシ-ンを撮影しているときでした・・・・葬式に出られなかったことって、この悲しみは深いんです。撮影の目処がついて、雨上がりの空港に降り・・・実家へ行く途中、菩提寺の前で車を停めててもらって、母のお墓に対面しました。母の前でじ-っとうずくまっているとね、子どものころのことが、走馬燈のようにグルグル駆けめぐって・・・僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、あなたがいやがってた背中に刺青を描れて、返り血浴びて、さいはての「網走番外地」、「幸福の黄色いハンカチ」の夕張炭鉱、雪の「八甲田山」北極、南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれました。別れって哀しいですね。いつも・・・。どんな別れでも・・・・。

池部良さんの本 1918-2010年 享年92歳
 
「昭和残侠伝」シリ-ズ全9作品に出演、風間重吉の役名は4作目から。健さんより13歳年上。最初、監督希望で映画界に入る。甘いマスクとスマ-トさで「万年青年」といわれる。1965年当時は日本映画協会会長を務めた。1983-2009年日本映画俳優協会初代理事長。戦後映画界復帰を高峰秀子が強くすすめたのは有名な話。
「山脈ヤマをわたる風」-Ⅰ <男ともだち、女ともだち> 憎たらしいが可愛い弟-鶴田浩二/魅惑の城-越路吹雪/嫌な野郎-佐田啓二/正論には毒がある-倉本聰/年下の先輩-高峰秀子/気になる人-芥川比呂志/そそられる女-カトリ-ヌ・ドヌ-ブ/牛蒡ゴボウといわれた男-の中で次のように俳優・高倉健を語る。  P80-
「僕は俳優だから、同業者の芝居を、どうのこうのといえる立場にはいないが、上手い、不味いは技術の差で、なんとも曰く言い難しだから、不味ければ黙っているし、上手くて感じが出ていれば「いいな」ということにしている。彼(高倉健)の芝居を見て、確かに、ぶっきら棒で、牛蒡みたいと思うけれど、「いいな」と口にしてしまうときがままある。映画俳優、殊に主役の場合、二通りの「在り方」があるようだ。一つは、役の人物を、デ-タを集めて創造し、それを自分の肉体に植え付けて演技する。自分自身とは全く別人格を作って演ずる俳優。二つには、役の人物の創造に頓着せず、自分の肉体の魅力を心得て駆使するか、自分の生活を役の人物に移して演ずる俳優。商業映画の俳優としては、どちらが正しく、どちらが善である、とは考え難い。映画俳優というものの演技が、観る人に感銘を与えるならば、どっちだっていい。・・・健ちゃんの存在は、二つめの分類に属するような気がする。・・・アメリカ映画の良さ、面白さは「アメリカン・ドリ-ム」の具現に花を咲かせ実を結ばせようとしたところにある。ジョン・ウェイン、ゲ-リ-・ク-パ-、クラ-ク・ゲ-ブル、ジェ-ムズ・スチュア-ト等々のスタ-たちは、「ドリ-ム」を夢見させてくれた。もし日本に、「ニッポン・ドリ-ム」というものがあるとすれば、それを具現させてくれる映画の主役は、もう君しかいない。君の私生活の知識はゼロだけれど、君が画面に現れるとき、君の、ものに対する純粋性、鍛えたバランスのいい体、下唇の出すぎが気になるが、あらゆることを真摯に受け止めているかに見える容貌は「ニツポン・ドリ-ム」を満たしてくれるに十分な映画俳優だ。こういう映画俳優は、健ちゃんが最後の人ではないかと思う。得がたい人だ。・・・たっての頼みだが、もう少しでいいから男の色気を出し惜しみしないでくれないかな。「和事」のできるなんて、すてきだと思うよ。」 付記-「昭和残侠伝」9作目・<破れ傘>1972年がシリ-ズ最終作。3年後の1975年に東映を退社する。

緒形拳さん 1937-2008 享年71歳 
-今村昌平監督の死 監督の言葉 「天に向かってエンギしてください」 哀しみを寂しさを乗り越えて、天を見上げる。-「地球徒歩トボトボ」

-死ぬってことはね、残った人の中で生きるってことなんですよ-「緒形拳からの手紙」

斎藤明美はその著作「最後の日本人」-で緒形拳さんのことを書いている。
「緒形さんは昔から、私の好きな俳優だった。人の好き嫌いというのは厄介なもので、理屈ではない。・・好きだから好きなんだ。私は苦労人が好きだ。自分が苦労なしに育った甘ちゃんだから憧れに似た尊敬の念を抱くのかもしれない。・・・苦労して、なおその苦労に染まらず、乗り越えてきた人。そんな人は、必ず"いい顔"をしている。厳しくて穏やかで、深くて強い。緒形拳はそんな顔をしている。・・・役者、殊に男優の良し悪しに容姿は関係ない。人生で培った"顔"がものを言うのだ。役者が人間として持つ力なのだ。・・・「汗水垂らして仕事がしたい」、こんな言葉が心底から言えるこの人が好きだ・」

古今亭志ん朝さん 1938-2001 の本 享年63歳

鈴木慶治-
志ん朝師匠は、確かにタレント噺家のはしりかもしれないが、それは役者にもあこがれていた志ん朝さん自身の気持ちの自然のながれであったと思う。獨協高校卒業後の希望は、噺家になる気はなく「外交官」になることであり、東京外語大学に進むことを目指した。19歳で父、古今亭志ん生に入門。真打ち昇進までわずか5年であった。役者修業も菊田一夫、三木のり平、演出の舞台にでたり、森繁劇団の芝居に参加するなどして遊びの芸では決してなかった。志ん朝さんは終生ドイツが好きで、休みがとれるとよく訪独したという。そして名代のジャズ愛好家でもあったという。しかし志ん朝は間違いなく「落語家名人・三代目古今亭志ん朝」であった。

近藤日出造 1908-1978 の言葉
「男前だとは聞いていたが、これほどの色男が、あの志ん生師匠のタネでできあがるとは意外だった。いや志ん生師匠も若いころは、水もしたたる美男だったかもしれない。ずいぶん女にモテた話を聞いているのだから。とすると、つまりこの朝太(志ん朝)君も、何十年後にはいまの志ん生師匠のような顔になり・・・・志ん生師匠、芸人としては「最高」の顔である。何十年後の朝太君の顔が、いまの志ん生師匠そっくりになれば、名人朝太ができあがっているということになる。並みたいていの修行で「志ん生顔」がつくりだせるものではない。朝太君は、親の名をはずかしめない素質の持ち主だそうで、将来の落語界を背負って立つ器、と期待されている。・・・若手には若手らしく、多少理屈っぽい話題をもちかけた。そして「頭脳上等」とわたしは折り紙をつけた。」 <もう一席うかがいます> から。 

京須偕充トモミツの文 1942- 「志ん朝の高座」から
三百人劇場の「志ん朝の会」には、ほんとうに雨がよく降った・・・古今亭志ん朝は自他ともに許す「雨男」だった。日本晴れのような高座には似つかわしくないことだが。2001年(平成13)10月1日、志ん朝の訃報は秋雨に煙る東京の街に流れた。やみそうでやまず、夕方近くになってようやく上がった雨だった。私は、やっぱり降りましたね志ん朝さん、とつぶやいた。それはしかし、いくらか古今亭志ん朝と縁があった者のつぶやきである。大部分の志ん朝ファンにとっては、あのそぼ降る雨は、天も喪失を嘆く涙雨だったにちがいない。10月6日の葬儀当日は打って変わって文字通りの日本晴れだった。その日、護国寺の門を出て行く柩の車に贈られた拍手が忘れられない。晴天の下、門の内外で葬列の車群を見送るおびただしい会葬者の中から、おそらく自然に湧き上がった、古今亭志ん朝への最後の喝采である。後尾の車の中で私は、かつて数々聞かされた志ん朝の決まり文句をそっとお返しした。思い出すことは種々あるが、耳にしっかりと残る第一のことばは、そして噺のサゲのように返せることばは、他になかった。
-まだ早いよ、志ん朝さん。・・・・・

「志ん朝の高座」から-
-古今亭志ん朝が志ん生に入門した1957年(昭和32)は、志ん生が落語協会の会長に就任した年・・・。ラジオがしきりに落語を流し"もはや戦後ではない"といわれた上り坂の世の中で、落語はブ-ムの様相を呈していた。・・古今亭朝太の日の出は速やかだった。59(昭和34)年に二ッ目、62(昭和37)年には三代目志ん朝と改名して早くも真打ち。・・・タレントとして、スタ-として、朝太-志ん朝が広く芸能界に売り出した・・テレビの飛躍に乗るようにして志ん朝も羽ばたいのだつた。が、志ん朝がどんなに落語の垣根を越えたスタ-であっても、その当時、落語の世界には大先輩たちが「名人上手」がひしめいていた。スタ-でも若手は若手。それが、この時代のものの見方だつた。そういう時代であっても、志ん朝の足跡は抜きんでていた。「東横落語会」で志ん朝が初めてトリをとったのは四十歳の夏(1978年8月30日の212回)である。・・それまで長らく交互にトリをとってきた圓生、小さん、馬生が中入り前に回り、志ん朝、圓楽、談志が後半を受け持つというので、その当時ずいぶんと話題になつたものである。」

高座の志ん朝師匠-

森繁久弥氏  1913-2009 の本 96歳 
15歳 ただぼんくらな坊主だった 
25歳 大地(満州)の大きさに、唖然とする許り 
35歳 ものの良し悪しの判断もなく、ただがむしゃらに働きかつ遊んだ 
45歳 仕事と酒と睡眠不足に 朦朧として生きていた  いたずらに早い歳月が私の足もとを流れ・・・自分の出ているテレビを見ながら・・・何といい加減な俳優だろうかと 砂を噛む思い許りがつきあげる  「人師は遭い難し」

高峰秀子さんは、森繁さんのことを次のように書いている。-「いっぴきの虫」から
「初めて見たのは帝国劇場の「モルガンお雪」の舞台であった。・・芝居も上手いが、それ以前にひどく魅力的な人間くさい俳優という印象をうけて同じ俳優としてビックリもしたし、楽しかった。・・・坂道を転がる雪ダルマのごとくゴロゴロと走り出し、二まわりも三まわりも大きくなりながら転がり通して、ついに日本映画界の"花も実もある大親分"になってしまった。この花も実もあるというところが肝心で、たいていの俳優は、花を開いても実を結ばなかったり、実はあっても花が貧弱だったりで、俳優としては及第点でも、話してみると上げ底、お粗末な人が多い。このごろの森繁さんをみていると、どうも中身が濃くなりすぎて、ヘナチョコ監督などでは歯が立たず、ただ圧倒されてひき下がり、あとには口をへの字に結んで、ちょっと困ったような森繁さんが孤独に立っている、というような場面が多いらしい。これは森繁さんのひとつの不幸だろうと思う。・・・・森繁久弥五十八歳。この可能性のかたまりは、いよいよ底知れぬ魅力を蓄えつつあるようだ。蓄えられたエネルギ-は、詩となり、文章となり、テレビに舞台にラジオにと発散されている。でも私は、現在の森繁さんのを映画でみたい。この俳優さんと四つに組んで土俵の上を飛びまわり、パッと砂煙りをあげるような映画監督よ、いったい、お前さんはどこにかくれているの?と私はじれったい思いである。」

高峰秀子さん 1924-2010 86歳
「いっぴきの虫」-まえがきから
「男の中には、いつもいっぴきの虫がいて、その虫があらゆる意欲をかき立てるのだという。虫が好く、とか、虫がいい、とかいう言葉はそんなところから来たのかどうか私は知らないけれど、それなら女の私の中にも虫がいるのか?と考えてみたが、私はもともと虫けらのような女だから、お腹の中にもういっぴきの虫を飼うなどという余裕はない。私は、私のトレ-ドマ-クにしている蝸牛、でんでん虫のように、自分の住所を背中にしょってモタモタと歩き続け、頭をツン!と叩かれると首をひっこめて住居の中に閉じこもり、またぞろ這い出してチョロッと仕事をしてはオマンマを食べてきた。この本に登場する方たちは、それぞれお腹に立派な虫を持ち、ひとすじの道を倦まずたゆまず歩き続けて来た優秀な人間ばかりである。・・幽明を境にした人もあるけれど、私はこれらの立派な方たちにお目にかかれた幸せを感謝すると同時に、私がいただいたお言葉のひとつひとつは、おそまつな私とは関係なく、この世に残しておかなければならないと考えて、あの世から戻っていただいた。1978年7月7日 高峰秀子

-大いなる皮肉と諧謔をこめたかに思える、見事な書き出しで、本文を読む前から唸ってしまった。人間そのものが大小、賢愚を問わず、「はかない虫」そのものであるか。-鈴木慶治

装丁画は安野光雅氏 

池部良さんはその著書「山脈をわたる風」の中で-高峰秀子さんのことを見事な文章で、こう記している。
「高峰秀子といえば、やはり敬愛する先輩としか言いようがない。本当は敬愛の「敬」を外しておいた方が、僕の気持ちになじむ気がするのだが、彼女は女優さんであり女性でもあるから、ただ「愛する先輩」と言うと、何かと誤解を招く恐れがある。もっとも秀子さんは、伊東深水とか歌麿の描く美人とはおよそ懸け離れていて、美人の類いには入れられない。すべてが丸い顔立ちは、かわいらしさが抜群であったにもかかわらず、いささか、色気の点に欠けていたようだから、僕が今日の日まで思っている「愛する先輩」の中には、男が女を愛する、あの感情は含まれていない。愛する。これは親しいと解釈しておいた方がいいのだが、「先輩に親しいなんて、馴々しいよ」とお叱りを受けそうだつたので、ならば愛の上に敬をくっつけておこうというわけ。だが、実際には尊敬するのも当然なキャリアと才能を持っている女優さんだから、「敬」の字を付けたとしても、あながち僕のお世辞だとも言い切れない。・・・年が5つか六つ下だから、先輩と言うのはおかしなことだが、何しろ芸歴が十何年も先だし、僕が大学を卒業して俳優になったとき、形式とはいえ俳優募集の審査員であったから、先輩と呼ぶ以外、なんて呼んだらいいのか見当がつかなかった。・・・」

山川静夫氏 1933-  の本
「私は、これまで半世紀にわたって歌舞伎を見続けてきたが、学生時代からなじんだ名優は、もういなくなってしまった。みんな恋しい役者ばかりだ。そしていま、その子や孫も、父や祖父の芸に恋い焦がれて闘っている。だから、歌舞伎は恋なのだ。・・歌舞伎は夢を見せる演劇である。歌舞伎役者は、さまざまな演技と美の追求によって、観客を夢の世界にいざない、恍惚とさせる役目を担っている。美しくてうまい役者は、たちまち観客の目をくらませ、とりこにしてしまう。ここに"ひいき"が生まれる。つまり、理屈ぬきで好きになってしまうのも恋に似ている。・・・歌舞伎の魅力の大きな要素のひとつとして、女形の存在がある。歌舞伎は男ばかりで演じる演劇だ。なぜ女を女性に演じさせないのだろう。歌舞伎の起源は慶弔8年(1603)、出雲の阿国なる女が京都の四条河原で、前衛的に傾いた踊りで人気を得た。そのかぶいたところから「かぶき」と呼ばれるようになったといわれる。しかし、その傾き集団は遊女のような役割を兼ねていたので、風紀を乱すという理由から幕府によつて禁止された・・・歌舞伎の女形は、単に女性の格好を真似しているのではない。仕草ひとつで、女性よりも女性らしい色気を発散させる。女形は常にひかえめで立役(男の役)を陰で支え、耐えている。女形は男が考えた理想の女性。女性はこうあってほしいという男の願いがこめられているからこそ女性以上に女性らしいといえるかもしれない。・・・」-山川静夫・「歌舞伎は恋」平成25年6月15日 淡交社発行 から

「勘三郎伝説」 関 容子  文藝春秋社
-まえがき
平成二十四年十二月五日早朝、「中村勘三郎さん五十七歳で死去」のニュ-スが全国を駆け巡った。その衝撃と動揺は、今もって薄れるものではない。あんなにも芝居を愛し、素晴らしい舞台を見せ、歌舞伎の将来を真剣に考え、周囲の人たちを深く愛した歌舞伎役者は、これから先、伝説の中にずっと生き続ける。そう願うしかない。
「役者の仕事って、水の上に、砂の上にじゃなくて水の上に、指で字を書くようなものなんだよ。書いたそばから空しく消えてしまう。・・・」勘三郎さんはよく言っていた。

板東玉三郎 1950.4.25生まれ 小学館
歌舞伎の家系に生まれたわけではない。幼いころから歌舞伎が大好きだった少年は、14代目守田勘弥に認められ、部屋子となった。それが立女形
板東玉三郎の始まりだった。
「お芝居は、小さい時から好きだったんです。幼稚園にも小学校にもなじめなかったし、テレビもあまり見なかった。4歳、5歳のころから歌舞伎座には通っていました。6代目中村歌右衛門さんの舞台「籠釣瓶花酔醒」の八ッ橋ははっきりと憶えています。布団の上で八ッ橋の死ぬ場面のまねをしていました・・・今思えば夢のようです。」-板東玉三郎

「こうして、海からの風にふかれていると、ほっとして、本来の自分に戻るような気がします。・・・こういう時間は本当に大事なんだと思います。
初舞台は、本当にうれしかった。7歳、小学校1年生の時。おさらいの会だと1日だけなのに、興行は25日間ずっと、でしょう。舞台に上がる前に、両親に「きょうも出られるの?」って聞いて。翌日になると、「きょうも? ずっと出られるの?」って。毎日、毎日、舞台に立てるなんて本当に夢みたいだった。ずっと女形に憧れて、芝居に憧れていたから。・・・「舞台に上がらない」ことが人生のストレスになる。だから、舞台に上がるためには万全の準備をするんですよ」-板東玉三郎

「演じるという事柄の中で、男が女になったり、ときには女が武装したり、性を倒錯させた表現が出てきます。女形という分野は、演劇の始まりには世界各地に存在したという歴史があります。ギリシャ悲劇、シェイクスピア、中国における京劇、東南アジアの芸能にもあり、沖縄の舞踊、そして現代において、はっきりとした様式として残っているのが、日本の能や歌舞伎における男性の演じる女性像、つまり女形です。何故、女形が現代の演劇様式の中に残ったか、あるいは何故、男性が女性像を表現するのか、ということを理屈や理論で説明することは、困難なことだと思います。なんとなく想像するならば、たとえばこういうことが言えるのではないでしょうか。芸術、または芸能に携わる事柄、つまりこの世の現実にないものを出現させること、それは、この世でない時空との交信ではないかと、想像することができます。他人を演じ続けることによって己が消滅し、そこには存在しない人物像が浮かび上がってくる。極端な言い方をすれば、理性という自分を操作する脳の働きだけ残し、それ以外はこの世にないものの魂が乗り移った人物ということができるとも思います。ある地域での神の声、あるいは宗教の始まりは、女性に乗り移ったあの世の魂がその女性の肉体をもって言動し、それを読み取る男性が人に伝えたという説があります。乗り移り、他人に伝えることの両方を1度に行うには、女性の魂と男性の理性的な読み取りを併せ持つことが必要なのかも知れません。・・・両性具有的な存在なり人格が必要になつてくるのだとすれば、女形というものが成立するのではないかと考えられるのです。・・・女形の修行は、女装した男が、その細部を女性に変換させながら、女らしく見える演じ方を身につけていくに費やされます。そして、最後に演じ手の想いを込めることで血の通った"女性像"が出現します。」-板東玉三郎

立松和平氏 1947-2010 享年 62歳

鈴木慶治-
人は大場政夫を「不世出の天才ボクサ-」と呼んだ。しかし大場の試合(昭和47.6.20・4度目の世界タイトル防衛線/48.1.2・・5度目の防衛戦)での闘いぶり?は決して天才の持つそれではなかったように記憶している。ほぼ同時代の自分(大場より1歳年下)は、リアルタイムで大場の試合をよく見ていた。世界戦での倒し倒されのダウンの応酬は精魂をこめた、死闘そのものであった。昭和24年10月21日生まれ。名門帝拳ジムに入門したのは中学を卒業した年、40年6月のことである。アスパラガスを思わせる、色の白い痩せた15歳の少年であったという・・・。5年後、両国日大講堂の世界タイトルマッチのリングに大場政夫は挑戦者として立っていた。向こっ気が強く負けず嫌い。相手が強ければ強い程、闘争心がわくファイタ-タイプのボクサ-であった。世界戦でも倒されれば倒し返すという、およそスマ-トとは言い難い試合を何度も繰り返す。見ている方にはスリリングでおもしろいということになるのだが、闘う側からすればまさに命懸け・・・例えはよくないが闘犬の姿に似て、闘う姿に悲壮感すら感じたものである。5度目の防衛戦からわずか、23日後、大場政夫の人生のテンカウントは、首都高速5号下り線で起きた。愛車に乗っての事故死-即死。・・・23歳という若さの思いがけないものであった。今も語り継がれるボクサ-という点では彼はまさに「天才ボクサ-」の一人になったといえるかもしれない。-

五木寛之氏 1932-  の本
鈴木-「親鸞と道元」・祥伝社 2010年11月初版発行 五木寛之氏と2010年に急逝した立松和平氏との対談本である。対談時五木さんは78歳。立松さんは15歳年下の63歳。立松さんは母方が曹洞宗。永平寺の機関雑誌に10年間で100回の連載後-「道元」上・下を刊行。原稿用紙にし2100枚の大長編。永平寺にての修行や法隆寺での15年かけての修行を実践する。五木さんは2009年に「親鸞」上・中・下を刊行。家が真宗。五木さんが親鸞や蓮如を読むようになるのは、金沢大学図書館の暁烏文庫で蓮如や親鸞、清沢満之の弟子、暁烏敏の「歎異抄講話」を読んだことがきっかけという。1970年頃のことである。その後1981年から執筆活動を一時休止して、龍谷大学の聴講生となり仏教史を学んだ。・・・近年は仏教・浄土思想に関心を寄せた著作が多い。二人の対談はお互いが惹かれる親鸞・道元についてその考え方なり、思想、現代的な意味などを熱っぽく語ったものである。第1章が私の道元、私の親鸞。第2章が戒律を守った道元、破戒した親鸞。第3章が「宿業」とは何か。第4章が親鸞と道元は、何が新しかったのか。・・・第6章なぜ、いま「歎異抄」なのか。第7章は宗教は何かの役に立つのか。第8章現代における道元と親鸞。それぞれが興味深い。あとがきは、この対談の後に急逝した立松和平氏を偲んでその追想文を五木さんが書いている。
平安末期から鎌倉期へと移行する時期はかつてないほどの社会の大変動期であり、鎌倉新仏教の祖-日本仏教の開祖-が数多く輩出している。
生年順に名をあげると、法然(1133-1212)・栄西(1141-1215)・親鸞(1173-1262)・道元(1200-1253)・日蓮(1222-1282)・一遍(1239-1289)などである。法然と親鸞の年齢差は40歳。親鸞と道元の年齢差は27歳。親鸞の他力、道元の自力というが、禅の世界では、自力、他力を越えた「自他一如」・・・があるとか。
五木-親鸞と道元が同時代に生きたということと同時に、両者に共通点があります。まず、両者とも比叡山に入った。それから幼少で母と別れた。上級、下級の違いはあれ貴族の出身であつた。そして中退して山を下りた。比叡山にいるときに非常に大きな疑惑というか疑義にとらわれた。疑いを心に抱いた。道元の場合には、山川草木悉有仏性といって、すべてのものに最初から仏性があるというのなら、改めてそこで厳しい修行をする必要があるのだろうかという疑義だつた。一方の親鸞の場合には、どんなに修行してもしても、仏に出会えない。常行念仏をやろろうと、回峰行をやろうと、仏の姿を見ることが出来なかった。・・そして煩悩が心身を苦しめる。どうしてもそれを乗りこえることができない。そしてついに山を下りる。・・・・

「梅原猛著作集10 法然の哀しみ」 小学館 2000年10月20日 初版第一刷発行
「もしも、数ある日本の仏教者の中から、もっとも日本的な仏教者をあげよといわれたら、私は躊躇なく法然と答えるだろう。なぜならば、法然を原点にして日本の仏教をながめると、ほぼ日本仏教の全体の姿を見渡すことが可能である・・・。鎌倉時代初期に法然という一人の宗教改革者が出現して、それにつづいて親鸞や一遍などの改革派の流れのうえに立つ仏教が興った。そしてこの新しい改革派の仏教に対して、古い伝統的な仏教、すなわち天台仏教を守れと、日蓮という熱血の宗教家が出現したのである。そのうえ、また禅という新しい仏教を中国から輸入しようとした栄西、道元などの宗教家があらわれたのである。この、法然が活躍し、それにつづいて親鸞、日蓮、栄西、道元などの宗教的偉人が続々と出現した鎌倉初期ほど、日本の宗教的精神が人と燃えた時代はあるまい。・・・鎌倉初期というのは、藤原氏がつくった律令体制という旧秩序が崩壊し、政治権力が交代する激動の時代であった。一時わが世の春を謳歌した平氏ははかなく滅び、長く巨大な権力を誇った上皇も過去の栄光を失い、政治権力が鎌倉幕府に移っていった時代である。旧体制は音もなく崩壊していったのである。その旧体制を支えた仏教もとっくの昔に別のかたちのひたすら名利を求める場所になっていた。そして乱れた世に、自衛の手段としての僧兵という武力をもつことによって、仏教はいっそう堕落した。そういう既成仏教に乱世を救う力はない。そこで、この未曾有の変革期に宗教改革運動が起こったわけである。法然はこの宗教改革運動のトップバッタ-であるとともにトップスタ-である。彼は性格においてたいへん温厚な人間であつたが、その理論の激しさにおいて少しも容赦なかった。・・法然の思想は水が低きに流れるごとく、上は上皇から下は一般民衆にまで浸透した。かの浄土真宗の開祖とされる親鸞は、「歎異抄」の中で、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」といっている。少なくとも親鸞自身の意識において、彼はあくまでも法然の忠実な弟子であった。・・法然の浄土念仏を歌と踊りで広めた一遍も、親鸞以上に法然の忠実な弟子であるといえる。」

「梅原猛の授業 仏教」2002.2.5・朝日新聞社発行
「西の文明は小麦農業を生産の基本ととしている文明です。小麦農業が始まったのは、およそ1万2千年前、いまのイスラエル地方で始まった。そして小麦農業が始まった少し後に牧畜が始まった。ですから西の文明は小麦農業と牧畜の文明ですね。その上にキリスト教が栄え、西欧文明、近代文明が栄えた。ところがアジアは違う。アジアは米農業。西の文明はパンとバタ-の文明だけれども、東の文明は米とお魚の文明。稲作がいつ始まったかというと、最近明らかになったことですが、1万4千年前で、小麦農業の発生より古い。・・・西の文明と東の文明はどのように違うか。小麦農業の場所で興った宗教と、米農業の場所で興った宗教とはどう違うのか。小麦農業というのは草原に発達した。草原に小麦の種をまくと、草原が肥沃な畑に一変する。雨はあまりいらない。森を斬って畑にすれば、たくさんの小麦がとれる。森林を伐採して畑にする。畑にならないところは牧草地にする。これが西の文明の形態です。・・・そして豊かになって人口が爆発的に増え、増えるとまた森がこわされる。それが西の文明の歴史です。いまそういう文明が発展したところは、ほとんど砂漠になった。中東からアジアの真ん中まで、ずっと砂漠地帯でしょう。ここは昔は砂漠じゃなかったんですよ。砂漠はあったけれども、わずかだった。どうして砂漠になったかといえば、森を切って農業をしたからです。牧畜をして、はじめは牛や羊を飼ったんだけど、地面が荒らされると牛や羊が飼えなくて、最後にヤギを飼う。ヤギは荒れた土地でも放牧ができるわけです。最後にヤギが木の株を食べて木をぜんぶ枯らしてしまうと、砂漠にならざるをえない。文明が緑を失わせている。文明が、この地域を砂漠にしたんです。その砂漠のなかから一神教、ユダヤ教やイスラム教が出てきた。不幸な自然破壊の歴史を追っている宗教だと思います。こういう農業形態から出てくる宗教では、どうしても人間が中心です。人間が植物を支配する。人間が動物を支配する。人間中心的な考え方なんです。ところが東アジアは違う。稲作農業だと、そんなに自然を傷めることはできない。なぜならば、稲作農業では雨が必要です。森林というのは水を蓄える。だから森林なしに稲作農業は成立しない。稲作地帯では人間が自然と共存するという思想が栄えるわけです。キリスト教と仏教の違いはそこですね。キリスト教やイスラム教は人間支配、人間中心主義です。キリスト教の考え方だと、人間は理性という神の似姿を持っている。神さまは理性の塊なのです。そういう神の心を人間が持っているというのが人間の理性なんです。人間以外の動物は神さまの似姿を持っていない。だから人間が動物や植物を支配するのは当たり前だいう考え方が、キリスト教の根幹にあるんです。仏教ではそれがない。人間中心主義ではない。世界には生きとし生けるものが共存している。それが仏教などの東洋の思想の考え方です。」
「空海に大変に影響を受けた。空海の本を読んで西洋のことだけ勉強していてもだめだと思った。日本のことを知らないとだめだ。なかんずく仏教を勉強しなかったら、哲学も力を失っていく。空海のおかけで、私は西洋の哲学の研究から日本の思想や文化の研究に変わったんです。」

永六輔氏 1933-2016 の本 享年 83歳
-永六輔+矢崎泰久  「生き方、六輔の」 飛鳥新社 平成14年10月8日 第1刷から
「かつて寺山修司が、職業について「寺山修司をやってます」と答えたエピソ-ドを聞いた時、ヤラレタと思った。僕も「永六輔をやってます」と言いたかった。」-永さんの肩書き、作家、歌手、司会者、テレビタレント、石垣市民大学学長、職人会顧問、ホスピス研究会会員、広域歴史学習団旗手、どんぐり団団長、日本胃カメラをのまない会会長、・・・・(肩書きが嫌いだと言っているのに・・・)。
「僕が普通の人と違うのは、実家が寺であるということ。あと、子供の頃は、ずつと病院に通っていてほとんど学校に通っていないから、遊び道具でも何でも、病院の中のものなんだよね。小学校の1年、2年が東大病院と幕張学園という施設。4年、5年の途中までが聖路加病院、それから学童疎開・・・。疎開先。疎開するときに「病院から出るつてことは死ぬことですよ」って言われて行っているのに、病院から出てから、病気治っている。だから、今だに近代医学も医者も信用していない・・・。中学生のとき、月謝を稼がなければならないから、いろんなアルバイトをしましたけれど、その中で一番よく稼げたのがNHKだったの。中学3年、2年の時か。昭和25年かな。台本とかコントなんかを書いていた。ラジオに応募して、それが採用されると300円くれたんだよ。大人が丸1日働いてニコヨン(240円)の時代に。(コントを書くヒントは寄席にあつたという。) 

岡部伊都子氏 1923-2008 の本 享年85歳

安野光雅氏 (1926- ) 斎藤明美「最後の日本人」から
「安野氏の実家は島根県津和野で宿屋を営んでいた。家の中には様々な"絵"があつた。泊まり客のために置いてある雑誌の表紙絵や挿絵、ガマに乗った仙人やケラケラ笑っている寒山拾得などが描かれた屏風絵、富山の薬売りが持ってくる食い合わせ絵、日めくり暦の裏にある大黒様の絵・・・・そんなありとあらゆる絵を「なんだ、こりゃ?」と飽かず眺める少年であった。・・・なるほどだから安野さんは絵本、風景画、本の装丁、はたまた平家物語とオ-ルマィティに描くのか。・・私は安野氏の絵が好きだ。いつの間にか自分の経験の中にしみ込んでいる。ボ-と霞むような欧州の山々、見ていると時を忘れてしまう小さな人間の営み、だまし絵・・・好きな絵というものは吸い寄せられる見てしまう。いつの間にかその絵に対して、心を開いているのだ。安野氏の絵は見る者の心を自然と開かせる絵だと、思う。私は安野光雅という人を思う時、"孤独"という言葉が頭に浮かぶ。ものを創る人の心の孤独。海外へのスケッチ旅行。36歳の時から40年余り。毎年、今でも年に数回ひとりで旅立ち、着くと迎えにくる人もなくひとりでレンタカ-を借りて走り回る。「-どこか絵を描く場所はないかと思って、つまり、どこかにいい娘さんはいないかと思って探しているのとちっとも変わらない。そして、会ったら胸をときめかしてそこを描くわけです。そうやって旅をしているわけです-・安野氏の言葉」 

鈴木-安野さんは司馬遼太郎氏の「街道をゆく」の挿絵を担当、司馬さんの死の直前までともに日本各地を旅した。
余談だが高峰秀子さんには、先生と呼び人間的に敬愛する人がいた。一人は司馬遼太郎氏。そしてもう一人が安野光雅氏である。偶然のことだが安野氏の弟の嫁サンは、司馬遼太郎氏の奥様みどりさんと同じ学校の同級生であり、ともによく相手を知る仲であったという。新田次郎氏のご子息藤原正彦氏が少年の頃、絵の先生だったのが安野光雅氏。ある時、安野先生は生徒におもしろい問題を出された。全生徒が正解を出せない中、藤原クンはたったひとり見事な正解を出したという。このことが後年数学者を目指すきっかけになつたというからおもしろい。人生の奇縁、機微を感じさせてくれる話だ。

安野光雅著「故郷へ帰る道」-忘れえぬ人-から 司馬遼太郎氏に対する思い。
「司馬さんは学校をさぼって図書館へ通った子だった。だから家は床が抜けやしないかと思うほどの本で埋まっている。司馬さんはその膨大な資料のいくつかをしぼつてジュ-スを作り、時として醸成させる。わたしたちがおいしいおいしいと言いながら飲んでいた「街道をゆく」は司馬さんが作ってくれたジュ-ス(もしくは酒)だったのだ。その「街道をゆく」の絵に関わったわたしは、おもうに虎の威を借りる狐だった。・・・司馬さんは、旧制高校時代のあの自由な青年達がうらやましかったという。その旧制高校生たちは、別れにあたってこの詩(王維の別離をうたったうた-西のかた陽関を出ずれば、故人無からん・・・)を高吟するのがならいだった。ああ、あの陽関を出ずれば、もうはてしない砂漠だ、蒙古は遙か西の彼方である。しかし、そんな遠くへいつてしまつたら、もうあなたを知っている人は無いんだから・・・・無からん無からん、故人無からん。無からん無からん、故人無からん。・・・・威を失った狐はなくしかないではないか。ありがとう司馬さん、毎日が本当に楽しかった。
鈴木-安野さんの亡くなった司馬さんに対する断腸の思いが、よく伝わってくる文章である。


安野光雅氏が94歳で逝った。2020.12.24、肝硬変のため死去。遊び心にあふれた絵本、抒情的な風景画など、多面的な仕事を残した。2021年1月21日・朝日の朝刊に谷川俊太郎氏の詩が掲載された。
    annoさん
        谷川俊太郎
 作品ごとにちがう安野さんの顔は
 どこかに含み笑いを隠しながら
 昭和世代の生真面目な少年のものだった。

 でもあなたがあの懐かしい姿と共に
 持ち去って行った目に見えぬもの
 記憶の中でいつまでも生きているもの
 それはいったい何なのだろう
 

安野光雅氏・心に残る風景-駄菓子屋 埼玉県川越の菓子屋横町

天保水滸伝-千葉県 犬吠埼

兵庫県-室津漁港

向田邦子 1929-1981 放送作家、エッセイスト、享年51歳
代表作 「森繁の重役読本」「七人の孫」「だいこんの花」「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「あうん」「思い出トランプ」-「森繁の重役読本」では1962-1969の7年間・33歳~40歳までで2448回の台本/初のテレビ台本は「ダイヤル110番」1958年、29歳
 
直木賞受賞パ-ティ・1980.での向田邦子の挨拶・<司会は親友の黒柳徹子(1933-)>
「私は長いこと、男運の悪い女だと思い続けてきました。この年で(51歳)で定まる夫も子供もいません。でも今日、こうやって沢山の方にお祝いして頂きまして、男運が、そう悪いほうじゃないという事がやっとわかりました。私は欲がなくて、ぼんやりしておりまして、節目節目でおもいがけない方にめぐり逢って、その方が私の中に眠っている、ある種のものを引き出して下さつたり、肩を叩いて下さらなかったら、いま頃はぼんやり猫を抱いて(向田さんは大の猫好きだった)、売れ残っていたと思います。ほかにとりえはありませんけれど人運だけはよかったと本当に感じています。5年前(1975・46歳)のいま頃、私は手術(乳がん)で酸素テントの中におりました。目をあけると妹と澤地久枝さん(1930-)がビニ-ル越しに私を見ていたので「大丈夫」といったつもりが麻酔でロレツが廻りませんでした。そして明るく人生を過ごすことが出来るのか、人さまを笑わすものが書けるのか、どれだけ生きられるかも自信がありませんでした。頼りない気持ちでした。でも沢山の方のあと押しで、賞も頂き、5年ぶりにいま「大丈夫」とご報告できるように思えます。そんなわけで、お祝いして頂くことは、私にとって感慨無量です。ありがとうございました。」
 -黒柳徹子著・「トットひとり」から- 翌年・1981,8.22 台湾旅行中に航空機事故で死去。向田さんは飛行機が嫌いだったという・・・。

久世光彦 1935-2006 享年70歳 の言葉-「大遺言書」新潮社 2003.5.25発行
「向田さんとはじめて会ったのは、昭和39年の秋だった。「七人の孫」のリハ-サル室へ、森繁さんに連れられてやってきた。転校生みたいに、ちょっと構えて、思いつめた顔だつた。森繁さんが冗談を言っても、ニコリともしない。34歳の頭のいいインテリだと森繁さんは言う。私の苦手なタイプである。ついでに言えば、私は29歳だつた。「森繁の重役読本」の脚本がなかなか賢くてセンスがあるという。しかし、テレビドラマは、ほとんど書いたことがないという。森繁さんはよろしくでよかろうが、その後が大変だった。天皇のご託宣だからないがしろにはできない。海のものとも山のものとも知れないが、兎に角一度書かせてみるしかない。・・・それまで出来ていた脚本を見せ・・人間関係を説明し・・ホ-ムドラマの常識的なパタ-ンについて講釈して、その日は終わった。「わかりました。書きます」-最後まであの人は笑わなかった。「できました」-わずか3日で向田さんは原稿用紙の束を抱えてやってきた。ずいぶん早いなと私は思った。「面白いと思います」-そこで向田邦子は、はじめて笑った。けれど私は笑っていられなかった。いままで見たこともない不思議な本なのだ。・・・私は呆気にとられた。私は深いため息をついた。-先輩のディレクタ-に訊かれた。「どうだ?」私は即座に答えた。「ダメです」・・・・」

黒柳徹子の言葉-「トットひとり」から
「(向田邦子)の一番の理解者は、向田さんの作品をいくつも演出して大ヒットさせた、久世光彦(1935-2006)だったと思う。・・・久世さんが向田さんを書くには(「向田邦子との二十年」)、十年という歳月が必要だつた。・・・」  -以下久世光彦のこと。
「久世さんの葬式に参列して、護国寺を出ると早春の空が抜けるように青かった。-まだ誰も起きていない早朝、キッチンで倒れたという一人ぼっちの死-。久世さんと作った向田さんのドラマのエンドシ-ンに「あの頃の東京の空は、今よりずつと青かった」というナレ-ションがあったのを私は思い出した。久世さんは昭和の青空が好きだった。」

鈴木-「七人の孫」や「だいこんの花」は、森繁さんのトボけたお祖父ちゃんぶりに何となく好感を感じてよく見ていた記憶がある。しかし「寺内貫太郎・・」には正直なじめなかった。頑固親父の暴力シ-ンには、63歳で死んだ「自分の父」と重なる。・・・何故か悲しさ・哀しさを感じた。 

久世光彦が向田に対する思いを書き記すのには10年という歳月が必要であった。
「向田邦子との二十年」-・遅刻から
久世光彦
-あれは四月の午後だった。春雨というにはちょっと激しすぎる雨が少し前から降り出して、ガラス窓の向こうの街は急に紗をかけたように白っぽくなった。私はその午後表参道の近くにある喫茶店で向田さんを待っていた。いつも必ずと言っていいくらい遅れて来る人だったから、その分を勘定して待っていたつもりだったのに、それでも向田さんはまだ来ていなかった。彼女が死んだあと、誰かが書いた追悼文を読んでいたら、約束の時間に1度も遅れたことのない礼儀正しい人だったというのがあって驚いたことがあるが、それはとんでもない話であんなに約束の時間にいい加減な人も珍しかった。でも、もしかしたらそれは私に対してだけで、他の人には律儀だったのかもしれない。そう思うと、あの人がいなくなって十年も経った今になって急に腹が立ってくる。私はいつもあの人を待っていた。・・・遅れる人がいれば、待つ人がいる。私は損な役回りでいつも向田さんを待っていたような気がするが・・・、それなら待たせる方がいい役かというと、そんなものでもない。・・私はいまになって、(待たせることとは逆に)あの人がずっと長い間、何かを待っていたような気がしてならないのである。あの人が待っていたのは、いったい何だったのか。そんなことがわかれば人生なんて易しいのかもしれない。それがよくわからないから、人はいつだって不安なのだ。・・・
鈴木
久世さんは、太宰治の「走れメロス」を引き合いに出して、「待っている幸せ」をこの小説が教えてくれたという。そして、太宰を認める方でない向田さんだが、この小説だけは好きだと言った。久世さんは少年時代太宰病に罹って(かく言う自分もそうだが)、いつまでも治りきらない、という。実は向田さんを待つことに久世さんは、損な役回りどころか、太宰の言うところの「待っている幸せ」な-自分という役回りを意識していた筈である。そうでなければ十年経っても来る筈の無い-向田さんを「待ってる」久世光彦はいないはずだから・・・。
「向田邦子との二十年」-・名前の匂いから
久世光彦
-人の名前には匂いがあると思う。温度のようなものもあるような気がする。もっとも、それは単に名前の文字からだけ来るものではなく、名前にはかならず顔がついているからそう思うのかもしれない。・・・向田さんは、表向きは自分の名前を嫌がっていた。向田という姓も、邦子という名も、画数が少なくて、紙がはがれて桟だけの障子戸のようで嫌だ嫌だとよく言っていた。風通しが良すぎて、だからしょつちゅう風邪をひくんだと怒っていた。脚本家になる前、二十代で映画雑誌に雑文を書いていたころ、向田さんは<矢田陽子>というペンネ-ムを使っていたことがある。親から貰った名前が<嫌だよう>という、可愛くて悪戯つぽい反逆だったのである。・・・邦子という名前は向田という姓にはうまくつながるけどなかなか他の姓にはマツチしない。つまりお嫁に行くのに困ってしまうなどと、いい年をして気に病んでいた。よく女学生が未来の夢を見て、ノ-トの隅っこにいろんな姓と自分の名前をつなげて書いてみるみたいに、この人も夜中にこっそり、原稿用紙にそんないたずら書きをしているのかしらと想像しておかしくなったことがある。人生、一度ぐらい他の姓になつてみるのも良かったのに、この人は向田邦子で生まれ、向田邦子のまま死んでしまった。

久世光彦著 「ひと恋しくて」-余白の多い住所録-1998.4.18発行 中央公論社 表紙の絵は宇野亜喜良氏

山口瞳- 1926-1995 享年69歳  <向田邦子全対談>から
-小説でも随筆でも、TVドラマでもそうだった。短時間に出せるものは出し尽くしてしまった。どれもが名作傑作だったというつもりないが、何をやってもイキイキと輝いていた。六十ワットの電球が、いきなり百ワットになったと書いたことがある。そう思ったら、突然消えてしまった。
竹脇無我 1944-2011 享年67歳
-僕は向田さんの弟みたいなものだった。・・・「だいこんの花」で初めて向田さんに会った。先生と名のつく人は、人を見透かすようで嫌いだったが、向田さんはそうではなかった。堂々としたなかに女らしさと男っぽさが混じり合い、そして自分の才能を秘めているところが僕は好きだった。
澤地久枝 1930-
-たがいにひとりものであつた気安さもあって、向田さんとは夜中にえんえんと電話で話しあい、午前三時、四時になったこともめずらしくない。それが、あのひとの執筆前の苦しい時間の一時のがれと知った・・。やがて一周忌が来ようというこの頃、わたしはよく向田さんと話をしている。返事はないけれど、無言の話しかけだけで心安らぐものがある。返事が聞こえる日もある。
倉本聰  1935-
-賢姉愚弟という間柄であった。この対談を読まれれば、その位置関係は明瞭であろう。変な話だが、あの夏の日の向田さんの遭難を思い出す度に僕は南国の入道雲の峰を次々とハ-ドルの如く飛び越えていく彼女の英姿を想起してならない。古風な教えをきちんと守り、右手は全前方で直角に折り曲げ、左手は真後ろにピンと伸ばしきり、そうして指先は律儀に揃っている。その姿で小さく掛声をかけつつ、エイッエイッと雲の峰を跳んで行く。頭には、頭には何故か豆しぼりの鉢巻。

「向田さんの芸」-水上勉氏の文章から 「思い出トランプ」解説から- 同作品の中には、直木賞受賞作3篇が収録されている 昭和55年12月新潮社発行 
-たつた3時間ぐらいの、ありふれた夕刻の日常に人の死も生もぬりこめようする力があって、なるほど、そういう時間を、われわれは生きているのだということを、この小説(はめ殺し窓)から語りかけられる。日常の些細ほど、この作者にとって興味の深まるものはなく、したがって、日常誰もが眼にする鍋やヤカンや、湯呑みや、表札や、履き物や、窓や、戸障子はちょうど、太陽という大きなものから発せられた光が分散してそれぞれの物体の形や影につき当たって、道具裏にひそみこみ、反対に光りカケラを逆射してくる。それがじつは道具の色というもののはずで、向田さんは、それらをプリズムのように、七色の虹にしてみせるといってよい。虹は消えるものだが、これを人生の瞬時に発せられた光や影にして網ナわれてみると、心ふかく残らざるを得ないのである。みごとな人生画帖といえる所以である。・・・日常性の中に、生と死をはめこんで、向田窓とよんでもいい窓からしっかり覗きこみ、人間世界をくつきり描き出してみせる才能。都会生活者の哀愁、といえば通念になるが、人間の闇といいかえてもいい。作者だけが見とどけた人の世のいじらしさ、いとしさに私は心打たれる。・・・わずか20枚程度の短編3作であったけれど、誰もが真似できぬ辛苦の世界へ入って彫みこんでいる、向田さんの世界がみずみずしい花のように見えたからであつた。それがみとめられて受賞となり、やがて1年も経たないうちに、飛行機事故て亡くなられてみると、人生無常の思いが、いっそうつよくなり、向田さんの文学は、読者を打つこととなった。 昭和58年4月 

鈴木-心に残る印象的な言葉を書き写す

向田邦子の本棚」2019.11.30初版 河出書房新社
-本屋の女房- 
「はじめて自分で選んで本を買ったのは、小学校4年のときである。お年玉かなんかでお小遣いがたまり、祖母がつきそって本屋に出かけたのである。散々迷った末に選んだものだが「良寛さま」。・・・随分しおらしいものを選んだが、40年前には今ほど子供向きの本はなかった。(1981.8執筆)
はじめて自分で本を選ぶ晴れがましさに、本屋中の人がみな自分を見ているような気がした。本屋はその時分住んでいた鹿児島の金港堂である。学校から帰るとランドセルをおっぽり出すようにして読みふけった。・その頃、私は「大きくなったら本屋のオヨメさんになる」と言っていたらしい。無料で、しかも1日中本が読めると思ったのだろう。或時父に、食べながら本を読んでいるのを見とがめられ「食いこぼしがついたらどうする。そういうことでは本屋へヨメにゆけんぞ」と叱られた。将来書く側に廻ろうなど夢にも思わなかった時代のことである。」
-心にしみ通る幸福から-
「好きな本は2冊買う。時には3冊4冊と買う。面白いと人にすすめ、強引に貸して「読みなさい」とすすめる癖があるからだ。貸した本はまず返ってこない。あとで気がつくと、一番好きな本が手許にないということになる。乱読で読みたいものを手当たり次第に読むほうである。・外国旅行には必ず本を持って行き、帰りは捨ててこようと思うのだが、結局捨てきれず重い思いをして持って帰ってくる。外国のホテルに、日本語の本を置いてけぼりにするのは、捨て子をするようで情において忍びないものがある。読書は、開く前も読んでいる最中もいい気持ちだが、私は読んでいる途中、あるいは読み終わってから、ぼんやりするのが好きだ。砂地に水がしみ通るように、体のなかになにかがひろがっていくようで、「幸福」とはこれをいうのかと思うことがある。」

-対談-テレビの中の家族愛 向田邦子×藤久ミネ
藤久-「テレビドラマの中に出て来る家族というのは、・・多少はさざ波が立つけれど、根底ではみんなが一体感をもっている。家族だからいたわり合い、同じ方向に歩いて行くことに何の不都合も感じない。ところが向田さんのドラマを拝見していると、そういう運命兄弟的な感じがほとんどしないですね。確かに家族の核はあるけれど、誰もがそれぞれの問題や不幸をひきずっている。向田さんが独身でいらっしゃることも関係するかもしれないけれど、向田さんの書かれる家族にリアリティがあるのは、そういう運命共同体臭がないせいじゃないですか。」
向田-「地球は公転しながら自転していますね。家族といのは大きな運命のもとでは、たとえば父が落ちぶれれば小さな家に住まわねばならなくなるということがあります。そうしながら、一人ひとりは親の知らない間に失恋したり、いいことがあったり、家族というのはそれぞれが自転しながら公転している。それを1時間のドラマでは描きにくいんですね。テレビは特に、こうしゃべつているけれど実はこう思っているという二面性を描くには不利なジャンルですね。私がエッセイや小説に手を出してしまったのも、人から勧められたこともありますが、今日のテ-マである"家族"ひとつ書くのでもテレビでは、二つの顔を持たせるのがとてもむづかしいからなんです。」
藤久-「みんながごく当たり前の顔をして暮らしていて、しかし、それぞれがいろんな不幸や辛いことをもっていて、ふっとそれが見えるとき、人間とは何か、家族とは何かが見えてくるというのが向田ドラマですね。」
向田-「家族というのは、同情するどころか、世間よりももっとひどく「ほら見たことか」という時もあるのね。(笑)。誰かが悪いことをしたり、落ち目になると、家族はそれに対してかなりいじめますね。ですから、かなり見苦しいものですね。
藤久「その見苦しさを表現するドラマが、テレビでは非常に少ないですね。」
向田-「テレビというのは、どちらかと言うと愉快ドラマ・快感ドラマなんです。おかずの一品がわりだったり、催眠薬であつたり、食前食後酒であつたり、ナイトキャップがわりだったりします。やはり人は見苦しいものを見たがらないですね。ですから最大公約数の茶の間に入るためには愉快ドラマにする。私みたいに千本近く書いてしまいますと、すこし飽きまして、表面は愉快ドラマに見えるけれど、毒を一滴入れたいなとというふうに思うようになりまして、いま藤久さんがおっしゃったように、必ずしも大同団結していない、後ろに回れば手を握っていない家族を書くようになりました。」
藤久-「・・テレビのホ-ムドラマは日常を描くことによって、日常批判というか、家族批判、家族のあり方批判を内在させるものだと思うんです。向田さんの「阿修羅のごとく」とか「蛇蝎のごとく」という作品はそういうものだったと私は思いますね。」
向田-「・・・視聴者は、すぐその場で教訓を割り出して、ためになったとか、教えていただいたというのが好きですね。私のドラマは、いいのか悪いのかわからないところがあるでしょう。ですから、私は声なき少数派です。」
藤久-「そこが逆に日本の家庭の根本問題じゃないですか。逆に女性はそういう見方ができる人か少ないでしょう。」
向田-「ちょっと引いて考えるとか、水平よりちょっと上の角度から見るとか、自分で笑ってみるとか、それができないんですね。・・他人を見ることはできるんですが、自分を見ることができなくなっていますね。とくに女は・・・。昔から下手ですけれどね。」
藤久-「向田さんは小津安二郎がお好きかどうか、わからないけれど、ちょっと小津作品と一脈通うところがおありになると思うんですね。・・・生活するとはどういうことが見えてくる。おかしくも悲しい形でですね。そういう部分が向田さんの作品と、ある共通性があるように思うし、何よりも小津さんは日本人の日常生活のなかにある"文化"というものを描いた人ですね。・・・」
向田-「小津さんの映画はほとんど見ていますし、好きなんですが、ちょっと抵抗があるのね。あれは暮らしに困らない男の目ね。それがちょつと癪ね。・・・」

「大遺言書」から-夏の命日・文 久世光彦 
-亡くなった向田さんの話である。あの飛行機事故(1982.8.22)から、今年(2002)で21年になる。垣根に白い木蓮(むくげ)の花がさくと、向田さんを思い出す。8月22日が祥月命日である。・・・森繁久弥(「向田さんは、賢い花って感じでした。亡くなった時は50を過ぎていましたが、最後まで<華>のある人でした」)。向田さんのお墓は多磨霊園にある。碑文には、森繁さんの筆跡で<花ひらき 花香る 花こぼれ なお香る>とある。
21年前のあの日も暑かった。落ち着かない1日だつたので、普段は気にならないク-ラ-の音が、やたらうるさかったこのを憶えてる。つけっ放しのテレビの画面の<K・ムコダ>というテロップの文字が、夏の光に白く反射していた。遭難者のリストのカナ文字は、いつ見ても哀しいものだ。

鈴木慶治
藤原ていさんが遺書のつもりで書いた本、「流れる星は生きている」がベストセラ-になった時、後に山岳小説家として名高い、新田次郎(1912-85)はまだ誕生していない。役所で「藤原ていの夫」といわれたことに強い憤懣を覚えて、ていさんに発した言葉「オレも、小説を書く」
「お前の出来ることぐらい、オレにも出来る」-これが作家・新田次郎の誕生へとつながることになる。不思議な夫婦の縁というものであろうか。・・・。藤原ていさんの「流れる星は・・・」は、名作である。事実を書いた作品に名作はないだろうが、心に強く残る作品で、読みながら何度も、涙がこぼれ、感動の処置、出所に困った思いでがある。 

藤原ていさんと、その子供たち3人がたどった道を見て、深い感動を覚えるのは自分だけではないだろう。平和な時代でなく戦時下の中、まさに「命がけの」引き揚げであった。

「母、藤原てい、長兄5歳、次兄2歳、生後1ケ月の私を連れ、昭和20年8月9日、満州へ侵入したソ連軍に追われるように新京を脱出、無蓋貨車に揺られ壮絶な引揚げの旅へと出発した。・・・父は、満州時代の約3年間の多くを語ることはなかった。殊にソ連の捕虜となって、厳冬の延吉で過ごした1年間は「望郷」「豆満江」「夕日」などの小説に残されるのみである。  -藤原咲子- 「追想 高梁」から」

「5歳、2歳、0歳の幼児を連れて、母が1年余り北朝鮮の野山を彷徨する間、父はそこにいなかった。一緒に南下する機会があり、母も父にとりすがってそれを請うたが、満州気象台に部下を残したまま家族と脱出することを、父は拒否した。公を私に優先したのだった。そのおかげで母子4名は文字通り死線をさまようことになつた。そもそも満州にわたったのも、もっぱら父のやむを得ぬ事情だつた。・・・母の記憶で最も古いのは病床の母である。終戦と同時に、満州を着の身着のままで脱出した母子4人が、やつとの思いで帰国したのは昭和21年の9月だつた。当初は母の故郷の諏訪で静養をかねて暮らしていたが、まもなく父がシベリアから帰国、春をまって一家で上京した。昭和22年の5月、3人の子供達は順調に健康を回復した。ところが今度は、それを待っていたかの如く母が、引き揚げ時の無理がたたり心臓病で床についてしまつた。私は満4歳になつていた。ぼんやりとした記憶はこの頃に始まる。長くは生きられまいと思った母が、遺書のつもりで「流れる星は生きている」を書いたのはこの頃のはずだが、私の記憶に残っていない。戦争が終って5年もたっていたのに、その頃の母はまだ闘っていたようだ。病弱と闘い、貧困と闘い、子供達を守り育てるために闘っていた。3人の子供達を無事に連れ帰ることだけを考え、北朝鮮の赤い山を這い、泥の河を渡った体験が、母の身体の奥深くにまで染みこんでしまっていたのだろう。 -藤原正彦「父の威厳 数学者の意地」

「私は、夫にかくしつづけている遺書のことを思った。打ち明けるべきか。おそらく見せたら笑いとばすか、破りすてるか、あるいは私の、めめしい行為と、軽蔑するかもしれない。廊下を手放しで、つまりひとり立ちして歩けた日、私は夫に、思い切って遺書を見せた。それはノ-ト2冊、細かく書き込んであった。「もう必要ありませんものね、焼き捨てましょうか」。夫は吸い付けられたように読んでいる。その横顔を見ながら不安になって声をかけてみた。ふとノ-トの上に、水が落ちた。つづけて、また一滴、また二滴。それが夫の涙と気付くまでに、数秒かかつた。私は不思議な光景をでも見るように夫の顔をのぞき込んだ。夫の涙というものを、今まで見たことがあっただろうか。あの北朝鮮の丘の上から、シベリアへ送られていく時も涙は見せなかった。「生きるんだよ。子ども達を頼むぞ」。そう言った時の顔は、青く引き締まって、異常な決心だけがみなぎっていたが、涙はなかった。 -藤原てい- 「旅路」から

「望郷」-1977.1.20 新潮社 -豆満江・延吉捕虜収容所 から
-全身しびれるような寒さであった。汽車はいつか止まっていた。真暗な貨車の中にじっとしていると、そのまま凍えてしまいそうであった。すべてあきらめきったのか、行先の詮索に精も根もつき果てたのか、ここがどこであるかを外に出て確かめようとする者さえいない。皆眼を覚ましていたが、誰も口をきかなかつた。・・・・全員下車の命令がかかるまで、誰もここが延吉であることは知らなかった。男達はそこが延吉であろうがシベリアであろうが、とにかく終点に早く着くことを望んでいた。

藤原正彦-「弧愁」あとがきより
「1980年2月15日の寒い朝、父は突然の心筋梗塞で倒れ、私の腕の中で息を引き取った。それまでに味わったことの無い衝撃であったが、哀しくはなかった。怒りに震えていた。毎日新聞に連載中の「孤愁」にかけた父の気迫は大変なものだつた。ポルトガル、マカオ、長崎、神戸、徳島とモラエスのゆかりの場所を何度か訪れ丹念に取材したうえで1979年に執筆にとりかかったのであった。それが連載が始まり1年足らずで暴力的に中断させられたのである。父の無念を思い、冷酷な自然の摂理に怒り、その不条理に憤った。恐らく翌日だったと思う。父の作品を、父が書いたであろうように完成することで父の無念を晴らそうと決意したのは。・・・以来32年間、父の訪れた処はすべて訪れ、父の読んだ文献はすべて読んだ。ポルトガルへは3度、父が「僕の宝物」とよんだ9冊の取材ノ-トを手に訪れた。父と同じル-トを辿り、父と同じ人々に会い、父と同じ宿に泊まり、父と同じ料理を食べ、父と同じ酒に酔った。徳島は十数回も訪れた。そして父の亡くなった年と同年齢になって、書き始めたのである。」  

太宰治について

-久世光彦 「ひと恋しくて」から
「<隠れ太宰>という言葉があるかないかは知らないが、あるとすれば、私は<隠れ太宰>である。この40数年、ずっとそうだった。太宰が好きで好きでたまらないと言えるようになったのは、ようやく最近のことである。別に太宰が好きだということは恥ずかしいことでも何でもないはずのに、私にかぎらず、私たちの世代には、それを大きな声で言えない妙な屈折めいたものがある。・・・誰かが太宰の話をしていても、聞こえないふりをする。家族の前でも太宰の本は広げない。人が訪ねててきても見つけにくい書棚の隅に、太宰はわざと乱雑に並べておく。・・・50過ぎまでそうだった。50を越えて、やっと、好きなのは太宰と漱石、といえるようになった。・・・死ぬことなんかとてもできないくらい、生きていることの愉しみを憶えてしまっていたのだ。<隠れ太宰>が、50を過ぎてふと楽になったのは、言い訳なんかしなくても、命の行方がぼんやりと見えてきたからなのかもしれない。」
-司馬遼太郎 街道をゆく・「北のまほろば」から
「太宰治の「津軽」はその代表作のひとつである。津軽への愛が、ときに含羞になり、自虐になりつつも、作品そのものを津軽という生命に仕上げていて、どの切片を切りとっても、津軽の皮膚や細胞でないものはなく、明治以後の散文の名品といっていい。・・・飢饉のことがでてくる。作者が近世津軽の年表を見るうち、飢饉だらけであることに気づく。「津軽」に書き写された凶作の年表は4ペ-ジにおよぶ。太宰は、故郷を悲しき国となげくのである。・・・作家太宰治がうまれた金木町は、津軽半島のつけ根にある。町はずれの高流という好ましい地名の丘から眺めると、水田の涯に津軽富士がふわりと浮かび、じつに美しいという-太宰の「津軽」にある。」

-奥野健男 「太宰治研究」・太宰治論-人間像と思想の成立 から
「ぼくがこの評論を書く動機は、ぼくの精神の内部におけるどうにもならない必然性のためです。が同時にこのぼくの発言が、今日の現実に対して若干の意義を有すると考えられるからです。太宰の文学に共感する人々、あるいは何らかの意味で関心を抱かずにいられない人々、換言すれば精神の内部に複雑なるコンプレックスを抱かざるを得ない性格の人々にとって、彼の生涯をかけて行った方法を検討してみることは重要なことです。その時、ぼくたちの前に彼が再び新しい意味を持って擡頭して来るのを感ぜざるを得ません。

「ぼくらは太宰が好きなら好きと真向から叫んでよいのです。実際ぼくらの世代に与えた太宰の影響は一時代前芥川龍之介や小林秀雄がその時代の青年に与えたそれよりも更に深いものがあると思います。太宰文学は多くの青年の精神の形成過程に抜きがたい影響を与えているのです。それはほとんど決定的なものにもかかわらず、しかし皆はその事をむしろ隠そうとします。余りにも身近なのです。太宰のことを言われるのは、自分のことのように恥ずかしいのです。昭和31年2月

-坂口安吾 「太宰治研究」-不良少年とキリスト から
「壇一雄、来る。「太宰が死にましたね。死んだから、葬式に行かなかった」-死なない葬式なんかあるものか。「とびこんだ場所が自分のウチの近所だから、今度はほんとうに死んだと思った」。壇仙人は神示をたれて、また曰く、「またイタズラしましたね。なにかしらイタズラするのです。死んだ日が13日、グッドバイが13回目、なんとかなんとかが13・・・」。壇仙人は13をズラリと並べた。てんで気がついていなかったから私は呆気にとられた。・・・芥川は、ともかく、舞台の上で死んだ。死ぬ時も、ちょツと、役者だつた。太宰は、13の数をひねくったり、人間失格、グツドバイと時間をかけて筋を立て、筋書き通りにやりながら、結局、舞台の上でなく、フツカヨヒ的に死んでしまった。フツカヨイをとり去れば、太宰は健全にして整然たる常識人、つまり、マットウの人間であった。真に正しく整然たる常識人でなければ、まことの文学は、書ける筈がない。・・・今度も、自殺をせず、立ち直って、歴史の中のマイ・コメディアンになりかへつたなら、彼は更に巧みな語り手となって、美しい物語をサ-ビスした筈であった。太宰の晩年はフツカヨヒ的であったが、又、実際に、フッカヨヒという通俗きわまるものが、彼の高い孤独な魂をむしばんでいたのだろうと思う。昭和23年7月
-福田恆存 「太宰治研究」・道化の文学から
「いま太宰治論を書くならば、その心がまえは7年前の芥川龍之介論の続編をものすつもりであればよい、とぼくのうちにあるかれのイメ-ジが教えてくれる。たしかに太宰は芥川が生涯の終わりに辿りついた地点から出発している-しかも同じ気質をもって。太宰治は芥川龍之介の生涯と作品系列とをいわば逆に生きてきたのである。太宰は「その日その日が晩年である」ようなたそがれのうちでいくたびか自殺をはかり、そのつど「生きよむと現世につきもどされた。人生を逆に生きるほかしかたはなかつたのである。かれは、自分の苦悩の真実を信じてくれる存在を予想できず、それゆえにうろたへ、はにかみ、それがきわまってポ-ズになるのだ。ぼくたちはかれを神事きればいい。愛しきればいいのである。昭和23年8月
-亀井勝一郎 「太宰治研究」-大庭葉像、人間失格の主人公
「私は彼の文学の中に、極めてユニ-クな自己否定を見てきた。それは旧家の重圧からも来ているし、大地主の子弟として生まれたことの階級的恐怖感から来ているし、或いは女との蹉跌、麻薬中毒、失敗せる自殺、様々なことがからみあっているのだか、それを彼は「生まれてすみません」といった独特の表現で、生得の黒点(自己否定)と化した。・・・太宰は黒点操作にかけての名人であった。」昭和26年12月
鈴木- 2020.12
「太宰病」なるものが、自分にも確かにあった。十代の後半から20代初めの頃ではなかったか。それは理由のあるような、ないような、実に不思議な病であった。ただやみくもに太宰の書くものを読みたくなるという、それは太宰中毒であった。山崎富栄との玉川上水での心中事件は社会的な事件であり、文学とはおよそ関係のない埒外の事であった。むろんその事件はリアルタイムで知ることはなく、何十年か後にものの本で知った。妻子があるにもかかわらず何と身勝手な男と思いはしたが、そのことで太宰病が治ったわけではなく、かえって病が深くなったかに思えた。集合写真の中でひとりだけ他からはずれて気味の悪い薄ら笑いをしている男-それが太宰・津島修治-と同時にその姿は自分のようにも思えた・・。
奥野健男の「太宰治研究」の中で、特に心惹かれるのは、やっぱり井伏鱒二氏の文章である。以下に引用する。
-井伏鱒二 「太宰治研究」-解説から
「太宰君は、40歳で死ぬまでに、140篇に近い短篇を発表した。それが各個みな、手法形式を、素材に適応させる意図のもとに、執筆されている。この書物-解説-では、その意図を窺うに足る代表的な短篇、九篇を採り上げて、大略その執筆次序によって集成を見ることにした。ただし、いま解説を書く私は、作品鑑賞の自由を読者に一任して、太宰君自体について書いてみたい。太宰君が每篇執筆にむかったつど、その場合における当人の生態事情を書きたいのである。したがって、太宰君の私生活に主として触れることになる。太宰君に関する私の思い出も書くことになる。太宰君の知人たちから聞き及んだ話も書くことになる。つまり太宰君が、日頃いちばん軽蔑していた楽屋ばなし、ゴシップなどを書くことになる。これは供養のつもりで書くわけだが、太宰君の気持ちに迎合しないことになる。・・・私は太宰君の中毒について実相を知ったのは、昭和11年10月7日であった。私の書き留めた「太宰治に関する日記」という備忘録のうち「後日のために題すべし」という章に次のように記している。
「10月7日-
太宰治夫人初代さん来訪。太宰君がパピナ-ル中毒にて1日に30本乃至40本注射する由、郷里の家兄津島文治氏に報告し至急入院させたき意向なりと云う。太宰の注射回数は多量の時は50数本にも及ぶ由、・・今日までその事実を秘密にせし所以は解しがたしと小生反問す。初代さん答えて曰く、太宰はもう2.3日待て,もう2.3日待て、俺のからだの始末は俺がするとて今日に及び、この始末なりと・・・」

奥野健男 著「文学における原風景」1972年4月25日 初版 集英社
「子どもの頃の遊びを考えてみても、大勢が群がって遊びたい欲求と、群れから離れ、ひとりかふたりか少人数でこっそり遊びたい欲求が交互に作用した。"原っぱ"が群れの空間であれば"隅っこ"は孤りかふたりだけの空間であった。そして内向的、自閉的な少年は"隅っこ"の遊びが多くなりがちであった。後年、芸術家とか詩人とか学者など、孤独な穴ぐらの仕事をするような人間には"隅っこ"の愛好者、精通者が多いように思える。というよりも"原つぱ"の群れからの疎外者、離脱者であったようだ。詩や文学の仕事は"隅っこ"のうずくまるような感覚や、穴ぐらの中の孤独な夢想と深い関係を持っている。群から離脱し体をひそめて群を眺める姿勢が、そういう場所つまり"隅っこ"を必要とする・・・谷崎潤一郎の「少年」は"原っぱ"の遊びに飽き足らない子どもの"隅っこ"への夢想である。

「文学者の場合、その作品を深層意識的に決定する独自な"原風景"を魂の中に抱いているのだ。故郷を持たない、つまり風土性豊かな自己形成空間を持たない都会育ちのぼくは、強烈な"原風景"を内部に蔵している故郷のある地方出身の文学者たちにながい間絶望的な羨望と嫉妬を感じてきた。島崎藤村の信州馬籠の宿、正宗白鳥の瀬戸内海の「入江のほとり」、室生犀星の加賀金沢、佐藤春夫の紀州熊野、太宰治の津軽、坂口安吾の新潟から、井上靖の伊豆湯ヶ島、水上勉の若狭、井上光晴の佐世保や炭鉱、大江健三郎の愛媛の山中等々、これらの作家たちは、文学のライト・モチ-フとも言うべき鮮烈で奥深い"原風景"を持っている。それは旅行者の眺める風土や風景ではなく、自己形成とからみ合い血肉化した、深層意識ともいうべき風景なのだ。・・・」

鈴木- 奥野健男がこの著作を書いてから、今日まで約半世紀(48年)の時間がながれている。現代の作家たちと比較することは出来ない。地方の地縁が深く個人の内面に関わっているとは言えなくなつてきている。全国どこへ行っても画一的で均質的な風景に出会うことになる。自己形成を果たすべき地方の原風景は、探すことさえ難しく喪失したかにさえ思えるがどうだろう。半世紀前の地方の作家が中央文壇に夢や憧れを求めて上京するという状況は今日では見られない。そもそも中央文壇なる言葉も死語と化したように思える。

白州正子の著書
「私の古寺巡礼」 講談社文芸文庫  2005年5月23日 第9刷発行 から
-古寺を訪ねる心
「私ははじめから「お寺を訪ねる心」なんて上等なものは、持ち合わせていなかったように思います。昔は便利な案内書なんかなくて、和辻哲郎さんの「古寺巡礼」が唯一の手がかりでした。私は14歳から18歳までアメリカへ留学していたので、日本のものが珍しく、懐かしかったのかもしれません。帰ってすぐのころから、地図を頼りに、人に聞いたり、道に迷ったりしながら、方々のお寺を訪ねたものです。仏像に関する知識などまるでないので、ぼんやり眺めているだけでしたが、やはりほんとうに美しい仏さまは、ただ美しいというだけで、自然に拝みたくなりました。・・「古寺を訪ねる心」なんてまったく持ち合わせていなかった。今だって怪しいものです。・・・何もかも見ることは人間には不可能です。ただ向こうから近づいてくるものを、待っていて捕まえる。それが私の生まれつきの性分なので、だれにでも勧められることじゃありませんが、しいて「心」というのなら、無心に、手ぶらで、相手が口を開いてくれるるのを待つだけです。お寺ばかりでなく、私は何に対しても、そういう態度で接しているようです。そんなわけで、私は極く自然にお寺に入って行ったんです。・・・」  白州正子

白州正子著・「十一面観音巡礼」-湖北の旅-から
「早春の湖北の空はつめたく、澄み切っていた。それでも琵琶湖の面には、もう春の気配がただよっていたが、長浜をすぎるあたりから再び冬景色となり雪に埋もれた田園の中に、点々と稲架ハサがたっているのが目ににつく。その向こうに伊吹山が、今日は珍しく雲の被衣カヅキをぬいで、荒々しい素肌を中天にさらしている。南側から眺めるのとちがつて、険しい表情を見せているのは、北風の烈風に堪えているのであろうか。やがて右手の方に小谷山が見えてきて、高月から山側へ入ると程なく渡岸寺の村である。土地ではドガンジもしくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が上観時代の美しい十一面観音をお守りしている。お堂に入ると、丈高い観音様がむきだしのまま立っておられた(1975年当時)・・・渡岸寺の観音(現・向源寺)、それは近江だけではなく、日本の中でもすぐれた仏像の一つであろう。湖水の上を渡るそよ風のように優しく、なよやかなその姿。・・・菩薩は、まだ人間の悩みから完全に脱してはいず、それ故に親しみ深い仏のように思われる。・・・・」

白州正子著・「明恵上人」から
「栄西は、はじめ叡山に学び、叡山を出て、新しい仏教を打ちたてたことにより、同時代の法然としばしば対照的に論じられています。二人が歩んだ道は似ていても、内容的には正反対で、栄西は自力難行の禅宗、法然は他力易行の浄土宗を立てたのですが、宗派を異にするとはいえ、自力を元にした明恵の信仰はどちらかといえば、栄西の禅に近かった、というより禅宗そのものだったといえよう。明恵のほんとうの流儀が何であったか、それを語るのはむつかしいこと・・華厳から出て華厳をこえている。純粋の禅定であった。すべての宗派を超越した明恵自身の仏法がある。栄西が明恵に自分の後継ぎになってくれと頼んだ時、きつぱり断ったのも、一つの宗派に縛られるのを嫌ったからでしょう。「和して同ぜず」
道元にとって、「禅宗」を称するのは勿論のこと、「曹洞宗」を立てるなどもっての外でした。明恵もまた(党派としての)宗旨はおろか仏法もなく、一人の後継者もつくらなかった。わずかに傍らに仕えた弟子達が、師を偲んで、その生前の姿を伝えただけ・・しいていえば、彼が此世に遺したのは人間的な魅力という茫漠とした一事である。

山田太一
「昭和を生きて来た」  2016.3.10 河出書房新社 河出文庫
「映像文化の時代といわれて久しい。しかし、私たちは本当に映像を享受しているだろうか? 早い話、かつては以心伝心ですんだものが「いわなければ分からない」時代にますますなって来ている。いわなくても通じる共同体を私たちが失っているからだ・・・映像がかつてないほど氾濫しているのだから、言葉をさしおいて、人の表情、姿、仕草から多くのものを感じとる人が増えてもいいはずではないか? 口ではああいっているが、内心は逆であるというようなことに敏感になってもいいはずではないか? しかし実態はむしろ逆で「いわなければ分からない」という言葉の時代になっている。映像作品が独自の力を持つのは、テ-マや動物や台詞を乗り越えて、なにかを掴んだ時のはずである。私たちむの認識が、言語化できる領域にとどまらず「いわくいいがたい」曖昧で多層な現実を「いわくいいがたい」まま言語化せずに、まるごと意識化できる可能性を持つのが映像の世界である。しかし、映像ををそのようなものとして遇する作品は、まことに少ない。多くの日本映画、多くのテレビドラマでは、ステレオタイプ化して、ほとんど私たちをゆさぶる力を失っている。「いい角度」「いい陰影」「いい色合い」をなんとかクリアしている作品が、そこそこ誠実な印象をあたえるくらいに、映像が力を失っている。では、以前はどうだったのか? 小津安二郎がいた・・私もそれを認めないわけにはいかない。・・・若い頃、小津安二郎さんの映画がよく分からなかったのを思い出す。昭和30年代の松竹大船撮影所に勤めていた20代の助監督(山田太一もその一人)の多くが、同じ撮影所の先輩である小津さんに対して抱いた気持ちだった。なぜ親の死とか娘の結婚式ばかりを描くのか。他にいくらでも「描くべき」世界があるのではないか、と。「いつもテ-ブルを囲んで無気力な人間たちが座り込んでいるのを、これも無気力なカメラが、無気力にとらえている。映画的な生命の躍動感が全く感じられない」といったのは映画監督フランソワ・トリュフォ-である。私もほぼ同じ気持ちだった。ところがトリュフォ-は10年ほどして小津の凄さに驚いてしまう。「えも言われぬ魅力の虜になってしまう。浜野保樹-小津安二郎。日本映画で小津安二郎ほど、外国の映画監督に影響をあたえた作家はないのではないだろうか。私もいまや小津さんのつくりあげた世界、人間像、方法が、いかに独自な震度と品格と魅力を持っているか骨身に沁みて承知している。j真似しようとしても真似られない。似ていれば似ているほど滑稽で品の無いものになってしまう。結局のところ、あの独自の世界は小津作品だけのものなのである。では、その独自な世界を、どのようにして小津さんが手に入れたかというと、不必要なものの徹底した排除である。自分が描きたい世界に確信を抱いたら、それに必要なもの以外は目もくれない。映画が開発した技術の大半を小津さんは使っていない。若い頃は使ったものもあるが、次第にそれらも排除するようになった。カメラの位置は、いつも人物を少し見上げるくらいの低い位置に固定されている。ズ-ムもなければ、パンも移動もクレ-ン撮影もない。オ-バ-ラップ、フェ-ド・イン、アウトもない。技術はとっくに開発されているのに、使わない。新開発に次々と適応し、手にした世界は半年足らずで古くなるという反復から逃げたい時、小津さんの選択は貴重なヒントをあたえてくれるのではないだろうか。」